咲-saku- 【完結】   作:えいどら

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第3章 第4話:自分の名前も

 ガタンゴトン――

 

 規則正しい車輪の音が、頭の奥でリズムを刻む。

 少し古びたローカル線の電車が、ゆるやかに揺れながら終点の駅に近づいていく。

 

 窓の外には、どこか懐かしい風景が流れていた。

 看板の色褪せた商店、三輪自転車を押すおばあちゃん、道端で駄菓子を売る小さな屋台。高層ビルの影など一切ない、のんびりとした下町の空気。

 

 「……なんか、修学旅行みたいやな……」

 

 電車の座席でぼそっとつぶやいた咲は、スマホをポケットにしまい、立ち上がった。

 

 やがて電車が止まり、駅のアナウンスが鳴る。

 

 改札を出て階段を上ると、視界いっぱいに広がるのは、まるで昭和で時が止まったような商店街だった。

 青いテントの八百屋、手書きのメニューが貼られたラーメン屋。すれ違う人たちはのんびりとした歩調で、みな顔見知りのような雰囲気を漂わせていた。

 

 咲は駅前を抜け、商店街を突き当たったあたりで立ち止まる。そこから先は、地図にも詳しく載っていないような小道が続いていた。

 

 「……こっからやな」

 

 人気のない細道を抜け、アパート群を通り過ぎると、景色は徐々に変わっていく。

 

 電線の数が減り、塗装の剥がれた壁が目立つようになる。雑草がアスファルトの割れ目から伸びており、自販機のライトも半分は点いていなかった。

 

 そして――

 

 目の前に現れたのは、打ち捨てられたように静まり返った巨大な団地だった。

 

 四階建てのコンクリートの塊が、無言で空を遮っている。

 どの棟も色褪せ、鉄の手すりは錆びつき、バルコニーの布団は干された形跡すらない。ガラスの一部は割れたまま放置され、ベランダには風に吹かれた紙ゴミがひらひらと舞っていた。

 

 「……なんか、温度がちがう」

 

 咲は、思わずつぶやいた。

 

 つい数分前までいた駅前のあたたかさが、まるで嘘みたいだった。

 ここには、まるで“時間”が流れていない。

 

 誰かの声もしない。物音もしない。風すら音を立てない。

 

 「……来るとこまで、来てもうたな」

 

 小さく息を吐き、団地の敷地へと足を踏み入れる。

 足元のコンクリートが、ザリ、と乾いた音を立てた。

 

 その音だけが、空間に響く。

 

 何度も階段を上り下りした。

 言われた通りの“特定の階”を、何通りかの順番で行き来もしてみた。

 

 けれど。

 

 「……ぜんっぜん、なんも起きへんやん……」

 

 咲は、団地の非常階段の踊り場でうんざりしたように息をついた。

 

 体力はもう限界に近い。うっすら汗ばんだ額を手の甲で拭い、壁にもたれるように立ち尽くす。時刻はもう夕方近く、空気には冷たさが混じり始めていた。

 

 (エレベーターも試したし……全部空振りや)

 

 古びたエレベーターの中で試したときも、何の異常もなかった。ただ上下するだけの、軋んだ音を立てる鉄の箱。

 電気メーターもまったく動いておらず、すべての部屋に生活の気配はなかった。

 

 (……今日はもう、帰るしかないか)

 

 諦めとともに、最上階の踊り場でエレベーターのボタンを押す。

 「ガタッ……」という、重たい始動音とともに、エレベーターがゆっくりと上がってきた。

 

 「……ハズレの日やな、完全に」

 

 ため息混じりに乗り込んで、階数ボタンを押す。

 

 だが――ドアが閉まるその瞬間、細い指がスッと差し込まれ、扉が再び開いた。

 

 そこに立っていたのは――ひとりの少年だった。

 

 真っ黒な髪。

 血の気のない白い肌。

 どこか性別の境界が曖昧なような、儚い輪郭。

 少し大きめの黒いパーカーに包まれた華奢な身体。

 

 その目はまっすぐで、なのにどこか虚無的で、心の奥底に触れてくるような奇妙な静けさを帯びていた。

 

 (……あかん、苦手なタイプや)

 

 咲は咄嗟にそう思い、扉の開いたままのエレベーターのパネルに手を伸ばした。

 

 なるべく関わらず、早く降りる。

 それだけを考えて階数ボタンを押そうとしたその瞬間――

 

 「……もしかして、笹木咲さん?」

 

 低く、やや舌足らずな、けれど妙に滑らかな声音が耳を貫いた。

 

 その声に、咲の指が止まった。

 

 「……え?」

 

 背筋に冷たいものが走る。

 

 少年の声に脅すような色はなかった。

 ただ、知っている前提で、確信を持って名を呼んでいた。

 

 咲は、思わずその場に硬直した。

 

 「……なんで、うちの名前知ってんの」

 

 エレベーターのボタンにかけた手をそっと引き戻しながら、咲はじりじりと問いかけた。

 

 少年は少しだけ首を傾け、何でもないことのように答える。

 

 「アルカナで活動してる、霊媒師の笹木咲さん。名前だけは……この界隈では、有名だから」

 

 「界隈て……」

 

 咲は思わず眉をひそめる。

 

 「てか、“アルカナ”のこと知ってんの?」

 

 「……んー……あんまり詳しくはない」

 

 少年は素直にそう言って、小さく肩をすくめた。

 

 「ただ、ちょっと前に……とある人の依頼で、この団地を調べてたことがあって」

 

 「依頼……?」

 

 咲の警戒心が再び高まる。身構えるようにエレベーターの扉の前に立ち、少年を観察する。

 

 その様子に気づいた風もなく、彼はエレベーターの内壁に背を預け、つぶやくように続けた。

 

 「けど……依頼は依頼で終わったけど、自分の中では……それで終わりって思えなくて。なんていうか……もっと知りたくなった」

 

 「……それってさ」

 

 咲は少し迷ってから言葉を選ぶ。

 

 「……もしかして、あんた、“フリーの霊能力者”?」

 

 その問いに、少年はほんの少しだけ目を見開いたが、すぐに頷いた。

 

 「たぶん、そう呼ばれてると思う。他にそういう人、聞いたことないし」

 

 それを聞いて、咲は内心で納得と戸惑いが入り混じった感情を噛みしめる。

 

 (……あの“フリーの霊能力者”、ほんまにおったんや……)

 

 しばらく沈黙が落ちる。

 

 やがて、少年がぽつりと呟くように言った。

 

 「……報酬にはならないけど……霊になって消えていった人たちのこと、考えるのが、たぶん自分の“使命”みたいなものなんだと思う」

 

 咲は一瞬、言葉に詰まった。

 

 少年の声には気負いもなければ、誇りもなかった。ただ、ひどく静かで、どこか冷たさすらあるのに――その奥底に、妙にあたたかなものが滲んでいた。

 

 「昔は……どうすれば霊の気持ちが理解できるか、って、ずっと考えてた。答えなんて出ないんだけど……でも、近づく努力は、まだできる気がしてる」

 

 咲は、何も言えずにただその姿を見つめていた。

 

 黒い髪と、白い肌。無機質な声と、無垢な眼差し。

 

 何を考えているのか分からないのに、なぜか“演じていない”ことだけは伝わってくる。

 

 ――気味が悪い。でも、嘘をついてる感じは、しない。

 

 咲は、黒髪の少年の真っ直ぐな瞳から視線を逸らしながら、ポケットに手を突っ込んで息を吐いた。

 

 「……なんとなく、気持ち分かるわ」

 

 「え?」

 

 「人のことより、霊のほうがよっぽど楽ってやつ」

 

 ぽつりとこぼしたその言葉には、どこか苦笑が混じっていた。

 

 葉加瀬の家で見た“研究”、夜見の気まぐれな超常現象。

 目に見えないものの方が、よほど理屈が通ってるように思えてくる日々だった。

 

 「友達の付き合いであっちゃこっちゃ首突っ込んどるけどさ、正直、常人の言動の方が怖いときある」

 

 「……笹木咲さんのエピソードなら、聞いてみたいかも」

 

 少年の声は、相変わらず静かで無感情だったが、わずかに好奇心の色が混じっていた。

 

 「はー……じゃあ、ちょっとだけな」

 

 咲は頭を掻きながら、ぼやき口調で話し始めた。

 

 「知り合いに呼ばれて、まあちょっとした“名家”に行ったんよ。めっちゃでかい神社のあるとこ。観光地にもなってるような」

 

 「……ふむ」

 

 「で、そこでな――いきなり“家の跡継ぎ問題”に巻き込まれたんよ。今時、赤の他人にそういう話振る!? みたいな……。しかも人の名前まで出されてさ」

 

 少しだけ語気を強めていたが、それもどこか苦笑まじりだった。話しながらも、あのときの椎名菜塚の言葉と、唯華の視線を思い出す。

 

 「……で、名前を?」

 

 「うん。……ま、“フリーさん”にならええか」

 

 咲は一拍置いて、言葉を続けた。

 

 「“椎名神社”っていう、馬鹿みたいに大きい神社に行ってな。で、“ましろ”って名前、伝えられた」

 

 その瞬間だった。

 

 少年の目から、ほんのわずかに色が消えた気がした。

 

 彼はしばらく沈黙した。

 言葉を探すように、口を開くまでに数秒かかっていた。

 

 「……そうなんだ」

 

 低く、掠れるような声。

 やがて、少年は視線を咲から少しだけ外して、ぽつりと告げた。

 

 「自分の名前、ましろ……です」

 

 咲の目が見開かれた。

 

 言葉が、出なかった。

 

 団地の空気が、再び静寂に包まれる。

 

 咲は一瞬息を飲み、そして眉をひそめたまま少年――ましろを見つめた。

 

 だがそれ以上に、当の本人が明らかに動揺していた。

 

 「ちが……ちがう……いや、そうなんだけど……!」

 

 ましろは急に言葉を重ね始め、わずかに後ずさる。

 怯えたような、何かを必死で隠そうとするような、そんな目をして。

 

 「お願い、ここに居たことは……絶対に、菜塚さんには言わないで。お願いだから……!」

 

 普段の無機質な口調が、急に震えを帯びていた。

 さっきまでの静けさが嘘のように、ましろは明らかに取り乱していた。

 

 だが――

 

 「……あんたさ」

 

 咲は、一歩、ましろに近づいた。

 

 その瞳には迷いもなければ、同情もなかった。

 ただ、まっすぐに、彼を見ていた。

 

 「椎名唯華はあんたのこと、心配してたんやで」

 

 その言葉に、ましろの肩がびくりと揺れる。

 

 「“あいつはあかん”って言いながら……めっちゃ、心配してた。……あんたが無理しすぎてないか、どこかでひとりで苦しんでるんちゃうかって」

 

 咲の声は、真っすぐだった。切り込むように、そして温かかった。

 

 「家、継ぎたくないならさ……勇気出して、自分で言い。ちゃんと、顔見て、言い」

 

 ましろの視線が揺れる。だが、咲は構わず続けた。

 

 「事務所にいたおっさん、あんたのこと“とても優しい坊ちゃまだった”って言うてたんよ。あの人、目が優しかったわ」

 

 言葉に詰まったまま、ましろは何も言えなかった。

 

 「ウチも、そう思う。……あんたの優しさは、他の誰とも違う。誰かを救うためとか、カッコつけるためじゃない。……ほんまに、ほんまの意味で、あんたの中には“慈悲”があるんやと思う」

 

 咲の声が、優しく沈んだ。

 

 ましろは――その場で、何も返せなかった。

 

 ただ、怯えたような目をそっと伏せ、静かに唇を結んだ。

 

 冷えた団地の空気の中、遠くで風が窓を鳴らしていた。

 

 「……ごめん」

 

 ましろは、か細い声でそう言った。

 

 その表情には、決意とも後悔ともつかぬ曖昧な影が差していた。

 次の瞬間、彼はそっと片腕を咲に向ける。

 

 「――えっ……?」

 

 その仕草が何を意味するのかを理解する前に、笹木咲の視界がぐらりと揺れた。

 

 頭の奥に鈍い衝撃。足元の感覚がふわりと浮き、世界の重力が崩れたような錯覚に陥る。

 息を吸おうとしても、うまく吸えない。

 

 「……っ、なに……これ……」

 

 膝が一瞬、がくりと崩れかけたその刹那――

 ましろは踵を返し、無言のまま、団地の廊下を走り去っていた。

 

 「ま、待ってっ――!」

 

 咲は目眩を堪えながら壁に手をつき、必死に足を前に出す。

 

 「……っそ、なんやの急に……!」

 

 叫ぶように吐き捨てながら角を曲がる。

 

 だが、そこにはもう、ましろの姿はなかった。

 

 無機質なコンクリートの廊下。

 古びた鉄の柵、薄暗い非常階段、鳴らない風鈴――ただ、それだけ。

 

 「どこ……いったん……?」

 

 咲は肩で息をしながら、団地の各階を駆け回った。

 

 階段を下り、裏手の通用口を回り、隣接する棟へも足を運ぶ。

 管理室の扉の前、植え込みの影、駐輪場の隅……あらゆる影を探し続けた。

 

 けれど。

 

 ましろの姿は、どこにもなかった。

 

 「……ほんまに、消えたんかってくらい……」

 

 呆然と空を見上げると、そこには夕焼けが滲んでいた。

 

 西の空が燃えるように赤く染まり、団地の灰色の壁が、それに淡く照らされている。

 昼のざわめきも、夜の静けさもない。夕暮れだけが、そこにあった。

 

 咲はその場に立ち尽くしたまま、唇を噛んだ。

 

 「あんな!!逃げてもええ!!でも、全部は隠すなよ!!ウチは、あんたを……ちゃんと見とるからな!!」

 

 ひとり、取り残された団地。

 

 風の音が、妙にやさしく耳を撫でていた。

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