翌朝――文化祭二日目。
時計の針は、すでに午前11時を回っていた。
「……っは!!???」
布団を跳ね飛ばすようにして、笹木咲はベッドから飛び起きた。
「えっ、えっ、11時!? うそやろ!? 文化祭やぞ!? もう開いとるやんけぇぇぇ!!」
大急ぎでパジャマから制服に着替え、歯ブラシをくわえたまま髪を整え、トースト代わりにおにぎりを握りしめると、ランドセル――ではなく、鞄を肩にかけて家を飛び出した。
靴をつっかけるように履いて玄関を飛び出し、表に出た瞬間。
「……あれ?」
咲は思わず立ち止まった。
日差しは優しく、風は涼やか。けれど、通りを歩く人の姿は、思ったよりずっと少ない。
車の数もまばらで、近所の商店街もどこかゆったりとした空気に包まれている。
「……あー、そっか。今日は休日なんか」
カレンダー上では、土曜の文化祭の翌日、振替休日として設定された連休の中日。
学校の生徒や関係者以外、世間はすっかり“休みモード”だ。
咲はおにぎりを片手に歩きながら、ぽりっとひと口。
「……世間が休みの中で、うちだけ登校すんのって……なんか変な感じやなぁ」
制服の裾を風がふわりと揺らし、登校路を独り歩く咲。街は静かで、それが逆に“特別な一日”のような、不思議な予感を感じさせる。
(ま、今日はうちら出店ないし、遊ぶだけやけどな!)
そう思い直して足取りを早め、咲は学校へと向かっていった。
文化祭二日目――騒がしくて、ちょっぴり奇妙な一日が、また始まろうとしていた。
校門をくぐると、文化祭二日目の空気は昨日とは違っていた。出店や装飾はそのままだが、客足は少し穏やかで、ゆったりとした雰囲気が漂っている。
笹木咲は、寝坊した焦りもどこへやら、今ではスキップこそしないものの、射的やスーパーボールすくいをのぞいたり、テンションも上々だった。
「……これが文化祭の“遊ぶ側”やな……ふふん、ええ感じやん」
と、自分に言い聞かせるように校内を歩いていると――
「咲ちゃーん!」
声が聞こえた方を見ると、ひときわ明るい笑顔の本間ひまわりが、りんご飴を片手にぴょこぴょことこちらに駆け寄ってきた。
「うわっ、ひまちゃ……なにその、絵に描いたような祭り女……」
「えへへ~。美味しいよ~? 咲ちゃんも食べる?」
「いやええわ……うち、虫歯怖いねん……で、なに?」
「ん~、ちょっと一つ頼まれてほしいことがあってさ」
「……今日は勘弁。遊ぶために来たんやで? また変な依頼とか嫌やで?」
咲は即座に手を横に振って断る。だが、ひまわりはにっこり笑って、りんご飴をくるくると回しながらひとこと。
「なんか奢ってもらえるかもしれないのに?」
「……っしゃ、任せろ!!!」
即答だった。
「さすが咲ちゃん! 話が早い!」
「そりゃそうや! 祭りは財布より胃袋やろ!!」
ふたりでりんご飴をかかげて意味のわからない盛り上がりを見せたあと、ひまわりは口の端に飴を付けたまま、ぺろりと告げる。
「依頼人は囲碁将棋部の対局コーナーで待ってるって」
「囲碁将棋部!? えらい渋いとこやな……」
「ま、咲ちゃんならいけるっしょ~! 頑張って~!」
「うおおおおおっ、焼きそばのためならどこへでも行くぅぅぅ!」
叫びながら、咲は渡された教室番号のメモを手に、校舎の奥へと走っていく。
祭り気分、胃袋、そして報酬――すべてのために、今日も笹木咲は全力だった。
囲碁将棋部の教室にたどり着くと、中は思った以上に賑わっていた。机ごとに将棋盤や碁盤が並べられ、生徒も来客も入り混じって真剣に対局を楽しんでいる。
部員たちの丁寧な対応や、控えめな空気――全体的に、静かで落ち着いた雰囲気に包まれていた。
しかし、その空気の中で――ただ一人、明らかに雰囲気の異なる客がいた。
教室の最奥、窓際の席。
将棋盤を前に、背筋を正して座るその男は、フード付きの黒いパーカーを目深にかぶり、顔のほとんどが影になって見えなかった。
(……あいつだけ、将棋やってへんやん)
そう気づいた笹木は、とっさに声をかける。
「なぁ、あんた……もしかして、うちに用ある“客”か?」
フードの男はゆっくりと顔を上げた。顔の輪郭や表情は影でよく見えないが、声は落ち着いていて低い――それでいて、どこか皮肉げだった。
「……“笹木咲”ってのは、もう少し雰囲気のある人間かと思ったがな」
「は?」
「思う以上に、どこにでもいそうな奴だった。ちょっと拍子抜けだな」
咲の眉がぴくりと跳ね上がる。だがその男は、気にする素振りも見せず、ゆっくりと将棋の駒を並べ始めた。
「ま――まあ、せっかくだし。将棋でも指しながら、ゆっくり話そうか」
「いやいや、話あるならさっさとせぇや! うち、食いもん目当てで動いとんねんぞ!」
「落ち着け。将棋は会話だよ、“笹木咲”。君なら、少しはわかると思ったが……違ったかな?」
「……はぁ~~!? なに言ってんねん、こいつ……」
文句を言いながらも、咲は空いている対面の席に腰を下ろした。静まり返った囲碁将棋部の一角に、カツンと駒を打つ音が響く。
将棋盤の上で、カチリと駒が打たれる。囲碁将棋部の空気の中、他の対局のざわめきが遠くに感じられるほど、笹木咲と謎の客の前には、重い静寂が流れていた。
咲はじっとフードの奥の顔を見ようとするが、相手は視線を避けるでもなく、ただ淡々と指を動かし続けている。
(……マジで正体分からん……)
それが逆に苛立ちを呼び、咲はぽつりと口を開いた。
「……で? うちに何の用なんか知らんけど……先に聞いときたいことがあんねん」
「ふむ」
「ひまちゃんとは、どういう関係なんや。このまま話聞いても、あんた……ただの不審者やで?」
その言葉に、男は一瞬だけ動きを止めた。
だがすぐに駒を持ち直し、苦笑するように答えた。
「……その“本間ひまわり”をバイトとして雇ってる『社』の店主が俺だよ」
「は?」
「ついでに言えば――お前が追っていた団地の情報。それを提供した“情報屋”も……俺だ」
咲の表情がぴくりと動く。数秒間、目を見開いたまま、言葉を飲み込んだ。
「……はぁああ!? じゃああのメールのやり取りの相手……」
「そう。“アカウント名だけ”で相手の顔も知らず、文面だけでやり取りしてた“情報屋”だ」
将棋の駒を打ちながら、男は冷静にそう言い放つ。
「だからこそ、今お前にこうして“話がある”」
咲は顎を引き、じっとそのフードの奥を睨みつけた。
(なんやこいつ……ほんまに、全部繋がっとるやん……)
その問いに、男は次の駒を打ち終え、ようやく手を止めて――微かに笑みを浮かべた。
将棋盤の上には、いつの間にかぎっしりと駒が並び、攻防が入り乱れていた。
カチン――と、また一手。
黒いフードをかぶった謎の客は、どこか面倒くさそうに指を止めたかと思うと、ぼそっとつぶやいた。
「……40手先でお前の詰みだな」
「はぁあ!? なに、いきなりラノベみたいなこと言い出してんねん!」
咲は両手を広げて抗議するように叫んだ。
「そんなもん、やってみなきゃわからんやろ! この盤上の戦いに、“未来予知”なんか通用するかぁ!!」
「……そう思ってるうちは、勝てねえよ」
「うっさいわ!! 見とれや、ここから逆転すんのがドラマや!!」
カタンッ!
気合を入れて咲が一手を打ち込む――が。
「……」
「……」
「……詰んだか」
「うっそぉぉぉぉぉおおん!!??? はやッ!! まだ25手くらいしかやってへんやん!!」
「……ああ。お前がそういう風に打ったからな」
咲は息を荒らげ、手をぷるぷる震わせながら、顔をぐいっと寄せて無言で睨みつける。
「…………」
「……なんか文句でもあるのか」
「今、言葉が出ぇへんくらい、悔しいだけやからな……!」
ギリギリと歯ぎしりしながらも、盤上から目を逸らさない咲。
だが、将棋盤の上では、すでにすべてが終わっていた。見事な詰み。将棋盤の上で、敗北の残骸となった駒たちを見つめながら――笹木咲はようやく、深くため息をついた。
「……はぁ~……完敗や……こっちがちょっとずつ削ってたつもりが、いつの間にか全部組まれとったわ……将棋って怖……」
少しだけ肩を落としつつも、息を整えた咲は、ふと思い出したように話しかけた。
「……あんた、“社”の店主って言ってたよな」
「うん」
「……昨日、ひまちゃんの知り合いって言って来てた“銀髪の奴”のこととか解るんか?」
フードの奥で、男のまぶたがわずかに重くなる。めんどくさそうに吐き出した言葉は、やはり予想通りだった。
「……葛葉のことか」
「そんな名前やったんやな……」
咲が呟くと、男は将棋の駒を片付けながら、さらりと尋ねた。
「……で、あいつを見たとき、どう思った?」
その問いに、咲は言葉を探すように黙り――だが、意外とすぐに答えた。
「……“普通”じゃない空気がした」
そのまま、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「見た目とかやなくて、なんかこう……“人間”やないもんに近いっていうか……魂を直接、ぎゅって掴まれてるような……そういう怖さがあった」
咲の声には珍しく、茶化しも冗談もなかった。
その素直な答えに、フードの男は駒を指で弾きながら、ぽつりと返す。
「……普通の人間なんて、いないだろ」
「みんな、大なり小なり“タガ”が外れてる。それを見えんように、“どっかのネジ”で調整してるだけ。ちゃんと噛み合ってるかどうかは、本人にしかわからない」
「……」
教室のざわめきの中、咲は無言でその言葉を噛み締めた。どこか遠い場所を見つめるような、そんな瞳の奥に、少しだけ――わかる気がした。
駒を一つずつ箱に戻しながら、男がぽつりと口を開く。
「……仮に、“葛葉”を“普通じゃない”とするなら……」
「……」
「加賀美ハヤトもまた、似たような“普通じゃない人間”たちを、意図的に飼ってるはずだ」
咲の指がぴくりと止まる。
「……あんた、なんでそのこと……」
驚きが顔に浮かびかけたが、ぐっと抑えて、何も言わない。その代わり、フードの男は続けた。
「俺は何も感じない。けど――お前は、どう思う?」
咲は、一瞬だけ目を閉じた。
そして、ふと頭に浮かぶのは――
無感情に人を実験台のようにしか見ていない葉加瀬冬雪
そして―人の“壊れ方”を愉しそうに語る夜見れなの顔。
「あの二人のことを言うんなら……普通じゃないと思う」
咲の声には、真剣さがあった。
「どっちも、常識的な考え方はしてへんし……“あれが人間か?”って思うときある」
視線を伏せながら、続ける。
「正直、本能的に避けたくなる。なんか、“一緒にいたら、いつか本当に殺されそう”って思ってまうねん。恐ろしくてたまらんっていうか……」
そこまで言って――ふと、言葉を止めた。
しばらく沈黙が流れ、咲は再び顔を上げて、少しだけ苦笑した。
「……でもな」
「人に無関心なわけでもないんよ、あの二人。怖いけど、なんか“人としての芯”みたいなんが、どっかにちゃんとあんねん」
「“こういう考えもあるんやな”って……納得してる自分もおる。それに――椎名はそのうち一人には気を許してるし……うちも、結局、一緒にいてなんだかんだ楽しいんや」
その言葉に、フードの男はしばらく黙っていた。何かを確かめるように、咲をじっと見つめて――
やがて、ふっと目を細め、初めて穏やかな声で言った。
「……そう言ってくれると思ってたよ」
それは、どこか本音がこもった――優しい声だった。