朝の空気がまだ静かに漂う時間帯。世怜音女学院 東校舎の敷地の一角に、二つの影がそっと身を潜めていた。
「……ほんまにやるんか……」
黒い服のリボンを気にしながら、咲は茂みの陰から建物を見上げた。
目の前にそびえる東校舎は、西校舎と同じく古風で格式のある造り。
けれど、どこか異様な静けさが漂っていた。
「……で、西園さん。なんでこんなことに……?」
「うんうん、それがさ~」
横にしゃがんでいる西園チグサが、真剣な顔で小声を返す。
「世怜音女学院の東って、西と建物の広さあんまり変わんないのに、生徒数だけやけに少ないんだよね。
それでちょっと思ったの。“ちょっとだけうちらに分けてくれないかな~”って……」
「……ええ……」
笹木は呆れた顔でため息をつく。
「そんなんで忍び込んだりすんなや。
てか、“分けてくれ”って何やねん、人数をおすそ分けする制度ちゃうねんぞ」
「えー、でも同じ学校だし? 建物違うだけだし?」
チグサはいたって真剣な顔で言う。
それが逆に、笹木を困惑させる。
「ていうか、そもそも“怒られたりしない”と思うし! なんかあったら“迷子になっちゃって~☆”って言えばセーフじゃない!?」
「アホか……」
そう言いながらも、笹木の視線は東校舎の玄関へと吸い寄せられる。
敷地の奥、厚い門と緩やかな階段を抜けた先に広がる静寂。
目立った巡回もなく、人の気配もほとんどない――逆にそれが、不自然だった。
「……じゃあ、入るで」
「おっけ~!」
チグサはコソコソと先導しながら、人通りのない側廊に向かって小走りする。
そして、そっと扉を押す――
ギィィ……
予想よりも重たい音が、しんとした空気に響く。
ふたりは思わず身を縮めるが、誰かが出てくる気配はない。
「……静かすぎへん?」
「……うん、ちょっと怖いね……」
足音を殺しながら、廊下へと踏み出す。
そこには、手入れされた木造の床と、古い絵画が並ぶ重厚な空間が広がっていた。
だが、生徒の声も、教師の足音も――まるでない。
「ほんまにここ、生徒おるんか……?」
笹木は不安を押し殺しながら、チグサの背に続いて歩き始めた。
「……ああ……このへんとか、良さそうじゃない?」
チグサが小声でつぶやきながら、廊下の端にある一室のドアをそっと開けた。
キィィ――という鈍い音とともに開かれた扉の先は、
無機質な、けれどどこか落ち着いた空気に満ちた教室だった。
中には、机も椅子も何もない。
あるのは、剥がれかけた掲示板と、木の床、そして曇りガラスの窓から差し込む柔らかい光だけ。
「……ほんまに誰も使ってへんのやな……」
笹木は教室の入り口で辺りを見回しながら、慎重に足を踏み入れる。
チグサはまるで「気配」を確かめるように、壁を撫でたり、床を踏みしめたりしている。
「……それでさ」
笹木はやや呆れたように口を開いた。
「西園さんはなんでそんなに教室欲しがってんの?」
するとチグサは、迷いなく即答した。
「演劇同好会のため」
「……え?」
笹木が拍子抜けするように問い返すと、チグサは腰に手を当てて語り出す。
「うちの同好会、部員4人しかいなくてさ。
しかも“同好会”だから、西の校舎の教室、使わせてもらえないのよね~」
「少な……てか、そんな理由で東まで来たんか……」
「理由、って言ってもさ。こっち、めちゃくちゃ教室余ってるし。
それなら、正規ルートじゃなくても、“あっちに行かなくて済む場所”で練習できたらな~って」
淡々と語っているようで、その目にはどこか真剣な色が宿っていた。
「で、勝手に忍び込んでええんか」
「……まぁ、勝手に“見に来た”だけだし」
チグサは悪びれもせず笑い、壁に背中を預けた。
「でもね、ホントに“話せる人”が少ないんだよ、東の生徒って。
“いる”のは知ってるけど、ほとんど、みんな顔も名前も知らない。行事にも来ない。職員室も別。
だから、“西の人間は関わらないで”って暗黙のルール、なんとな~くあるの」
「そんなん、なんで同じ学校で……」
「うちらも不思議に思ってるよー。でも、そういうもんみたい」
静かな教室に、二人の声だけがやわらかく響いた。
やがて、窓の外から風が吹き込み、埃がひとひら舞った。
廊下の窓から差し込む光の角度が、じわじわと変わっていた。
笹木とチグサは、東校舎の奥へと足を運びながら、静まり返った空間を進む。
(……ほんまに、どこに人おんねん……)
そんな不安を抱えながらも、ふたりは廊下の突き当たり――
重たそうな扉の前で足を止めた。
札には何の表記もない。
けれど、中から漂う雰囲気に、どこか職員室っぽさを感じた。
「開けてみよか」
「せーの……」
ギィ……と、鈍い音を立てて扉が開く。
だが――
中にあったのは、雑然と並んだキャビネット、山積みの紙ファイル、書きかけの名簿。
誰もいない。机も椅子も、使われた形跡すら薄い。
「……なんやここ。物置……?」
「でも職員室っぽくない?」
笹木がキャビネットのラベルを覗き込もうとしたそのとき――
「そこ、職員室じゃなくて書庫だよ」
背後から突然、静かで冷ややかな声がした。
「――――っ!!?」
反射的に振り返った瞬間、笹木の顔が引きつった。
翡翠色のショートカット。片手には飴。
制服の上着を崩さずに着こなした少女――北小路ヒスイが、無表情のまま立っていた。
「ひ、ひぃぃぃぃぃぃぃ!!!!!???」
笹木は電流が走ったように一歩下がり、背筋を震わせる。
目の前にいるのは、銃を突きつけられた“本物の殺し屋”その人。
命の危機を感じ、全身が緊張でこわばる中――
「なんだぁ、ひすぴかぁ~」
隣からチグサの気の抜けた声が飛んできた。
「…………え?」
笹木は目を見開いてチグサを見る。
ヒスイの元に駆け寄ると、チグサは笑顔で彼女の頭をポンポン叩かれるようにしていた。
「何もこんなとこまで来なくていいのに、まーた部室探しとかしてるでしょ」
「だって、空き教室欲しいんだもん〜。また外で練習しろとか言われてて~」
「はぁ……まったくもう」
ヒスイは苦笑気味に、チグサの髪をわしゃわしゃと撫でる。
まるで、姉と妹のようなやり取りだった。
「……あんたら……知り合いなんか!?!?」
笹木は叫ぶように言うが、二人はまったく気にする様子もなく。笹木の声は、人気のない書庫に虚しく反響していた。
「――着いてきな。“天下無双”に会わせてあげる」
その一言に、咲の背筋が凍った。
ヒスイはすでに背を向けて歩き出している。軽い口調に聞こえても、そこに冗談の色はない。
笹木はその背中をしばし見つめてから、チグサの顔をちらりと見る。
「……ちょ……ええんか、うち……これ……」
(もしかして……穴掘らされて埋められるんやないやろな……
そんで“あとはよろしく”とか言われて……)
想像がどんどん悪い方へ暴走していく中、チグサは屈託のない笑顔でぽんと笹木の背中を押した。
「大丈夫だって~。ひすぴも、演劇同好会の同じ仲間だから!」
「いや、だからって信用してええもんなんかそれ……」
階段を上がる音だけが響く、無人の校舎の西側。
静まり返った廊下と、薄暗い階段室。鉄製の扉を開けて、屋上へと出た瞬間――
視界が一気に開けた。
秋の東京の空。高く澄んだ青と、うっすらと揺れる雲の筋。
その風の中――
屋上の端に、ひとりの少女が立っていた。
長めのスカート。整った制服。
胸元には赤いリボン。小柄で華奢な体に、眼鏡が印象的な整った横顔。
そして、その瞳の奥には、どこか遠くを見つめるような、冷たい光があった。
――周央サンゴ。
笹木が踏み出す前に、彼女はすでにそこにいた。
まるで笹木が来ることを知っていたかのように。
「……」
彼女は一言も発さず、ただ風になびく髪の隙間からこちらをじっと見ていた。
(この子……が、“天下無双”……?)
そう直感したのは、たぶん、空気の張り詰め方のせいだった。
ただそこに立っているだけなのに、存在感が空を裂いていた。
静寂の中、違和感だけが風に乗って笹木の胸を打った。