――まだ朝靄の冷気が残る、白竜の里の神殿。
「きゃあああああああっ!!」
甲高い悲鳴が響き渡った。ばさり、と布団を蹴り飛ばして飛び起きた葉加瀬は、寝乱れた髪もそのままに顔をしかめた。
「……うっせぇな……」
だがすぐに空気を読んで立ち上がり、襖を勢いよく開けて声のする方へ走る。薄暗い廊下を走り抜け、角を曲がった先で――鮮烈な赤が染みついた痕跡があった。
血痕だ。
床の上にべったりと、まだ新しい存在感を残している。
その場に蹲っていた天宮を見つけ、葉加瀬は素早く腕を伸ばした。
「おい、主様。こっち来い」
強引に抱き起こし、半ば引きずるようにして自室へ戻る。天宮はまだ青い顔をしたまま、必死に荒い息を繰り返していた。
葉加瀬は襖を閉め、窓を勢いよく開け放つ。
「……あんまり見すぎると血管迷走神経反応でぶっ倒れるぞ」
そのまま天宮を窓辺へ押しやり、背中を支える。
「ほら。ここで外の空気吸っとけ」
天宮は必死に外気を吸い込みながら、震える指先で襖を掴んだ。葉加瀬は短く溜息をつくと、踵を返して再び血痕のあった廊下へ向かう。
血の跡は、床を這うようにして外へと続いていた。葉加瀬はその軌跡を冷静に目で追った。
そして、血痕の脇にいくつか転がっているものを見つける。
――半透明に輝く、小さな氷砂糖。葉加瀬は眉をひそめ、ため息混じりに肩を落とした。
「……念のために頼んどいて良かったぁ……」
小声で吐き捨て、しゃがみ込んで氷砂糖を手のひらで転がす。
「……寝込み襲われると、やっぱ怖いからなあ……」
そう呟きながら、ひとつずつ拾い上げてポケットにしまう。その様子を背後から夜見れなががじっと見ていた。目を爛々と輝かせ、興味津々で首を傾げる。
「ねぇ、それ何〜?」
葉加瀬は氷砂糖を指で弄びながら、顔を動かさずに答えた。
「……警備会社、入れといたんだよね」
声に起伏はなく、ただ事実を述べるような淡々さだった。夜見は「ふーん」と楽しげに微笑みながら、葉加瀬のポケットをじっと見る。
葉加瀬は無視するように立ち上がり、氷砂糖をもう一度確かめてから目を細めた。
「……ちょっと。他の人の様子も見てくる」
そう言い残し、音を立てずに神殿の廊下を歩き出した。
まだ朝の光が弱く、神殿の襖越しに柔らかな冷気が漂っている。
天宮こころが荒い息を落ち着けているところに、慌ただしい足音が近づく。襖が勢いよく開くと、巫女頭が顔を青くして飛び込んできた。
「主様!! もう大丈夫ですよ!! お怪我はありませんでしたか!?」
その声には取り繕いのない心配が滲んでいた。天宮はびくっと肩を揺らしたが、外の空気を吸っていたせいか、少し落ち着いた顔を巫女頭に向けた。
「……大丈夫、みたい。……えっと……冬雪……さん?が助けてくれた、みたいで……」
名前を口にする時、どこかたどたどしく、夜見の方をちらりと見やった。どうやら夜見から聞いた名前をカタコトで思い出したようだった。
巫女頭は安堵の息を吐きながらも、すぐさま夜見と葉加瀬に深く頭を下げた。
「……大人の我々が泊まっていながら、このような危険に晒してしまい、誠に申し訳ございません」
声がわずかに震えていた。
「……我々も、朝早くから会議が入っており、見張りの者以外は持ち場を離れておりましたので……」
葉加瀬はポケットに手を突っ込んだまま、少し冷めた目で巫女頭を見ていたが、すぐに興味を失ったように視線を外した。
その横で夜見は、じっと巫女頭の目を見つめた。まるで中を覗くように、わずかに首をかしげながら。
そしてふっと緩く笑って、葉加瀬に向かって肩をすくめる。
「……嘘は言ってないみたいだね」
葉加瀬はそっちを見るでもなく、淡々と答える。
「だろうね」
それ以上、特に問い詰める様子もなかった。血の跡を追いかけるような目つきはなく、むしろどこか気怠そうですらあった。
そして少し間を置いて、葉加瀬は顔を上げた。
「……じゃあ、」
声が低く落ち着いて、だがどこか刺さるような真っ直ぐさで巫女頭に向けられる。
「……よろしければ、我々にも付き添ってもらえませんか」
巫女頭は一瞬きょとんとしたが、すぐに身を正した。
「……どちらまで、でしょうか」
葉加瀬は視線を天宮へ向けた。
「先代の“主”――主様の母上様が眠っている場所まで、案内してもらえないかな」
夜見も横からくすっと笑い、天宮を覗き込む。
「私も行ってみたいな〜、その“大切な場所”」
天宮は目を逸らさずに二人を見返した。そして、ゆっくりと小さく頷く。
――白竜の里を抜け、緩やかに登っていく山道。
人の手が届く集落の境界線を超えると、空気が変わった。石畳は次第に苔むし、草が割れ目を押し広げていた。道沿いに組まれた用水路は泥が詰まり、水はゆっくり淀んで流れ、そこに小さな虫が湧いていた。
木々の枝葉は生い茂り、夏の名残を残す濃い緑が行く手を遮るように折り重なっていた。
朝の光も葉の間を通して、まだらに地面を照らす。風に揺れるたび、無数の影が蠢き、どこか生き物のようだった。
夜見はその暗がりの中を軽快に歩きながら、時折振り返って香子をからかうように見た。
「ねぇ香子さん、朝は何してたの?」
香子は夜見を見て一瞬戸惑ったが、すぐに淡々と返す。
「朝は会議がございました。私も出席しており、門は見張りに任せていました。会議が終わってからは、巫女頭様の代わりに巫女同士の打ち合わせを……」
夜見は最後まで聞かずに顔をしかめた。
「うわ……なんかつまらない」
苦い顔をして、すぐにまた前を向いた。香子は少し眉を下げ、言いかけた言葉を飲み込む。
葉加瀬はといえば、スマホをいじりながらも足元を注意深く選び、何も言わずついてくるだけだった。その表情には相変わらずの無関心が滲んでいた。
進むごとに、里の「人の手」が消えていった。
田畑の区画もなくなり、荒れた石段は根に持ち上げられて崩れていた。苔に覆われた石灯籠は半分以上地に沈み、誰も灯を入れないまま黒ずんでいた。
倒木が参道を塞ぎ、蔓が石垣を呑み込んでいた。
音も変わった。
風で竹やぶがきしむような音。鳥の声は遠く、代わりに聞こえるのは虫の羽音と、時折頭上を滑るように移動する蛇の気配。
湿気が濃く、空気が重たくなる。
進むたびに、服が露を吸って冷たく張りつく。
足を下ろすたびに腐葉土がわずかに沈み、湿ったにおいが立ちのぼった。
そして、木々の切れ間から、ようやく鳥居が姿を現した。木製の鳥居はひび割れ、苔と蔦が絡みついていた。上部の笠木には雨水の跡が黒々と染みている。
鳥居を潜ると、空気はさらに冷たくなった。境内は開けているはずなのに薄暗く、木漏れ日すら鈍く霞んでいた。地面には落ち葉が厚く積もり、踏むたびにぱりぱりと音を立てた。
巫女頭が静かに振り返る。
「こちらです」
指し示す先にあったのは、藻のこびりついた古い祭壇。割れ目から草が生え、側面は雨水で溶けたように黒く汚れていた。
香の灰が雨に溶けて黒い筋を作り、誰も拭わないまま何年も経っているようだった。祠を覆う屋根は歪み、苔に飲み込まれ、風が吹くたびにきしりと音を立てた。
巫女頭はその前で立ち止まり、一礼するように頭を下げた。
「……こちらが、先代の主様を祀っていた祭壇です」
そして顔を上げ、かすかに緊張を滲ませた声で続けた。
「ですが……呪いの噂もありましたので、骨壺は現在、本殿に移しております。もう供物を捧げる者はおりません」
辺りは、誰にも手を入れられずにただ朽ちるのを待つような――寂しさが澱んでいた。
――森の奥、薄暗い神社の境内にて。
湿った苔の匂いと、微かに染み込んだ古い線香の香りが混ざり合う中、葉加瀬冬雪はじっと祭壇を見下ろしていた。
無言で立ったまま数秒。
やがて「……罰当たりだとは思いますが」とだけ呟くと、ポケットから防護眼鏡を取り出し、顔にかける。
次に軍手をはめ、ゆっくりと鎖で縛られた古い柩へ手をかけた。
ギギ……ギリ……
錆びついた鎖を無理やり引きちぎるようにしてこじ開ける金属音が、神域に不気味に響いた。
「っ……や、やめてください!」
香子が青ざめて駆け寄ろうとするが――
「香子、いいの」
天宮が小さく首を横に振り、香子の袖を掴んで止めた。香子は苦しそうに唇を噛むが、それ以上動けなかった。
柩が完全に開くと、中には無数の小さな黄色い石がびっしりと詰まっていた。湿気を吸い込んで鈍い光を放ち、異様なほどの存在感を放っている。
葉加瀬はじっとそれを見つめ、低く息を吐いた。
「……本当に、あるとはね」
その声は感情を排したように冷静だった。巫女頭が恐る恐る足を踏み出し、石をのぞき込もうとする。
「これは……」
だが葉加瀬は手を伸ばして制する。
「触らないでください」
その声に巫女頭はびくりと肩を震わせた。葉加瀬は無造作に柩の蓋を閉じ、鎖を引き寄せるようにして乱雑に固定した。
香子が恐る恐る口を開いた。
「……それは、一体……?」
葉加瀬はゆっくりとゴーグルを外し、軍手を外しながら言った。
「……“呪い”の正体です」
森の音が一瞬止んだように、空気が静まる。葉加瀬はポケットに手を突っ込んだまま、低く続けた。
「推測になりますが」
視線を天宮にやり、淡々と話し出す。
「昭和の帝がご健在であった頃――かの米国との戦の最中。先代の父上は、兵として駆り出されてたのですよね」
天宮は小さく声を呑む。
「その間に、先代――つまり、主様の母上は、秘術について一切の正式な伝承を受けないまま大人になられました」
葉加瀬は鼻を鳴らすように小さく息を吐く。
「今の主様は周りの人たちに手伝ってもらって、ようやく秘術を使えるようになったみたいだけど――先代は、多分そうではなかったのでしょう」
天宮の瞳がわずかに揺れた。
「里の人間たちは、“秘術には黄色い石を使うらしい”っていう噂だけが伝わっていたのではないでしょうか。だから、この黄色い有毒の石――硫化鉱物を必死に集めたのです」
葉加瀬は冷たく石を見下ろす。
「無論、この鉱物は水溶性も高い。雨に晒されれば、土壌に溶け込んで猛毒を撒きます。」
「村の外で生活する殿方を、死に至らしめてしまうほどに」
森の湿気を帯びた空気が、急にひどく重たく感じられた。
「……つまり、“呪い”ってのは――この鉱物の毒性のせいだったんです」
言葉を吐き終えると、葉加瀬はそっと視線を落とし、黙り込んだ。鳥の声すら遠くで消え入り、森の奥にただ冷たい風が流れた。
森の奥、苔むした鳥居の下で風が揺れる。防護眼鏡を外しながら短く告げた。
「……もし、この近くの植物を売るつもりなら、この周辺に自生するものは毒性がないか全部調べさせた方がいい」
その声は落ち着いていたが、どこか容赦なく鋭かった。
「それと――この硫化鉱物。素人がどうにかできるものではありません。専門の業者呼んで処理させたほうがよろしいかと」
巫女頭は顔を引き締めて頷く。葉加瀬はさらに視線を外さず、静かに言葉を続けた。
「……もし畑仕事をした男たちが汚染された土を触って毒を浴びたんなら――畑も念のため、専門機関に土壌を調べてもらった方がいいかもしれません」
巫女頭は頭を深く下げた。
「……ありがとうございます。手回ししましょう」
だがすぐに顔を上げ、前に少し頼りなさげな色を滲ませる。
「……となれば、先日依頼を受けた、この周辺に関する調査は――もう不要、ということでしょうか?」
葉加瀬はそれを冷静な目で見つめ、ほんの僅かに首を振った。
「いや。……それは引き続き、お願いしたい」
巫女頭はその答えに僅かに目を丸くしたが、すぐにまた真剣に頷いた。それ以上何も言わず、軍手を外し、ポケットに手を突っ込むと無言で神社を後にした。
苔に覆われた石段を、ゆっくりとした足取りで降りていく。後ろから、足音を忍ばせて夜見が追いかける。
「……ねぇ、冬雪。どういうこと? もう終わったんじゃないの?」
子供のように首を傾げて葉加瀬を覗き込むが、葉加瀬は視線を前に向けたまま、答えない。
湿った土の匂い。暗い森の冷気が二人の間を吹き抜けた。
―――何者かに、今朝襲われたこと。
―――そして、それにも関わらず直接助けに来なかった、なんなら、最初以外全く目にしないあの男。
視界の隅に夜見の赤い瞳が揺れる。最後まで何も答えずに、ゆっくりとした歩みで、再び足を進めていく。植物の生い茂る森の中、葉加瀬はふっと夜見れなに視線をやった。無表情の奥に、鋭い思考を張り巡らせている。
連中は、まさか私たちが「一瞬で」元の神殿まで戻るとは夢にも思わないよね。
その瞬間。夜見がいたずらっぽく目を細め、にやりと笑う
「行くよ、冬雪」
葉加瀬の手首を軽く掴む。次の瞬間、空気が歪むような感覚が走り――
視界が一変した。
神殿の入り口だ。
木の扉に雨の跡が残り、かすかに漂う線香の匂いが鼻を打つ。
葉加瀬は無言のまま、すぐに歩を進めた。