深夜、笹木の部屋――。
パソコンの青白い光が暗い室内をぼんやり照らし、笹木は座椅子に深く腰を沈めながら、(……ちょっと早い気もするけどな……)と内心ぼやきつつ、カメラの前に顔を寄せた。
「社」のホームページにアクセスし、データベースのロックフォルダを開くため、虹彩認証を起動する。
ピッ――。
電子音が鳴り、フォルダが開かれた。
「……よっしゃ」
笹木は手を鳴らし、まず興味本位で「天下無双」のデータを検索する。
(やっぱ、東京に住んでる、くらいしか……)
ぱらぱらと流れる情報の中、詳細は何一つない。
しかし――完全な空白というわけでもなかった。
(ん……これ……)
30年前、まだ小学生だった「社」の店長が、初めて天下無双に依頼を受けた際の――拙い電話記録が残されていた。
笹木は音声ファイルを再生してみる。
――加工された音声。声質は機械的で、抑揚が薄く、冷たい響き。
(……ん?)
笹木は眉を寄せる。
(……なんか、メールの文章から伝わる雰囲気と、若干違う気がする……)
メールでは、時折柔らかい言葉選びや、冗談めいた言い回しも感じ取れたのに――音声はそれに比べ、無機質すぎる。
(……時が経って、人柄が変わったのか?それとも――)
笹木は頬杖をつきながら、眉をひそめ、思考を巡らせた。
「……さて、次は潮留のやつか」
笹木は体を伸ばし、パソコンの前に座り直して、潮留あずさのデータを開く。
画面には、学術論文の掲載記録、
研究室の発表内容、
最近の講演会の議事録――
さらに、プライベートな情報まで、まるで潮留本人が書き起こしたかのような、精密なデータがずらりと並んでいた。
「……これを確かに葛葉が調べてたと思うと――セクハラで狙われてもおかしくないか」
冗談めかして笑い、肩を軽く揺らしながらページをめくる。
だが――
しばらく読み進めたところで、笹木の指がふっと止まった。
(……ん?)
そこには、かつてテレビ局の局長が残したとされる、古いメモ帳のデータが記録されていた。
内容はこうだ。
『潮留教授、産後数か月~数年にわたり体調不良。食欲不振、過労、研究活動の休止。精神科受診、診断書、複数回。原因不明の体調悪化――』
(……あの時期って……)
笹木の脳裏に、うっすらと記憶が蘇る。
(……そういえば、昔見たな。
潮留の息子が生まれて、しばらくの時期……
あの人、表に出てこんかったよな……)
最初は「仮病でもひいてたんか」と疑いかけた。
だが――
画面には精神科医の処方箋や、複数の診断書のスキャンデータまで添付されていた。
(……これ……生々しすぎて、仮病とか、そういう話やないやろ……)
笹木は一気に背筋が冷たくなり、頬に触れた手がじわりと汗ばんだ。
モニターの前で、
何かを察したように、
彼女の笑顔はすっかり消え去っていた。
パソコンのスクロールバーをゆっくりと下ろしながら、
笹木は潮留あずさに関する古いインタビュー記事に目を通していた。
『高校生の頃、慕っていた先輩を交通事故で亡くした。その悲しみを乗り越え、研究に没頭し続けた――』
記事の文章は、淡々としつつも、
どこか人間らしい情緒を帯びていて。
(……へぇ、そんなことあったんや……)
笹木は思わず小さく息を吐き、
少しだけ胸が締め付けられるような寂しさを覚える。
画面には、当時の思い出話が続いていた。
『休み時間になると、
先輩が購買で買ってきたパンを一緒に食べた。
生物室でふざけ合ったり、将来の夢を語り合ったり――』
(……なんや、普通の……ほんま普通の青春やん……)
笹木は小さく笑い、そのまま次の段落へと視線を移した。
『その先輩の名前は――近藤……』
次の瞬間――画面に載った先輩の名前と、古びた白黒の写真。
その顔を見た瞬間――
「……ッ」
笹木の体から、すっと血の気が引いていった。
背中に粟立つような悪寒が走り、両手がピタリと固まり、マウスを握る指先が動かない。
(……ま、まさか……)
彼女は青ざめた顔で、画面を凝視し、ただ、息を呑むしかなかった。
放課後。新大阪第三高校の昇降口。いつもなら賑やかなはずの時間帯に、咲は、教室から一人、ふらふらとした足取りで出てきた。
昨日見た――潮留あずさのインタビュー記事。
その中にあった、「先輩」の名前と顔。
頭の奥で繰り返し浮かんでは、
(……ウソやろ……なんで……あの人が……)
消えない。
何もかもが現実味を欠き、
今日一日、授業も昼食も上の空。
返事を求められても気づかず、
まるで魂が抜けたような状態だった。
鞄を持つ手に力が入らず、通学路の風がやけに冷たく感じられる。
と、その時。
「先輩~~!」
前方から、軽やかに跳ねるように歩いてくる影があった。
銀の髪。黒のニーハイ。不思議な雰囲気をまとった少女――夜見れな。
「また暇だから、先輩の学校来ちゃったんだぁ~」
いつもの調子でにこにこと笑いかけてくる。
「……っ」
その顔を見た瞬間――ゾクリと、背筋に何かが這い上がる感覚が笹木を襲った。
(……っ)
明確な拒絶反応が、身体の奥から突き上がってくる。
喉が、言葉をせき止めた。目の奥がうずき、心臓が一瞬、妙に静かになる。
夜見の笑顔の前で、笹木はなにも言えず、ただ立ち尽くしていた。
夜見は、いつものふざけた調子をすっと引っ込め、
笹木の様子をじっと見つめたまま、真顔で問いかける。
「……どうかしたの?」
その言葉に、笹木は一瞬びくっと肩を揺らし、慌てたように顔をそらした。
「な、なんでもあらへん……」
声が少し震え、無理に笑顔を作ろうとする。
「へぇ……?」
その返しに、夜見はじわりと目を細めながら、笹木の顔にそっと手を添えた。
「……?」
柔らかく、けれどどこか温度のない指先が、笹木の頬に触れる。
「……ちょ、ま……」
夜見の紅の双眸が、真正面から覗き込んでくる。
(あ、やばい――)
そのとき、笹木の脳裏に過ったのは――夜見れなには「読心術」がある、ということだった。
「……あ、あかん……やめろや……!」
笹木は力なく手を払おうとするが、
足も手も、どこか力が入らない。
夜見の瞳は、まるで内側を覗くように深く沈み、その口元が、次第に妖しく吊り上がっていく。
「――ふうん、そうなんだぁ……」
その瞬間、夜見の声が、まるで血の気を奪うような冷たさを持ち――
瞳にはっきりと、猟奇的な光が宿っていた。
夜見は、笹木の目をじっと見つめたまま――
一瞬の沈黙の後、突如として吹き出した。
「――ぷふっ……あは、はははっ、はははははっ!!」
まるで抑えていた何かが決壊したように、
その場で肩を揺らして笑い始める。
最初は小さく、そして次第に大きく――声は甲高く、乾いた音となって通学路に響き渡る。
笹木は、身体からすべての力が抜けるように、その場にぺたんと座り込んでしまった。
「……っ」
開いた目で、ただ呆然と――目の前で笑い転げる夜見の姿を見上げる。
その姿は、いつもの不思議でおっとりとした雰囲気ではなく、
どこか――
「……まさか」
凶々しく、
「こんな形で」
冷たく、
「知ることになるとは思わなかったけど――」
笑っているはずなのに、全身が氷のように感じられた。
やがて、夜見はゆっくりと笑いを収め、口元に妖しく指を添えながら微笑んだ。
「なんかスッキリしたよ」
その声は、どこか恍惚にも似た響きを帯びている。
「今夜は、ご馳走だなぁ……」
ゾクリ。
笹木の背中を、冷たいものが這い上がる。
夜見はにやりと笑い、笹木に背を向けながら、最後にこう呟いた。
「――笹木先輩の犯人、男の方じゃないかな?だって……ねぇ」
そう意味深な言葉を残し、夜見は、闇に溶けるようにその場を立ち去っていった。
笹木は、ただそこに取り残されたまま、動けず、震える指先をじっと見つめていた。
しばらくして、ようやく震えが引き、
笹木はふらつきながら立ち上がった。
(……また、やってもうた……)
夜見の言葉、表情、笑い声――すべてが頭の中で渦巻いている。
それでも、自分が彼女を拒絶し、また傷つけてしまったのではないかという妙な罪悪感が胸の奥に残っていた。
その瞬間。
「――まだ、夜見に何か用ですかぁ?」
ひやりとした声が、すぐ後ろから聞こえた。
「ッ!!」
笹木は飛び上がるように振り返る。
そこには、先ほど別れたはずの夜見れながが、何事もなかったように微笑み立っていた。
「……っ……」
笹木は怯えたように目を見開き、しばらく言葉を発せないまま、ただ夜見の顔を凝視する。
頭の中ではまだ、あの高笑いがぐるぐるとこだまする。
だが――
夜見はふと、ふわりとした微笑みを浮かべ、優しく首を傾げながら言った。
「……近藤れなが死んで、夜見として生き返った訳じゃないですよ?」
「……へ?」
あまりにも拍子抜けするような一言に、笹木は間の抜けた声を漏らす。
夜見は小さくクスッと笑い、まるで子供をなだめるように囁いた。
「――嫌だなぁ。死者が蘇るわけないじゃないですか」
そのあまりにも明るく、何気ない調子に、笹木は思わず口を半開きにしたまま、「……え? え……?」と混乱したように戸惑うだけだった。
「う……嘘や!!」
笹木は顔を真っ赤にしながら叫んだ。動揺は隠せず、言葉は早口になり、ところどころつっかえた。
「じゃあなんで、近藤れなの顔が、お前そっくりなんや!!」
夜見は黙って微笑みながら、笹木の言葉を受け止めている。
「潮留が……! お前の後輩が、
お前のこと生き返らせるために研究とかやってたんやろ!?それで潮留も体調悪かったんやろ!?そりゃあ子育ても蘇生実験も両方やってれば、体調くらい悪くなるわ!!」
言いながら、自分でも信じきれない理屈に胸が苦しくなってくる。けれど、それしか繋がらない――そう思って必死で叫ぶ。
だが。
夜見は、笹木の叫びを静かに受け止めたあと――あっけらかんとした笑みを浮かべて、こう返した。
「そんな風だったら面白いんだけどねぇ」
「……え……?」
「現実は、理想と違って――結構薄汚れてて、つまんないよ?」
笹木は目を見開いたまま、言葉を失う。
夜見は、笹木の額にすっと手をかざしながら、まるでいたわるように囁いた。
「――笹木先輩、最近働き過ぎだから疲れてるんだよ」
その声と同時に――
「……っ――あ……!」
夜見の親指と人差し指の間から、ピッと音が鳴り、小さな青白い電流が走る。
笹木はその瞬間、体の力が一気に抜け、そのままガクリと意識を手放した。
地面に倒れかけた笹木の身体を、夜見は素早く支え、器用に背負い上げる。
「……ほんとにもう、手がかかる先輩だなぁ~」
そう呟きながら、夜見れなはふわりとした足取りで、夜の静かな通学路を歩き出した。