咲-saku- 【完結】   作:えいどら

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幕間 第3話:鳩

 灰色の羽をした鳩たちが、こちらを見ている。まるで、咲の姿を見定めているように、動かずにじっと。首をかしげ、黒い瞳で、静かに、ただ静かに。

 

「……あんたら……」

 

 懐かしい顔だった。学校で餌を与えていた鳩に、似ている。あのときと同じ、ややふてぶてしい面構え。

 

 けれど――こんな異常な空間に、なぜ。

 

 鳩たちは、一斉に羽ばたいた。まっすぐに、あの道へ。

 

 咲が「絶対に行きたくない」と、無意識に避け続けていた、あの朽ちた温室の前の道。

 

 「まさか……あんたら……」

 

 戸惑いながらも、咲は歩を進めた。

 

 全身の神経が、叫んでいた。

 

 やめろ。戻れ。そこに“何か”がいる。

 

 だが、鳩たちは振り返らず、そのまま道の奥へ飛び去っていく。

 

 気づけば、咲の足は動いていた。

 

 一歩、また一歩。乾いた空気が肺に入り込み、喉を焼くように熱い。背中に冷たい汗が流れ落ち、指先がじんじんと痺れる。植物園の空気が変わった。遠くで、何かが息をしている音が聞こえたような気がした。

 

 そして、足元が一段、沈んだ。

 

 そこから先は――“異質”だった。

 

 途端に、身体中に悪寒が走る。

 

 視界の色が、わずかに滲む。音が遠のく。空間の重力が変わったように、身体が妙に重い。吐く息が白くなるほど、冷たい。

 

 「……っ、なに……これ……」

 

 咲は、ようやくそれが“霊の核”だと気づいた。

 

 この植物園を構成している主。ずっと気配だけが散らばっていた理由。それは、こいつが空間そのものに“成っていた”からだ。

 

 「やっと……見つけた……ってことかいな……」

 

 恐怖に震える声を押し殺しながら、咲はゆっくりと、制服の内ポケットから呪符を取り出した。

 

 いつもなら、これを展開して、手順通りに術式を唱えればいい。

 

 ――なのに。

 

 咲の手は、震えていた。

 

 がたがたと、止まらない。手のひらに貼り付くような汗。指が呪符を滑らせそうになる。胸の奥が痛むほど速く脈を打ち、息が、うまく吸えない。

 

 「……う、そやろ……なんで……なんでこんな……」

 

 立っていられない。膝が笑い始める。呼吸が浅くなる。吐き気が込み上げ、視界が揺らぐ。

 

 “恐怖”だった。

 

 今までに感じたことのない、根源的な恐怖。肌ではなく、内臓で感じる。魂そのものを押し潰されるような圧力。言葉も術式も、すべてを忘れてしまいそうな、巨大な“存在”。

 

 「や、やらな……」

 

 かろうじてそう言いながらも、手は震えたまま、呪符を持ち上げられない。

 

 “それ”は、気づいている。咲の存在に、咲の恐怖に、そして――咲が“見えている”ことに。

 

 呪符が、じりじりと熱を帯びていく。けれど、それを投げるための力が――

 

 もう自分のものじゃないみたいだった。寒さではなく、恐怖が全身を支配していた。目の前にある“それ”は、姿こそ見えないが、確かにいた。形がなくても、わかる。絶対に――目を合わせてはいけない何か。

 

 「……うち……動けへん……」

 

 膝が地につき、呪符がふらふらと揺れる。

 

 その瞬間。

 

 す、と風が通り抜けた。

 

 風などなかったこの空間に、突然差し込んできた霊力の気配。張り詰めた空気が一瞬で弾け飛ぶ。冷たい空気に、ぴしりと割れるような霊圧が重なる。

 

 「……ったく、アンタはほんま……しょうがないな」

 

 聞き慣れた声だった。

 

 ゆっくりと咲の腕から呪符を掴み取り、咲を守るように前に立つその少女。

 

 白い装束の袖を風に揺らしながら、目の前の“それ”と正面から対峙していた。

 

 「ほら……そこ、うちの友達ビビらせるとか、ちょーし乗りすぎやで」

 

 その声には、怒りでも怯えでもなく、ただ冷えきった静けさがあった。

 

 椎名は構えもせず、呪符を軽く指で挟むと、ぴたりと“それ”に向けて放った。

 

 術式が、空気を裂いた。

 

 ぼうっと赤く光る呪符が宙に浮かび、瞬間、辺り一面が白く染まる。時間すら止まったような無音の中、空間が軋むような音を立て、“それ”の気配が一気に萎んだ。

 

 耳鳴りがするほどの霊圧のうねりが、椎名の掌から放たれる。

 

 息を吐きながら、椎名が片膝をついた。すでに“それ”は霧散していた。

 

 植物園は、音もなく崩れるように色を失い、視界がゆがみ、気づけば――咲は椎名とともに、元の廃工場に立っていた。

 

 

 

鉄と埃の匂いが、現実の空気を思い出させる。

 

 重たい呼吸を整えていた咲の前に、チャイカが手をひらひらと振りながら近づいてきた。

 

 「おーい、やっと戻ってきたか~。ずっと探してたんだぞ?」

 

 「……チャイカ……」

 

 咲はようやく言葉を取り戻し、ふらふらと身体を起こした。

 

 「おいおい咲ちゃん、顔まっしろじゃないの。どうかしたの? もしかして、熱でも出た?」

 

 「……なんか、変な植物園……入って、霊に囲まれて……で、鳩が来て、うち、ヤバいとこ行ってもうて……」

 

 その言葉に、椎名とチャイカが顔を見合わせた。

 

 「鳩は、まぁ……あんたにはよくなついてるけどな」

 

 チャイカがふむ、と頷きながら腕を組んだ。

 

  「……でもなんだ。鳩が導いた~とか、温室の入り口に誰かいた~とか……それって、咲ちゃんもしかして……」

 

 「ん?」

 

 「……ちょっと霊に憑かれて、熱でフワっ!となっちゃってたんじゃないの?」

 

 「ちょ、おま、なにそれ失礼やな!! マジやって! ほんまに、鳩がな、うちの目の前で!」

 

 「笹木が鳩に懐かれてるのは、いまさらやろ……」

 

 唯華は、ふっと笑ってそっぽを向く。チャイカも同じく、口元に微妙な笑みを浮かべていた。

 

 「まま、でも無事ならよかったわ。てか笹木、ほんまにあんなバケモン除霊しようとしてたん!? ようやるわ。」

 

 「なんなんこいつ!! うちはマジで……椎名が来んかったら終わってた……」

 

 「はん、そりゃそうやろ」

 

 椎名がポケットに手を突っ込みながら、軽く言い捨てた。咲はぷいとそっぽを向いたが、その頬はほんのり赤い。

 

 見上げた夜空には、もう霊の気配はなかった。ただ、どこからか一羽の鳩が、静かに飛んでいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

夜の空を、灰色の鳩が一羽、音もなく飛んでいた。

 

 既に町の明かりは遥か彼方。工業地帯を越え、人気のない廃道を抜け、翼を休めることなくただ真っすぐに――まるで何かに導かれるように。

 

 やがて、朽ち果てた鉄柵が見えてきた。

 

 そこは、かつて子供たちの歓声が響いていたであろう遊園地の廃墟。観覧車は歯車を剥き出しにして止まり、メリーゴーランドは半ば地面に沈み、サビに覆われた鉄骨たちが不自然な影を落としている。

 

 誰もいないはずのその場所。

 

 だが、ただひとり――その中心、崩れたティーカップの座席に腰掛けている少女の姿があった。

 

 黒いローブに身を包み、顔の半分が深いフードの影に隠れている。長く艶やかな黒髪が肩に垂れ、赤い瞳が月光に淡く揺らめいている。彼女の周囲には、まるで自然に集まったかのように、数羽、いや数十羽の鳥たちが静かに止まっていた。

 

 鴉、フクロウ、烏骨鶏、カナリア、そしてどこかで見覚えのある灰色の鳩――。

 

 その鳩が、少女の腕にそっと舞い降りた。

 

 彼女は、微笑んだ。

 

 「うふふ……おかえり、鳩ちゃん。今回はけっこう時間かかったねぇ?」

 

 声はどこか舌足らずで、しかし芯のある、異様に耳に残る声音だった。

 

 鳩は、静かに羽を揺らしながら、まるで言葉を話すかのように首を傾ける。その動きひとつひとつを、少女はじっと見つめていた。

 

 「うんうん、うん。……えぇ? そうなの? え、笹木咲ちゃん、泣きそうになってたの? ちょっと見たかったかも~……」

 

 くすっと小さく笑った。

 

 彼女にとって、鳥の言葉は“感覚”ではなく“情報”として伝わるものだった。鳩が見たもの、聞いたもの、そして“感じた恐怖”すらも、すべて読み取れる。

 

 「へぇ……椎名唯華ちゃんが間に合ったんだ? すご~い……ちゃんと仕留めたんだね、核持ちの霊。やっぱりあの子、痛い思いしててもやっちゃうんだ……そゆとこ、好きだなぁ」

 

 ローブの裾が、風もないのにふわりと揺れた。

 

 「でもさぁ……どうして咲ちゃんだったの? 霊は咲ちゃんに憑くようなタイプじゃないのに……ん? 誘われた?」

 

 少女は、小首を傾げる。

 

 フードの影から覗く瞳は笑っていたが、どこか体温のない色をしていた。

 

 「ふぅん……おもしろい。……ねぇ、鳩ちゃん……それってつまりさ、誰かが“咲ちゃんを試した”ってことじゃない?」

 

 彼女の膝元で、別の鴉がカアと一声鳴く。れなはそれに応えるように、笑いながら目を細めた。

 

 「人間ってさ、ほんと弱いのに、すぐ無理しちゃうよね。なんでかな? あ、でも、壊れる瞬間ってキレイだから、見ちゃうとクセになるよね。わかるわかる」

 

 月明かりの中、少女の周囲に集う鳥たちは、まるでひとつの意思を持って、静かにその姿を見つめていた。

 

 「じゃあさ――次は、どこに飛ばす?」

 

 少女の声に応えるように、鳩がひとつ羽ばたいた。

 

 夜の風が、止まった遊園地をかすかに撫でる。

 

 周囲にいた鳥たちが、ざわざわと羽音を立て始めた。彼らはすでに、次の“気配”を感じ取っていた。れなはその全てを、ただ楽しげに受け止める。

 

 「うん……次もきっと、おもしろいよ」

 

 そして彼女は、ひとりごとのように囁いた。

 

 「――“見てる”の、私だけじゃないしねっ」

 

 誰に語りかけたのかもわからない言葉が、錆びた遊園地に溶けていく。

 

 灰色の鳩が、再び翼を広げて夜空へと飛び立った。

 

 その目はまっすぐに、また別の誰かを見つめているようだった。

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