咲-saku- 【完結】   作:えいどら

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第7章 第3話:遭遇する少女

 ――本殿の縁側を抜け、葉加瀬と夜見は、石畳をゆっくりと歩いて境内を後にした。

 

 朝から射していた強い日差しは少し和らぎ、木漏れ日が二人をまだらに照らす。境内の石灯籠は苔に覆われ、ほのかに湿った香りが漂う。

 

 鳥居をくぐると、急に音が変わった。土を踏む足音、葉擦れ、遠くのせせらぎ。

 その向こうに、里の家並みが見えた。

 

 古びた瓦屋根の民家が肩を寄せ合うように並び、その間を縫うようにくねる小道。

 庭先にはしなびた朝顔や、風に揺れる竹の塀。

 時おり、遠くで犬の鳴き声がするが、人の声はほとんど聞こえない。

 

 夜見は、そんな村の風景を眺めつつ葉加瀬を見た。

 

 「ねぇ、どう思う? さっきの“呪い”の話」

 

 葉加瀬は眉をひそめ、木の根に気をつけながら段差を降りた。

 

 「……主様とやらに会わないと、よく分からない」

 

 その声は乾いていて、同時に正直だった。

 

 「それこそ……夏頃に夜見が新大阪第三高校で笹木先輩と見つけたみたいな、“マジもん”だったら……」

 

 夜見はニヤッと笑った。

 

 「素直に鍵を渡すしかない、って?」

 

 「うん」

 

 葉加瀬は短く頷いた。

 苔むした石段を踏み外さないように、手すり代わりの竹を握る。

 

 「……せめて、“主様”の正体と、昔の事件について何か分かれば」

 

 夜見は同意するように頷きつつ、二人で緩やかな階段を降りていった。

 

 村は少しずつその表情を変える。

 

 神社を離れるごとに、神聖な空気は薄れ、生活の匂いが戻ってくる。

 軒先には干し柿、藁の束、手入れの行き届いた桶。

 しかし人影は少なく、開け放たれた家屋の暗い土間だけが不気味な空虚を晒していた。

 

 土道を進むたびに、葉加瀬の脳裏には冷たい論理が浮かぶ。

 

 (……“昭和の帝”って、つまり昭和天皇のことだろうな)

 

 声には出さず、思考だけを走らせる。

 

 (少なく見積もっても、40年前以上。昭和の後期……もし、集落で男たちが次々に死んだのなら……)

 

 「流行り病の可能性もあるか……」

 

 ぽつりと呟く。

 

 夜見がちらりと横目で見た。

 

 「戦前の流行り病といえば……結核か?」

 

 足を止めて、小さく首を振る。

 

 「いや……結核だったら“呪い”なんて曖昧な理由で一括りにはしない。

 当時だって医者くらいいただろうし。何か……違う要素があったはずだ」

 

 夜見は面白そうに頬を緩めた。

 

 二人は村外れの坂道を登る。そこは高台になっていて、風が強く吹き抜けていた。

 

 道は狭く、土がむき出しで、両側には低木や笹が生い茂っている。歩を進めると、唐突に視界が開けた。

 

 夕陽が差し込み、谷を挟んで見下ろす村全体が一望できた。家々の黒い瓦が鈍く光り、棚田の筋が幾何学模様のように広がる。

 

 その隙間に、誰もいないはずの道を風が吹き抜け、砂埃が巻き上がる。

 

 そして、その高台の端に一人の少女がいた。

 

 鮮やかな蒼の長髪が風にたなびき、白を基調とした和装の袖がふわりと揺れる。後ろ姿からも感じられる、どこか現実離れした存在感。

 

 少女は下界を静かに見下ろしていた。その背には、まるで周囲の世界すら拒んでいるかのような神秘的な孤高さが宿っていた。

 

 夜見がその姿を目にした瞬間――彼女の表情が僅かに強ばった。

 

 葉加瀬もまた、息を呑む。

 

 「……あれが、“主様”?」

 

 答えはまだない。だが、その存在は、まるでこの里の“心臓部”のように、確かにそこにいる。

 

 村の輪郭がゆっくりと影を落とし、森の木々がざわめく音が耳を打つ。その縁に立つ蒼髪の少女は、遠くを見つめたままふっと口を開いた。

 

 「桜の花がどうして、あんなに鮮やかな桃色を根付かせるか、知ってる?」

 

 夜見は、少しも間を置かずに即答する。

 

 「下に、たくさん死体が埋まってるからだよね〜」

 

 無邪気に笑いながら言うその声音は、まるで冗談を言うかのようだった。だが少女は、微かに口角を動かしながらも肯定するように頷き、そして眼下に広がる里をゆっくりと見渡した。

 

 「……そう。桜は人を喰らって、その血を啜って、鮮やかな血色の花を根付かせる」

 

 その声音は透き通るように澄んでいるのに、底知れない冷たさがあった。

 

 「あんなに大きな大樹に花を咲かせるためには――たくさんの血が必要なの」

 

 そして視線を横に動かし、夜見のほうをじっと見据えた。

 

 「……うちの祖父も、そのための肥やしになった」

 

 夜見はその目線を真正面から受け止め、しばし無言で睨むように見つめ返す。そして、口の端をゆっくりと釣り上げて、少しだけ声を潜めて尋ねた。

 

 「……君が、“主様”なの?」

 

 その問いかけに、蒼い瞳が一瞬だけ細められる。だが次の瞬間、その目がかすかに何かを察知するように鋭く光り――

 

 右腕を素早く横に薙ぎ払った。

 

 「……っ!」

 

 空気が裂けるような音。目の前で、暴風が渦を巻いた。

 

 枯葉や土埃が宙を舞い、髪が大きくなびき、袖がはためく。夜見は目を細めながらも、ぐっと踏ん張り、その風に負けまいと前を見続けた。

 

 そして、その狂ったような風の中で――満足げに、笑った。

 

 「やっぱり、君が“主様”なんだねぇ〜」

 

 風に押されながらも、夜見の唇には、狂気を孕んだような微笑がはっきりと浮かぶ。

 

 ――風が収まり、やがて荒れた空気の中で静寂が戻る。

 

 夜見は口元を吊り上げたまま、微かに肩を揺らしていた。その対面で主様は涼しい目を細めて、余計な言葉を吐くこともなく夜見を見据えていた。

 

 その張り詰めた空気を割るように、近くの叢ががさりと鳴った。

 

 「……あんたら、喧嘩してる場合じゃないでしょ」

 

 土埃を払いながら、葉加瀬が苛立たしげに姿を現す。白衣の袖は泥に汚れ、足元の草も千切れたままくっついていた。

 

 夜見は葉加瀬のほうをちらりと見て、「え〜?」と口を尖らせる。だが主様は特に視線を返さず、淡々と背を向けた。

 

 「……あなたが普通の人間だったら、そんなことはしない」

 

 その声は無感情に響き、相手を断じるようでもあった。そして主様は踵を返し、ゆっくりと丘を降り始めた。

 

 夜見は「まってよ〜」と軽い調子で後を追い、葉加瀬も不機嫌そうに歩き出す。

 

 しかし――

 

 丘は思った以上に悪路だった。むき出しの木の根が絡み、湿った土は滑りやすい。

 

 夜見は軽やかに草を踏んで降りていく。その一方で、葉加瀬は足を取られてはバランスを崩し、手で幹をつかんで無理やり踏みとどまる。

 

 「っ、あぶ……ちょ、待てって……!」

 

 そのたびに距離は開き、夜見と主様の背中がどんどん遠ざかる。葉加瀬は必死で追うが、何度もずるりと足を取られ、諦めたように小さく舌打ちをした。

 

 丘を下り切る頃には、すっかり日も傾いていた。

 

 主様が緩やかな斜面を降り立ったところで、待ち受けていた巫女の一人が駆け寄る。

 

 装束を揺らし、顔には明らかな心配の色を浮かべていた。

 

 「主様……! おやめください。お客人もいらしているのに、勝手にいなくなられるのは……」

 

 その声は叱責というよりも、必死な懇願に近かった。

 

 しかし主様は無表情のまま、淡々と視線を逸らした。

 

 夜見はそのやりとりをにやにやと眺め、息を切らせて遅れてきた葉加瀬は、草だらけの白衣を払って荒い呼吸を吐く。

 

 煌々とした光が頼りなく石段を照らす中、巫女は主様の後ろに控えながら、深く頭を下げた。

 

 「主様は……この里に代々伝わる“龍の力”を、ただ一人受け継ぐお方です」

 

 声は低く、しかしはっきりと届いた。

 

 「……主様の母君は、その力をまともに御せなかったために、里の中でも肩身の狭い思いをされました。主様も幼い頃から、そのことで随分と……」

 

 そこで言葉を切り、ちらりと主様を気遣うように見る。だが主様は、月を背に受けて無表情のまま視線を落としていた。

 

 葉加瀬は少しだけ目を細め、巫女に向き直る。

 

 「……主様の“母親”の代となると、ちょうど“呪い”の件と時期が被るんじゃないですか」

 

 「その時代、他の里の住民がこのあたりでどんなことをしてたか、調べてもらえますか。それから――当時この里にどんな生き物が生息していたのか。今と違いはなかったか」

 

 巫女は真剣な顔で頷くが、すぐに言葉を濁した。

 

 「……ですが、当時の記録は乏しく……」

 

 葉加瀬はポケットからスマホを取り出しながら、小さく肩を竦めた。

 

 「外部の研究者に調査を頼んだって言ってたでしょ。その報告書とか、他に分かりそうなものを全部持ってきてもらえます?」

 

 巫女はすぐさま深く頭を下げた。

 

 「かしこまりました。必ずお手配いたします」

 

 夜風が冷たく吹き込み、鳥居の陰で鳴る虫の声が響く。その場に、一瞬だけ緊張が和らいだ空気が漂った。

 

 そして――

 

 夜見が口を開いた。

 

 「……もうこんなにふけたら、今日は泊まっていくしかなさそうだねぇ〜」

 

 軽い口調で笑いながら、月明かりの下で長い髪を揺らす。

 

 「……枕投げとかする?」

 

 葉加瀬はジト目で夜見を見た。

 

 「……そういうのは、用意された部屋でやるんでしょ。宿泊用に用意してくれた部屋があるから、そこに行こう」

 

 夜見は「え〜」と子供みたいに唇を尖らせ、面白くなさそうに鼻を鳴らした。そしていたずらっぽく目を細め、葉加瀬の腕を引っ張るようにして囁く。

 

 「……もっと、面白いことしない?」

 

 葉加瀬は引かれながらも、やれやれと深い息をつき、結局そのまま夜見に付き合うように歩き出す。

 

 昼から夕焼け、夕焼けの風景からすっかり辺りは闇に沈み、夜の帳が里を覆いはじめ、森の闇が境内の端々を静かに呑み込んでいた。

 

 月明かりが頼りなく石段を照らす、夜もすっかり更けた神殿の中――夜が更けきった白竜の里は、山々の深い影にすっかり呑まれていた。

 

 木々は黒く塗りつぶされたように静まり返り、昼間は鳥や虫が鳴き交わした森も、今はわずかな風に梢を揺らすだけ。遠くにある田畑の棚田は水を張ったまま、月光を鈍く映していたが、それすら雲が覆い隠すと、すぐに漆黒の闇に溶け込んだ。

 

 里の家並みも、ぽつりぽつりと灯る行灯の光があるばかりで、人の声はほとんど聞こえない。明かりの漏れる障子の向こうで小さく人影が動くと、かえってこの閉ざされた集落の孤立感が強調される。

 

 軒下を走る冷えた夜風は、古い木造家屋の柱をきしませ、たまに瓦屋根を鳴らす。

 

 そんな里の中心に鎮座する神殿は、日中よりもさらに異様な静けさを漂わせていた。

 

 外の石段も、樹齢を重ねた木々に囲まれ、月明かりが差さない場所は真っ暗な淵のよう。軒先の鈴も風にかすかに鳴り、聞く人のいない音を響かせた。

 

 神殿の中もまた、暗い廊下のあちこちに置かれた行灯が灯るのみで、その柔らかな光が磨き込まれた廊下の床に映っていた。

 

 奥へ行くほど照明は少なく、木組みの梁に沿って走る影は獣のように曲がりくねる。

 

 それでも主様の部屋の前だけは、特に明かりが多く置かれ、見張りの気配もどこか張りつめていた。

 

 奥の一室では、湯浴みを済ませた主様が、薄桃色の寝巻きを纏って畳の上に座っていた。長い蒼髪はまだ少し湿っていて、机の上に広げた巻物や書簡をぼんやりと眺めながら、静かに息を吐く。

 

 心地よい夜風が障子の隙間から入り込み、灯明がほのかに揺れた。

 

 そこに――

 

 襖がガラリと音を立てて、いきなり開いた。

 

 「こんばんは〜!」

 

 満面の笑みを浮かべて、夜見れながが元気よく飛び込んでくる。

 

 「ひ、ひぃぃ……!」

 

 主様はビクリと跳ね起き、机の上の目的の何かを必死で探す。巻物をめくり、筆を掴みかけて放り出し、周囲を見回しては目を泳がせる。

 

 だが探しているものは何も見つからず、椅子を蹴ってそのまま尻もちをついた。肩を震わせ、顔を赤くしながら夜見を睨む。

 

 「き、香子は……香子は何してるの……!?」

 

 夜見はいたずらっぽく笑って、しゃがみこんだ。

 

 「ん〜? いい子で“どうぞどうぞ”ってしてくれたよ?」

 

 そのタイミングで、部屋着姿の葉加瀬冬雪が襖をくぐって入ってきた。

 髪を無造作に括り、スリッパをひきずるようにして。

 

 「香子さん、良い人そうで助かったよ」

 

 主様はなおも睨みながら、呼吸を整えようとする。

 

 葉加瀬はそんな主様を見て、小さく肩をすくめた。

 

 「……話したんだよ。

 “主様も結構孤独そうだし、友人いないなら、仲良くしてくれるとありがたい”って」

 

 夜見が「そうそう」と相槌を打ち、にこにこしながら主様を覗き込む。

 

 主様はしばらく荒い呼吸を繰り返したあと、ゆっくりと落ち着きを取り戻し、真顔で二人を見つめ返した。

 

 「……孤独なのは、あなた達も一緒じゃないの」

 

 その声はかすかに震えていたが、はっきりしていた。

 

 「里の大人たちは、私の力を“ありがたがる”けど……この力のせいで、どれだけの不幸を味わったか、分かってない」

 

 視線を落とし、指先が小さく震える。

 

 「……人の心を読める人間も――」

 

 夜見を見て。

 

 「子供とは思えないほど膨大な知識を持つ人間も――」

 

 葉加瀬を見て。

 

 「……変わらないだろ、そういうの」

 

 夜見は一瞬だけ目を細めたが、すぐにくすっと笑った。

 

 「私は葉加瀬も、社長もいたけどね〜」

 

 そう言って、ちらりと葉加瀬を見る。葉加瀬は無言で、少しだけ視線を下げた。

 

 そして、夜見の問いかけを無視するように、ゆっくりと主様を見つめた。

 

 「……私たちが一人だったのは、別に“変な力”持ってたってだけじゃないよ」

 

 言葉は冷静だったが、その奥には何かを知っているような、静かな悲しみがにじんでいた。

 

 葉加瀬は続ける。

 

 「……香子さんには、そういうの相談しないの」

 

 主様は一瞬、きょとんとした目をしたあと、すぐに目を伏せた。

 

 「……香子は最近、“呪い”の対応で手一杯だし……」

 

 小さな声が、障子の外の虫の声にかき消されそうになる。

 

 「それに……里の維持費のために、資源を売り払おうって迫ってくる人たちの対応もしてる」

 

 肩を落とした寝巻き姿のその背中は、小さくて、あまりに幼かった。部屋の灯が、三人の影を畳の上に滲ませる。灯明がぱちりと音を立て、三人の顔をオレンジ色に照らしていた。

 

 主様が伏し目がちに小さく肩を落としたのを見て、葉加瀬はすかさず声をかけた。

 

 「……その話、もっと詳しく聞かせてもらえないかな」

 

 視線を鋭くし、まるでデータを収集するかのような落ち着いた声音だった。主様はわずかに顔をしかめ、息を吸い込むようにしてからぽつりぽつりと言葉を落とした。

 

 「……村の人たちはね、最近“人が減った”ってすごく不安がってて」

 

 夜見がじっと聞きながら顎に手を当てる。

 

 「それで……森に生えてる植物や、昆虫なんかを外の専門家に買い取らせて、それを資金源にしようって言い出した人たちがいるの」

 

 葉加瀬は頷きつつも、冷静に食い下がった。

 

 「村の人は、その意見に賛成なの?」

 

 主様は苦しそうに目を伏せる。

 

 「……“別に売れるものなら売ってしまえばいい”って。そんな風に言う人が多いの」

 

 小さな声が障子に吸い込まれていく。

 

 「でも……あそこは、ほんとは……大切な場所なんだよ」

 

 夜見がすかさず身を乗り出す。

 

 「ふうん。大切な場所、って?」

 

 主様は一瞬、目を伏せてから口を開いた。

 

 「……私の母がね、秘術を使えないことをすごく悔やんでたの」

 

 灯明の火が揺れ、影が畳を這った。

 

 「だから、里の人たちが……先代のために、供え物を持ってお参りしてた場所。それに……母上の遺体も、そこに埋葬してあるの」

 

 部屋が一気に静かになる。夜見はその言葉を聞いても、にやけた笑みを薄く浮かべたまま、目だけが鋭く光っていた。

 

 葉加瀬がゆっくりとした声で問いを重ねる。

 

 「生きてた頃はさ。目の前に本人がいたのに……どうしてわざわざ、別の場所に供物を用意してたの?」

 

 主様は痛むように目を細め、声を絞り出す。

 

 「……言いたくないけど……」

 

 細い指がぎゅっと布を掴む。

 

 「……秘術を使うには……龍に“生け贄”を差し出す必要があるから」

 

 ――障子の外では虫の声が鳴き続け、灯明の炎が細く揺れていた。夜見は目を輝かせるように身を乗り出した。

 

 「へぇ〜、生け贄っていい響きだねぇ」

 

 軽く舌を出して、好奇心を隠しもせずににやけてみせる。その隣で、葉加瀬は腕を組んで座ったまま、興味なさそうに片眉を上げた。

 

 「……まあ、別に珍しくもない話だね」

 

 しかしふと、葉加瀬の視線が主様のほうを鋭く射抜くように向いた。

 

 「……ひょっとしてさ」

 

 部屋をぐるりと見回しながら、唐突に切り込む。

 

 「さっき夜見が入ってきた時に、必死で探してたのって……その“生け贄”のこと?」

 

 主様は「っ……」と息を呑むように目を瞬かせた。そしてしぶしぶ、懐から小さな布包みを取り出した。

 

 「……本当はね、“命の塊が形を成したもの”なら、何でもいいの」

 

 包みを開くと、中には透き通った黄金色の琥珀が入っていた。中には、古代の小さな虫の影が閉じ込められていた。

 

 夜見がぱっと手を伸ばして、宝石のように持ち上げる。

 

 「……なにこれ、なんかつまんな〜い」

 

 光にかざして目を細めながらも、すぐにぽいっと投げ返す。葉加瀬はそれをキャッチし、無造作に手の上で転がすように見た。

 

 「……貴重とは言わないけど、天然樹脂からできる琥珀なんて、そこら辺で拾えるものでもないでしょ」

 

 淡々と説明する声には、理屈っぽい冷静さが滲んでいた。主様は少し俯いて、吐息を漏らす。

 

 「……虫の死骸でも代用できるから、最悪はそれを使う」

 

 「……見栄えが、あまり良くないでしょ。だから、里の人たちの前でそれを使うのは、しないことになってるの」

 

 葉加瀬は「ふーん」とだけ短く答え、琥珀をそっと主様の手に返した。灯明の揺れる光が、その琥珀を淡く照らし出していた。

 

 虫の影が、琥珀の中でひっそりと眠っているようだった。小さな昆虫が閉じ込められたその姿は、どこか物言わぬ証人のように光を吸っていた。

 

 葉加瀬は、灯明の光に照らされた琥珀をしばらく無言で見つめていた。

 

 隣で夜見が、身を乗り出して覗き込む。

 

 「ねえねえ、これさ〜、冬雪の研究室にあった“あれ”に似てない?」

 

 葉加瀬は視線を動かさず、少し考え込むように呟いた。

 

 「……あー? あれ? こんなに透き通ってないし、そんなに似てない」

 

 最初は素っ気なく否定する。だが数秒後、目を細めて琥珀を転がすように見ながら、ぽつりと漏らした。

 

 「……まあ、それなら……納得は行くけど」

 

 主様はその会話を聞きながら、きょとんとした目を二人に向けた。何を言っているのか分からず、口を開きかけては結局何も言えない。

 

 葉加瀬はそんな主様をよそに、すっと立ち上がる。

 

 「明日になれば分かるよ」

 

 そう言って、部屋の灯を消した。障子の向こうで風が鳴り、夜の冷気が少しだけ流れ込んだ。

 

 「……明日も早いからね」

 

 布団を引き寄せ、葉加瀬は静かに横になる。その横で夜見は、くすくすと笑いながら布団を引きずり、主様の傍ににじり寄っていく。

 

 「ねえねえ、主様〜。一緒に寝よ?」

 

 主様は「ひっ……」と小さく声を上げ、慌てて自分の布団を抱き寄せて距離を取った。

 

 「……寄らないで……!」

 

 夜見はくすりと笑って、顎に手を当てる。

 

 「ねぇ、本当の名前、何て言うの?」

 

 暗がりの中で、主様は少しの間だけ黙り込んだ。やがて、諦めたように小さく息を吐く。

 

  「……天宮こころ」

 

 夜見の目がわずかに優しく細められる。だが、天宮は顔を逸らし、布団をさらに抱きしめながら小さく呟いた。

 

 「……人の心……勝手に覗くもんじゃないよ」

 

 夜見はそれを聞いて、少しだけ目を伏せ、声を立てずに笑った。部屋には虫の声と、三人の寝息だけが静かに溶け込んでいった。

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