咲-saku- 【完結】   作:えいどら

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おまけ:白銀の翼 2章

 昼下がり。

 

 作業の合間を縫って、C-21は自室へ戻った。脇の下には、小さなガラスの小瓶――ピレトリンとアレスリン。誰にも見られないように服の中に隠し、足枷を鳴らしながら扉を開ける。

 

 だが、部屋に足を踏み入れた瞬間――視線が止まった。

 

 机の上。

 置いていたはずのビーカーのひとつを、両手で抱えて飲んでいる小さな影。

 緑の髪を短く揺らす、まだ六歳ほどの少女だった。

 

 こめかみがぴくりと跳ね、次の瞬間、声が荒れる。

 

 「……こんのクソガキ!!」

 

 舌打ちと共に踏み込むが、少女はビクッと肩を震わせ、慌ててビーカーを放り出すと、鎖を鳴らして部屋の外へ駆け出していった。

 

 C-21はすぐに追いかけようとする。

 しかし――脇に挟んだ小瓶が邪魔で、腕を自由に振るえない。足枷の鎖と相まって、動きは鈍い。

 

 「チッ……!」

 

 廊下を見やった時には、すでに少女の姿は影も形もなかった。

 

 しばらく唇を噛み、苛立ちを隠そうともせずに吐き捨てる。

 「……まあ……グルコースくらいなら、医務室からまたパクってくれば良いか……」

 

 仕方なさそうに小さく息を吐き、脇の下から小瓶を取り出す。

 それらを机の奥へ運び、他のビーカーやアンプルと一緒に、いつもの場所へ整然と並べて保管した。

 

 鉄格子の隙間から差し込む光がガラスに反射し、不気味に瞬いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 昼の熱気を逃れるように、C-21は医務室に身を潜めていた。

 固いソファにだらりと寝そべり、手には勝手に拝借した薬学の研究雑誌。

 

 「……お、この研究おもしろそう……」

 ページをめくる指先に食い入るような光が宿る。

 しばらく読み込んだかと思えば――

 「え、本当? ……なんか、ありきたりっぽくない?」

 誰に向けるでもなく、呟きに突っ込みを重ねた。

 

 その声に、部屋の奥から呆れ声が飛んだ。

 「……またサボりに来おって……」

 

 振り向けば、白衣を着た高齢の男性職員が立っていた。眉間に深い皺を寄せ、厳しい眼差しを向けている。

 

 「……誰に話しかけておるんじゃ?」

 

 C-21は雑誌を閉じもせず、顔だけを上げて軽く笑った。

 「……ごめんなさい。同居人が……」

 

 曖昧な嘘をさらりと吐き、そのまま再びページへ目を落とす。

 職員の冷たい視線など、まるで気にしていないかのように。

 

 雑誌に視線を落としたまま、C-21はぼそりと口を開いた。

 「……雑誌、最近の全然ないんですけど。……もしかして、豚箱に入りたくないからって、保釈金でも貯めてるんですか?」

 

 からかうような声音。

 年齢に似合わぬ挑発的な言葉に、白衣の男は眉をひそめるでもなく、そっぽを向いた。

 

 「……そうかもしれんな」

 

 吐き出すように答えた声には、どこか諦めが滲んでいた。

 しばし沈黙したあと、ぽつりと本音が零れる。

 

 「……こんな場所、早くなくなればいい」

 

 C-21はページを止め、ちらと視線だけを送った。

 「……嫌なことでもあったんですか」

 

 男は口角を動かさぬまま、かすれた声で呟いた。

 「……児童虐待の人身売買じゃないか。何を誤魔化そうと、結局はそれだ」

 

 その言葉に、C-21は小さくため息を吐く。

 視線を雑誌に戻しながら、ぼそりと呟いた。

 

 「……まあ……私、先生のことは結構好きですけどね」

 

 静寂。

 医務室の壁掛け時計が、針を刻む音だけが響く。

 

 医務室の扉がきしみを上げて開く。

 小柄な少年が、顔色を悪くして入ってきた。

 

 「……せんせい、なんか……お腹が痛くて」

 

 白衣の男性が応じるよりも早く、ソファに寝そべっていたC-21が飛び起きた。

 「ちょっと見せて」

 

 少年を椅子に座らせ、素早く腹部を押さえたり、顔色や体温を確かめていく。

 「ふーん……熱はないし、圧痛も右下腹部じゃなくて上の方。食べた後から痛いって言ってるし……」

 

 C-21はすぐに顔を上げ、背後の男性に向かって言った。

 「胃炎か、せいぜい急性の消化不良。整腸剤と制酸薬、あと念のため経口補水液を。持ってきて」

 

 渋い顔をしながらも、男性は薬棚から薬を取り出して渡す。

 C-21はそれを少年に手渡しながら、淡々と告げた。

 「これ飲んで寝とけば治る。水分も忘れずにね」

 

 少年は小さく頷き、薬を握って医務室を後にした。

 扉が閉まると、男性は腕を組んでC-21に向き直った。

 

 「……どういう点を見て、そう判断した?」

 

 C-21は雑誌を閉じ、当然のように答える。

 「右下腹部に限局してないし、熱もない。嘔吐も下痢も出てない。だから急性虫垂炎や胃腸炎じゃない。

  食後すぐの痛みだから胃に原因があると考えるのが妥当。まあ一番ありがちな消化不良でしょうね」

 

 説明は筋が通っていた。

 男性は「ふむ」と頷きながらも、ゆっくり言葉を継いだ。

 

 「診断自体は間違っていない。ただな……胃炎や消化不良の症状は、他の疾患でも見られる。

  例えば、胆石症や膵炎の初期、あるいは潰瘍だ。熱がなくても油断はできん」

 

 C-21は気の抜けたように肩をすくめる。

 「はいはい。先生って、何でも疑うんですねぇ」

 

 男は額に手を当て、疲れたようにため息を吐いた。

 「……そうでもしないと命は守れん。『ありきたり』と切り捨てるのが一番危ないのだ」

 

 C-21は答えず、ただ机に置いたアンプルを指先で転がしていた。

 

 薬瓶を棚に戻しながら、男性が背中越しに呟く。

 「……診断は悪くなかったがな。お前はまだ子供だ。勉強が足りん」

 

 C-21は雑誌を閉じ、ジト目でその背を睨んだ。

 「……やっぱり、勉強が足りないのかも」

 

 「バカなこと言ってないで働いてこい」

 男は冷たく言い捨て、帳簿と薬瓶の数を突き合わせる作業を始める。

 

 しかしC-21は離れず、ぴったりと背後に張りついた。

 「ねぇねぇ、解剖図見せろ〜! 人間のやつ!」

 「どうせ持ってるんだろ〜! 隠してんでしょ〜!」

 

 子供らしい駄々をこねながら、ソファの背から身を乗り出して覗き込む。

 

 「……持ってたとしても、見せてやらんよ」

 男がそっけなく答えると、C-21の目がさらに輝いた。

 

 「じゃあホルマリン漬けの死体捌かせろ!!」

 「こんな所で働いてるなら、宛くらいあるだろ!!」

 

 机に乗り出す勢いで言い放つC-21に、男性は思わず額を押さえた。

 

 「……マッドサイエンティストめ……」

 

 呆れ果てた声が、静かな医務室にこだました。

 その一方で、C-21の瞳は獲物を追う研究者のようにぎらぎらと輝いている。

 

 医務室の扉が小さく叩かれ、怯えた顔の少女が入ってきた。

 「……せ、先生……! 外に……変な虫がいて……!」

 

 C-21は雑誌から視線を外し、じとりとした目を向ける。

 「虫……? ……そんな大げさな」

 

 重たそうに身体を起こしながらも、少女の必死さに根負けするように立ち上がる。

 「……しょうがないなぁ」

 

 廊下を抜け、外へ出る。

 そこには数人の少女たちが、有刺鉄線の柵の前で固まっていた。

 彼女らの視線の先――叢の中に、赤と黒のまだら模様の大きなムカデがうねりながら蠢いていた。

 

 「……あー、なるほど」

 

 C-21は小さく息を吐き、手を振って少女たちに警告した。

 「触らないでね。……絶対に」

 

 軍手をはめ、ためらいもなく叢へ近づく。

 器用な指先でムカデの胴を掴み上げ、そのまま柵の向こうへと投げ捨てた。

 

 少女たちは安堵の声を漏らす。

 C-21は軍手を外しながら、事務的に言い残した。

 

 「もし口の中が腫れたり、喉が痒くなったりしたら、すぐに医務室で手当てしてもらって。あれは“トビズムカデ”っていう、毒を持った虫だから。……同じやつを見つけても、絶対に触らないでね」

 

 背中に視線を感じて振り返ると、まだ数人の少女たちが残っていた。

 ひとりが小さく声をかける。

 「……怖くないの?」

 

 C-21は肩をすくめるだけで答えた。

 「別に」

 

 それだけでは終わらず、淡々と説明を重ねる。

 「アミン類とか溶血性の毒があるけど、別に変に刺激しなきゃ怖くない。

  毒爪に触れないように掴めば、割と簡単に捕まえられる」

 

 真顔で語るその様子に、ひとりの少女が目を丸くし、ぽつりと漏らした。

 「……さすが、頼りになる」

 

 だが、すぐ横から別の声が茶化す。

 「変な薬使ったりしなかったらね」

 

 さらに、同じ班の子たちがわざとらしく囁き合う。

 「バカね、21番はまた毒作るために、こういう虫も集めてるのよ!」

 「早く逃げないと、ホルマリン漬けにされちゃうわよ!」

 

 甲高い笑い声と共に、彼女たちは足枷を鳴らして一目散に駆け出していった。

 

 取り残されたC-21は、額に手を当ててため息をつく。

 「……漬けるほどのホルマリンもないわ……」

 

 踵を返して帰ろうとしたそのとき――

 視線の先、さきほど投げ捨てたはずのムカデが、鉄柵の向こう側でじっとこちらを見ていた。

 

 「……なんだこいつ……」

 

 無数の脚をうごめかせ、じりじりと位置を変えながら、それでもこちらを凝視しているように見える。しばらくそうしていたが、やがてムカデは方向を変え、影の奥へと這い進んでいった。

 

 

 

 

 

 

 

 夜のシヴィルトは、昼間以上に重苦しかった。

 高い石壁に囲まれた敷地は、外界から完全に切り離されている。

 

 鉄格子の窓は風さえ通さず、灯りを落とした回廊には、職員の足音ももう響かない。

 どこかで油が焦げるようなにおいが漂い、しんとした静けさをさらに濁していた。

 

 自室の中。

 レナは床に膝を抱え、じっと一匹のムカデに目を落としていた。

 金属の枷をはめられた窓から射す月光が、赤黒いまだら模様の胴を鈍く照らす。

 

 「……ここから歩いて休んで七日くらい……?

  山奥に建物? アンタの足でそれくらいだと、結構かかりそうだねぇ」

 

 穏やかな声色で、まるで友達と会話をするかのように。

 床を這うムカデが小さく蠢くたび、レナは楽しそうに頷いた。

 

 「え? 白髪の子に突然つねられてビックリした?

  ……いやそりゃあ、その子はアンタとお話できないからねぇ」

 

 答えるように触角を振るムカデに、レナの笑みは深まる。

 

 しばらくの沈黙ののち、再び口を開く。

 「……私たちよりも大きな人に着いて行った? 顔を隠してて、それで速く走る床に運んでもらった?」

 瞳が細められ、どこか懐かしむように笑った。

 「ああ……それ、多分師匠の車だねぇ。教えてくれてありがとうねぇ」

 

 レナは机から魚肉ソーセージを取り出し、ちぎって差し出した。

 「え〜? ゴキブリ〜? うちはきちんと掃除してるから、そんなのないよ〜。

  ……黙って食べな〜」

 

 小さな指先から差し出された餌を、ムカデはゆっくりと抱え込む。

 それを満足そうに見つめながら、レナはくすくすと喉を鳴らした。

 

 窓の外、夜のシヴィルトは依然として閉ざされていた。

 風も声も届かない。聞こえるのは、虫の蠢きと、幼い少女の囁きだけ。

 その閉塞は、まるで永遠に続く檻のようだった。

 

 ムカデが鉄格子の隙間を抜け、夜の闇に消えていく。

 レナはその小さな背を目で追いながら、やがて布団に潜り込み、瞼を閉じた。

 

 「……曖昧だと、中々難しいかなぁ……」

 

 呟きは闇に溶けて消える。

 眠りと覚醒の境目で漂ううち、いつの間にか――場所が変わっていた。

 

 目を開いたレナの眼前には、鉄格子も、薄汚れた天井もない。

 そこはシヴィルトの職員専用の資料庫だった。

 蛍光灯の白い光が机を照らし、冷えた空気が漂っている。

 

 レナは迷うことなく棚の奥に置かれたパソコンを引き寄せ、電源を入れた。

 カタカタとキーを叩き、地図のページを開く。

 

 表示された地図を食い入るように見つめる。

 やがて彼女の目が一点で止まった。

 

 ――近くの山奥。

 そこには、説明も記号もなく、ただ地図の上で空白のように覆われたエリアがあった。

 拡大しても表示されるのは粗いモザイクばかりで、輪郭も曖昧だ。

 

 レナは小さく首をかしげ、指先で顎をなぞる。

 「この辺って……どうやって行くのかなぁ……」

 

 淡々と独りごちる声。

 だが、次の瞬間――その瞳が不意に光を帯びた。

 

 「……あ、そうだ。いいこと考えた」

 

 幼い唇に浮かんだのは、子どもらしい無邪気な笑み。しかしそこには、底知れぬ企みの影が潜んでいた。

 

 

 

 

 

 昼下がり。

 隣町の古びた一室。遮光カーテンの隙間から差し込む光は薄く、外の喧噪も届かない。

 

 テーブルを挟んで、ピエロの男と、黒い外套を羽織った人物が向かい合っていた。

 

 「……それが、な〜んにも分からなくてですねぇ」

 

 ピエロは仮面越しに大げさな仕草で肩をすくめ、わざとらしい口調で報告する。

 その向かいで腕を組む男は、深い溜息を吐きながら低く言った。

 

 「……どうやら、お前に頼んだのは間違いだったようだ」

 

 その言葉に、ピエロは身を乗り出し、芝居がかった悲しみを声に乗せる。

 「そんな! せっかく所長にゴマを擦りながら、目を盗んで“ヴァルテス”の内部をここまで調べ尽くしたのに!

  “Σ”の職員が人身売買に加担している証拠を出して公表すれば、一儲けできると言ったのは旦那じゃありませんかぁ!」

 

 両手を広げ、仮面を震わせる。だが男は冷ややかに吐き捨てた。

 

 「“天下無双”ですら手が出せない迷宮に、くだらない道化を雇ったのが間違いだった。

  ジジイが探している銃取引の現場を追った方が、まだ金になりそうだ」

 

 その一言に、ピエロの動きがぴたりと止まる。

 しかし次の瞬間、また滑稽な口調で立ち上がった。

 

 「そうですか。……では早速」

 

 椅子を引き、軽快に出ていこうとする。

 だが男の声が背中に落ちた。

 

 「――お前はもうクビだ」

 

 その冷淡な一言に、ピエロは足を止めた。

 仮面の奥の目だけがわずかに細まり、背後の男が立ち去る音を無言で聞き続けていた。

 

 陽が落ち、街の外れ。

 ピエロは車のボンネットに腰をかけ、仮面越しに赤紫に染まった空を見上げていた。

 

 「……まったく、旦那も人が悪い」

 「成果や“天下無双”なんて老害ばかりにこだわってるから……着いてくる人もいなくなるんだ」

 

 わざと大げさに両手を広げ、男のいたビルの方角へと体を向ける。

 「こんなことしてる……本当に、お友達いなくなっちゃいますよ〜?」

 

 仮面の下で笑いを作りながらも、その声は夜風に溶けて虚ろに響いた。

 

 やがて車に乗り込むと、エンジンが低く唸りをあげる。

 街灯が瞬き始めた舗道を抜け、車は夜の道を走り出した。

 

 最初に広がるのは、ビル街の夜景。

 硝子の外壁に街灯や看板の光が映り込み、窓のひとつひとつが小さな灯火のように瞬いている。

 だがそのきらめきも次第に減り、車が進むにつれて建物は古び、錆びついたトタン屋根や煤けた壁が目につくようになった。

 

 やがて街の外れへ。

 舗装のひび割れた道路がガタガタと揺れ、ネオンは途絶え、闇と風ばかりが支配する。

 街灯はところどころで切れ、光は弱々しく、虫が群がっている。

 

 さらに山の方へ入ると、窓の外は森の影に覆われる。

 樹々の間から覗く月光がかすかに照らすだけで、道の先は暗闇の中へ溶けていた。

 かつて栄えた形跡のある古い看板が倒れかけ、商店跡のシャッターは錆び、人気のない路地に犬の遠吠えが響く。

 

 ピエロはハンドルを片手で弄びながら、鼻歌混じりに呟く。

 「仕掛けをしておいたが……意味などありませんでしたねぇ」

 

 やがて辿り着いたのは、寂れた街――シヴィルトのある場所だった。

 車を降りると、冷たい夜風が仮面の隙間を抜ける。

 

 ピエロは柵の周囲を回り、ひとつひとつ盗聴器を剥がしていく。

 だが、ある地点で立ち止まった。

 

 鉄格子の根元に仕掛けていたはずの盗聴器が――ない。

 

 「……っ」

 

 仮面の奥で、汗が滲む。

 「……職員にバレましたかねぇ」

 

 しばし周囲を警戒し、息を潜める。

 だが、やがてわざとらしく肩をすくめ、空を仰いだ。

 

 「……どうせもう、この街には二度と来ませんし……」

 

 そう言い残し、ピエロは盗聴器を回収した鞄を抱え、足早に車へ戻った。

 エンジン音が夜の静寂を破り、シヴィルトの街並みを背にして遠ざかっていく。

 

 夜道を抜ける車内。

 ピエロは鼻歌混じりに、わざと気楽そうな調子で独り言を漏らした。

 

 「さて……次はどこで悪巧みしましょうかねぇ〜」

 

 すると――背筋を凍らせる声が、いるはずのない後部座席から届いた。

 

 「遊園地とか良いんじゃない? やっぱり、明るいとこの方が似合いそうだよねぇ〜」

 

 「っ!?」

 

 反射的に振り返る。

 そこには――黒いウサギのぬいぐるみを抱えたレナが、後部座席にちょこんと座っていた。

 にやにやと笑いながら、仮面のピエロをじっと見つめる。

 

 「師匠、逃げられると思ってるの〜?」

 

 仮面の奥で瞳孔が縮む。

 慌ててハンドルを握り直し、車体が蛇行する。危うく縁石に乗り上げそうになりながらも、どうにか車を路肩に停めた。

 

 ピエロは深く息を吐き、肩を押さえて震える手を落ち着ける。

 「……まったく。強引ですねぇ……」

 

 レナはウサギを抱え直し、楽しげに首を傾げた。

 「ねぇ師匠〜、取引しない? 山奥まで連れてって欲しいんだけど〜」

 

 ピエロは眉間を押さえ、仮面の下で苦笑を作る。

 「……あのですね、取引というのは“何か”を持っている者同士が行うものでして……」

 

 説明しようとした矢先、レナはぬいぐるみを持ち上げ、真顔になった。

 

 「これ。盗聴器、入ってるんですよ」

 

 その声は淡々としていたが、空気を鋭く切り裂いた。

 「大事ですよねぇ、情報収集って」

 

 ぬいぐるみの黒い瞳が、街灯に照らされてぎらりと光った。

 車内の温度が一気に冷え込んだように、ピエロは言葉を失った。

 

 レナは後部座席で、黒いウサギのぬいぐるみを抱え直しながら、わざとらしく空を見上げる仕草をした。

 「あ〜、でもなぁ……。私、最近ちょっと洗脳効きすぎてるみたいなんだよねぇ」

 

 ふてくされたような笑みを浮かべ、続ける。

 「私、施設だと結構優等生だから〜……もしかすると〜」

 

 意味深な言葉を伸ばすたび、仮面のピエロの背筋に冷たい汗が滲む。

 ルームミラー越しに視線を合わせまいとしながら、短く息を吐いた。

 

 「……今回だけですよ」

 

 そう言い残し、ピエロはエンジンをかけ直した。

 車体が震え、再び夜の道へと滑り出す。

 

 街の明かりが後方に遠ざかっていく。

 ネオンの色彩はやがて消え、窓の外には黒々とした山の影が広がっていった。

 

 

 

 夜更け。

 C-21は独房の錆びたベッドに横たわり、眠りの底に沈んでいた。

 ――ふと。頬を撫でるような人の気配に、ぱちりと目を開く。

 

 「……っ!」

 

 目の前。

 鉄格子の隙間すぐそこに、しゃがみ込んだ少女の姿があった。

 白い修道服、黒髪に揺れる幼い笑顔。

 

 「こんばんは〜」

 

 唐突な声に、C-21は飛び起き、慌てて鉄格子の扉へ手をかけた。

 ガチャリと揺らすが、施錠は固いままだ。

 

 「……どこから入った……?」

 小声で問い詰める。

 

 少女――レナは、にやりと笑った。

 「そんなこと、どうでも良いじゃん〜。……ムカデさんが教えてくれたからね〜。私の方から来ちゃった」

 

 さらりと言いながら、視線をC-21の足元へ滑らせる。

 「えぁ〜……こんな鎖つけられて、こんなところに捕まってるの? 可哀想〜」

 「何か悪いことでもしたの?」

 

 C-21は苦い顔で視線を逸らし、唇をかすかに噛んだ。

 「……売られたんだよ。私を産んだ女に……」

 

 一瞬の沈黙。

 レナはふわりと目を細め、口元を綻ばせた。

 「あ、じゃあ……同じなんだねぇ」

 

 「……あんたも……?」

 

 問いかけるC-21の声に、レナは答えず、ただ笑みを深める。

 その修道服はきちんと洗い上げられ、白く整い、足には鎖ひとつない。

 

 C-21は皮肉を滲ませて吐き捨てる。

 「……その割には、そちらは随分豊かな生活をなさってるようで……」

 

 鉄格子の中で向けられる視線は、嘲りと羨望の入り混じったものだった。

 

 レナは小首を傾げた。

 「私、レナって言うの。柵の外にある施設から来たんだ。……あんたは?」

 

 C-21は怪訝そうに眉をひそめる。

 「……“あんたは”って……何」

 

 レナは子供らしい無邪気な笑顔を浮かべ、首を左右に振った。

 「名前だよ〜! 何て言うの?」

 

 吐き捨てるように、C-21は応じる。

 「そんなもの、ない……。

  レナ様は大層ご立派な名前をお持ちみたいですけど! 私たちは管理番号で呼ばれてる、ただの商品なんで!」

 

 声には皮肉と自嘲が混じり、小さな拳を握りしめる。

 

 レナはその様子をじっと見つめ、瞳の奥を覗き込むように数秒の沈黙を置いた。

 やがてふっと微笑み、囁くように言った。

 

 「……フユキって言うの……? 寒い季節が似合う、素敵な名前」

 

 C-21の目が大きく見開かれる。

 顔を真っ赤に染め、思わず後ずさった。

 

 「――え!? え!? え……? わ、私の名前……なんで!?」

 

 混乱と動揺が入り混じり、手が震える。

 レナは変わらず穏やかな笑みを浮かべ、ただC-21を見つめ続ける。

 

 しばし沈黙が流れたのち、C-21はぽつりと口にした。

 「……超能力者?」

 

 レナは小首をかしげ、すぐにふわりと微笑む。

 「私はそういう言葉、あんまりよく知らないけどね」

 

 まるで肯定するように続けた。

 「知らない人や動物たちの声が聞こえたり、歩いて行ける距離なら、頭の中で作っただけで本当に行けるんだ。

  昔はね、他の人もみんなそうなのかと思ってたけど……なんか違うみたいだね」

 

 そう言うと、レナは自分の両肩をぎゅっと抱きしめる。

 影を落とした瞳が、諦めの色を宿していた。

 

 「先生はね……前世で罪を重ねたから、私たちは売られたんだって言ってた。

  きっと、そうなんだよ。この力も……」

 

 淡々と呟くその声に、C-21は眉をひそめて切り返した。

 「……それって、洗脳なんじゃないの」

 

 レナは一瞬きょとんとした後、けろりと笑みを戻した。

 「ん? そだよ〜」

 

 その軽さに、C-21は唖然とする。

 だが次の瞬間、レナが鉄格子に身を寄せ、声を抑えながらも叫ぶように言った。

 

 「それならフユキはさぁ!」

 

 「っ……その呼び方、やめてくれませんか……?

  私、ただの商品番号21番なので……」

 

 拗ねるように顔を背けるC-21。

 だがレナは真剣な目で見つめ、即座に言い返した。

 

 「嫌だ! それ言うなら、それだって洗脳じゃん!」

 

 幼い少女の眼差しは、不思議な迫力を帯びてC-21を射抜いた。

 しばらく睨み合っていたが、不意にレナが大きなあくびをした。

 「ふあぁ……なんか、周りに気を遣って喧嘩するのも難しいね」

 

 気の抜けた声で言うと、そのままC-21の方に視線を戻す。

 「毎日こうしてるのも結構退屈でさ、何か楽しいことでもないかなって探してんのよ」

 

 C-21は即座に断言した。

 「そんなものはない」

 

 しかしレナは悪びれもせず、にやりと笑った。

 「えぁ〜、フユキとなら見つけられそうだけどな〜。例えば……」

 

 そう言って目を外へ向ける。

 「うちの師匠いるんだけどさ。なんかテーマパークとかにいそうな人で、変なお面つけてるんだけど」

 

 その言葉に、C-21の脳裏にひとりの男の姿がよぎる。

 「ああ……あの人か……」

 

 レナは肩を竦め、さらに続けた。

 「仕事クビになっちゃったみたいなんだよね〜。で、そのお仕事なんだけど……なんか、うちに凄いお客さんがいるのがバレてるみたいで、それでその証拠をご主人様に言われて集めてたんだってね」

 

 そう言うや、レナは修道服の袖から小さな金属片を取り出した。

 「で、ここにその盗聴器がありまーす」

 

 C-21は目を細め、呆れ声を漏らす。

 「あの人、そんなことやってたのか……」

 

 そして低く問いかけた。

 「……で、私に何をしろと」

 

 レナはにこりと笑い、軽く首を振った。

 「それはお任せで」

 

 そう言いながら盗聴器をC-21の手に押しつける。

 

 「もう私帰るね〜。またね〜、フユキ」

 

 ひらひらと手を振る。

 C-21が思わず視線を逸らし、次に振り向いた時――そこにはもうレナの姿はなかった。

 

 急な出来事に頭が追いつかず、C-21はただ深く息を吐く。

 「……なんなんだ、ほんとに」

 

 呟きながら布団に潜り込むと、やがて疲労に抗えず、静かな寝息を立て始めた。

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