咲にとっては、“次の日”だった。
廊下の光が、やけに白くて冷たい。教室のドアを開けると、ざわざわとした声と笑いが響く。
けれど、すぐに違和感に気づく。
「……あれ?」
誰も、こっちを見ない。誰一人、咲の声に反応しない。
「おーい、美兎……聞いてくれへん? 動画のこと、ほんまヤバいねんって。パスワード入らんし、どうしたらええか――」
言いかけて、気づく。
美兎の座る席。
その右腕――包帯が巻かれている。何重にも。しかも、その端から、うっすらと赤い染みがにじんでいる。
顔には青黒い痣。左頬が不自然に腫れ、制服の襟も少し破れていた。
「……え……?」
咲は思わず、数歩後ずさる。
けれど誰も、彼女の反応に気づかない。
教室中が、咲を“見ていない”。
「なぁ……なんで誰も、何も言わんのや……!」
咲の声が、教室に響く。椅子が揺れ、教壇のチョークが落ちても、誰一人として顔を上げない。
「おいっ! あんたら、見えてるやろ!? 何で無視すんねん!! 何で……」
――涙が、ぽつりと落ちた。
震える声で、美兎に近づく。
「美兎……なぁ、うちら親友やろ……? 一緒に動画作って、毎日笑ってて……! そんなんで終わってええんか……?」
席の横にしゃがみ込んで、美兎の顔を見上げる。
「何があったんや……っ、言うてくれや……っ……苦しいんやったら、苦しいって言えよ……! ウチら、ずっと一緒やったやんか……っ」
声が震える。喉の奥が焼けるように熱いのに、吐き出せるのは、冷たい嗚咽だけだった。
「見捨てへんから……そんなんで、終わってほしくないから……!」
肩に触れようとした指先が、すり抜けた。
まるで、そこに“存在”していないかのように。
咲は床に崩れ落ち、両手で顔を覆った。
苦しい。
悲しい。
怖い。
なぜ、手が届かない。
なぜ、声が届かない。
ただ、教室の蛍光灯だけが無音で光り続けていた。
それが、“現実の終わり”であるかのように。
――ぐらり、と重心が傾き、視界が濁った。
目を開けると、笹木咲は、あの寺の一室――“祓室”の中に戻っていた。けれど、部屋の空気は先ほどとは明らかに違う。生ぬるく、張り詰めて、まるで空気そのものが怯えているようだった。
視線の先――月ノ美兎が立っていた。護符の束を手に掲げ、淡い青の光がその指先にまとわりついている。
そして、その表情は――穏やかで、少しだけ、涙ぐんでいた。
「……そうだったんですね」
ぽつりと、美兎は語る。
「きっと……私から離れて、辛かったでしょうに」
ゆっくりと、懐にしまっていたもう一枚の護符を指先に滑らせる。光が微かに脈打ち、部屋の中に漂う気配が、すっと一点に集まっていく。
「でも……それでも、ずっと、私を守ってくれていたんですね」
美兎の視線は、咲の“背後”を向いていた。
咲はぞくりとした。
肌が、明確に“覚えていた”。
――あの、文化祭の夜。帰り道の体育館の外で見た、“仮面の幽霊”。
笹木はおそるおそる振り返る。
そこに立っていたのは――
制服姿の、長髪の少女。
そして、顔には、人間の顔を模した仮面――
仮面の女は、無言で咲を見下ろしていた。まるで、そこに立つことが当然であるかのように、動かず、微動だにしない。
「……こいつ、あの時の……」
咲は背中にじっとりと冷や汗をかく。呼吸が浅くなり、指先に力が入らない。
だが、美兎は、一歩も退かない。
仮面の女が、すっと両手を伸ばし、仮面に手をかける。
ゆっくりと――
仮面が外される。
現れたその顔は――月ノ美兎に、瓜二つだった。
「……我々は……!」
その声は、女の顔から発せられたのに、何層にも重なって聞こえた。幾人もの“声”が、美兎という存在の裏に潜んでいた感情が、口を通してあふれ出していた。
「我々は、お前のために……ずっと、お前の近くにいたのに……!」
女は、美兎に詰め寄る。まるで、幼い妹を責める姉のように、涙を浮かべながら訴える。
「怪我は……もう治ったのか!? 高校には入学できたのか!? 我々だって、一緒に学校に行きたかったんだぞ!!」
咲は、息を飲む。
その言葉。その想い。
――(……なるほど。そういうこと、やったんやな)
さっきまで見ていた“あの記憶”。
あの苦しみも、あの孤独も。
全部――この幽霊、“生霊”の記憶だったんだ。
咲の喉がきゅっと締めつけられる。胸が、痛いほどに軋んだ。
そして美兎は、わずかに顔を伏せながら、静かに――そして、深くうなずいた。
「……そうですね……」
その先に続く言葉も、涙も、どんな結末を迎えるのかも。
――それは、今この瞬間、この場所にいる彼女たちだけのものだった。
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――夕暮れの風が、山あいの寺にひっそりと吹いていた。
境内の前、古い石畳の広場では「焚き上げ」が行われていた。
藁束、護符、古い札。さまざまな“祓い”の痕跡が炎にくべられ、ぱちぱちと音を立てて燃えている。静かに煙が立ち昇り、空の茜に混ざって溶けていく。
燃えさかるその火は、どこか青白く――不自然に冷たい色を放っていた。火薬に照らされた炎は、黄昏を背にしてもなお、まるで“星”のように明るい。
その光景を、少し離れた高台から、一人の巫女装束の女が見下ろしていた。
黒の装束に身を包み、長い髪を後ろで束ねた女――香子(きょうす)。
じっと燃える火を見つめながら、ぽつりと独り言のように呟く。
「……“祓室”で願いが叶うと、必ず焚き上げを行うという。霊を祓った供養か……あるいは、その霊に赦しを乞うためか……」
風が、焚き火の煙を巻き上げる。
「……炎は青く、夜空に咲く一つの“星”のように……」
火は強くも儚く、まるで命の残光のように瞬いていた。
そして香子は、小さく眉をひそめる。
「……これが、“夜見れな”のしたかったことなのか……?」
微かに疑問の色を滲ませた声。
答えを持たないまま、香子は踵を返してその場を去ろうとする――
だが。
振り向いたその瞬間、息を呑んだ。
立っていたのは、一人の少女。
冷たい視線でじっと睨むように香子を見据えていた――椎名唯華。
「……っ、誰……?」
香子は一瞬戸惑うように顔をしかめ、薄暗がりに目を凝らす。
そして、その少女の目の奥に宿る霊力の波――そしてどこか見覚えのある、あの整った面差しに、香子は息を呑む。
「……まさか……唯華様……!?」
信じられないというように、震える声でその名を呼ぶ。
唯華は一歩、足を踏み出し、睨みを緩めずに口を開いた。
「……お前は、確か……“香子”やったか」
その声音には、明確な警戒と怒気がにじんでいた。
香子は、まるで膝が崩れそうになるのを堪えるように、一歩下がりながら、顔を伏せる。
「……唯華様……こんなにも……大きくなられて……」
かすかに口元が震え、涙がこぼれそうな瞳で彼女を見上げていた。
焚き上げの炎は、風に揺れながら、その邂逅を照らし続けていた。
一旦打ち止めになります。再開は未定になります。
お付き合いいただき、ありがとうございました。