――石畳の苔むした小道を、美兎と笹木は並んで歩く。
朝の光はすでに高く、木漏れ日がゆらゆらと二人の肩に降り注ぐ。蝉の声も徐々に遠のき、寺の裏山の奥――誰も踏み込まぬ領域へと足を進めていた。
その途中で、笹木がふと立ち止まる。
「……あ、そうや」
リュックの中をガサゴソと探ると、小さな封筒のようなものを取り出す。それは何枚もの紙札だった。微かに香のような匂いがする。
「ましろから貰った護符や。ウチ用ってわけやないけど……」
彼女はそれを、美兎に差し出す。
「“鍵”くれた知り合いが、くれたんや。ウチ用に調整はしてへんはずやから……多分、月ノさんでも使えると思う」
受け取った美兎は、静かにそれらを両手に包むように持ち、指先で一枚一枚をなぞるように触れた。
「……これは、笹木さんのものでは?」
「ちゃう。というか、ウチが持ってても意味ないやろ。行くんは、あんたやし」
少しだけ気恥ずかしそうに視線をそらす咲に、美兎は何かを察したように微笑み、護符をそっと懐にしまった。
「……大切に、使わせてもらいます」
そして二人は、寺の奥――山の裏手にひっそりと建てられた小さな古屋へとたどり着いた。
その佇まいは、まるで忘れ去られた過去そのものだった。瓦はひび割れ、板戸は沈黙を守るように閉ざされている。
美兎は、戸のひとつ――錆びた引き戸に手をかけた。
鍵は、かかっていない。
代わりにそこには、見覚えのある金属製の錠前。咲が渡した“鍵”が、ぴたりとはまるような構造をしていた。
美兎は静かに、ポケットからそれを取り出す。
「……未来の子供たちに向けて」
ぽつりと呟く。
――カチリ。
鍵が回り、戸が開く。
途端に、黒い風が吹き抜ける。内部は真っ暗で、明かりひとつ届かない。
それでも美兎は、一歩、また一歩と中へ足を踏み入れた。
「……待てって! 一人で行ったら危ないて!」
咄嗟に咲が後を追う。
だが、戸の向こうは、どこまでも続く闇だった。
光のない空間。重力の感覚すら曖昧で、踏みしめたはずの床も、次の瞬間には消えているかのような錯覚。
咲は必死で声をかけようとするが――声が出ない。
「……っ、美兎……っ!」
空間が揺らぐ。
目の端で、美兎の背がふわりと遠ざかるのが見えた。
「ま、……って……!」
足を踏み出した瞬間、視界がぐにゃりと歪んだ。
耳鳴り。吐き気。冷たい風が背後から吹き抜け、まるで精神そのものを引き剥がすような感覚が咲を襲った。
そして――意識が、じわりと沈んでいく。
これはただの扉じゃない。
「――これ、“祓室”や……!」
心の中でそう叫んだ瞬間、咲の視界は闇に染まり、音も、気配も、すべてが遠ざかっていった。
――日差しのまぶしい、放課後の校庭。
グラウンドの端、小さな木のベンチのそばで、数人の小学生が楽しげに集まっていた。手には大きめのハンディカム。三脚も少しガタついていて、扱うには明らかに早すぎる年頃の子どもたち。
「おーけーおーけー、今のカットもっかい撮るで!」
元気な声で指示を飛ばすのは、小学生男子――阿久津。
その横には、しっかり者の女子――倍崎が資料らしきノートを持ち、美兎と肩を並べている。
「えっと、“学校で流行ってるゲームランキング”は、まず『逆鬼』ってことでいいよね? 次に“進化型ドッジ”で――」
倍崎の言葉に、美兎がうんうんと頷く。
「うん、それでいこう! “バズる”には、ちゃんと編集でSE入れなきゃ!」
カメラの傍ら、もう一人――制服ではなく、ジャージ姿でラフに腰かけているのは、小学生の笹木咲だった。
その顔には、どこにも戸惑いや違和感はない。
「あー、ここな、ライトもっと焚いたら絶対見えやすくなるで? 校舎の影で暗なっとるし、顔が潰れてもうてるわ」
「まじ? じゃあ、ほら、阿久津~! そっちのライトもうちょい上げて!」
「あいよ!」
彼女たちは、まるでいつもこうして活動しているような自然さで、それぞれの役割をこなしていた。
カメラの位置、光量、台本の流れ。小学生とは思えないほどに段取りは整っていて、子供ながらに「自分たちの番組」を本気で作ろうとしていた。
咲は、膝を抱えてベンチに座りながら、カメラの画面をちらと覗き込む。
「うん、ええ感じや。……あ、でもその角度やと、美兎の顔がちょい逆光なるかもや」
「ほんと? ありがと、笹木ちゃん!」
にっこり笑う美兎に、咲も気取らない笑みを返す。
その仕草には、何のよそよそしさも、見知らぬ人間同士の距離感もなかった。
まるで、長年連れ添った「親友」として、何年もこの日々を積み重ねてきたかのように――
ここは、記憶の奥底。
あるいは、心の隙間に棲む「過去」の幻影。
けれど、今の笹木咲は、そのことにまったく気づいていなかった。
ここが「いつもの日常」であることに、何の疑いも持たないまま。
太陽は高く、笑い声がこだましていた。
――翌日も、青空の下。
いつものように、校舎裏の空きスペースに小学生たちが集まり、今日も動画の撮影が始まっていた。ベンチの上には三脚が立ち、阿久津がカメラの調整をしている傍ら、美兎が手書きのネタ帳を手に「次の企画」の話をしていた。
だが――
空気が、少しだけ変わったのは、そのときだった。
「なぁなぁ、昨日のことやけどさ――」
柏原が、妙に興奮気味に声をあげる。
「昨日、嫌がらせしてきたあのおばさんおったやん? あいつの家、探して特定してみようぜ! ネットに出てるかもよ?」
その一言に、何人かの子どもたちが「え、マジで?」「それ、ウケるかも!」と笑いながら頷いた。
倍崎ですら、「ちょっとヤバいけど……炎上系って今伸びてるよね」と曖昧に笑い、雰囲気はすでにその“方向”に傾きつつあった。
だが、美兎がそっと口を開いた。
「……それは、ちょっと……やりすぎじゃないかな」
声は穏やかだが、その瞳は真剣だった。
「……だって、相手は大人だよ? それに、嫌がらせだって……ただの注意だったかもしれないし……」
その隣で笹木も、眉を寄せて口を開いた。
「あのおばさんは、仕方あらへんやろ。息子さんが入院してるって話やし、それで寂しくて、声荒げただけや」
けれど、子どもたちはその言葉に耳を貸さない。
「うっわ、咲ちゃん、また正論かまし? “そういうの”つまんないんだよねー」
「美兎の動画だって、全然再生されてないじゃん。昨日のやつ、たったの“3再生”だぜ?」
「なにが“番組っぽくやる”だよ。地味なんだよ、全部」
冷たい言葉が、次々と投げつけられる。
笹木の表情が険しくなった。
「……それ、犯罪やぞ! 相手の個人情報調べて晒すって、やったら戻れへんで!!」
声が、少しだけ震えていた。けれどその真剣さは、幼いながらも確かなもので――
だがそれでも、空気は止まらなかった。
「だから何? これが“バズる”んだよ!」
「別にいいじゃん、誰も本名でやってないし!」
笹木が唇を噛んだそのとき、美兎が前に出て、そっと言葉を差し込む。
「ねえ……もしこれで、誰かが傷ついたらどうするの? “私たちの遊び”で、本当の人生が壊れたら……戻れないんだよ?」
その声は優しく、静かだった。けれど、それが逆に――
「は? また説教? “先生気取り”すんなよ!」「再生数ゼロの人が何言ってんの?」
――鋭い刃のような嘲笑が返ってきた。
空気が、決定的に裂けた。
笹木は、美兎の横で拳を握る。どこかで、見たことのある光景だった。けれど思い出せない。
ただ、胸の奥に渦巻く嫌な感覚が、どんどん強くなっていく。
そして――
その“違和感”が、じわじわと、笹木の心にしみこんでいく。
(……なんでや……なんで、ウチらが“間違ってる”みたいな空気なんや……)
空は、あいかわらず晴れている。
なのに、胸の中はずっと、雨が降りそうだった。
――放課後の、誰もいない父親の部屋。
古びた木の机。上に置かれたデスクトップのモニターは、大人の自分が使うには何の変哲もないサイズなのに、小学生の笹木には、まるでテレビ画面のように大きく映る。
キーボードのキーも重たく、手が届きにくい。けれど、指は迷いなくパスワードを入力していた。
「……“Nazono4004”……やろ?」
カチリとエンター。
――ログインエラー。
「は……? 間違えてへんやろ、なんで……」
打ち直す。何度も、何度も。
「“Nazono4004”やって……! なんでや……! おとんが教えてくれた、正しいやつやん……!」
ログインできない。消せない。止められない。
動画のアカウントは、そこにあるまま。誰かに乗っ取られて、好き勝手に“使われる”未来だけが、どんどん現実味を増していく。
(早く消さな……早く消さな……全部壊される……)
――けれど、手はもう震えて、パスワードが打てなかった。
その夜、笹木は眠れなかった。