声が、まるで氷の刃を突き立てるように鋭く、しかし妙に艶やかに響いた。
――森の空気はぴんと張り詰め、湿った落ち葉が冷たい匂いを立てていた。
葉加瀬冬雪に胸ぐらを掴まれた白髪の男の目が、血走るようにギラつく。
その口が、憎悪で歪む。
「おのれ……!」
声が低く唸るように震えた。
「一度ならず二度までも!!」
そのまま懐に手を突っ込み、短剣を抜く。鋭い銀の刃が、葉加瀬の胸を狙って一閃しようと振り上がった瞬間――
ズザッ
――風を切る音が響いた。突如、男の背後から影のようなものが素早く伸び、腕を捻り上げるように掴む。
「ぐっ……あああっ!」
悲鳴が森に木霊した。
次の瞬間、その影は信じられないほどの力で男の身体を地面に叩きつけた。湿った土が派手に跳ね、苔むした根が軋む音を立てる。
「うっ……ぐぅ……!」
白髪の男はもがこうとするが、その上に覆いかぶさるように影が乗りかかる。
影の正体は――深海のように冷たい蒼い眼を持つ金髪の少女だった。静かに息を吐き、白髪の男を見下ろす眼差しは、まるで氷で彫られた彫像のよう。
男は呻き声を上げるが、少女の視線は一切揺れない。
夜の深海のような冷たい光を宿す瞳が、無感情に男を見下ろしていた。長い金髪が微かに揺れ、その先端が血のような赤土を払った。
少女は言葉を発さず、ただじっと男を睨む。その目には一片の慈悲も揺らぎもなかった。そして、ゆっくりと懐から蒼色のリボルバーを抜き出す。金属光沢の青が、森の薄明かりを反射して怪しく輝いた。
男は顔を引きつらせ、恐怖で目を見開く。
「な、な……なにを……!」
しかし、少女は一切表情を変えず、無言のまま男の頭に銃口を押し当てる。
そして――
カチッ
冷たい引き金の音が響いた。
バンッ
短く、だが鋭く乾いた銃声。頭を撃ち抜かれた男の身体がビクリと跳ね、そして二度と動かなくなった。
森の中に、血の匂いが広がる。鳥の声さえも止まり、風が葉を撫でる音だけが聞こえた。
少女はリボルバーを淡々とホルスターに収め、血に汚れた指先を払いもせずに、ただ立っていた。その冷たい蒼の瞳は、葉加瀬に向けられても微動だにしない。
葉加瀬は口角をわずかに上げ、悪びれもせずに言った。
「……ありがとう。
今回は、何かと助かったよ」
少女は視線を少しだけ下げて、葉加瀬を見据えた。
その深海のような瞳には情も慰めもなかったが、確実な意志が込められていた。森に沈む夕暮れの光が、金色の髪を鈍く照らし、彼女の輪郭を鋭く浮かび上がらせていた。
静まり返った木立の中で、夜見が赤い目をぱちぱちと瞬かせた。白髪の男の死体を一瞥し、そしてゆっくりと葉加瀬へ振り向く。
「ねぇ冬雪。……あの金髪の子、何者?」
葉加瀬は泥のついた手袋を軽く払って、肩をすくめた。そして横目で夜見を見やり、淡々と答えた。
「……言ったでしょ、警備会社入れといたって」
夜見が目を細めて怪訝そうにするのを無視して、少し口元を緩めた。
「私の友達のコハクちゃん」
「友達……?」
夜見はあきれたように眉を上げた。
「いつの間にそんなの増やしてたの?」
葉加瀬はそっちを見ようともせず、冷たい声でぼそりと続けた。
「……危なくなったら連絡して、助けてもらうようにしてたんだよ」
夜見はふぅんと鼻を鳴らして、興味深そうにコハクを見やった。
金髪の少女――コハクは、リボルバーをホルスターに収め、無駄のない動きで血を払う。そして淡い蒼の瞳を二人に向け、抑揚の少ない声を発した。
「……私らも、この化学兵器の製造元を調べてた」
夜見が「へぇ」と声を上げる。コハクは視線を夜見から葉加瀬に移した。
「仲間の諜報員をこの里に送り込んでたけど、決め手が足りなかった」
その瞳は深海のように静かで冷たい。
「――この男が黒だと突き詰めてくれたおかげで、発砲許可を正式に得た。仕留められて助かった」
夜見は口角を上げて「ふーん」とだけ言い、葉加瀬を肘でつついた。葉加瀬は軽く肩をすぼめたが、それ以上は答えなかった。
コハクは二人を見渡し、落ち葉を踏みしめて一歩前に出た。
「もうすぐ、うちの清掃班が来る」
淡々とした口調が、冷たい空気に沈む。
「二人とも――ここからさっさと退避して」
それだけ告げると、コハクは背を向けた。コートの裾を揺らし、落ち葉を蹴りながら歩き出す。
その去り際に、葉加瀬が不意に声をかけた。
「今度、何かご馳走するね~」
その声は無駄に明るく、まるで場違いなほどだった。
コハクは足を止めた。振り返りはしなかったが、わずかにその背が固まる。
「……私、忙しいんだけど……」
小さく、考えるように呟いたきり、答えは返さなかった。
それでも何も言わずに、再び歩を進める。金色の髪が揺れ、深い森の影に溶けていった。
森の奥、湿った土と血の匂いがまだ空気に残る中。
夜見は死体をしげしげと眺めて、肩をすくめた。
赤い瞳を細めて、気だるそうに呟く。
「……社長も結構、変な人に因縁つけられて恨まれるんだよね〜」
葉加瀬は無言でポケットを探ってグローブを外し、泥を払うように指先を擦る。そして横目で夜見を見やり、短く吐き捨てた。
「……そういう役回りを、あの人は敢えてしてるから。仕方ない」
夜見は小さく笑ったが、すぐに真顔に戻って死体を見下ろす。葉加瀬は少し歩を進めて、振り返らずに低く続けた。
「……でも、こいつは違った」
夜見が首を傾げるのを感じ取りながら、葉加瀬は冷たく言葉を紡ぐ。
「悪人にもなりきれず。かと言って、自分の失態を認めて、自分の罪を償うこともできなかった」
靴で落ち葉を踏みしめる音が、妙に大きく響く。
「……ただの半端者だよ。そうして生き残ってきただけ」
夜見は口を噤み、視線を足元に落とす。葉加瀬はふっと息を吐いた。
「……でもさ」
そこだけ、わずかに声が柔らいだ。
「まともな護衛や部下はいた。結構、人望はあったんだろうね」
夜見は目を上げて、葉加瀬の横顔をじっと見つめた。葉加瀬はポケットに手を突っ込み、わずかに顔をしかめた。
「……まあ。Σのエージェントに目をつけられずに生きてれば……」
視線を遠くに投げる。
「今頃、オリヴィスが開発してた融合兵器の一端でも手に入っただろうに」
夜見はその言葉にピタリと動きを止めた。そして、赤い瞳をじっと見開き、真顔で言った。
「……冬雪、そういうとこ。そのうち本当に逮捕されちゃうよ?」
葉加瀬は一瞬きょとんとしたが、すぐに小さく笑った。
「……冗談だよ。冗談」
夜見は溜息をつき、わざとらしく大きく肩を落とした。
そして二人は、もう一度死体を一瞥したきり、その場を背にして歩き出した。落ち葉を踏む音が森の静けさに吸い込まれ、夕方の冷たい風が頬を撫でた。
空は灰色に曇り、森の影はさらに深く長く伸びていった。
――冷たい風が吹き抜ける里の神殿の外庭。石畳の隙間から生える苔がしっとりと濡れて、朝露をまとっていた。
巫女頭はそんな庭先に出て、吐く息を白くしながら背後に控える護衛の男に声をかけていた。
「……あやつは、どこへ行った?」
「近頃は、ほとんど主様や我々の前に姿を見せていない。」
言葉は軽く投げたようだったが、声の端には重い色が滲んでいた。
「先代の主様がお隠れになってから、随分とあやつも忙しそうであった…息災だと良いが。」
護衛は目を伏せ、気まずそうに唇を引き結んだ。
そして言いづらそうに声を絞り出す。
「……もう、ここに戻ることは……ないでしょう」
巫女頭は一瞬だけ目を閉じた。そしてゆっくりと開けたその瞳は、どこか諦めたように淡く濁っていた。
「……そうか」
庭先をゆっくりと見回す。松の葉を落とした庭木、苔の香り、石灯篭に積もる落ち葉。
「……結局、あやつも」
声がかすれるように低くなる。
「集落に毒を溜め込んだ住人も――我らも、皆、阿呆だったのだな」
護衛は息を呑むが、言葉を挟むことはできなかった。巫女頭は目を伏せて、寂しそうに唇を噛む。
奴もお供えをした里の人も、先代の主の秘術を、どうにかして開花させたかった。
巫女頭が彼の顔を思い浮かべると、風が吹き、着物の裾をはためかせた。視線を落としたまま、かすかに呟いた。
「……人が喜ぶように。“よかれ”と思って動いたのに……結局、誰も得をしない結末か」
その声音は苦く、どこか虚ろだった。
――その頃、神殿の中。
当の主様は自室の畳の上に、重たそうなリュックを置き、生活用品を詰めていた。
石鹸、タオル、着替え、乾物――ありったけを詰め込みすぎてリュックはパンパンに膨らんでいる。
「香子、これ……電車とバスって、どのくらいかかるの?」
横で畳に正座していた香子が、少し困ったように微笑む。
「……片道でしたら、このくらいかと」
香子はおおよその金額を指で示し、天宮は真剣な顔で財布を開き、小銭を数えた。
「うーん……行きは大丈夫、帰りは……まぁ、なんとか」
香子は不安げに天宮の荷物を見たが、天宮は全く意に介さず、なおもリュックに荷物を詰め込んだ。
――その様子を、外庭から戻りかけた巫女頭が障子の隙間からそっと覗いた。
あれが、主様か。
伝統や形式を守るだけでは、この里はもう持たない。巫女頭は天宮の真剣な横顔を見つめ、思わず微笑んだ。
……外に目を向けなければならない。椎名菜塚のように。
……我々の憩いの場たる里を守るために。
その目は疲れていたが、どこかに決意の色が宿っていた。そして静かに襟を正し、巫女頭はまた神殿の廊下を歩み出した。
廃工場の天井は高く、鉄骨の梁が蜘蛛の巣だらけで鈍く光を反射していた。
壁にはひび割れたガラス窓が並び、外の夕日を斑に取り込んで、血のようなオレンジ色を落とす。
床は油と埃にまみれ、ところどころに転がる金属片が鈍い音を立てた。
その中央に鎮座しているのは――竜の形をした、巨大な歯車の機械だった。
頭部は鋳造された竜の顔を模しており、歯車が顎のように噛み合い、複雑に絡み合ったパイプがまるで鱗のように這い回る。
色は深い錆に覆われ、ところどころ真鍮や鉄の素地が覗く。
何十年も動いていないその巨体は、まるで眠っている竜の骸骨のようだった。
その傍らに、一人の少女がうずくまっていた。
まだあどけなさの残る顔、真っ直ぐ伸びた青い髪は油塵で薄く汚れている。
両膝を抱え、ぎゅっと目を瞑っていた。
呼吸は細く、唇は何かを必死に噛みしめていた。
その身体の周りには埃が積もり、廃工場の冷たい空気が容赦なく吹き込む。
少し離れたところには、もう一人の少女が立っていた。
金髪の長い髪をゆるく束ね、瞳は澄んだ翡翠色。
ゴーグルを額に載せ、アンティーク調の白いブラウスに深いグリーンのロングスカート。
手には大きな金で出来た杖を抱えている。その柔らかい口元をほんの少し結んで、じっと彼女を見つめていた。
杖の先端の装飾が薄暗い光を反射し、埃が舞うたびにわずかに金色の光の粒を散らした。
やがて――
小さく呻くように肩を揺らした。
瞼が震え、青い瞳がゆっくりと開く。
「……ん、あ……」
細い声がこぼれる。
しばらく焦点が定まらないまま辺りを見渡し、ようやく少女を認めた。
そして、表情に決意を滲ませた。
「……やっと、見つけた……」
立ち上がった青髪は埃を払いもせず、竜の歯車の横をすり抜けるように歩き出した。
廃工場の大きな開口部から、うっすらと夜が滲む外へと出る。
その瞬間、外気が彼女を包み込む。
埃っぽい廃工場の匂いと、外の青臭い森の湿った空気が混ざって鼻をついた。
深く息を吸い込む。
その背中を、黙って見送っていた。
杖を両手で抱えたまま、柔らかながらも寂しげな目をしていた。
振り返り、少し不満げに眉を寄せた。
「……止めないの?」
小さく首を傾げた。
そしてほんの少し微笑むように、でもどこか影を落とした声で答えた。
「……工場長なら、きっと止めないから」
声はふわっとしていたが、その瞳は確かに何かを理解している大人のそれだった。
その言葉を聞いて、少しだけ目を伏せた。
そしてポケットから、小さな琥珀を取り出した。
それはわずかに内側で光り、何かを閉じ込めたように濁っていた。
「……じゃあ、行くね」
琥珀をそっと手のひらに乗せる。
青い瞳に決意が宿り、その小さな口が何かを唱える。
琥珀がかすかに振動し、光を放った瞬間――
パリンと音を立てることもなく、煙のように手のひらから消滅した。
同時に、輪郭も溶けるように揺らぎ、空間を裂くようにして姿を消した。
最後まで、その場所を見つめ続けていた。
冷たい風が吹き込み、廃工場の埃を巻き上げる。
金色の杖を胸に抱え、ひとつだけ小さな吐息を零した。
「……気をつけてね」
その声は、もういなくなった誰かにだけ届くように、小さくかすれていた。