咲-saku- 【完結】   作:えいどら

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第6章 第7話:寿

 東京の夜。ビルの屋上にある喫茶店の片隅で、三人分のコーヒーが静かに湯気を立てていた。

 

 遠くには街の灯が瞬き、近くには誰の気配もない。カップをテーブルに戻すと、静かに風が通り抜けた。

 

 社は、その言葉をしばらく受け止めたまま、黙っていた。

 やがて、寂しそうな笑みを浮かべながら、小さく呟く。

 

 「……そうか……もう、逝っちまったのか……」

 

 その声には、明確な“喪失”の色があった。

 

 テーブルの向こうで腕を組んでいたチャイカが、怪訝そうに目を細める。

 

 「なぁ、お前とその“天下無双”って、どういう関係だったんだ?」

 

 社はしばらく沈黙し、やがて懐かしむように視線を夜の街に向けた。

 

 「……小学生のころな、俺の親友が、そいつに惚れちまったんだ。女の子でな。」

 

 チャイカと夜見が静かに耳を傾ける。

 

 「……なんでも、すっごい大事なトカゲのぬいぐるみだったらしい。

 それを、運悪く海に落としちまってな。港で遊んでたときにさ」

 

 「うわ、それはきついな」

 

 「で、どこに連絡しても宛がない。警察にも交番にも届け出はない。

 親も諦めろって言うし、本人は泣き続けるしで……俺が勝手にネットで調べて、

 なんか怪しげな連絡先に電話してみたんだ」

 

 社は苦笑まじりに言う。

 

 「そしたら、一日も経たないうちに、交番に届いてたんだよ。ぬいぐるみが」

 

 「……海に落ちたものを、一日で……?」

 

 チャイカが低く唸る。

 

 社は頷き、カップに残ったコーヒーを一口含んでから続けた。

 

 「金も払おうとしたさ。でもな、どこを探してもそいつはいない。お礼も言えねぇまま、中学生になって……高校生にもなった。当の本人はどっか遠くに行っちまったが、俺は忘れられなかったんだ」

 

 「……」

 

 「仲間を集めて、情報屋の名をたどって、“天下無双”って名を追いかけた。

 そいつの正体が誰か、何者か……ずっと気になってたままだった」

 

 遠い記憶をなぞるような口調。

 

 言葉の端々には、諦めと感謝と、ほんの少しの悔しさが滲んでいた。

 

 夜見はカップの縁を指でなぞりながら、静かに言った。

 

 「……じゃあ、“社さん”はずっと、“天下無双”に会いたかったんだね」

 

 「……ああ」

 

 空になったカップをテーブルに置きながら、目を細めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――山霧の隙間から朝の陽が差し込む頃、集落の屋根に霜がきらりと光った。

 

 その集落は、深い緑に囲まれていた。見渡す限り、鬱蒼とした杉と檜の山々。その谷間にぽつりと点在する木造の家々。藁葺き屋根もまだ残るそれらは、まるで時の流れに取り残されたかのようだった。

 

 人々は皆、和服姿。女性は紺や灰の落ち着いた色合いに身を包み、頭には控えめな布を被る。男たちは褌に羽織、若者であっても武骨な草鞋履き。通りを歩けば、朝の挨拶と共に煙の香りが鼻をくすぐった。炊事の煙、風呂の煙、焚火の煙……全てが混ざり合い、この土地特有の空気を形作っていた。

 

 その集落の中央。石段を登った先に、ひときわ目を引く社がある。

 

 人々はそこを「御座所」と呼ぶ。――龍神を祀る、古の社。

 

 そして、そこに住まうのが「主様」だった。

 

「見たか、あの御姿……」

 

「ええ……昨日、御社の奥から出てこられたのを、ちらりと……」

 

 炊事場で野菜を洗っていた巫女たちが、声を潜めながら話す。

 

 「透き通るような肌に、空のような蒼い髪……」「まるで天女みたいだったわ……」と、ため息混じりに語る姿は、ただの憧れというよりも、神話に登場する存在への畏怖に近かった。

 

「でもさ……あの目……見た?」

 

「……うん。わたし、固まっちゃった……何ていうか、見透かされてるみたいで……」

 

「誰にも心を開いておられないって話よ。代替わりしてから、もう何年になるのかしら……」

 

「巫女長様でさえ、直接お声をかけるのは月に一度って……」

 

 そんな話をしている巫女たちの後ろを、少年が薪を背負って通り過ぎた。

 

 耳に入っていたのだろう。彼は苦笑しながらぽつりと呟いた。

 

 「……“心を開かない”んじゃねぇ。“開く必要がない”んだよ、あの方にとっては」

 

 その言葉に巫女たちは一瞬きょとんとした顔を見せたが、すぐに口をつぐんでしまう。集落の者たちは皆、主様のこととなると語る言葉に慎重になる。

 

 ――あまりに“異質”だからだ。

 

 幼くして現れた少女。社の奥に姿を見せたその日、村の山道で立ち往生していた鹿の大群が、彼女の一睨みで音もなく散ったという。夜中に咆哮していた山犬が、翌朝すべて村の入り口で倒れていたともいう。病で動けなかった老婆が、主様の夢を見た翌日に起き上がった――そんな話もあった。

 

 どれも、確証のない伝承。だが、語り継がれている以上、それは「信仰」だった。

 

 「……あの方は、“龍の声”を聞けると云うわ」

 

 呟いたのは、御座所の最年長の巫女だった。

 

 囲炉裏のそばで湯を沸かしていた彼女は、誰に向けるでもなく、ぽつりと続けた。

 

 「この村に龍神信仰が根付いてから、千年以上……その中で、“声を聞いた”と証された者は、たった三人しかおらん。その最後が、今の主様だ」

 

 誰も、反論できなかった。

 

 神の代弁者にして、人の身を持たぬ者――あるいは、その身が人であってはならぬ者。

 

 だから、集落の子どもは皆、遠巻きに手を合わせる。

 

 若者たちは、深く頭を下げて目を合わせようとしない。

 

 年寄りは、どこか哀れむようなまなざしを向けては、しかし「それもまた運命」と言って微笑むのだった。

 

 そして今日も、「主様」は姿を見せぬまま、社の奥に静かに留まっていた。

 

 山の風が、社殿の屋根にかかる鈴の音を鳴らす。

 

 ――それはまるで、彼女が、見えぬ場所から人々を見つめているかのように、静かに鳴り続けていた。

 

──清冽な空気が流れる、祭壇の間。

 

柱の陰から差し込む朝の光が、香の煙と共に漂い、霊布に囲まれた空間は、まるで時の外にあるような静寂に包まれていた。

 

 厳かに膝をつく巫女の一人。頭を垂れ、鈴の緒がわずかに揺れる。

 

「……例の“祓室の鍵”を見つけた一族の者が、現れたそうです」

 

 その声は、澄んだ水のように静かに響いた。

 

 その前方、祭壇を背にして御簾の奥に座す「主様」は、物言わぬまま、淡く微笑んでいた。彼女の身に纏うのは、淡蒼の薄布を重ねた白装束。水の精のような風貌。蒼の長髪が肩に流れ、その瞳はどこか遠く、遥か彼方を見つめていた。

 

 彼女はゆっくりと片手を口元に添え、側に控える巫女頭に小さく何事かを囁いた。

 

 巫女頭は頭を下げ、立ち上がって声を発する。

 

「主様の御意……“話すことを許可する”と」

 

 伏していた巫女が顔を上げ、深く一礼する。

 

「……ありがたき幸せにございます」

 

 巫女は言葉を慎重に選びながら、続けた。

 

「東の都……“東京”にて、“鍵を持っている友人を知っている”と話す少女がいたとのことです。引き渡しを求めたのですが……どうにも、訳があるようで……」

 

 巫女頭の眉がわずかに寄った。

 

「……名前は?」

 

 巫女は少し逡巡した後、はっきりと答える。

 

「“夜見れな”……と申しておりました」

 

 その名を聞いた瞬間、祭壇の間に微かな沈黙が落ちた。

 

 巫女頭は眉をひそめ、ゆっくりと首を傾げる。

 

「……聞かぬ名だな。血統録にも記録はないはず。……何者か」

 

 視線が、主様のもとへと向けられる。だが主様は、ただ静かに目を閉じ、沈黙を保っていた。

 

 まるで、思索の霧の中に沈んでいくかのように。

 

 やがて、巫女頭は目を伏せ、再び低く呟いた。

 

「……正統なる継承の系譜に属さぬ者が、“鍵”に関わるとは……」

 

 その言葉には、薄氷のような警戒がにじんでいた。

 

 だが、その時――御簾の向こうから、かすかな衣擦れと共に、主様の声が響いた。

 

 幽かでありながら、確かな響き。

 

「……東の風が騒がしい」

 

 それだけの言葉を残し、再び静けさが戻る。

 

 巫女頭は顔を上げ、そっと巫女に向き直った。

 

「主様の御意……“東の風”の行く末を、見届けよとのこと。引き続き、その“夜見れな”という者の動向を追え」

 

「はっ」

 

 巫女は深く頭を下げ、すぐさま立ち上がり、白布をはためかせて退出していった。

 

 祭壇には、再び香の煙がたゆたう。

 

 主様の瞳は、まだ閉じられたまま――

 

 けれど、その唇は、ほんの僅かに動いていた。

 

「……夜見、れな――名は……知らず。されど……何かを知っている瞳、か」

 

 その声音は、どこか愉しげですらあった。

 

 

 

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――翌朝。

 

 東京の高級ホテルの一室。白いシーツの間から、笹木咲はぼんやりと目を覚ました。まだ眠気の残る頭をかかえながら、手探りで枕元のスマホを手に取る。

 

 「……うわ、もう8時か……」

 

 寝ぼけ眼で画面を開くと、未読の通知がひとつ。

 

 送り主は――月ノ美兎。

 

 眠気が一気に吹き飛んだ。

 

 震える指でチャットを開くと、そこには整った言葉で丁寧な提案が並んでいた。

 

 

 

 

美兎

「では、こういうのはどうでしょうか。

まだ東京にはいますよね?でしたら、一度“鍵”を渡していただけないでしょうか。」

 

「鍵を他に欲しい方の宛ては、なんとなく分かります。

恐らく、元々その“祓室”を創った方々でしょう。」

 

「私はあくまで、祓室で“決着”をつけたいだけですので、当日中にお返しします。」

 

 

 

 

 

 画面をじっと見つめたまま、咲の指が止まった。

 

 (……創った方々……? あの祓室を……?)

 

 そんな話、どこからどう調べたのか――いや、月ノ美兎ならあり得る。咲の胸にざわりとした嫌な予感が這い上がる。

 

 隣のベッドで寝返りを打った椎名唯華が、ぼやけた声でつぶやいた。

 

 「……ん~……ん……んあ……やっと霊媒師らしい仕事できるなぁ、うち……」

 

 「……」

 

 咲は聞こえないふりをして、再びスマホを見下ろす。

 

 (何と“決着”をつけるつもりなんや、美兎……)

 

 疑問を浮かべた、その瞬間。

 

 ポン、と新着メッセージが画面に現れた。

 

 

 

 

美兎

「――私自身の、“生霊”と。」

 

 

 

 

 

 咲は息を呑んだ。

 

 背筋に、ひやりとした汗が這う。

 

 「……生霊、って……」

 

 呟きは、誰にも届かず、ホテルの静寂の中に溶けていった。

 

 だがそのとき咲は確信していた。

 

 ――これは、ただの依頼や調査やない。

 

 美兎の“中”で、何かが始まっている。

 もしかしたら、もう止められないものが――。

 

――ガタン、ゴトン……。

 

 金属音を響かせながら、電車はゆっくりと揺れ続けていた。

 

 最初は、窓の外に見えるのはどこまでも似たような都会の風景だった。高層マンション、商業ビル、コンビニ、雑多な広告看板。人の喧騒と人工の色にまみれた街並み。

 

 笹木咲は座席に深く腰を下ろし、手元のスマホを見下ろしていた。だが、進行方向の変化と共に、車内の空気が徐々に変わりはじめる。

 

 気づけば乗客はまばらになり、窓の外には田畑が広がりはじめていた。

 

 「……もう、都会ちゃうな……」

 

 咲はぽつりとつぶやき、車窓の外に目を移す。

 

 広がる緑、見渡す限りの山々、ぽつりぽつりと立つ一軒家。やがて電車は、まるで山肌を這うように、細く曲がりくねった線路をきしみながら走り始める。レールの振動が座席に伝わり、咲は少し身を縮める。

 

 ――「寿(ことぶき)駅」。

 

 その名の通り、古びた駅名標が風に揺れ、咲は重いリュックを背負ってホームに降り立った。

 

 バスに揺られてさらに山奥へ。時刻表すら怪しい路線をたどり、ついに、道の尽きるような山の裾野で下車する。

 

 そこで待っていたのは――

 

「来てくださって、ありがとうございます。笹木さん」

 

 黒い和服を纏い、まるで僧侶のような落ち着きを纏う月ノ美兎だった。

 

 しかし、その目はどこか遠くを見ているようで、風に揺れる黒髪の奥に隠された疲労と覚悟が、咲にははっきりと見えた。

 

「ここが……その“祓室”に通じる場所なんやな……?」

 

 美兎は、静かに頷いた。

 

「ええ。その前に、全部……お話しますね。“生霊”のことも」

 

 境内の裏手にある、苔むした縁側に咲と美兎は腰を下ろす。蝉の声が遠く、鳥のさえずりが木々の間をすり抜ける。しばらくの沈黙ののち、美兎は口を開いた。

 

「小学生のころ、私は――動画を作るのが好きだったんです。……お父さんのカメラと、学校にあった古いパソコンで。友だちを集めて、“番組ごっこ”みたいなことをしてて」

 

 咲は黙って頷いた。

 

「でも、ある日……方向性のことで、ひどいケンカになりました。喧嘩……というか、もう、殴り合いの」

 

 笑おうとした美兎の口元が、かすかに歪む。

 

「その結果、私のチャンネルは、友達たちに“乗っ取られる”ことになりました。“みんなのもの”だったはずなのに、私だけが“悪者”になって……」

 

 咲の指が膝の上でぎゅっと力を込めた。

 

「それで……“生きてるのが嫌だ”って思ってしまったんです。……それで、“魂と肉体を切り離す呪術”を、本で見て、試したんです。冗談のつもりでした。本気じゃなかった。でも――」

 

 美兎の瞳が、まっすぐ咲を射抜いた。

 

「――“できてしまった”んです。“アイツ”が」

 

 それは美兎自身にそっくりで、けれど、どこかひび割れたような、感情の抜け落ちた存在。

 

「そいつはずっと、私の背後にいて……ときどき、私の“代わり”に何かをしてしまうんです。知らないうちに嘘をついたり、人を困らせたり、思ってもいないことを口にしたり。気づいたときには……もう友だちなんて、いませんでした」

 

 声が小さくなる。

 

「楓ちゃんと出会うまで、私は……誰とも、目を合わせられなかった」

 

 咲は小さく息を飲んだ。これまで見てきた月ノ美兎とは、まるで違う、折れてしまいそうな少女の声。

 

 「……そいつと、決着つけたいんやな」

 

 美兎は静かに頷いた。

 

「ええ。私が“私”であるために」

 

 その言葉は、朝の山気に凛と響いた。

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