「……咲さん?」
あくまで無関係なふりをしつつ、できるだけそちらを見ないようにすり足で厨房に戻ろうとした――その時だった。
カラン、と匙が器に触れる音と共に呼び止められた。
咲が振り返ると、先ほど和菓子を注文したばかりの菜塚が、にこやかに手を挙げていた。
「こちらのお店、“店員さんと怪談が語れる”と伺ったのですが……」
「……あ、えっ……あ、はい。そ、そういうコーナーもあります……が……」
「でしたら、咲さん。ひとつ、お話していただけませんか?」
菜塚の笑みは柔らかかった。だがその瞳は、まっすぐに咲を見つめている。
それは“注文”ではなく、“誘い”だった。
(や、やっぱ来るんやな、こういう流れ……)
咲は、席に戻ってきた菜塚の視線を感じながら、空になった抹茶ラテのカップを下げるフリをして一瞬だけ逃げようとしたが――
「咲さん、怖いお話……聞かせていただけるかしら?」
にこり、と柔らかく微笑まれた瞬間、逃げ道は完全に塞がれていた。
「う、うわ~……やっぱそうなるんですね……」
咲は諦めたように椅子を引き、席の横に控えた。
「じゃ、じゃあ……用意してたやつ、一応、話しますけど……まぁ、文化祭用のやつなんで、あんまり期待せんとってくださいね……」
ふぅ、と一つ息を吐いてから、咲は口を開いた。
「……昔、山奥のとある神社には、雨が降らん年が続いたとき、“年に一度だけ、巫女の血を祭壇に捧げる”っていう雨乞いの儀式があったらしいです」
菜塚と唯奈は静かに耳を傾けている。
「その神社では、村長の家から代々“巫女”を出す決まりがあって。けど、ある代で――村長の家に、女の子が生まれへんかったんです」
咲は、少しだけ間を置いた。
「……ほんで村長は、しゃあなしに、自分の息子を“女の子として”育てて、“巫女”にしたらしいんですわ」
菜塚と唯奈が、目を見開くわけでもなく、ただ――ちらりと、視線を伏せる。
お互いに顔を見合わせることもなく、まるで話の続きを知っているような気まずさが、その表情ににじんだ。
咲は、それを見逃さなかった。
「……その子は、巫女として何年も文句ひとつ言わずに育ったんですけど、ある日……自分の身体のことを意識するようになった。
“自分は本当に“神様に選ばれた存在”なんやろか?”って、毎日、祭壇に問いかけるようになったそうです」
再び沈黙。
菜塚は抹茶のカップに視線を落とし、唯奈は指先で膝の上の懐紙をそっと撫でていた。
咲は、喉に何かが引っかかったような感覚を覚えた。
――あっ。やってもうた。
話している途中で、椎名家のことが頭をよぎった。
当主の血、宿命、女としての“巫女の器”……代々続く霊的な伝統。
そして、椎名唯華。
――あいつの姿が、鮮明によみがえる。
「……あー……うん……」
言葉に詰まる。
そしてぼそっと、目を逸らしながらつぶやいた。
「……なんか、すまん」
その声は、先ほどまでの“文化祭のノリ”から外れた、本物の気遣いだった。
菜塚は一瞬、驚いたように咲を見つめ――やがて、ゆっくりと首を横に振った。
「……いいえ。むしろ、“聞かせていただいて、良かった”わ」
唯奈も、小さく微笑みながら、同じようにうなずいた。
「あなたは……やっぱり、咲ちゃんね」
その言葉の意味は、まだ咲には少し難しかったが――どこか、胸が温かくなるような、不思議な気持ちになっていた。
静かな和風の空間に、再び笹木咲の声がゆっくりと響いた。
席に着いた菜塚と唯奈は、お茶の香りの残る湯気の向こうで、黙って咲の続きを待っていた。
咲は一度、目を伏せて小さく息を吸い、そして物語の続きを語り出す。
「……それで、その“巫女”は、ついに儀式当日を迎えます。
村人たちは、長く降らなかった雨を願って、祭壇の前に集まったそうです」
客席のどこかで、ひそひそと怪談を語る声が聞こえていたが、この席の空気はどこか、別の世界に切り離されたように澄んでいた。
「巫女は、祭壇に自身の血を捧げて祈りました。
すると、その夜から、十日近くも雨が降り続いたそうです。
干からびかけていた田んぼも、川も、すっかり潤って――村人たちはみんな、“奇跡が起きた”と喜んだそうです」
咲はそこで一度言葉を切り、抹茶ラテの空のカップを指先で回した。
「ほんで、巫女も当然“神に選ばれた存在”として、もてなされる……はずやったんですけどな。
なんか、おかしいことになってったんです」
菜塚が、微かに目を細める。
「どう“おかしかった”のかしら?」
咲はゆっくりと続きを話した。
「……儀式の翌日から、巫女は、装束を“着たくない”って言い出したんです。
今までは普通に着てたはずやのに、“恥ずかしい”“似合わない”って言って、頑なに拒むようになった。
それだけやない。髪を留めてた飾りも、香り袋も、女の子らしい持ち物をぜんぶ、燃やしてまうようになったって」
「……まるで、別人になったかのようね」
唯奈がぽつりと漏らすと、咲は少しだけ頷いた。
「村では、“巫女が祟られたんや”とか、“儀式で何かが憑いた”とか……いろんな噂が立ったらしいです。
けど、その本人は、何を聞いてもこう言うんやって。――“自分は、最初から男や”って。
“巫女なんてしたこともないし、女装なんて意味がわからない”って、平然と」
その話の締めに近づく頃、菜塚は静かに湯呑を置いた。
そして、ふと意味深な笑みを浮かべてつぶやく。
「……前の“巫女”と、後の“巫女”――どちらが“本物”だったのかしらね?」
咲は、それにすぐさま返すことなく、一瞬だけ目を伏せた。
そして、ぽつりと口を開く。
「……それが、この話の……一番、怖いところですから」
その瞬間だけ、店内の空気が一段と冷え込んだような気がした。
菜塚も唯奈も、そして近くの席にいた他の来客すら、一瞬、言葉を飲んだように静まる。
咲はゆっくり立ち上がり、いつものテンションに戻そうとするように軽く手を合わせた。
「……ま、オチもない話ですけどね。文化祭の雰囲気には、ちょうどええやろ」
怪談の余韻がじんわりと残る中で、椎名菜塚はふと思い出したように首を傾げた。
「……そういえば、唯華は? 今日は一緒じゃなかったのかしら?」
その問いに、笹木咲は「ん?」と間の抜けた返事をしつつ、ぽりぽりと後頭部を掻いた。
「……あー、たしか金券貼りの担当やったはずやねんけど……」
軽く辺りを見回すも、それらしい姿は見当たらない。
「サボってへんよな……あいつ、またどっかの陰に潜んでんちゃうやろな……」
そうぼやきながら店内を一巡した咲は、ふと厨房の奥に目を向けた。
カーテンの隙間からちらりと覗くと、そこには――
口をぽかんと開けて、よだれ垂らして寝ている椎名唯華の姿。
「……は?」
凍りつく咲の表情。二度見、三度見しても現実は変わらなかった。
厨房の床に小さなクッションを敷き、その上で制服のままスヤスヤと横たわる唯華。
机の上には未使用の金券シールが山のように残されており、彼女の仕事の痕跡は、眠気に完全敗北した現場の無惨さを物語っていた。
「……なにしてくれとんねんコイツはああああああ!!」
がばっとカーテンを開け、咲が怒鳴りながら近づく。
「おい椎名ァ!! 客おるんやぞ!? 仕事ほっぽって爆睡てどーいう神経しとんねん、起きろやああ!!」
「……んぁ……うるさいなぁ……せっかく気持ちよく寝てたのにぃ……」
唯華は目を開けもせず、寝言のようにそう呟いた。
「反省の色ゼロかいッッッ!!」
バシッと軽く頭をはたかれて、ようやく唯華はむにゃむにゃと目を開けた。
咲の怒気を含んだ顔を見ても、まったく焦る様子はない。
「えー……だってさ、金券シール貼ってたら……いつの間にか夢の中におったっていうか……」
「そもそも、なんで床にクッション用意してんねん! 最初っから寝る気満々やないか!!」
その様子をカフェの奥から見ていた菜塚は、ふふっと口元に手を当てて笑った。
「あらあら、唯華ったら」
にこやかに娘を眺める母の顔。そこには怒りも呆れもなく、ただ微笑ましさだけがあった。
咲はその光景を横目で睨みながら、内心で小さく毒づいた。
(……甘やかすなや……!!)
むすっとしたまま、咲は厨房を出ていき、再び接客に戻っていった。
文化祭も中盤を過ぎ、午後三時を回る頃には、カフェの喧騒も少しずつ落ち着いていた。
かつては騒がしかった和風の店内も、今は和紙の提灯が静かに揺れ、涼しい風が障子越しにすっと通り抜ける。
客足がひと段落したタイミングで、笹木咲はようやく「ふぅ~~……」と長い息を吐き、厨房の奥の隅に腰を下ろした。
「……やっと、一休みできるわ……マジ、朝から立ちっぱで死ぬか思た……」
足を伸ばし、背中を壁に預けて、紙皿を手に取る。
その上には、出店でこっそり買ってきた屋台の焼きそばが、ほんのり湯気を立てていた。
「……冷めてへんの、奇跡やな……」
割り箸で軽く持ち上げると、ソースの香ばしい匂いがふわりと立ち上る。
シャキシャキしたキャベツと、ちょっと焦げた豚肉。紅しょうがの赤が、やけに鮮やかだった。
「んん~……これこれ。文化祭って言うたらやっぱ焼きそばやな……」
一口、口に運ぶ。じゅわっと広がる甘辛いソースの味に、思わずほおが緩んだ。
騒がしかった午前のラッシュ、唯華の昼寝事件、菜塚との怪談……全部ひと段落して、ようやく訪れた、自分だけの“静けさ”。
風鈴の音も聞こえない厨房の奥は、不思議と心が落ち着く場所だった。
「椎名はまたどっか行ったし……ひまちゃも多分、表でお客さんとしゃべっとるやろな……」
小さくつぶやいて、また一口。
時間の流れがゆるやかだった。
心霊も、謎の来訪者も、不思議な現象も、何もない。
ただ、屋台の焼きそばの湯気と、ちょっとくたびれた制服と、柔らかい午後の光だけが、そこにあった。
咲は箸を止めて、ふと空を見上げるように天井を眺めた。
「……文化祭って、なんやかんやでええもんやな……」
誰に言うでもなく呟いたその言葉は、静かな厨房の空気に、ふわりと溶けていった。