囲碁将棋部の教室を後にし、咲は廊下を歩いていた。
さっきまでの奇妙な将棋対局――そして、その中で交わされた「頼みごと」は、いまだ頭の片隅でふわふわと漂っていたが、今はそれよりも手元にある文化祭の金券の方が気になって仕方がなかった。
「……わたあめか……いや、今のうちにタピオカ系を抑えとくんもアリやな……」
財布代わりにしていたポーチをちらちら見ながら、フラフラと出店エリアに向かう途中――
「……あっ!!」
向こうから歩いてくる椎名と葉加瀬の姿を見つけ、咲のテンションが一気に跳ね上がった。
「うわーーーっ!!! 椎名ーーーー!!」
「……え?」
そのまま全力で走ってきた咲は、勢いそのままに唯華に飛びつく。
「生きとる!! 生きとるで椎名!!良かったぁぁ~~~~~! 朝起きたら“スーパーの精肉コーナー”みたいにバラバラにされて、“100g200円”でパック詰めされとったらどうしようか思てたぁぁぁぁぁ!!!」
「は? 意味わからん!!」
思わずわたわたする唯華を、咲はギューーーッと抱きしめる。
「はぁぁ……ほんまよかった……内臓もちゃんと入っとるっぽいし、目も生きとる……よしよし……」
「暑苦しいわ!!」
唯華は本気で迷惑そうな顔をしながら、咲の腕からじりじりと離脱を試みる。
「やめろ! ベタベタすんなや!」
「いや、確認せんと落ち着かんかったんやって! 絶対解体されとると思てたんやで!? 臓器とか分別されてな!」
「誰の仕業やと思っとんねん……」
そのやり取りを、隣で葉加瀬が冷たい視線でじっと見ていた。
「うるさい……」
「なんや、解体犯の張本人やないか」
「冤罪すぎるわ」
そんな風にワイワイしながら、再会のテンションが妙な方向に暴走していた。でも、咲の心の中にはちゃんと、“本当に無事でよかった”という安堵が、確かにあった。
唯華にしがみついていた笹木の手をなんとか振りほどいた椎名唯華は、ほこりでも払うように制服の袖をパンパンと叩いた。
「ったく……ほんま暑苦しいねん、咲は……」
そして、ふいに表情を切り替え、笹木に向かって――
「あかんで咲! “解体犯”とか言うたら、葉加瀬傷つくやろ!」
「え?」
唯華はわざとらしく目に涙を浮かべるような顔をして、葉加瀬の肩に寄り添った。
「葉加瀬……あてぃしのこと……お母さんやと思ってもええからな……!」
「いやいやいやいやいや!!?」
咲が全力でツッコむと、唯華は鼻をすするフリをしながら「母性出してんねん」とか小声で言っている。
「なんやその急な母親ムーブ! お前の母性、唐突すぎんねん! ていうか葉加瀬、普通に嫌がってへんか!?」
実際、寄りかかられた葉加瀬はやや眉をひそめて、バランスを崩しそうになっていた。
「……近い。重い。やめて」
「やっぱりやないか!!」
咲は呆れ顔でツッコミつつも、ふと表情を真剣にして唯華と葉加瀬を交互に見た。
「……いや待てよ……もしかして……昨晩、洗脳の実験台にでもされたんちゃうん!?」
「は?」
「葉加瀬の家で、“脳波の共鳴実験”とか“意識の転写”とかやられて――唯華、あんたまさか今、別人格に切り替わってるとか!?」
「そっちの妄想の方が怖いわ!!」
唯華が突っ込むより先に、葉加瀬が、やや無表情でぽつりと呟いた。
「……一晩でそんなことできるわけないでしょ。技術的に」
「そ、そっか……そら、そうやんな……」
「――でも、面白そうだけどね」
「いやそこ! そこやねん!! なんでその発想になるねん!」
「洗脳のメカニズム、まだ解明されてない部分多いし……人間の自我の書き換えって、本当は誰にでも可能かもしれないし……」
淡々と語りながら、どこか楽しそうな顔を見せる葉加瀬に、咲は戦慄したようにじりじりと距離を取った。
「……やっぱうち、椎名がバラバラになってへんか確認しといて正解やったわ……」
わちゃわちゃと賑やかな廊下の端。
文化祭の二日目、少しだけ猟奇的な友情が、確かにそこにあった。
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午後の文化祭で賑わう校舎の喧騒から、遠く離れた人気のない中庭の一角。風がざわりと木々を揺らし、秋の光が差し込む中、ましろは一人、目を閉じて静かに立っていた。
その肌は白く、呼吸もかすか。まるでこの場所に溶け込みそうな静けさで、彼は“あの夢”の記憶を、思い起こしていた。
――夢の中。自分は、見覚えのある部屋に立っていた。
「祓室(はらえしつ)」。
ましろがかつて使っていた、霊的な力を静め、封じ、己を保つための特別な空間。
だが、その部屋はどこかおかしかった。見た目こそ似ているが――すべてが反転していた。
本来なら北向きに置かれている結界の軸が南にあり、祭具の配置も左右が逆。自分のものではない、妙に整った筆記具や、淡い花柄の布物が乱雑に放られていて……それらは明らかに、女性的だった。
(……これは、“自分の”祓室じゃない……)
そう直感したとき――
――ガリッ……
ふいに、畳をひっかくような音が響いた。視線を向けた先にいたのは――黒い影。
人の形をしているようで、していない。
かろうじて“目”のようなものがいくつも浮かび、こちらを睨んでいる。その身体は常にうごめいており、墨の中に爪と牙が混じっているような、そんな“異形”。
ぞわりと背中をなでるような寒気。
(……なぜ、“拒まれている”?)
(……これは、誰の記憶だ? それとも、これから自分が見る未来なのか……)
夢の中で一歩踏み出そうとすると、黒い影は叫ぶように膨れ上がり、部屋全体が押し潰されるような圧に包まれた。
――そこで、目が覚めた。
現実の中庭。風が落ち葉をさらい、どこかから遠くで楽しげな笑い声が聞こえてくる。
ましろは目を開ける。その瞳は深く、何かを探るように揺れていた。
(……あの“祓室”は、一体……)
(誰の記憶を、僕は見たんだ?)
人気のない中庭で、木漏れ日と風の音に包まれながら、ましろはただ静かに立ち尽くしていた。夢の残滓がまだ意識の端に絡みつくようで、瞼の裏に、あの反転した「祓室」と黒い影の姿がちらついて離れない。
そんなとき――
「……また、こんなとこで浮いてるんか、あんたは」
聞き慣れた、どこか投げやりで、でもやけに自然な声が背後から飛んできた。
振り返ると、そこには笹木咲がいた。りんご飴の袋を片手に、のそっとした足取りでましろに近づいてくる。
「……一度現れたやつの前には、現れへんんちゃうかったんか?」
咲は驚くでもなく、日常の延長のようにそう問いかけた。ましろは少し目を丸くして、それからふっと口元をほころばせた。
「……憧れの笹木さんを、一目見たくて来たんですけど……まさか、本当に会えるなんて……」
「うわ、出た。急に何言い出すねん」
咲はりんご飴の棒をくるくる回しながら、呆れたようにため息をつく。
「……人に変な攻撃して逃げた奴が、ようそんなこと言えるな」
ましろは小さく肩をすくめる。
「それはそれ、これはこれってやつで……」
咲は苦笑を漏らしながらも、ふと――さっき囲碁将棋部で言った自分の言葉を思い出す。
「“こういう考えもあるんやな”って……納得してる自分もおる」
その言葉が胸に蘇り、咲はましろに視線を戻した。
「……まあ、うちもようやくわかってきた気ぃするけどな」
「?」
「あんたが、なかなか“臆病で人見知りさん”なことだけは、わかっとるからな」
咲はニッと笑って、りんご飴をひとくちかじる。
「うちの周り、変なやつばっかやけど……あんたも、結局その枠に収まっとるってことや」
「……誉め言葉……ですよね?」
「ギリギリ、そう思っとき」
静かな木漏れ日の中、ましろは笹木の前に一歩近づくと、ポケットから小さなものを取り出した。
カチャリ――と微かな金属音が響き、鍵が二つついたキーチェーンと、淡い青みがかった護符が手のひらに現れる。
「……“すべては隠すな”って、あのとき笹木さんに言われたからね」
ましろはそれを、まるでお守りを渡すかのように、ゆっくりと笹木に差し出した。
笹木は一瞬きょとんとしながら、目の前の二つの品を受け取って――そのまま、ずるっと肩を落とす。
「……また面倒頼まれるんか……」
その言葉に、ましろはふわっと笑って首を横に振った。
「ううん、今回は違う。“託す”だけ」
笹木は少し警戒しつつ、手のひらの護符とキーチェーンを見つめる。護符は、笹木自身が持っているものとは違い、色が薄く、どこか儚げな印象を受ける。
「その護符には、僕の力を入れてある。使い方にもよるけど……除霊に使えるようにしてあるんだ」
「マジで?」
「ただ……術式を自分で組んだのは初めてだから、ちょっと危ないかも」
「おい、それめっちゃ不安なんやけど!?」
「……うまくいけば、ちゃんと守ってくれるはず。たぶん」
ましろのあいかわらず淡々とした口調に、咲はちょっと顔をしかめながらも、護符をそっとポケットにしまった。
そして、もう一つのキーチェーン。
そこには二つの鍵がついているが、片方は古びており、もう片方はどこか新品に近いような、奇妙な対比があった。
「これ……何の鍵なんや?」
「一つは、僕がかつて使っていた“祓室”のもの」
「……はぁ。あの、霊的な部屋んとこの?」
ましろは頷き、続ける。
「でも――もう一つの鍵は、僕にもわからない。このキーチェーンには最初から二つついてたけど、どこにも説明はなかった。椎名神社のどこを探しても、この鍵に合う鍵穴は見つからないんだ」
「……なにそれ、めっちゃ不気味やん」
「ね。僕もずっと気になってる。」
ましろはポケットに手を戻し、どこか遠くを見つめながら呟いた。
「……この鍵の持ち主が、もしかしたら……夢で見た“反転した祓室”の主かもしれないって、最近思うようになった」
笹木は護符とキーチェーンをじっと見つめる。
渡された“力”と“謎”。でも、その重みがどこか――ましろという人物を少しだけ、近く感じさせる気がした。
笹木は、ましろから受け取ったキーチェーンと護符を手にしたまま、しばらく黙っていた。やがて、ふと思い出したようにましろへと問いかける。
「……なぁ、“夢の祓室”って、どんな感じやったん?」
ましろは少し目を伏せ、静かに語り出した。
「……夢の中で、僕は“祓室”にいた。でも、それは僕が使っていた“祓室”とは違っていた」
「違ってた?」
「見た目は似てる。でも……配置がすべて反対なんだ。結界の位置も、神具も、全部左右逆。……どこかに置かれてた私物も――女性用のものばかりだった」
笹木は腕を組み、首を傾げる。
「……昔、その“祓室”って部屋を、別の人間が使ってたんちゃう?その記憶が、場所に染み付いてただけとか」
だが、ましろは首を横に振った。
「それはない。……あの祓室は、僕が幼い頃に一から作り上げた場所なんだ。誰かの残り物とかじゃない。僕自身の“基礎”がそこにある」
笹木は驚いたように眉を上げた。だがましろは、淡々とした口調で、ぽつりと続きを言った。
「……ただ、誰かが僕の祓室を知っていて、似たような場所を“別に作った”――
そんな可能性はあるかもしれない」
「それって……まさか、夢に出てきた“反転した祓室”が、どこかに実在してるってこと……?」
「物理的にあるのか、それとも記憶や霊的な構造だけの話なのかは、僕にもわからない」
そう言って、ましろは笹木の視線を避けるように、ひとつ息を吐いた。
「……とにかく、気をつけて」
それだけ残して、ましろは服の裾を整え、背を向けた。笹木は数秒その背中を見送ってから、思わず小走りで追いかける。
「おい、ましろ! ちょっと待――」
ましろが曲がった角を回り、自分もすぐにその角を曲がった――が。そこには、もう誰の姿もなかった。
「……なんなん、あいつ……」
笹木は立ち止まり、キーチェーンと護符を見下ろす。
手の中に残されたその“証”だけが、さっきまで確かにましろがここにいたことを物語っていた。