第7章 第1話:憎悪
――朝もやの立ちこめる山道。鳥のさえずりが響き、湿った土と若葉の匂いがあたりに漂っている。
「はぁ、はぁ……ちょっと待って……っ、もう足が限界……っ……」
ゼェゼェと肩で息をしながら、白衣の裾をたくし上げて山道をよろよろと登る葉加瀬冬雪の姿があった。額には汗がにじみ、背中のリュックが重そうに揺れている。
一方、その少し前方を、黒と赤のシックな登山スタイルに身を包んだ夜見れながが、実に軽やかな足取りで進んでいた。草を踏む音もほとんどない。まるで“山に馴染んでいる”かのような歩きぶりだった。
「ちょっとー、冬雪ー。道草しすぎだよー?」
「してないって……! してないけど体力の限界なの……!」
葉加瀬が情けない声を上げながら、木に手をついて立ち止まる。
「ねえ……ほんとに椎名ママ、連れてこなくて良かったの? あの人なら、こういう“集落の謎”とか、むしろ得意分野でしょ……?」
その言葉に、夜見はくるりと振り返り、涼しい顔で言った。
「んー? だって、こういうのってさ。科学者が、いかにも怪しい霊能力者のウソを暴く!みたいなのが“定番”で面白いじゃん?」
葉加瀬は一瞬ぽかんとしてから、額の汗を拭いながらジト目になる。
「……ドラマの見過ぎだわ、それ」
「ふふっ、だってさ~、“白竜の里”だよ? 山に囲まれた隠れ集落、龍信仰、謎の巫女たち……そういうのって、ちょっとワクワクしない?」
「ワクワクより筋肉痛が勝ってるんだけど、今……」
ふたりの会話は、鳥のさえずりと風の音の中で、緩やかに山道に溶け込んでいく。
―数日前。
――カツ、カツ、と乾いた音が白いタイルの床に響く。
小さな町の警察署。待合のベンチは硬く、空気はどこか無機質だった。
椎名唯華は、腕を組んでベンチに座りながら、苛立たしげに足を揺らしていた。
「……なんでうちが、笹木の忘れもん取りに来なあかんのよ……」
ため息交じりに呟く。手には身分確認用の生徒証。用件はただひとつ――笹木咲が電車内に置き忘れたスマホを、代わりに受け取りに来ただけだ。
――のはずだった。
そのとき、不意に受付付近から聞こえてきた、切羽詰まったような声。
「た、助けてくれ……お願いだから、聞いてくれ……!」
唯華は、ふとそちらに目を向ける。
銀髪の男が、警察官の前で必死に訴えていた。青ざめた顔、うつろな目。スーツは乱れ、汗がにじんでいる。まるで、何かに追い詰められているような気迫。
「最近は……男のストーカー被害とかもあるんやなぁ……」
唯華は聞き耳を立てるわけでもなく、ぼんやりと呟きながら視線をそらした。
そのまま順番が来て、窓口でスマホを受け取る。
「ご苦労様です~」という事務的な声に軽く頭を下げて、警察署の建物を後にする。
その帰り道。駅へと向かう道沿い、唯華はふと歩道の先に目をやった。
さっきの銀髪の男が、誰かと一緒に歩いている――
女だった。長い黒髪、赤い瞳。まるで彫刻のような無表情で、男の肩にそっと手を添えている。
「……奥さん、やったんか……」
唯華は思わずつぶやいた。
何かの相談に来てたのか。ふたりの間に何があるのかは分からない。
けれど、あのときの“助けてくれ”という必死の声が、少しだけ耳に残って離れなかった。
唯華はスマホをポケットにしまい、首を軽く振って歩き出した。
――駅前の歩道。
夕陽が街のビルの端を朱に染める中、椎名唯華はスマホを片手に足を止めていた。
少し先を歩く銀髪の男と、黒髪赤眼の女。その姿に、どこか嫌な予感を覚え、唯華は思わず距離を保ちつつ後をつけるように歩き出す。
やがてふたりが人通りの少ない歩道の隅に立ち止まり、言い争うように声を潜める。
唯華は、ほんの数歩離れた場所で立ち止まり、聞こえないふりをしながら耳を澄ませていた。
その男と女の会話は、どこか怯えるような会話。しかし、聞いているだけで燃え上がるような熱い、黒い気持ちが湧き上がってきた。
声が震えた。怒りで、悔しさで、そして――悲しみで。
怒りが、腹の底からこみ上げる。
胸の奥が焼けるような熱に包まれたのは、生まれて初めてで―
――昼下がりの、加賀美ハヤトの会社の研究室。
白く磨かれた床、壁に並ぶ無数のモニターと機材。室内は静かで、機械の微かな駆動音だけが響いていた。
葉加瀬冬雪は白衣の裾を椅子に巻き込んだまま、無造作に診断書の束をめくっていた。その向かいで、笹木咲が腕を組んで椅子に座っている。
「うん。特に問題なさそうだね」
パタン、と診断書を閉じると、葉加瀬はあっさりとそう言った。
「はぁぁ~……よかった~……心不全で死ぬって言われたからビビッとったわ……」
笹木は胸を押さえながら、安堵の息を漏らす。その表情はどこか落ち着いていて、診断前の緊張とはまるで別人のようだった。
「そりゃ、そんなこと言われたらなぁ……って、なあ葉加瀬」
「うん?」
「ちょっとくらい、心配してる顔しぃや……!」
「え、したつもりだけど……?」
そんな他人事みたいなやり取りをしていると、研究室の自動ドアが音もなく開いた。
「うわ、ほんまにここやったんや……」
入ってきたのは椎名唯華と夜見れな。
その瞬間――
「うわぁぁぁぁぁぁぁん!!」
唯華が突如として声をあげ、まっすぐ葉加瀬の方へ駆け寄ると、その膝下にがばっと抱きつき、そのまま床に崩れ落ちて大号泣を始めた。
「なっ、え、えぇ……?」
笹木はぽかんと目を見開き、椅子の背もたれに体を引く。
「……何があったん……」
まるで取り憑かれたように泣き崩れる唯華の姿に、研究室の空気が一気に湿り気を帯びる。
その隣では、夜見れなががすっと葉加瀬の横に立ち、何やら耳元でこそこそと囁いた。
「実はね……」
葉加瀬は黙って聞き終えた後――目を伏せることも、眉を動かすこともなく、ただ一言。
「ふーん……」
あまりにも興味なさそうな、その返答に、笹木は二度目の「えぇ……」を喉の奥で飲み込んだ。
唯華の泣き声だけが、研究室の静寂に響き続ける。
時がたち、静寂だけが彼女を癒す。
荒れ狂う嵐が静まるように、鼓動は静まり、空気が包む。
泣き疲れたように、葉加瀬の膝に額を押しつけたままの唯華に、葉加瀬は静かに声をかけた。
「……分かったよ、椎名ママ」
その言葉に、唯華の身体がわずかに震える。
葉加瀬は、そっと彼女の頭に手を添えて、まるで自分でも信じられないように続けた。
「じゃあさ……椎名ママが、前に私にいろいろしてくれた分――今度は、私が椎名ママのために動いても、いいかな?」
唯華は顔を上げられないまま、小さく頷いた。
「前にも言ったでしょ。私には家族って呼べる存在、ひとりもいない。でも……椎名ママが、私の“母親代わり”になってくれてるなら――」
葉加瀬の声は、穏やかだった。けれど、その内側に秘められた決意は鋼のように硬かった。
「――あの赤い眼の女なんて、もう私の何でもない」
夜見は少しだけ目を伏せ、黙って耳を傾けていた。
「でも、それでもね……私が背負ってるものを、今、椎名ママに代わりに背負わせてるのは、事実だよ」
唯華の肩がまた小さく震える。
葉加瀬は、立ち上がって研究机の引き出しから、小さな黒い箱を取り出した。
「だから――この前、東京で“お土産”を持ち帰ってきたんだ。私たちに……やらせてくれないかな?」
その声は優しく、けれど、どこか“覚悟”を決めた者の声だった。
笹木はその言葉に、目を細めながらゆっくりと訊ねた。
「……祓室のことか? ほんまにええんか、あんた……」
それに対して葉加瀬は、まるで当然のように言ってのけた。
「てかさ、そもそも“夜見に寄ってきた人たち”でしょ? なら、笹木さんは……本来は関係ないでしょ?」
その言葉に、咲は少しむっとした顔をしながらも口を閉じる。
代わりに夜見が、いたずらっぽく笑って補足する。
「うんうん、笹木先輩はもうちょっと、平和なラブコメ展開でいいんじゃない?」
「……ラブコメちゃうわ」
思わず反射で返しつつ、笹木は深く息を吐いた。
「……分かった。でも無茶だけはすんなよ」
そう言った彼女の声には、どこか“信頼”の色が混ざっていた。
それから数日後――ザッ、ザッ、と土を踏む音が、深緑の山道に続いていく。
斜面をゆっくりと登りながら、葉加瀬冬雪は額の汗を拭いもせず、ただ黙々と歩いていた。隣で夜見が小さく鼻歌を歌いながら先を進むのに、ついていくでもなく、ただ視線は足元を見つめている。
――ぬかるんだ山道を踏み締める音と、鳥のさえずりだけが辺りを満たす静かな登山道。
空気は澄み、風は冷たく、日が高くなるにつれて霧も薄れはじめていた。
その道を並んで歩く、夜見れなと葉加瀬冬雪。
ふと、夜見が無邪気に問いかける。
「でさ~、結局あの二人、どうしたの? あの銀髪と赤眼の夫婦っぽいやつら」
葉加瀬は、前を見たまま、ほんの少しだけ肩をすくめた。
「知らないよ。興味ないし」
あまりにもあっさりとした口ぶり。
夜見は目を丸くして、やや驚き気味に返す。
「え~? 椎名ママ、あんなに怒ってたのに? 絶対ぶん殴りに行くかと思ってたよ~?」
葉加瀬は、やや呆れたようにため息をつく。
「社長が手出ししてないってことは、そこまでってことなんでしょ。……だから、私もどうでもいい」
その声音は、冷たさではなく、重さのない無関心だった。
けれどその言葉の端々には、“向き合わない”と決めた覚悟のようなものが滲んでいる。
夜見は少し唇を尖らせながらも、今度は逆に問い返される。
「じゃあさ、夜見は……“潮留あずさ”のこと、どうしたのさ。
“近藤れな”として復讐に行くことだってできたんじゃないの?」
夜見は一瞬だけ足を止めたが――すぐに肩を揺らして、笑ってみせた。
「しらな~い。昔のことなんて、興味ないし」
その顔には、何も貼りつけたような感情はなかった。ただ、ほんの少しだけ、風の冷たさに紛れるように遠くを見る目。
葉加瀬はそれを見て、小さく鼻を鳴らす。
「……じゃあ、お互い様でしょ」
ぽつりとそう言って、再び足を前へ進めた。
その数分後。道が開け、木々の隙間から風が吹き抜けた先――
眼下に広がる、ひときわ静かな集落の姿。まるで時間に忘れられたかのような、瓦と木造の家並み。
山の懐に抱かれるようにして存在するそれが――
白竜の里であった。