咲-saku- 【完結】   作:えいどら

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第3章 第5話:楽園

 翌日――。

 

 咲は、ゆっくりと喫茶「アルカナ」の前に立った。

 

 普段なら、少しワクワクしながら開ける扉。けれど今日は違う。

 顔にはどこか影が差し、瞳にも疲れが滲んでいた。

 

 (……"ましろ"、か)

 

 思考の奥で繰り返される名前に、ため息をひとつ吐く。

 

 そのとき。

 

 「っ……わっ!」

 

 目の前の扉が、バンッと勢いよく内側から開いた。

 

 「あっぶなっ!」

 

 咲が慌てて一歩下がると、開け放った扉の向こうから椎名唯華が、露骨に苛立った顔で現れた。

 

 「……っもう、うっとうしいわ……!」

 

 その後ろから、楽しそうな声が響く。

 

 「ねぇ~! もう一回だけやろうよ~! 次は本当にシャッフルするからぁ!」

 

 咲がそっと唯華の肩越しに中を覗くと、店の奥では夜見れなが椅子に身を乗り出し、手元に広げられたトランプを指でつまみながらにこにこしていた。

 

 「……神経衰弱……?」

 

 呆れ気味に問いかける咲に、唯華はピタリと止まったあと、周囲をちらりと確認してから身を寄せてきた。

 

 「……こいつ、神経衰弱で透視使ってボロ勝ちするんよ」

 

 小声で耳打ちされた咲は、一瞬言葉を失った。

 

 「……チートやん」

 

 「うん。しかも“楽しいね~!”とか言いながらやるから、余計イラつく」

 

 唯華は心底疲れた顔でため息を吐いた。

 

 カウンターではチャイカが新聞を読んでおり、夜見の声にはまるで気づいていないように見えた。

 咲はようやく、口元に微かに笑みを浮かべた。

 

 「……ちょい、笹木」

 

 席につこうとした咲の背中に、唯華の声がかかった。

 

 「ん?」

 

 振り返ると、唯華はトランプを置いて立ち上がり、そのまま無言で咲に目線を送る。

 

 「ちょっと、外。話ある」

 

 店の中では、夜見がまた別のカードを手にして「今度はババ抜きやろうよ~!」と楽しげに叫んでいたが、唯華は完全に無視して扉を開けて外へ出た。

 

 咲も仕方なく後に続き、「アルカナ」の木の扉が静かに閉まる。

 

 外の空気はまだ昼の名残があり、少しぬるく、風が駅の方角から抜けていく。

 

 唯華は店の脇、ちょっとした木の柱に体を預け、片足を軽く曲げて立っていた。

 いつものけだるさとは違い、その顔は真面目だった。

 

 「あいつが“フリーの霊能力者”の正体やってこと……誰にも言わんといてな」

 

 その声は、ふだんの唯華からは想像できないほど静かで、深かった。

 

 咲は思わず少し口を開いたが、唯華が先に続けた。

 

 「あてぃしも……知らんかったわけやない。でも、これは“約束”やねん」

 

 「……約束?」

 

 唯華は目を細め、遠くを見るようにしながら話し始めた。

 

 「あいつ、“フリーの霊能力者”としての仕事では、自分の素性を一切明かさんねん。誰にも、どこから来たのか、名前も出さんし、声も顔も、記憶に残しにくいようになってる」

 

 咲はその言葉に、ましろの無機質な喋り方や、妙に記憶が曖昧になるような気配を思い出した。

 

 「一度、仕事を引き受けた相手の前には、二度と姿を現さんのが、あいつの“ルール”や。だから、夜見も“連絡つかん”って言うてたやろ」

 

 唯華の目が咲の瞳を射抜く。

 

 「――あいつはそうやって、自分を削ってきたんや。誰にも覚えられず、誰にも縋らせんために。……そういう覚悟で、“霊”と向き合っとる」

 

 風が、ふたりの間を吹き抜けた。

 

 「せやから、“あいつがましろ”ってこと、うちと咲だけの話にしといて。……頼む」

 

 咲はしばらく無言で立ち尽くしていたが、やがて小さく頷いた。

 

 「……わかった。ウチの胸ん中だけに、しまっとくわ」

 

 唯華はそれを聞いて、やっと少しだけ、表情を緩めた。

 

 「助かるわ。……ま、笹木ならそう言う思てたけどな」

 

 照れ隠しのように目を逸らしながら、柱から身体を離す。

 

 「さ、戻ろ。夜見が三連勝中やから、今のうちに止めな次の客逃げるで」

 

 「マジで害悪やん……」

 

 ふたりは並んで扉へと戻っていく。

 

 けれど咲の心の中では、“ましろ”という名が、静かに、そして確かに、重さを増して残っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「……あっち空いてるで」

 

 そう言って唯華がトイレの個室を指差すと、咲は頷き、ふたり並んで店内奥の女子トイレに入った。

 

 扉の閉まる音と、外の喧噪が遠のき、急に静かな空間が広がる。

 

 鏡の前で手を洗いながら、唯華はぼそっとつぶやいた。

 

 その声には、どこかいつもと違う色があった。

 

 「時が経てば……ふらふらと、消えていく存在なんよ。ほんまに」

 

 咲はタオルで手を拭く手を止めて、唯華の横顔を見つめた。

 

 唯華は鏡越しに咲を見ず、低い声で続ける。

 

 「存在を知っとる人間なんて、ほんの一握りや。椎名家の人間でさえ、いまやその存在をほとんど追えん。痕跡も、記録も、なぜか残らんようになってる」

 

 「……ほんまに“最初からいなかった”みたいやって、言うとったやつもおったわ」

 

 咲は言葉を失った。

 唯華の声には、いつもの飄々とした調子はなく、深く、沈んだものがあった。

 

 「……あいつ、“霊のこと”とか変に気にしてへんかったか?」

 

 唯華は突然、鏡越しに咲の目を捉えた。

 

 咲は少し戸惑いながらも、頷いた。

 

 「……うん。“霊になった人の気持ちを知りたい”って。……そんなこと言ってた」

 

 「……やっぱりか」

 

 唯華は一瞬、瞼を伏せて目を閉じ、静かに息を吐いた。

 

 「……そういうやつやねん、あいつは」

 

 咲の肩に、唯華の低く静かな声が落ちる。

 

 「人を見とるんやなくて、霊を見とる。人の記憶より、霊の記憶の方が身近で――ぬくもりや痛みが、自分のことみたいに染み込んでる」

 

 咲はその言葉に、ましろの言動や、あの独特のまなざしを思い出していた。

 

 「……今以上に、霊に関わらせたら――」

 

 唯華はそっと言葉を選んで、絞り出すように言った。

 

 「……どうなるか、分かるやろ」

 

 霊と人の境界が曖昧になり、心も、存在も、向こう側に引き寄せられてしまう――

 ましろがその崖っぷちを歩いている姿が、言葉にされずとも伝わった。

 

ふたりが喫茶「アルカナ」の客席に戻ると、店内には相変わらずゆるやかな空気が流れていた。

 夜見がチャイカの前に腰を下ろし、何やら嬉々とした様子で紙袋を手渡している。

 

 「はい、届け物。預かってたやつね~。ほら、ちゃんと冷暗所に置いといたから~」

 

 チャイカは袋を覗き込み、わずかに眉を上げた。

 

 「……ほう。おれでも見たことなかったやつだな……やっぱあいつ、金の使いどころが妙にエグい」

 

 「“幻の”って書いてあったよ。お姫様も飲んだとか何とか……」

 

 「うわー、やっぱアレか」

 

 チャイカが新聞を畳みながらそう呟く傍らで、笹木は椅子に座りかけていた身体を止めた。

 

 「……ん? え、何の話? ちょっと待って……」

 

 状況が掴めず、思わず声を上げる。

 

 「ウチ、まだ何もしてへんで!? 団地の霊の件、これから報告しよう思て……!」

 

 まくし立てる咲に、唯華が隣でくすりと笑った。

 

 「……除霊しろ、なんて誰も一言も言うてへんやろ」

 

 「は……?」

 

 咲が戸惑いのまま顔を向けると、唯華は少しだけ肘をついて、落ち着いた口調で続けた。

 

 「悪い霊やなかったんや。少なくとも、笹木があれだけ団地を駆け回っても、手ぇ出してこんかったやろ?」

 

 「……うん、まぁ……」

 

 「ほんまに悪さする霊なら、もっと強引に引きずり込んでたやろな。あいつらは、ただ“迷うてた”だけや」

 

 チャイカが黙って耳を傾けながら、袋の洋酒を棚にしまっていく。

 

 咲はしばらく黙っていたが、やがてため息をついた。

 

 「……じゃあ、ウチが駆け回ったあれ、全部……」

 

 「無駄やったわけやない。……“確かめた”んやろ? 何もせんでも、そういうのは大事な仕事やで」

 

 唯華の目は、思いのほか真剣だった。

 

 夜見はというと、既に次のトランプゲームを準備し始めており、またも透視じみた笑顔を浮かべている。

 

 咲はそんな光景を見ながら、椅子に深く座り直した。

 

 あの団地で感じた気配。

 ましろと交わした言葉。

 霊の気配と、人の記憶の残響――それらは確かに、今も胸の奥で息づいていた。

 

 「……なんや、全部変な形で終わったけど……」

 

 「そういう日もあるやろ。なにせ、うちらの日常やしな」

 

 唯華の言葉に、咲は小さく苦笑を漏らした。

 

 「なあ、笹木」

 

 コーヒーを一口飲んでから、椎名唯華がぽつりと口を開いた。

 

 「……記録の齟齬、あったやろ。団地のな」

 

 咲はうなずく。

 

 「住人の名前が、同じ部屋に重なってたやつな。時期もバラバラで、どう考えても変やった」

 

 唯華は頷きながら、指でカップの縁をなぞるようにしながら続けた。

 

 「……どちらが“本物”で、どちらが“偽物”か。それとも、全部が“偽物”なのか。正直、あてぃしには判断つかん」

 

 静かな声だった。

 

 「でもな……あんな記録があったのに、役所の人間も、団地の管理側も、誰も気にしてなかった。まるで、“そういうもんや”って前提で時間が流れてた。……それもまた、不自然やねん」

 

 咲はその言葉に、どこか背筋がざわつくのを感じた。

 

 「それに――“住人を見た”って証言、ひとつもなかった。そこに住んでるってはずの名前はあっても、実際にその人間がいたかどうか……誰も語っとらへん」

 

 「……そっか。ウチらが見たのは、あくまで“記録”だけで……現実の人間を、誰も見たわけじゃない」

 

 唯華は小さく頷く。

 

 「うちらが、同じ時期に“二重記録”を見た最初の人間かもしれん。今までの誰もが、一方だけしか見てなかったか、あるいは……それすらも、何かの仕掛けで“見えなくされてた”だけかもしれん」

 

 その目は、ただの高校生とは思えない鋭さを帯びていた。

 

 「……全部が“何かのため”に作られてた可能性、あるんちゃう?」

 

 咲はその言葉に、言葉を失った。

 

 唯華は窓の外に視線を向けながら、静かに続ける。

 

 「――もしかしたら、あの団地は、“哀れんだ誰か”が、思い出とともに遺した、“子供たちのためだけの空間”やったんかもしれへん」

 

 柔らかくも切ない言葉だった。

 

 「でも、団地としては運営し続けなあかん。“人が住んでない”って状態が続いたら、当然怪しまれるやろ?」

 

 「……たしかに」

 

 「市営団地は抽選制やけど、それでも“いつまでも当たらない”ってなると、役所にクレーム来る。“何で空いてるのに埋まらないんや”ってな」

 

 咲は、唯華の言葉を静かに聞き続けていた。

 

 「だから、形だけでも住人を作る必要があった。誰かに“空いてる”と指摘される前に、“埋まってますよ”って形だけでも示さなあかん」

 

 唯華は、指を二本、机に並べる。

 

 「一方は“実際に住んでる”住人。もう一方は、“空いてないことにするために記録だけで存在してる”架空の住人。……二重の処理や」

 

 机を見つめる咲の胸に、ひやりと冷たいものが落ちる。

 

 それは、ただの霊現象ではなく、人為的に――あるいはそれに近い形で“構築された異常”だったのかもしれないという仮説。

 

 そして、それを生み出した“誰か”の意図が、今も静かに団地の空気に染みついているという、確かな予感。

 

 「……そんな場所に、ましろは……」

 

 咲の呟きに、唯華は何も言わなかった。

 

 ただ、その視線は窓の向こう、どこか見えない遠くを見据えていた。

 

 唯華の推理に、笹木咲が言葉を失っていると――

 隣の席でトランプを混ぜていた夜見が、声をひょいと差し込んできた。

 

 「団地なら、児童館や公園と違って、“親に内緒のもの”も置けるしね」

 

 咲が眉をひそめて夜見を見やると、夜見はカードを手元でぱらりと開きながら、どこか遠くを見るように微笑んでいた。

 

 「アルバムの裏とか、廊下の隅っこ、押し入れの奥。家族に知られたくないものを、子どもたちはいつもこっそり隠す場所を探してた。団地って、そういう場所にはちょうどよかったんじゃない?」

 

 その声は、どこか優しかった。

 

 チャイカが新聞を畳みながら、ゆっくりと頷くように口を開く。

 

 「当時な……今ほど“トレーディングカードゲーム”は人権を得てなかったんだよ」

 

 「え、人権て……」

 

 「本気だよ。今みたいに喫茶で大人が遊び明かすなんてのは夢のまた夢。大人がカードをやっていたら、“気持ちの悪い人”だと呼ばれてた。子供の遊びと馬鹿にされてな。中には“こんなもんやってたらバカになる”と怒鳴って取り上げた親もいたんだ」

 

 チャイカの言葉に、店内の空気が少しだけ沈黙に染まる。

 

 「……もしかしたら、そういう時代を哀れんだ誰かが作ったんだろうな。誰にも見つからないところに、子どもたちの宝物を残せるような場所を」

 

 「愛の結晶、やな」

 

 唯華がぽつりと、茶化すでもなく、どこか感慨深げに呟いた。

 

 その瞳には、かすかな笑みが宿っている。

 

 「……実際、楽しかったんやろな。あの場所。どっかのバカな子供の幽霊も、自分が死んでることすら忘れて、混ざって遊んでしまうくらいに」

 

 咲の脳裏に、あの落書きの空間が浮かぶ。

 ぐるぐると回った廊下。歪んだ窓。意味のないようで意味がある子どもの文字たち。

 

 もしかしたら、本当に――

 

 「あの子らは、“楽しかった日”を、もう一度やってただけなのかもな……」

 

 咲は静かに、テーブルの木目を指でなぞりながら呟いた。

 

 どこか切なくて、どこか優しい空気が、喫茶「アルカナ」に流れていた。

 

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