「……うち、何勝手に妄想してんねや……」
咲は再び歩き出す。自分の影が、夕暮れのアスファルトに長く伸びていた。
(想像でビビってても、しゃーないやん。椎名に聞きたいことがあったら、ちゃんと聞けばええ)
足取りが、少しずつ元に戻る。
(あいつがどれだけ重いもん背負ってても、たぶん、うちはそれを笑わせることくらいしかできへんしな)
目指す喫茶店『アルカナ』の看板が、夕陽の向こうにぼんやりと現れていた。
咲は深く息を吸い込み、再び前を向いた。
夕陽がオレンジ色に街を染める中、笹木咲は喫茶店『アルカナ』の前に立ち止まった。
重厚な木製のドア、その真ん中にぶら下がる札が、さりげなく視界に入る。
――“CLOSED”
「……は? 閉まってるやんけ」
思わず声に出してしまった。
ガラス越しに中を覗けば、店内には明かりが灯り、カウンター奥にはチャイカらしき大柄な影が動いている。完全に“営業終了後”というわけではなさそうだった。
(……裏口から誰か出てきたとか、じゃないよな?)
半信半疑で、咲はそっと扉に手をかける……が、迷いがよぎる。開ける前に、ふと壁に耳を寄せてみた。
店内から漏れてくるのは、やや低めのチャイカの声。そして、その合間に――
「……うそやろ……?」
咲の口元がぽかんと開いた。
聞き覚えのある、明るく、透き通った、少し鼻にかかった声――本間ひまわり。
「ひまちゃ……?」
あの、真面目で素直で、テンションが高くて、昼間は学校の中庭でスナック菓子配ってるような、“陽の者代表”が、よりにもよって“アルカナ”にいる。
「な、なんで……あいつが、こんなアングラなとこに……?」
耳をそばだてるが、言葉の輪郭は掴めない。けれど、軽口を叩いている雰囲気ではない。ひまわりの声も、いつものような元気さがなく、どこか張りつめたような調子だった。
「……まさか、ひまちゃが裏で……“そういう”仕事を……?」
思考が変な方向に転がりかけた咲は、慌てて首を振った。
(ないないない! 絶対ないって! あの子が裏社会の何かとか、無理あるやろ!)
けれど、確かに聞こえた。あれは間違いなくひまわりの声だった。しかも、何かを相談しているような、あるいは、打ち明け話のような――そんな、重たい空気。
「……これ、開けてええんかな……?」
咲は扉の取っ手に手をかけたまま、動けなくなっていた。チャイカが閉店の札をかけたままにしてるということは、つまり、「部外者立ち入り禁止」的な空気なのかもしれない。無理やり入っていい雰囲気では、ない。
「ん~~~……でも、気になるぅ~~~~~……!」
足をじたばたさせながら悩んでいると、その背後から――
「……なに、突っ立ってんの」
背筋に走る寒気とともに、後ろからぬっと現れたのは、椎名唯華だった。
制服の上から薄手のカーディガンを羽織り、いつもの気怠げな目で咲をじっと見ている。
「え、えっ!? 椎名!? え、なんで……いや、うちはその、あの……」
動揺する咲をよそに、唯華は「“CLOSED”」の札に視線をやると、ぼそっと呟いた。
「チャイカんとこ、また札かけっぱなしやんけ……」
それだけ言って、ためらいもなく取っ手を引いた。
――カラン。
ベルが鳴る。
「ちょっ!? おい椎名!! 今、閉まってるって札出てたって!! 空気読もや! な!? 常識人になろ!? うちは今、それで悩んでてんて!!」
「じゃあ開けてええか聞いてみればええやん」
「うちが!? いや、そうやけど、でもタイミングとか空気とかあるやろ!! それに、ひまちゃおるっぽいんやけど!? それが一番驚きなんやけど!?」
「……は? ほんひま? なんであいつおんの」
「うちが聞きたいねん!!」
扉の奥からは、チャイカの「おー、唯華か」という声と、それに続く少し小さくなったひまわりの声が微かに聞こえる。
「……入るで」
「お、おいっ……!」
唯華の後を追いながら、咲は覚悟を決めてアルカナの店内へと足を踏み入れた。
彼女が見たのは、本間ひまわりがチャイカの前に座り、真剣な眼差しで何かを語っているという、普段とはまるで違う空気の光景だった。
扉のベルが控えめに鳴る。
笹木咲と椎名唯華が揃って喫茶店『アルカナ』に入ると、カウンター席にいた本間ひまわりがぱっと顔を上げた。
「あっ……えっ!? 咲ちゃん!? しぃしぃも!? え、えええ!? なんでっ!?」
あからさまに驚いた表情で目を丸くするひまわり。彼女の前には、チャイカが無言でコーヒーをかき混ぜている。
咲は腕を組み、ひまわりを指さすようにして言った。
「うちの台詞やっちゅーねん! なにしてんねん、ひまちゃ!! てか、なんでこんな店に……あんた、文化祭の委員とかやっとる健全女子やろ!? アルカナってそういうとこちゃうで!? ここアングラ専門店やで!?」
「えぇ~……そんな言い方しなくてもぉ~……!」
ひまわりは困ったように笑いながら頬をかき、チャイカに一度視線を向けてから、説明を始めた。
「実はね? あの……うちのバイト先の店長さんが、ちょっと変わった知り合いに文化祭手伝ってもらえないか~って話をしてて……それで、チャイカさんにお願いに来てたの」
「文化祭を……手伝ってもらう……って?」
咲が眉をひそめて繰り返すと、チャイカが口を開いた。
「ああ、こいつ。実は前にうちとメールでやり取りしてた“情報屋”のアシスタントだよ。団地の件でちょっと調べものしてもらってたやつ。覚えてるだろ?」
「……はぁ!? ひまちゃが!?」
「正確には、ひまわりのバイト先の店長がその“情報屋”で、こいつが手伝ってたって形だけどな。まあ、メール打ってたのはこの子だったみたいだし、実質半分は彼女」
チャイカは面倒くさそうに指でマグカップの縁をなぞりながら、続けた。
「で、報酬をちょっと値切ってな。その代わり、“おたくの生徒の文化祭、手伝わせてもらう”っていう条件付きになった。まあ、こっちとしても面白そうだし、それで手を打った」
「は、はあああああ!?」
咲は両手で頭を抱えた。
「いやいやいやいや、どこが!? どこが“情報屋のバイトしてます”って顔してるん!? いつも眩しいくらいピカピカな顔で話してる陽キャが、裏で団地の調査しとったん!? うっそやろ……」
「へへ……なんか、ごめんねぇ……」
ひまわりは照れ笑いを浮かべながら、グラスの水をちゅーっと吸った。
咲は口を開けたまま呆然とし、それを横目で見ていた唯華が、ぼそっと呟く。
「……まぁ、うちらも人のこと言えんやろ」
「それは、そうやけども!!」
咲が再びツッコミを入れかけたところで、ひまわりが急に時計を見て「あっ」と声を上げた。
「やばっ……もうこんな時間!? ごめん、今日はもう帰らなきゃっ」
そう言って、ひまわりは鞄を肩にかけ、慌ただしく椅子から立ち上がる。
「じゃ、また学校でねっ!」
笑顔で手を振りながら、店のドアを開けてぱたぱたと出ていく。
咲と椎名、そしてチャイカだけが残された静かな店内に、扉のベルが、カラン……とやけに澄んだ音を響かせた。
咲は呆けたまま、ぽつりと呟く。
「……どの世界線の本間ひまわりやねん……」
唯華はスツールに座りながら、抹茶ラテの空きカップを指先で回しつつ。
「……多分、ぜんぶ正解なんやろな。あいつも、うちらも」
チャイカはふっと鼻で笑い、マグカップをカウンターにトンと置いた。
「まったく、最近は“普通の顔した変なやつ”ばっか寄ってくるな。うちの店にも、学校にも」
ひまわりが去ったあと、喫茶店『アルカナ』の店内には、落ち着いた静けさが戻っていた。
夕暮れの光がステンドグラス越しに差し込み、カウンターの上に色の混じった影を落としている。
チャイカは一口コーヒーをすすりながら、ふと咲に目をやった。
「――同じ学校なんだし、せっかくだから、あんたが文化祭手伝ってみるってのはどうかしら?」
「……は?」
咲は硬直したまま、ゆっくりとチャイカを見た。
その瞬間、すかさず椎名が口を挟む。
「ええやん。最近“アルカナの霊媒師”とか言うて、変な噂も立ってるし。クラスで“実は呪符で結界張れるらしい”とかバレバレやで」
「うっ……うるさいわ!」
咲は即座に頭を抱え、椅子の背にのけぞった。
「絶対にイヤやからな!? うちは! 文化祭でなんか“変な仕事”やらされるのが一番イヤなんや!!」
その叫びに、チャイカはくつくつと喉を鳴らして笑った。
「何をそんなに警戒してんだ。いいじゃないか、“文化祭の霊媒師”……どうせなら、客の未来でも見てやれば?」
「絶対、“霊符で悪霊退治体験コーナー”とか、“憑依された咲ちゃんを救え!”とか、そんなん企画されるに決まってるやん!? しかもたぶんガチで何か起きるし!!」
「実際、起きるだろうな」
「おい!! さらっと肯定すなぁ!!」
咲はもはや机に突っ伏し、顔をうめながら唸るように叫ぶ。
「……もう、そういうのは全部椎名にやらせてくれよぉ……こっちは一般人代表として平和に文化祭を過ごしたいんや……」
「いやいや、うちが文化祭で霊媒師とかやったら絶対あかんやろ。“呪力が強すぎて客に幻見せた”とかなるで。むしろ咲がちょうどええやん」
「そういう“ちょうどええ”の一番腹立つ!!」
そのやりとりに、チャイカがふうっと笑いながら煙草の箱を指でつつく。
「青春なんて、今しかできないんだからよ……やっときなさいよ、咲ちゃん。あんたみたいな奴が意外と、そういうのに一番向いてるわよ。」
「……また適当なこと言うて……」
「いや、マジで言ってるんだけどね」
チャイカは軽く片眉を上げて、いつになく真っ直ぐな視線を咲に向ける。
「変な連中に囲まれて、変な店に出入りして、気づけば“当たり前”がズレ始めてる。……でもな、それでも“祭”は、祭だ。みんなでワイワイして、くだらないことして、疲れて帰って寝る。それを逃したら、案外、後で悔しくなるわよ」
咲は、突っ伏したまま、ぼそりと呟いた。
「……それっぽいこと言われても、うちがやらされるの絶対“心霊迷路”の生き人形役とかやで……」
唯華はその背中をぺし、と軽く叩きながら、
「まぁ、そのときはあてぃしが“助けに来る勇者”やったるわ」
「椎名だけは絶対信用できへんわ!!」
カウンターの奥で、チャイカが「こりゃ面白くなりそうだ」と口角を吊り上げた。