放課後の陽射しはすでに傾きかけ、住宅街の小さな公園には、子どもたちの姿もまばらになっていた。ブランコの鎖が風に揺れ、カラカラと寂しげな音を鳴らしている。
その公園のベンチに、ひときわ存在感のある人物が腰を下ろしていた。
長身に鮮やかなジャケット、ゴツいブーツに身を包み、銀髪の下で目を細めているのは、花畑チャイカ――情報屋としても知られる喫茶店『アルカナ』の店主であり、霊にまつわる騒動の情報を幅広く扱う男。見た目はどこか怪しいが、根は面倒見がよく、笹木や椎名とは意外にも“友人”として付き合いがある。
「……あんた、遅いわねぇ。ハトが3羽は飛び去った時間よ」
チャイカは口元に煙草をくわえながら、ベンチに座ったままぼそりと呟いた。
「いや、あんたの時間の数え方クセ強すぎやろ……普通にチャイム鳴ってからすぐ来たし」
笹木咲は制服のまま、公園の入り口から小走りにやって来ると、チャイカの隣にドサッと座った。咲のバッグには、使い込まれた呪符が数枚と、小さなスケッチブックのようなメモ帳が入っている。
「で、なんなん? またなんかヤバいの出たとか?」
咲が尋ねると、チャイカは煙草をゆっくりくゆらせながら、ぼんやりと空を見上げた。
「……"風が腐るような気配"ってやつさ。あたしの鼻がね、そう言ってんの」
「鼻でわかるん……」
「勘って言いなさい、乙女にはそう言うのがあるの。まあ、厳密には鼻と内臓と指先の感触の総合判断だけど」
チャイカはそう言って、ポケットから一枚の古地図のコピーを取り出した。赤ペンで印が付けられているのは、この町のはずれにある廃倉庫地帯。数日前から霊障が頻発しているという噂の場所だった。
「唯華ちゃん、今日は学校来てなかったんでしょ?」
「うん。まぁ……いつものことって言えば、そうなんやけどな。でも……なんか、うちもちょっと、変な感じしてるっちゃしてる」
咲はそう言って、ポケットから呪符を取り出して見せた。それは数日前、椎名唯華が「念のため持っとき」と言って渡してきたものだ。普段の軽口とは違い、どこか真剣な顔だったのが印象に残っていた。
「やっぱり……」
チャイカの表情が、わずかに険しくなる。
「ここのとこ、いくつかのルートで“何かが近づいてる”って話が出てるのよ。私の店にも変な連中が顔出してくるし……。で、その中に“火を食って動く影”ってのがあってね」
「それ……名前からしてヤバそうやん……!」
「まぁ、例えるなら“暴れる系”って感じね。理性とか会話とか通じない類。けど、それがこの辺に来てるとしたら……唯華も、それを嗅ぎ取って動いてるのかもねぇ」
咲は黙って頷いた。
椎名唯華は、そういう時、自分から動くタイプだ。無理して、勝手に突っ込んで、倒れて、何事もなかった顔して戻ってくる。けれど、今回は――どこか様子が違う。
「じゃ、行く? 例の場所。ちょっと見張っておきたいのよ。感が当たってるかどうか、確かめたいし」
チャイカが立ち上がり、パキンと首を鳴らす。陽が沈みかけ、空が赤く染まり始めていた。
「……まあ、ヒマやしな。椎名のやつも探さなあかんし」
咲も立ち上がり、バッグを肩に引っかける。制服のままなのに、どこか戦闘態勢のような雰囲気すらある。
「よっしゃ、ほなチャチャッと行こか。夕飯までには帰りたいしな」
「……その台詞、戦う人が言うセリフじゃないのよね」
そうぼやきながらも、チャイカはどこか楽しげだった。彼の目はすでに“霊の痕跡”を探すモードに切り替わっている。
放課後の公園を後にし、ふたりの影が街の奥へと伸びていく。
夜の闇が完全に降りた。
錆びた鉄骨がむき出しになった廃倉庫。その空間は、空気そのものが重く、湿っていた。風はないはずなのに、どこかで何かが擦れる音がする。照明の壊れた天井からは、黒く焦げたような染みがぶらさがっていた。
笹木咲は、花畑チャイカとともに倉庫の一角を慎重に進んでいた。手には唯華から受け取った呪符。霊的反応を探るために広げた式紙が、時折小さく震えている。
「……やっぱ、なんかいるな。けど、方向が……変や……」
咲は眉をひそめた。
まるで、気配が渦を巻くように周囲を巡っているのに、その中心が存在しない。何かがあるはずなのに、核が感じられない。感覚が、ずるりと滑っていくような不快さだけが、肌を撫でていく。
「チャイカ〜、これ、なんかさ……」
言いかけた瞬間だった。
――かすかに、声がした。
それは、子供のような、女性のような、けれどはっきりと判別できない、掠れた囁きだった。
《こっち……きて……》
咲は反射的に振り向いたが、チャイカの姿がなかった。
「……は?」
確かに、ついさっきまで隣にいた。気配すら感じていた。なのに、今は――まるで、初めから誰もいなかったかのように静まり返っている。
「おい……チャイカ……?」
呼びかける声も、空間に吸い込まれていく。反響がない。ただの無音。
倉庫の壁の隙間、かつての荷物置き場だった空間の奥――そこに、見たことのない鉄扉が開いていた。
さっきまでは、絶対になかった。
だが、なぜかそこに吸い寄せられるように、咲の足は自然と動いた。
きぃ、と鈍い音を立てて扉が開く。
その先は――植物園だった。
しかし、ただの植物園ではない。
すべての植物が、死んでいた。
枯れた木々。萎れた花弁。ひび割れた鉢。土は乾いて硬化し、緑は一切なかった。だが、明らかに“誰か”の手が加えられている形跡がある。整然と並べられた鉢植え、落ちていない枯葉、不自然に整った通路。まるで、死んだ植物で造られた「見せ物」のようだった。
咲は、唾を飲み込んだ。
「なんやこれ……ここ、倉庫の中ちゃうやん……」
上を見上げる。だが天井はなかった。代わりに、見渡す限りの暗い空と、よどんだ空気だけが広がっている。
気配がある。
確かに、霊的な反応がある。だが、方向が掴めない。
右からも、左からも、足元からも、頭上からも、何かが自分を見ているような気配がする。
気配が“散らばっている”。
そのどれもが、同じ温度をしていて、どれもが不気味に静かで、だが明らかに“意志”を持っていた。
「……これ、やばいやつやん……マジで……」
咲はバッグから呪符を取り出す。だが、術式を組むにも“敵の位置”がわからない。広がる気配の海の中に、ぽつりと自分ひとりが取り残されているような感覚。
《さ……き……》
再び、声がした。
今度は、すぐ近く。背後だ。
咲は反射的に振り向く――誰もいない。
ただ、枯れ果てたランの鉢がひとつ、ひとりでにガクン、と倒れた。
「っ、くそっ……チャイカっ!? ……誰かおらんのかっ!」
声を張るが、やはり返事はない。
この植物園は、現実と地続きではない。どこか別の空間――霊の作り出した“結界”の中。そう、咲には理解できた。
「やば……ここ、うちひとりやんけ……」
笑いそうになるのを、ぐっと堪えた。
霊に囲まれているのに、姿は見えず、中心もない。恐怖だけが、どこまでも静かに満ちていく。
足音ひとつ、葉擦れの音ひとつさえ、何かの意志に聞こえる。
それでも――
咲は、呪符を握りしめながら、前に進んだ。
コツ、コツ、コツ――。
枯れた土を踏みしめる音が、妙に大きく響く。笹木咲は、唇を噛みながら静かに歩を進めていた。周囲には、変わらず枯れ果てた植物たち。枝の折れた盆栽、色を失ったシダ、干からびた花壇。どれも死んだままの姿を保っている。
咲は、すでに何度目かの曲がり角に差し掛かっていた。
「……あれ?」
唐突に、首をかしげる。
目の前に見覚えのあるサボテンの鉢植えがあった。
ひときわ大きく、棘がすべて下向きに曲がっている、奇妙な形のサボテン。確か、さっきも見た気がする。
いや、さっきというより……さっきから、何度も。
「……いやいや、うそやろ……うち、さっきこっちには行ってへんやろ?」
不安を打ち消すように呟くが、言葉にすることで逆に疑念が深くなる。
もう一度、少し早歩きで道を引き返す。途中、枯れたベンチ、壊れかけた散水栓、倒れた鉢植えが視界をよぎる。
だが、それらすべてに――見覚えが、ある。
「うわ……マジか……これ、ループしてんの?」
背筋に、ぴたりと冷たい汗が流れる。
歩いても歩いても同じ景色。抜け出せない。植物園はただ広大なのではなく、咲を“閉じ込めている”。空間そのものが歪んでいる。意識を反らしていた事実が、確信に変わった。
「……っくそ、マジで椎名の言う通りや。こういうとこ来るもんちゃうって……」
それでも、どこか抜けられる道があるはずだと、咲は歩き続ける。だが今度は、別の異変に気づく。
――あの道、なぜか通っていない。
正面に、朽ちたアーチ状の入り口が見える。扉はないが、黒ずんだ木材が不気味に立ち尽くしている。行こうとすれば行けるのに、なぜか足が自然と別の方向に向いてしまう。
「あれ……?」
今度は別の分かれ道。枯葉の積もる、薄暗い通路。その先にはひび割れたガラス温室がある。近づこうとした瞬間、ぞわっと全身の肌が粟立った。
――絶対、あそこは通りたくない。
理由がわからない。ただ本能が、あの先に“なにか”があると告げている。得体の知れない、見たこともない“なにか”が、奥で静かにこちらを見つめている感覚。
「……おかしい。おかしいおかしいおかしい……!」
笹木は歩きながら、自然と目を逸らしている道がいくつもあることに気づいた。
どの道にも“行ける”。足は動く。けれど身体が――脳が――勝手に、回避している。まるで何かに操られるように、怖い場所を避けて、同じルートばかりを辿っている。
「うち……これ、自分で回ってるんちゃう……“回されてる”んや……」
恐怖が、喉の奥を這い上がるようにこみ上げた。
気配が、じわじわと濃くなる。けれど、それは一点に集まることはなく、ただ周囲を取り囲むように散らばっていた。まるで、無数の“目”が、自分を観察しているかのように。
気づけば、足が震えていた。
「……やば……ほんまに、やばい……」
声が、かすれる。
ふと、視界の端――ガラス温室の入り口の影が“動いた”。
誰か、いる――。
いや、“誰か”ではない。霊なのか、人なのかすら、わからない“何か”が、ほんの一瞬、咲の存在に気づいたように、そっと首を傾けた。
それだけで、咲の心臓が跳ね上がる。
呪符を握る手に、じっとりと汗が滲んだ。けれど術式を組むにも、対象が見えない。気配はあるのに、どこにも“敵”がいない。
そして、もう一つの恐怖が咲を襲う。
――あの耳長ゴリラ…どこへ行った?
ここに来てから、咲はずっと“ひとり”だった。
この植物園には、本当に自分しかいないのか?
それとも、もう――他の誰かが、ずっとここにいるのか?
足音が、乾いた枯葉の上で虚しく鳴る。
どれだけ歩いても、どこにも行けない。気がつけばまた、あのサボテンの前。ひしゃげた花壇の前。朽ちたアーチの下。
ぐるぐると、空間をなぞるように。
咲は、ついに足を止めた。
「……無理や、出られへんやん、これ……」
自分がどこをどう歩いてきたのかすら、もう思い出せない。頭がぼうっとする。息が浅くなる。軽い吐き気が、喉の奥を這い上がってくる。
そのときだった。
視界の端で、何かが動いた。
咲は反射的に振り返る――そこに、数羽の鳩がいた。