第6章 第1話:普通
校舎の裏手。誰も来ない芝の斜面に、笹木咲は腰を下ろしていた。
今日もまた、授業をサボって。
制服のスカートを手で軽く押さえながら、買い置きしておいたパンの端っこを指先でちぎっては、ぽい、と前に放る。
「……ほら、食べや」
少し離れた場所から、小さな影が地面を跳ねるように近づいてくる。
スズメ。ヒヨドリ。ムクドリ。
都市に住みついた、ちょっとずる賢くて、でもどこか可愛い奴ら。
笹木がパン屑をまくと、それぞれが短い鳴き声を上げながら、器用に地面をついばんでいく。
その様子を、ぼんやりと眺めていた。
「……なんや、鳥ってええな。食って、飛んで……自由やな」
ひとり言のように呟きながら、ふと、脳裏に浮かぶ顔があった。
夜見れな。
葉加瀬冬雪。
葛葉。
どこか、人間らしさから外れたような――けれど、今の笹木にとって、もっとも身近に感じる存在。
(……そういや、あいつらみんな、なんか幼い頃に“しんどいこと”あったよな)
(……うちが、もしあんな幼少期やったら……どうなってたんやろ)
鳥がひとつ、羽ばたいて枝に戻っていった。
小さな空白が、笹木の胸に風を吹かせたようだった。
……でも。
(でも今は――うちも、あいつらも、同じように学校通ってるし。笑って、ご飯食べて、ちょっと文句言って。そういう“今”を、生きとるんや)
手のひらに残ったパン屑を見つめながら、笹木は小さく笑った。
(……“普通”って、なんなんやろな)
(うちも、もう十分“普通ちゃう”やろ……)
ふと、頭の奥から、以前誰かに言われた言葉がふわりと浮かんでくる。
《笹木さんも、椎名さんも、なんかこう……フツーじゃないよね〜》
「……あー、言うとったなぁ。あの時の……誰やっけ。あれ、誰やったっけな……」
口元が自然と緩む。
鳥たちは、いつの間にかすっかりパンを食べ尽くしていた。
笹木は、ぽんぽんと手のひらを払って立ち上がる。
(……“普通”なんて言葉、あんま意味ないんやろな。今、笑えてたら、それでええか)
そう呟くと、風に揺れる前髪を指で押さえながら、ゆっくりと校舎へと歩き出した。
昼食前のチャイムが、どこか間の抜けた電子音で校内に響く。空腹の気配とともに、廊下を行き交う生徒たちの足音が重なる。
咲は、芝生の斜面からぐるりと裏手を回って、人気のない階段を上がっていた。手をポケットに突っ込み、さっきまで餌をついばんでいた鳥たちの姿をぼんやり思い出しながら。
(そろそろ戻らんとな……昼メシ取られたらかなわんし)
そう思って、廊下に足を踏み入れた、
「――動くな」
その瞬間だった。
背中に、硬い何かが押し当てられる感触。
冷たい金属のような感触と、身体をぐっと押さえつける細い腕。
「っ……な……」
全身が一瞬で強張る。
笹木は反射的に振り返ろうとするが、それすら許されないほどの、制圧された体勢。
「……お前、こないだの奴かいな……」
かすれる声で恐る恐る口に出す。
だが、背後の少女の声は、鋭く、冷たく、断定的だった。
「違う。私は“あれ”じゃない」
その声に、聞き覚えはなかった。けれど、何か決定的に“異質”なものを感じる。
そして、少女は続けた。
「“そいつら”は――私が全員、始末した」
その言葉に、背筋が凍りつく。
「伊ノ渦勝也も、私が殺した」
――空気が、一瞬で張りつめた。
笹木は、ごくりと唾を飲み込んだ。
目の前の廊下はいつも通り、遠くで誰かが笑っている声も聞こえる。
なのに、世界の一部だけが、密閉されたような静寂に包まれていた。
(なんやこれ……なんで、学校で……!?)
背中に押し付けられているもの――
それが「本物」かどうか、もう確かめる術もない。
けれど、少女の言葉に、嘘の匂いは――まるでなかった。
呼吸がうまくできない。背中に当たる金属の冷たさが、皮膚を通り越して骨まで染み込むようだった。
笹木咲は、震える声で口を開いた。
「……なんで、そんなこと……」
問いかけた声に、背後の少女はわずかな間を置いて答えた。
「それが――命令だったから」
その口調はあまりにも淡々としていて、感情の色がほとんど感じられなかった。
「私はね……あなたのこと、張ってたの」
「……」
「夜な夜な、誰かと会っては情報に一喜一憂して。
変な連中とつるんで、墓場みたいなところにも平気で入っていく。
少なくとも、“ただの高校生”じゃない」
少女の言葉は、笹木の“これまで”を見透かすようなものだった。
「……うちを……殺す気なんか……」
涙が一粒、こぼれた。
怖かった。怖くないわけがなかった。
しかし――
「……殺さないよ」
銃口が、背中から離れた。
ぴたりと押し付けられていた緊張の芯が、音もなく消える。
少女は静かに言葉を継いだ。
「あまり、変なことに手を突っ込まない方がいい」
「……」
「危ないことに、自分から首を突っ込んでいくやつのこと――私は、よく知ってるから」
その言葉を最後に、気配が、ふっと途絶えた。
笹木が振り返ったとき、そこにはもう誰もいなかった。
階段の影も、廊下の端も、風すら吹いていない。
「……消えた……?」
息を殺して耳を澄ませても、足音ひとつ、聞こえない。
笹木はその場に立ち尽くし、じわじわと背中を汗が伝うのを感じた。
喉が渇き、足が動かない。
「……こいつ……本物やん……」
本物の――殺し屋。
そう思った瞬間、ゾクリと背筋を悪寒が駆け抜けた。
もう、どこにも姿はない。
それでも、あの声と冷たさだけは、まだ背中に張りついて離れなかった。
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――ガラガラッ!
昼下がりの喫茶店「アルカナ」のドアが、派手な音を立てて開け放たれる。
「……っと、びっくりした」
カウンターでコーヒーを啜っていたチャイカが、眉をひそめながら顔を上げた。
「……身体は大事にしなさいよ、笹木。こないだ倒れたばっかなんだからさ」
「ちゃうねん!!」
入ってきた笹木咲は、もはや駆け込む勢いでカウンターに詰め寄る。
「うち、殺されかけたんよ!! 二回もや!! しかも、二回目は学校で狙われたんやで!?」
「……は?」
チャイカが片眉を跳ね上げ、カップを口元で止める。
「……また夜見に眠らせてもらいな~。変な夢見ただけやって」
「夢ちゃうっ!! マジで、背中に銃押し付けられて――」
「……え、それって!」
そのとき。奥のテーブルでスマホをいじっていた椎名唯華が、ガタンと音を立てて椅子を引いた。
「それ、ひょっとしてあいつちゃうん!? 文化祭におった、あの翡翠色の髪の制服の女!」
「え……いや、あいつは……ちゃうやろ……流石に……」
唯華はまくし立てるように前のめりになり、確信に満ちた声で続ける。
「絶対あいつや! やっぱりまだ新大阪おったんやな!」
「……椎名、落ち着けって」
笹木が慌てて手を振るが、その横で。
「……可能性は、あるかもねぇ」
静かに、けれどどこか楽しげに口を挟んだのは――夜見れなだった。
テーブルの上、パフェグラスの中のアイスをスプーンで崩しながら、赤い瞳が細められる。
「髪の色、制服、動き方――咲ちゃんが言ってた特徴、けっこう合ってるし。学校に紛れてるって考えたら、場所的にも妥当」
「……自分まで、そっち側乗るんかいな……」
笹木が肩を落とす中、夜見はひと口アイスを運びながら、ふと視線をそらした。
目の奥で、ひとつの輪郭が浮かび上がる。
文化祭のステージの客席の隅で、無表情で立ち尽くしていた、あの少女の姿。
夜見はアイスをくるくると混ぜながら、口元にだけ笑みを浮かべた。
不気味で、冷たく、けれどどこか楽しんでいるような、そんな笑み。笹木はアイスティーのグラスを指でなぞりながら、ぽつりと漏らした。
「……その子、言うてたんよ。“あまり、変なことに手を突っ込まない方がいい”って……」
店内の空気が、ふと静かになる。
それまで軽口を叩いていたチャイカも、カウンターの中で手を止め、少しだけ表情を曇らせた。
「……そりゃそうだ」
チャイカはコーヒーの香りの立ち上るマグをそっと置いて、低い声で言った。
「最近さ、“霊媒師・笹木咲”ってワードが、一人歩きしてんだよ。界隈だけじゃなくて、大人の間でもな」
「……は?」
笹木が目を丸くする間もなく、チャイカは続ける。
「普通の子なら関わらないような依頼。下手すりゃ警察沙汰になってもおかしくない案件……。咲ちゃん、知らんうちに“そういうもの”預けられてた可能性、無かったとは言い切れないよ?」
その言葉に、リビングの空気がぐっと重たくなる。
まるで、そこにいた全員が一瞬、笹木を見る目を変えたように感じられた。
そして――
「……いやちょっと待てや!!」
笹木は椅子をバンと叩いて立ち上がった。
「なんやその、全員で“しんどい子を見る目”みたいなん! うちまだ未成年やぞ!? タピオカ買うたら喜ぶ年頃やぞ!?」
必死に抗議する笹木の声に、ようやく重たい空気がほどけて、唯華がくすりと笑った。
「まま……でも、もう“天下無双”のこととか……ええねんで」
笹木がピタリと動きを止める。
「……唯華……」
「正直、あんなん探してたら、また危ないのに巻き込まれるで?
それで命狙われたりとか……あかんって、そんなの」
唯華の言葉は、普段の軽口よりずっと真っ直ぐだった。
彼女の中で、それは“心配”というより、“祈り”に近い響きを持っていた。
「……」
笹木は静かに腰を下ろし直し、スプーンでアイスをひとすくい。ひんやりした甘さが口に広がっても、胸の奥にあったものはまだ解けきらなかった。