咲-saku- 【完結】   作:えいどら

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おまけ
おまけ:白銀の翼 1章


 山奥に潜む施設の中。

 

 灰色の半袖服。胸元には「C-21」と縫い付けられた番号札。

 

裾はほつれ、膝には乾いた泥がこびりついている。両足首には分厚い鉄の枷が巻かれており、動けば金属音が冷たい空気に響いた。

 

 職員の影が通り過ぎるたび、C-21は反射のように背筋を伸ばす。叩き込まれた習性――逆らえば、痛みが与えられることを知っているからだ。顔を上げることもなく、ただひたすらに鉄線を磨き続ける。

 

 手のひらは小さく、爪の隙間は赤黒く汚れている。だが表情は無だった。泣くことも、怒ることも、笑うことすらも、ここで許される感情ではないと教え込まれていた。

 

 風が山の稜線を抜けて吹き込み、鉄条網の向こうに広がる森を揺らした。外界は近く、しかし絶対に届かない。柵の内側は、決して越えられぬ境界。

 幼い彼女の瞳に映るのは、錆びた鉄と鈍色の空だけ。

 

 「C-21、手を止めるな」

 

 背後から鋭い声が飛ぶ。C-21は小さく肩をすくめ、布を握る手に力を込めた。

 ――それが、彼女にとっての「日常」だった。

 

 鉄条網を磨く手を止めぬまま、C-21はゆっくりと息を吐いた。周囲を見回せば誰もいない。けれど、ふいに靴音とは似つかぬ――乾いた拍子木のような足音が背後から近づいてきた。

 

 振り向かずとも分かる。

 

 鮮やかな縞模様と、無駄に長い袖をひらつかせたピエロ姿の男。柵の内側を、まるで遊園地の道でも歩くかのように、陽気な調子で近づいてくる。

 

 「おやおや~……今日も相変わらず、見窄らしい格好をしてますねぇ、姉御」

 

 道化の仮面の奥から覗く目は笑っていない。その声音は、芝居がかった皮肉と媚びをないまぜにしたものだった。

 

 C-21は一切反応を示さない。番号札の縫いつけられた囚人服が風に揺れる。足枷が小さく鳴った。

 ただ、うざったそうに視線も向けずに、布で鉄条網をこすり続けた。

 

 「ふふ、その、取り合わない様子も……まさに姉御らしくて素敵ですよ?

 ――うちの弟子どもにも、ぜひ見習わせたいくらいで」

 

 芝居がかった声は、耳の奥で鈴のように鳴り響く。だがC-21はやはり眉一つ動かさない。

 

 やがて、無感情な声がぽつりと漏れた。

 

 「……ピレトリンか、アレスリンない?」

 

 ピエロの足音が一瞬だけ止まる。

 

 C-21は鉄条網から目を離さぬまま、吐き捨てるように続けた。

 

 「最近……虫がうるさくて。眠れない。

 殺虫剤、作りたいんよ」

 

 ピエロは肩をすくめ、大げさに両手を広げた。

 

 「いやはや……こっそり持ち込んだことがバレたら、折檻では済みませんよ?」

 

 軽口の裏に、冷たい針のような響きがあった。

 「まったく……こんな場所にいるだけでも十分危険だというのに。……いやぁ、下手をすれば、私は石棺にでもされてしまうかもしれませんねぇ」

 

 どこまで本気かも分からない台詞に、C-21は反応を示さない。

 ただ鉄条網を拭く手を止めず、鬱陶しげに短く答えた。

 

 「……じゃあ、そういうことで」

 

 それだけ。視線も向けぬまま。

 

 ピエロはその無関心に、むしろ嬉しそうに笑い、腰を折るようにして言葉を重ねた。

 「もちろんですとも。姉御はお得意様ですからねぇ~」

 

 そして、道化の仮面越しににたりと口角を上げる。

 「ではそういうことで。……お互い生きていたら、また会いましょうねぇ~」

 

 その声を残し、ピエロの足音はひょいと跳ねるように遠ざかっていった。

 振り返ればもう影もなく、柵の向こうにはただ風に揺れる森の緑だけが広がっていた。

 

 C-21は一度小さく息を吐き、布を握る手に力を込めた。

 ――鉄の匂いと虫の羽音が、変わらずそこにあった。

 

 夜。

 

 作業を終えたC-21は、重たい足枷を鳴らしながら冷たい鉄格子の牢へと押し込まれた。

 石壁は湿り、灯りもなく、ただ暗闇だけが広がっている。

 

 部屋の隅。

 ひっそりと置いていたビーカーを手に取ると、中の液体が減っているのがすぐに分かった。

 

 「……また半分くらい飲まれてる……」

 

 小さく舌打ちし、ぼそりと続ける。

 

 「どうせ、またあの緑髪だろうな……。……飲むだけで即死のやつも一緒に置いてるのに、なんで毒がないって分かるんだろ」

 

 苛立ちよりも、呆れの色が強い声だった。

 

 C-21はサンダルを脱ぎ、土踏まずに貼りつけていた小さなアンプルを取り出す。

 そして、鉄格子の影の下、すでに並べていた他のアンプルの横にそっと置いた。

 暗闇にガラスがわずかに反射し、不気味な煌きを放った。

 

 それから、やることもなく、錆びたベッドに横たわる。

 毛布もなく、薄いマットに背中の骨が軋むのを感じながら、静かに息を吐いた。

 

 「……なんとか使える人間は使ってるけど……そろそろ、何とかしないと……マジで売り払われかねない」

 

 言葉に出しても、何も変わらないことは知っている。

 それでも、口の中に残る鉄の味をごまかすように呟いた。

 

 「……児童売春にでも使われたら……最悪だ……」

 

 暗闇の中で、幼い顔が苦々しく歪む。

 やがて、そのまま瞼を閉じた。

 不安も、恐怖も、諦めも――すべてを押し込めるように。

 

 そして、冷たい鉄格子に囲まれた牢獄の中で、C-21は眠りへと沈んでいく。

 

 夜がまだ残っている。

 

 空は濃紺のまま沈み、施設の塀の上に張り巡らされた有刺鉄線が、月明かりに白く鈍く光っていた。森の奥からは梟の鳴き声が短くこだまし、湿った土の匂いが風に乗って漂ってくる。

 

 鉄格子に囲まれた区画の奥で、子供たちの眠りは浅く、時折うなされる声や、鉄枷が擦れる小さな音が夜気に混じる。

 

 やがて、東の山稜がわずかに色を帯びる。

 

 墨のような闇が、じわりじわりと灰に薄まっていく。鶏の鳴き声もなく、ただ山霧が白く立ち込め、塀の上の鉄条網を柔らかく包んでいく。冷気は肌を刺すが、霧の奥から差し込む光が少しずつ鉄と石壁を浮かび上がらせていった。

 

 空が灰青に変わると、施設全体が別の世界に見える。

 

 黒々とした森は霧に飲まれ、遠くからは名も知らぬ鳥の鳴き声がまばらに響く。子供たちが囁き合う声も、そんな背景に溶けて消えていくようだった。

 

 C-21は施設の片隅、ひび割れたコンクリートの壁にもたれかかりながら、同じ班の子ども二人と共に休憩を取っていた。

 

 ひそひそ声が耳に届く。

 

 「……聞いた? B区画の47番の子、売れたらしいよ」

 「どこに行くんだろ……」

 

 ふたりの表情に、恐怖は薄かった。

 ――むしろ「仕方ない」という諦めの色が濃い。ここでは、生きる行き先なんて誰も知らない。

 

 感情は支配され、心は操られる、

 

 ただ連れて行かれるか、残されるかの違いだけ。

 

 ひとりがC-21に目を向け、口を尖らせた。

 「ねぇ……あんまり変なことしない方がいいよ。先生に目つけられるよ?」

 

 もうひとりも小声で畳みかける。

 

 「この前、あの坊主頭の先生に……変なもの飲ませちゃったの、あなたでしょ? もし戻ってきたら大変なんじゃない? ……私たち、知らなーい」

 

 子どもたちは肩をすくめ、責任をなすりつけるようにしてそそくさとその場を離れていった。

 

 C-21は眉をひそめ、ふてくされたように吐き捨てる。

 

 「……チッ、うるさいわ」

 

 錆びた鉄柵の影を踏み越え、仕事場へと歩き出す。

 その歩調は幼い体躯に似合わず、冷え切った思考に裏打ちされていた。

 

 あの坊主頭のやつ、来月戻ってきたら……身体の調子を、うまく聞き出して……

 

 足枷がじゃり、と音を立てる。

 

 ……次は腎機能を壊す成分を、もう少し強めたやつにして……あの女の職員に試してみるか。

 

 表情は冷酷そのもので、八歳の子どもらしさは欠片もなかった。

 ただ、淡々と、誰かを実験台にする算段を頭の中で組み立てながら――C-21は、暗い施設の廊下を歩いていく。

 

 「……あー……でも、そろそろ頑張って洗脳緩めてんのもバレそうだなぁ……」

 

 足枷の鎖が、かちゃん、と床に当たる。

 

 「……もうやめとくか」

 

 そう自分を諌めるように呟きながらも、気だるげに作業場へ向かった。

 

 その日の仕事は――トイレ掃除。

 刷毛を手に、黄ばんだ便器を擦り、黒ずんだタイルをこすり落とす。鼻をつくアンモニア臭が染み込むように肺に広がる。

 

 C-21は、濡れた手を振りながら不満げにぼやいた。

 

 「……どうせ“問題児”扱いやし……調理場や食糧庫には入れてもらえんし……。

 別に、時間かければ治るくらいの弱いのしか盛ってへんのになぁ」

 

 声はくぐもり、壁に吸い込まれていった。

 

 ふと顔を上げ、出口に目をやる。

 そこに――小さな影があった。

 

 同じ囚人服を着た少女。

 足枷のせいでやや不自然な姿勢のまま、じっとC-21を見ている。

 

 視線が合った。

 

 瞬間、少女はビクリと肩を震わせ、鎖を鳴らして後ずさった。

 そのまま足枷を引きずる音を響かせながら、慌てたように廊下の奥へと消えていった。

 

 トイレには再び静寂と悪臭だけが残る。

 C-21はため息を吐き、便器に視線を戻した。

 

 「……なに見てんねん……」

 

 小さく吐き捨てるように呟き、再びブラシを押し当てる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 血を流したかのような夕焼けが、寂れた旧時代の街を覆っていた。

 

 ひび割れた舗道、煤けた壁、窓の割れた古い建物――そこに、ひときわ不釣り合いな男が歩いていた。

 

 白塗りの仮面、色褪せた縞模様の衣装、長すぎる袖をひらつかせ、まるで道化芝居の一幕を演じるような足取り。

 だがその表情は笑っておらず、赤黒い空の下で異様に浮かび上がっていた。

 

 小声が仮面の奥から漏れる。

 

 「……まったく、旦那様には困ったものです。……私も、あまり暇ではないのですがねぇ」

 

 「ただまあ……これであの“天下無双”を出し抜けるというのなら――お安い買い物かもしれませんが……」

 

 言葉の調子とは裏腹に、足取りは軽く、裏路地を縫うように奥へ奥へと進んでいく。

 やがて、夕焼けを背にした影の中に、鉄条網と鉄格子に覆われた巨大な建物が姿を現した。

 

 それは「シヴィルト」と呼ばれる宗教感のある児童施設。

 

 だが、その外観は神聖さよりもむしろ不気味さを漂わせていた。鉄と石で固められた塀、塔の上に伸びる錆びた紋章、そして窓を覆う鉄格子。そこは無垢な子供から侵入者を拒むというより、中の子供を閉じ込めているかのようだ。

 

 ピエロはふわりと歩を止め、隣の電信柱にするりとよじ登る。

 その上から施設を見下ろし、口の端をわずかに歪めた。

 

 「……シヴィルト。いつ見ても、物騒な施設ですねぇ」

 「ヴァルテスもそうですが……やはり、幼気な少年少女の“葬儀場”にしか見えませんよ」

 

 仮面の奥の視線は、次の瞬間、双眼鏡のレンズへと吸い込まれていった。

 彼はそこから、中に潜むものを凝視する。

 夕焼けの赤と鉄格子の黒が重なり合い、まるで世界そのものが血に染まった牢獄のように見えた。

 

 双眼鏡のレンズの先に、黒い服を着た男の姿がふと映った。

 施設の職員か、それとも警備か――その目が、まるでこちらを真っ直ぐに射抜いてきたように感じられる。

 

 「……やべっ」

 

 ピエロは慌てて双眼鏡を下げると、電信柱からひらりと飛び降りた。

 袖をひるがえし、鎖を鳴らすように軽快な身のこなしで、次の電信柱に飛び移る。

 そのまま裏路地を縫うようにして、シヴィルトから遠ざかるように逃げていく。

 

 入り組んだ路地裏。古い石畳に赤黒い夕陽が差し込み、影ばかりが長く伸びている。

 ピエロは跳ねるように身を翻しながら、建物と建物の間を渡り歩き、やがて施設の影が見えなくなるまで一目散に駆け抜けた。

 

 ――しばらくして。

 

 息も乱さず、彼は再び姿を現した。

 今度は先ほどとは逆の方角、シヴィルトを挟んで真反対の地点。

 再び高所から覗き込もうとしたが――そこに広がるのは、鉄条網を巡らせた壁際を往復する黒服の警備たち。

 

 銃を抱えた影が交差し、まるで戦場の最前線のように物々しい気配が漂っていた。

 ピエロは舌打ちし、再び身を低くする。

 

 「……なかなか観察させてもらえませんねぇ」

 

 仕方なく、双眼鏡を下げ、道路沿いへと出る。

 街灯の壊れた暗い道を歩きながら、視界の隙間を必死に探る。

 だが建物の壁や鉄格子が邪魔をして、施設全体を見渡すことは叶わない。

 

 ピエロの仮面の奥の目が細く光る。

 「……どうにかして、もう少し覗き込みたいところですが……」

 

 複雑な路地を歩きながら、どうにか観察の手立てを探っていたそのとき。

 

 「――あ!」

 

 背後から、澄んだ少女の声が響いた。

 ピエロは条件反射のように振り返る。

 

 そこにいたのは、鉄格子の向こうからこちらを覗き込む、小さな影。

 シヴィルトの白い修道服に身を包んだ少女――まだ七歳ほどの幼い顔立ち。

 けれど瞳の奥は、年齢に似合わぬ妖しさを帯びていた。

 

 「師匠〜! もしかして、また私に会いに来てくれたの?」

 

 鉄格子越しに、無邪気そうに口元を歪めてみせる。

 その声音は冗談めいているのに、どこか底が知れない。

 

 「また新しいマジック教えてよ〜! 今度は失敗しないように頑張るからさ〜!」

 

 声を弾ませる少女に、ピエロは不意の心臓の鼓動に青ざめる。

 慌てて袖で顔を覆うようにして、小声で答えた。

 

 「……レナ……? ちょっと今、取り込み中でしてね。話しかけられると……心臓が止まって死にそうになりますので……できれば、あまり話しかけてほしくありませんねぇ」

 

 彼の狼狽をよそに、少女はくすくすと喉を鳴らす。

 「うふふ……それもまた、面白そうで良いねぇ」

 

 白い修道服の裾が、夕闇に溶けるように揺れる。

 

 ピエロは小さく咳払いをして、鉄格子越しの少女に声を落とした。

 「……レナ。改めて言いますがね、人と話すときは、もう少し様子を見てからにしてください。驚かされると、心臓がいくつあっても足りません」

 

 「……はーい……」

 レナは口を尖らせ、不満げに答える。小さな肩を落としながらも、しぶしぶ謝るように言葉を重ねた。

 「ごめんなさい、師匠……」

 

 ピエロはその様子を見て、仮面の奥でため息をついた。

 

 (……悪い子ではないんですよ。ですが……変なところばかり、私に似てしまいましたかねぇ……)

 

 鉄格子に身体を押しつけるようにして、レナは頬を膨らませる。

 

 「……師匠ばっかり楽しそうでズルい。こっちは施設の中で、お祈りして働かされるだけ……つまんないんだよ」

 

 その幼さの中に、不意に冷たい言葉が滑り込む。

 「そうだ! 先生たちが邪魔なら、殺しちゃえばいいんだよ! そしたらもっと面白くなりそう」

 

 ピエロは肩をすくめ、仮面の下で苦笑した。

 「……そんなことしませんよ。」

 

 そして、わざと真面目ぶった声音で問い返す。

 「そんなことを言って……もし、私が本当にそうしたら、あなたはどうするつもりですか?」

 

 レナはにやりと笑い、囁くように答えた。

 「……師匠に、襲いかかるかも」

 

 「でしょう?」

 ピエロは片手を上げて、降参するように応じた。

 

 だがレナは次の瞬間、急に気の抜けた声で続ける。

 「……だってしょうがないじゃん。そういう風に“洗脳されてる”んだからさ」

 

 瞳に輝きもなく、退屈そうに。

 その言葉は、七歳の少女が口にするにはあまりに不気味で、鉄格子の影を一層濃くする。

 

 夜。

 シヴィルトの薄暗い居室。壁には古びた聖句の額縁が掛けられ、窓には外の景色を遮る鉄格子が重く影を落としていた。

 

 レナは畳の上に正座し、その小さな身体を動かさずにいた。

 両手は祈りの形に組まれ、そこには細い金色の鎖が巻かれている。

 両手首には同じく金の輪がはめられ、神への「奉仕の証」として逃れられぬ拘束を与えていた。

 

 彼女の前に立つのは、黒衣の職員。冷たい視線を落としながら、就寝前の祈りを命じる。

 

 レナの口が、感情の抜け落ちた声で紡ぎ始めた。

 

 「……前世で罪を犯した私を、神が許してくださることに感謝します。

 そのための祈りを捧げさせてもらえる、このシヴィルトに忠誠を誓います。

 先生方に服従し、身を捧げ、贖罪の日々を送り続けます……」

 

 虚ろな瞳は職員の方を見ているが、どこか底知れぬ闇に満ちていた。

 

 その声はまるで昼間のそれとは異なる、苦しみぬいた末の、力の抜けた懺悔のようにも見られ、本人の言葉とも相まって弱りきった少女の盲信のようにも感じる。

 

 やがて祈りが終わると、職員は静かに頷き、説き始める。

 

 「……自分の身分を忘れることなく生活するのです。日々祈ることが、神様への贖罪となります」

 「従い、働き、祈り続けること。それこそが、あなたの義務であり救いなのです」

 

 淡々とした説教が数分続き、部屋に沈黙が戻る。

 職員はやがて腰を屈め、レナの両手の鎖を外した。小さな手首に残る金属の痕が赤黒く浮き上がる。

 

 「……忘れぬように」

 

 それだけを言い残し、職員は背を向けて部屋を後にした。

 扉が閉まると、部屋は再び暗闇に沈む。

 

 残されたレナは、自由になった両手を膝の上に置いたまま動かず、虚ろな目でただ闇を見つめ続けていた。

 

 職員が去り、扉が閉じる。

 その音を合図にしたように、レナは糸が切れた人形のように力を抜き、布団に向かってふらつきながら歩いた。

 そのまま、崩れ落ちるようにベッドに身を投げ、瞼を閉じる。

 

 ――すぐに、音が流れ込んできた。

 

 隣室の子供たちの小さな心の声。

 

 遠くの廊下を歩く職員たちの、汚れた欲望や嘲笑混じりの思念。

 

 その中にごく僅か混じる、宗教家としての虚ろな祈り。

 

 耳を塞いでも意味がなかった。

 声は皮膚を透過して、頭蓋の内側で響き続ける。

 

 そこに――さらに混じる。

 

 床下を這う害虫のざわめき。

 

 蠢く脚が「仲間を呼ぶ」声。

 

 空を横切る烏の群れが鳴き交わす、黒い羽音の共鳴。

 

 レナはかすかに眉を寄せるが、声は止まらない。

 やがて意識が沈んでいく。

 

 ――そして。

 

 目を開いたとき、そこはもう牢の中ではなかった。

 彼女は、寂れた遊園地の真ん中に立っていた。

 

 塗装の剥げたメリーゴーランド。錆びた観覧車。風に軋むジェットコースターの骨組み。

 地面に散ったチケットの切れ端が、黄ばんだ紙吹雪のように舞っている。

 

 看板に描かれたキャラクターたちが、口元を歪めて笑っているように見えた。

 壁画に描かれた人々の絵が、視線を合わせ、追ってくる。

 どこへ行っても、無数の「眼」が、彼女を凝視していた。

 

 レナは――無心で走り出す。

 その小さな足音が、廃墟のような遊園地に乾いたリズムを刻む。

 

 走れば走るほど、絵や看板の眼差しは強くなり、背後からも横からも追いかけてくる。

 それでもレナは表情を変えず、ただ「何かを探す」かのように、闇の中を駆け続けた。

 

 幽玄な夜気に包まれた遊園地。

 虫のざわめきも、鳥の啼き声も、絵画の囁きも――すべてが意志を宿した存在として彼女を見つめていた。

 

 レナが目を覚ますと、そこは再び――真夜中の自室だった。

 薄暗い蝋燭の残り香、外からの月明かりも届かない窓。

 先ほどまでの遊園地の幻は、どこにもない。

 

 ベッドの上でしばらく瞬きを繰り返し、やがてぽつりと呟いた。

 「……つまんない……」

 

 退屈を振り払うように身体を起こし、膝に頬杖をつく。

 考えが勝手に巡る。

 

 ――仮に、この耳に届く“声”や奇妙な“力”が、前世での罪の罰なのだとしたら。

 先生が言うように、この場所で祈り、従い、働くことが贖罪になるのだとしたら……その贖罪は、一体いつ終わるのだろう。

 

 命を喰らい、人を欺き、金を奪い合う。

 人は生きていれば必ず誰かに迷惑をかける。

 ならば、罪は途切れない。贖罪も途切れない。

 ……人間の贖罪なんて、どこまで行っても終わりが見えない。

 

 レナはぼんやりと天井を見上げる。

 自分には難しいことは分からない。理解できるほど頭も良くない。

 だから結局――ここで言われた通り、祈り、働き、贖罪の日々を送るしかない。

 

 小さくため息を吐き、再びベッドの上に横たわった。

 その顔は子どものあどけなさを残しながらも、諦念に染められていく。

 

 横になったまま、レナはふと――前にピエロから滲み出ていた“声”を思い出した。

 

 「……人間なんて、皆、自分のことしか気にしていない……」

 「自分の理念のために、人の人生を平気で台無しにする……」

 

 それは、嘆きにも似た人間への失望。

 普段のピエロが道化じみて軽口ばかり叩く裏に、濁った感情が渦巻いているのを、確かにレナは聞いた。

 

 ピエロ自身は、表向きは性善説で動くことが多い。

 けれど――心の奥では、誰もが結局その失望の泥沼に落ちていくのを「見たがっている」。

 知らず知らずのうちにそういう心理に支配されているのを、レナは見抜いていた。

 

 そのことを思い返すと――堪えきれない笑いがこみ上げてくる。

 「……ふ、ふふ……ふふふふ……」

 

 声が漏れないよう、布団を頭まで引きかぶせる。

 枕に顔を押しつけ、布地を噛みながらも、震える肩は笑いを止められない。

 

 「……あはは……っ……うふふふふ……っ」

 

 幼い少女の身体に似合わぬ、邪悪な笑み。

 その笑いは夜の闇に溶け、誰にも届かない。

 だが、布団の中で一人、愉悦に震えながら――止まらぬ笑いを続けていた。

 

 気づけば、レナは眠っていた。

 夢も見ずに沈み込み、ふと目を開けると――鉄格子越しの窓から朝日が差し込んでいた。

 冷たい光が壁を撫で、部屋の空気を薄く照らす。

 

 起き上がろうと身を起こした瞬間。

 目の前の壁を、色鮮やかなムカデが這っていた。

 赤と黒のまだら模様、無数の脚がうねりながら進む。

 

 レナは驚く様子もなく、むしろ親しげにその体を指でつまみ上げた。

 「……どうしたの〜? こんなところで」

 

 小さな指に吊られたムカデは必死に脚をばたつかせる。

 その蠢く姿に、レナはくすりと笑みを浮かべ、優しく囁いた。

 「そんなにビックリしなくても良いよ〜」

 

 しばらくして――ムカデの動きは不思議と落ち着き、じっとレナの手に収まった。

 

 レナは小さく頷きながら相槌を打つ。

 「ふんふん……なるほどねぇ……」

 「そうなんだ〜、奥さんとはぐれちゃったんだね」

 

 まるで本当に会話をしているかのように。

 やがてレナの瞳に、子供らしい悪戯心が光る。

 

 「え〜? じゃあさ、探してきたら……私のお願い、聞いてくれる?」

 

 そう言って、そっと床にムカデを降ろす。

 「……あっちの窓から帰りなよ〜」

 

 レナが指さした方角へ、ムカデは迷うことなく走り出す。

 鉄格子の隙間をすり抜け、光の射す窓枠の向こうへと消えていった。

 

 部屋には再び静けさが戻り、レナは微笑みを浮かべたまま、朝の光をじっと見つめていた。

 

 シヴィルトの大広間。高い天井に染み付いた香の匂いが漂い、窓から差し込む光は鉄格子に阻まれて床に影を落としていた。

 

 壁際にずらりと並んだ子どもたちが、正座の姿勢で静かに両手を合わせている。

 その中にレナもいた。背筋を伸ばし、両手を胸の前で重ね、目を閉じて祈りを捧げる。

 顔は真剣だが――昨日の夜に見せた諦念が、うっすらとその面影に残っていた。

 

 壇上に立つ黒衣の職員が、ゆったりとした声で説き始める。

 

 「……我らは皆、前世の罪を背負ってこの世に生を受けました。

  なぜある者は豊かな家に、ある者は飢えと共に生まれるのか――それは神の与え給う“待遇の差”。

  それこそが、前世に背負った罪の重さなのです」

 

 子どもたちは一斉に瞼を伏せる。

 

 「しかし、救いはあります。

  祈りと奉仕に身を投じ、導きに従うことで――罪は削がれ、魂は清められるのです。

  神はお見捨てになりません。苦役のひとつひとつが、贖罪となるのです」

 

 広間に響くのは、職員の説教と、子どもたちの小さな祈りの声。

 

 「罪を償うことは痛みです。けれど、その痛みを受け入れることこそが、次の生を明るくする唯一の道。

  神は、罪を背負ったまま逃げる者を許さず――ただ、祈りと奉仕によって己を浄める者だけを救うのです」

 

 その言葉は壁に反響し、繰り返し子供たちの耳に落ちていく。

 

 レナは瞼を閉じたまま、静かに祈りを続けた。

 その小さな唇は無心に言葉をなぞるが、その奥底には――「終わりの見えない贖罪」への諦めの色が、昨日のまま残り続けている。

 

 朝の礼拝が終わると、子どもたちは一斉に解散し、足枷を鳴らしながら広間を後にした。

 廊下には香の残り香が漂い、外の光が鉄格子越しに差し込んでいる。

 

 レナがその列に混ざって歩き出したとき――

 「……レナ」

 背後から穏やかな声が呼び止めた。

 

 振り向くと、白いスカーフを頭に巻いた女性の職員が立っていた。

 その瞳には柔らかな光と、わずかな憂慮が浮かんでいる。

 

 「昨晩の祈りのときも、今朝の様子も……少し気になったの。

  無気力というか……絶望に縛られて苦しんでいるように見えてね」

 

 レナは小首を傾げ、曖昧に瞬きをした。

 

 女性職員はそっと声を落とす。

 「思い詰めるのはやめなさい。奉仕活動を通じて物事を前向きに考えるの。

  自分の罪と向き合うことは大切だけれど……何より大事なのは、心を入れ替えて組織に仕えること。

  それが、あなたを救う一番の道なのよ」

 

 その諭すような言葉に、レナは素直に頷いた。

 「……はーい」

 

 職員は安堵したように微笑み、続けた。

 「今日は休んでもいいのよ。気分が晴れるまで、部屋で静かにしていなさい」

 

 けれどレナは、小さく首を振って答える。

 「でも……身体も動かしたいので……」

 

 その声は従順でありながら、どこか力の抜けた響きを帯びていた。

 

 レナは歩きかけた足を止め、ふと振り返って女性職員に問いかけた。

 「……ムカデって、見ませんでした?」

 

 唐突な質問に、職員は一瞬眉をひそめたが、すぐに真面目な声で答える。

 「ここ数日、害虫駆除を担当している子たちからは、そういう報告は聞いていませんよ」

 

 そして少し言葉を選ぶようにして続けた。

 「心が疲れていると、嫌なものが見えたりもするものです。……やはり、あなたは疲れているのではないですか?」

 

 その心配そうな眼差しを、レナはじっと受け止めた。

 やがて小さく首を振り、祈る姿勢で手を合わせる。

 「……いえ。ありがとうございました」

 

 そう礼を告げると、くるりと背を向けて廊下を去っていく。

 

 やがて施設の建物を出て、庭の石畳を歩く。

 鉄格子の影が地面に斜めに伸び、虫のいそうな隅を覗き込みながら、レナは小声で呟いた。

 

 「……本気で心配されてるのか……」

 「“洗脳が効きすぎてる”かもしれない、って言われてもなぁ……」

 

 彼女の瞳は遠くを見据え、どこかぼんやりと笑みを浮かべる。

 

 「……なんかあの先生は……覗けば覗くほど、頭がこんがらがりそうだなぁ……」

 

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