ガタンゴトン――
規則正しい車輪の音が、頭の奥でリズムを刻む。
少し古びたローカル線の電車が、ゆるやかに揺れながら終点の駅に近づいていく。
窓の外には、どこか懐かしい風景が流れていた。
看板の色褪せた商店、三輪自転車を押すおばあちゃん、道端で駄菓子を売る小さな屋台。高層ビルの影など一切ない、のんびりとした下町の空気。
「……なんか、修学旅行みたいやな……」
電車の座席でぼそっとつぶやいた咲は、スマホをポケットにしまい、立ち上がった。
やがて電車が止まり、駅のアナウンスが鳴る。
改札を出て階段を上ると、視界いっぱいに広がるのは、まるで昭和で時が止まったような商店街だった。
青いテントの八百屋、手書きのメニューが貼られたラーメン屋。すれ違う人たちはのんびりとした歩調で、みな顔見知りのような雰囲気を漂わせていた。
咲は駅前を抜け、商店街を突き当たったあたりで立ち止まる。そこから先は、地図にも詳しく載っていないような小道が続いていた。
「……こっからやな」
人気のない細道を抜け、アパート群を通り過ぎると、景色は徐々に変わっていく。
電線の数が減り、塗装の剥がれた壁が目立つようになる。雑草がアスファルトの割れ目から伸びており、自販機のライトも半分は点いていなかった。
そして――
目の前に現れたのは、打ち捨てられたように静まり返った巨大な団地だった。
四階建てのコンクリートの塊が、無言で空を遮っている。
どの棟も色褪せ、鉄の手すりは錆びつき、バルコニーの布団は干された形跡すらない。ガラスの一部は割れたまま放置され、ベランダには風に吹かれた紙ゴミがひらひらと舞っていた。
「……なんか、温度がちがう」
咲は、思わずつぶやいた。
つい数分前までいた駅前のあたたかさが、まるで嘘みたいだった。
ここには、まるで“時間”が流れていない。
誰かの声もしない。物音もしない。風すら音を立てない。
「……来るとこまで、来てもうたな」
小さく息を吐き、団地の敷地へと足を踏み入れる。
足元のコンクリートが、ザリ、と乾いた音を立てた。
その音だけが、空間に響く。
何度も階段を上り下りした。
言われた通りの“特定の階”を、何通りかの順番で行き来もしてみた。
けれど。
「……ぜんっぜん、なんも起きへんやん……」
咲は、団地の非常階段の踊り場でうんざりしたように息をついた。
体力はもう限界に近い。うっすら汗ばんだ額を手の甲で拭い、壁にもたれるように立ち尽くす。時刻はもう夕方近く、空気には冷たさが混じり始めていた。
(エレベーターも試したし……全部空振りや)
古びたエレベーターの中で試したときも、何の異常もなかった。ただ上下するだけの、軋んだ音を立てる鉄の箱。
電気メーターもまったく動いておらず、すべての部屋に生活の気配はなかった。
(……今日はもう、帰るしかないか)
諦めとともに、最上階の踊り場でエレベーターのボタンを押す。
「ガタッ……」という、重たい始動音とともに、エレベーターがゆっくりと上がってきた。
「……ハズレの日やな、完全に」
ため息混じりに乗り込んで、階数ボタンを押す。
だが――ドアが閉まるその瞬間、細い指がスッと差し込まれ、扉が再び開いた。
そこに立っていたのは――ひとりの少年だった。
真っ黒な髪。
血の気のない白い肌。
どこか性別の境界が曖昧なような、儚い輪郭。
少し大きめの黒いパーカーに包まれた華奢な身体。
その目はまっすぐで、なのにどこか虚無的で、心の奥底に触れてくるような奇妙な静けさを帯びていた。
(……あかん、苦手なタイプや)
咲は咄嗟にそう思い、扉の開いたままのエレベーターのパネルに手を伸ばした。
なるべく関わらず、早く降りる。
それだけを考えて階数ボタンを押そうとしたその瞬間――
「……もしかして、笹木咲さん?」
低く、やや舌足らずな、けれど妙に滑らかな声音が耳を貫いた。
その声に、咲の指が止まった。
「……え?」
背筋に冷たいものが走る。
少年の声に脅すような色はなかった。
ただ、知っている前提で、確信を持って名を呼んでいた。
咲は、思わずその場に硬直した。
「……なんで、うちの名前知ってんの」
エレベーターのボタンにかけた手をそっと引き戻しながら、咲はじりじりと問いかけた。
少年は少しだけ首を傾け、何でもないことのように答える。
「アルカナで活動してる、霊媒師の笹木咲さん。名前だけは……この界隈では、有名だから」
「界隈て……」
咲は思わず眉をひそめる。
「てか、“アルカナ”のこと知ってんの?」
「……んー……あんまり詳しくはない」
少年は素直にそう言って、小さく肩をすくめた。
「ただ、ちょっと前に……とある人の依頼で、この団地を調べてたことがあって」
「依頼……?」
咲の警戒心が再び高まる。身構えるようにエレベーターの扉の前に立ち、少年を観察する。
その様子に気づいた風もなく、彼はエレベーターの内壁に背を預け、つぶやくように続けた。
「けど……依頼は依頼で終わったけど、自分の中では……それで終わりって思えなくて。なんていうか……もっと知りたくなった」
「……それってさ」
咲は少し迷ってから言葉を選ぶ。
「……もしかして、あんた、“フリーの霊能力者”?」
その問いに、少年はほんの少しだけ目を見開いたが、すぐに頷いた。
「たぶん、そう呼ばれてると思う。他にそういう人、聞いたことないし」
それを聞いて、咲は内心で納得と戸惑いが入り混じった感情を噛みしめる。
(……あの“フリーの霊能力者”、ほんまにおったんや……)
しばらく沈黙が落ちる。
やがて、少年がぽつりと呟くように言った。
「……報酬にはならないけど……霊になって消えていった人たちのこと、考えるのが、たぶん自分の“使命”みたいなものなんだと思う」
咲は一瞬、言葉に詰まった。
少年の声には気負いもなければ、誇りもなかった。ただ、ひどく静かで、どこか冷たさすらあるのに――その奥底に、妙にあたたかなものが滲んでいた。
「昔は……どうすれば霊の気持ちが理解できるか、って、ずっと考えてた。答えなんて出ないんだけど……でも、近づく努力は、まだできる気がしてる」
咲は、何も言えずにただその姿を見つめていた。
黒い髪と、白い肌。無機質な声と、無垢な眼差し。
何を考えているのか分からないのに、なぜか“演じていない”ことだけは伝わってくる。
――気味が悪い。でも、嘘をついてる感じは、しない。
咲は、黒髪の少年の真っ直ぐな瞳から視線を逸らしながら、ポケットに手を突っ込んで息を吐いた。
「……なんとなく、気持ち分かるわ」
「え?」
「人のことより、霊のほうがよっぽど楽ってやつ」
ぽつりとこぼしたその言葉には、どこか苦笑が混じっていた。
葉加瀬の家で見た“研究”、夜見の気まぐれな超常現象。
目に見えないものの方が、よほど理屈が通ってるように思えてくる日々だった。
「友達の付き合いであっちゃこっちゃ首突っ込んどるけどさ、正直、常人の言動の方が怖いときある」
「……笹木咲さんのエピソードなら、聞いてみたいかも」
少年の声は、相変わらず静かで無感情だったが、わずかに好奇心の色が混じっていた。
「はー……じゃあ、ちょっとだけな」
咲は頭を掻きながら、ぼやき口調で話し始めた。
「知り合いに呼ばれて、まあちょっとした“名家”に行ったんよ。めっちゃでかい神社のあるとこ。観光地にもなってるような」
「……ふむ」
「で、そこでな――いきなり“家の跡継ぎ問題”に巻き込まれたんよ。今時、赤の他人にそういう話振る!? みたいな……。しかも人の名前まで出されてさ」
少しだけ語気を強めていたが、それもどこか苦笑まじりだった。話しながらも、あのときの椎名菜塚の言葉と、唯華の視線を思い出す。
「……で、名前を?」
「うん。……ま、“フリーさん”にならええか」
咲は一拍置いて、言葉を続けた。
「“椎名神社”っていう、馬鹿みたいに大きい神社に行ってな。で、“ましろ”って名前、伝えられた」
その瞬間だった。
少年の目から、ほんのわずかに色が消えた気がした。
彼はしばらく沈黙した。
言葉を探すように、口を開くまでに数秒かかっていた。
「……そうなんだ」
低く、掠れるような声。
やがて、少年は視線を咲から少しだけ外して、ぽつりと告げた。
「自分の名前、ましろ……です」
咲の目が見開かれた。
言葉が、出なかった。
団地の空気が、再び静寂に包まれる。
咲は一瞬息を飲み、そして眉をひそめたまま少年――ましろを見つめた。
だがそれ以上に、当の本人が明らかに動揺していた。
「ちが……ちがう……いや、そうなんだけど……!」
ましろは急に言葉を重ね始め、わずかに後ずさる。
怯えたような、何かを必死で隠そうとするような、そんな目をして。
「お願い、ここに居たことは……絶対に、菜塚さんには言わないで。お願いだから……!」
普段の無機質な口調が、急に震えを帯びていた。
さっきまでの静けさが嘘のように、ましろは明らかに取り乱していた。
だが――
「……あんたさ」
咲は、一歩、ましろに近づいた。
その瞳には迷いもなければ、同情もなかった。
ただ、まっすぐに、彼を見ていた。
「椎名唯華はあんたのこと、心配してたんやで」
その言葉に、ましろの肩がびくりと揺れる。
「“あいつはあかん”って言いながら……めっちゃ、心配してた。……あんたが無理しすぎてないか、どこかでひとりで苦しんでるんちゃうかって」
咲の声は、真っすぐだった。切り込むように、そして温かかった。
「家、継ぎたくないならさ……勇気出して、自分で言い。ちゃんと、顔見て、言い」
ましろの視線が揺れる。だが、咲は構わず続けた。
「事務所にいたおっさん、あんたのこと“とても優しい坊ちゃまだった”って言うてたんよ。あの人、目が優しかったわ」
言葉に詰まったまま、ましろは何も言えなかった。
「ウチも、そう思う。……あんたの優しさは、他の誰とも違う。誰かを救うためとか、カッコつけるためじゃない。……ほんまに、ほんまの意味で、あんたの中には“慈悲”があるんやと思う」
咲の声が、優しく沈んだ。
ましろは――その場で、何も返せなかった。
ただ、怯えたような目をそっと伏せ、静かに唇を結んだ。
冷えた団地の空気の中、遠くで風が窓を鳴らしていた。
「……ごめん」
ましろは、か細い声でそう言った。
その表情には、決意とも後悔ともつかぬ曖昧な影が差していた。
次の瞬間、彼はそっと片腕を咲に向ける。
「――えっ……?」
その仕草が何を意味するのかを理解する前に、笹木咲の視界がぐらりと揺れた。
頭の奥に鈍い衝撃。足元の感覚がふわりと浮き、世界の重力が崩れたような錯覚に陥る。
息を吸おうとしても、うまく吸えない。
「……っ、なに……これ……」
膝が一瞬、がくりと崩れかけたその刹那――
ましろは踵を返し、無言のまま、団地の廊下を走り去っていた。
「ま、待ってっ――!」
咲は目眩を堪えながら壁に手をつき、必死に足を前に出す。
「……っそ、なんやの急に……!」
叫ぶように吐き捨てながら角を曲がる。
だが、そこにはもう、ましろの姿はなかった。
無機質なコンクリートの廊下。
古びた鉄の柵、薄暗い非常階段、鳴らない風鈴――ただ、それだけ。
「どこ……いったん……?」
咲は肩で息をしながら、団地の各階を駆け回った。
階段を下り、裏手の通用口を回り、隣接する棟へも足を運ぶ。
管理室の扉の前、植え込みの影、駐輪場の隅……あらゆる影を探し続けた。
けれど。
ましろの姿は、どこにもなかった。
「……ほんまに、消えたんかってくらい……」
呆然と空を見上げると、そこには夕焼けが滲んでいた。
西の空が燃えるように赤く染まり、団地の灰色の壁が、それに淡く照らされている。
昼のざわめきも、夜の静けさもない。夕暮れだけが、そこにあった。
咲はその場に立ち尽くしたまま、唇を噛んだ。
「あんな!!逃げてもええ!!でも、全部は隠すなよ!!ウチは、あんたを……ちゃんと見とるからな!!」
ひとり、取り残された団地。
風の音が、妙にやさしく耳を撫でていた。