咲-saku- 【完結】   作:えいどら

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おまけ:白銀の翼 3章

 春の気配がわずかに混じる夕暮れの帰り道。

 加賀美は学生鞄を肩にかけ、赤と紫のあいだで揺れるような夕焼け空を背に歩いていた。

 

 街路樹の影は長く伸び、アスファルトの上に縞模様を描き出す。通りの向こうからは部活帰りの笑い声や、自転車のブレーキ音、どこかの商店のシャッターを下ろす金属音が重なり、雑多な喧騒となって響いていた。

 

 そのにぎやかさは、本来なら心を温めるはずなのに、彼にはどこか遠い別世界のように感じられる。学校で友人と遊んでいる時――無邪気に笑い、好きなことに夢中になっている時だけは、胸の奥の重苦しさが少しだけ遠のく。

 

 けれどひとりになると、心の色は急速に褪せてゆく。何もかもが死んだように感じられ、自分だけが夕焼けの影に取り残されているようだった。

 

 思い出すのは、家で待つ父の声。

 

「加賀美インダストリアルの後継者として、完璧な人間であれ」

 

「世の中には一種類の人間しかいない。不完全な者は必ず堕落する」

 

 冷徹な言葉が、何度も頭の奥で反響する。その隣で母もまた、当然のように父の言葉を肯定する。家には居場所がなく、逃げ場がない。

 

 赤黒く染まる雲が、まるで巨大な炎のように空を覆っていた。

 そこに差し込む光は、ただ美しいだけではなく、どこか不穏で、彼の心の奥に潜む焦燥や孤独をそのまま映し出しているかのようだった。

 

ビルのガラスに映った夕陽はぎらついて目を刺し、遠くから聞こえるクラクションは胸の奥のざわめきをさらに増幅させる。

 

 夕陽は沈みかけ、空の端から群青がじわりと滲み出していた。街のビルの間に挟まれた道を歩く加賀美の足取りは重く、街灯が一つ、また一つと灯り始める頃、彼の胸の奥も同じように暗さを増していった。

 

 ――小さい頃。

 団地の広場に自然と集まって、缶蹴りやカードゲームに夢中になっていた。あの頃は、自分もみんなと同じように笑っていられた。

 だが、年を重ねるにつれて、違いはじわじわと形になって迫ってきた。

 

「家でもお兄ちゃんとカードの特訓してるんだ」

 友人の無邪気な一言が耳に刺さった。

 別の日、友人の家に呼ばれて遊んだとき、部屋の隅には兄弟と遊んだ跡が残っていた。散らばったカードや積み木、笑い声の残響のような空気。

 

 それを見た瞬間、胸の奥で何かがきしんだ。

 友人にとっての「自宅」――そこは、安心して笑い合える居場所。自分にとっては決して手に入らない、遠くの宝物のように見えた。

 家に帰れば、父の言葉が待っている。「完璧でなければならない」という檻。母はその檻の外にさえ立ってくれない。

 

 夕焼けの名残が街を赤く染める中、加賀美の視線は足元へ落ちていく。すれ違う人々の笑い声や、居酒屋から漏れる陽気な声は、かえって胸を締め付けた。

 

 しばらく歩いたのち、不意に足が止まる。

 吐き出すように、けれどどこか寂しげに呟いた。

 

「……俺にも、兄弟がいればなぁ……」

 

 その言葉は、冷えた夜風に溶けて消えていく。

 気づけば、街の灯りが瞬き始め、日常のざわめきに満ちた夜の街へと彼の影は吸い込まれていった。

 

 

 

 

 

 

 夕暮れ。

 一日の作業を終えたC-21は、制服のポケットに忍ばせていた盗聴器をぎゅっと握りしめ、足枷を鳴らしながら廊下を歩いた。

 向かった先は、女性職員・荒木のデスク。

 

 「……ちょっと、ご相談があるんですが」

 

 机に立ったC-21に、荒木はちらと顔を上げる。

 彼女は器用な手先で配線や工具を片付けており、今日の勤務を終えるところだった。

 

 「もう今日は帰るから、明日にして」

 

 軽く言い捨てられ、C-21は肩を落としかける。

 「……わかりました」

 

 だが、そのとき気づいた。

 机の上が――やけに片付いている。

 いつもなら散らばっている工具やメモ、基板の欠片が、何ひとつ残っていない。

 

 C-21がまじまじとそれを見つめていると、荒木は苛立ったように手を振った。

 「ほら、行った行った」

 

 それでも、C-21は足を止めたまま視線を外さず、小さな声で尋ねた。

 「……先生、いつからいなくなるんですか……?」

 

 その声には、寂しさが滲んでいた。

 

 荒木は短くため息を吐き、椅子を乱暴に押し込んだ。

 「今日だよ。もうこんなキモい仕事やってらんないんでね」

 

 そう言って立ち上がり、肩にリュックを担ぐ。

 

 C-21の胸が一気にざわめいた。

 「……あの……えっと……その!」

 

 言葉を探して口を開くが、何も出てこない。

 ただ必死に何かを伝えようとするC-21に、荒木は振り返らず足を踏み出す。

 

 荒木が背を向けて歩き出そうとしたその瞬間、C-21は思わずリュックにしがみついた。

 「今日だけ! 今日だけで良いですから……!」

 

 必死にしがみついたまま、ポケットから盗聴器を取り出し、顔の高さまで持ち上げる。

 「……盗聴器……この盗聴器を調べてほしいんです……」

 

 荒木は足を止め、深い溜息をつく。

 「……ったく、しょうがないね」

 

 渋々というようにC-21の手から盗聴器を受け取り、じろりと睨んだ。

 「これ、どこで見つけたんだ?」

 

 C-21は目を逸らし、しどろもどろに答える。

 「わかりません……なんか、朝起きたら持ってて……」

 「昨日の夜、渡されて……」

 

 曖昧な言葉に、荒木は追及することもなく、ただ盗聴器を眺めた。

 「ふーん……」

 

 指先で軽く転がしながら、独り言のように呟く。

 「これ、正規に出回ってるやつじゃないね……」

 

 そして表情を変えずに言い切った。

 「じゃあ、没収ね」

 

 盗聴器をC-21の手から奪うように引き取り、リュックへ放り込む。

 

 歩き出しながら、ぽつりと独り言を零す。

 「あー……そういえば職員用の携帯、間違ってトイレに置いてきちゃったかも。

  まあこんな所の備品なんて、返さなくていいか」

 

 出口に向かおうとする荒木の背を、C-21は反射的に掴んだ。

 「……!」

 

 しがみつき、必死に足を踏ん張る。

 「行かないで……!」

 

 しかし荒木は振り返らず、苛立ちを隠さない声で吐き捨てる。

 「トイレ見ろっつってんだろ!」

 

 腕を振りほどき、C-21の手を強引に引き剥がすと、そのまま荒木は乱暴な足取りで部屋を後にした。

 

 残されたC-21は、床に座り込んだまま、両手を膝に落としていた。

 

 雨音が、鉄格子の窓から絶え間なく響いていた。

 

 しとしとと細かく降り続ける雨は、外の光を濁し、灰色の薄暗さを室内に閉じ込めている。

 階段の踊り場には湿った匂いがこもり、薄汚れた壁を伝うしずくが黒ずんだ跡を残していた。

 

 C-21は小さなブラシを手に、黙々と階段の隅を擦っていた。

 鎖の音が時折カランと響き、その音に合わせるように彼女は肩を縮める。

 その後ろで、白い作業服を着た女性職員が腕を組み、冷ややかな声を落とす。

 

 「もっとしっかり手を動かしなさい。汚れは残ってるでしょ」

 

 C-21は小さく「……はい」と答え、反論もせずブラシを強く押し当てる。

 床に散らばる水滴を混ぜて泥のようになった汚れを、手の甲に汗が滲むまで磨き続ける。

 ブラシの毛先が削れ、時折カリカリと石の音を立てても、彼女は口を閉じたままだった。

 

 職員の視線は冷たく、感情を隠すように固い。

 命令口調でただ効率を求める声は、雨音と共にじわじわと胸に沈んでいく。

 

 しばらくの間、従順に働き続けていたC-21。

 だが――不意に、ズボンの布地越しに微かな震えを感じた。

 腰に挟み込んでいた携帯電話が、確かに短く振動したのだ。

 

 肩が小さく跳ねる。

 C-21は必死に平静を装いながら、ブラシを止めて振り返った。

 

 「……すみません。ちょっと、体調悪くなっちゃって……」

 

 申し訳なさそうに眉を下げ、頭を下げる。

 職員は一瞥だけを投げかけ、冷たく吐き捨てるように言った。

 

 「……勝手にしなさい」

 

 それだけ。

 心配も労いもなく、ただ邪魔者を遠ざけるような声音。

 

 C-21は「ありがとうございます」と小さく口にして、鎖を引きずりながら階段を降りていった。

 窓の外では、雨はまだしとしとと降り続き、濡れた鉄格子を灰色に濡らしていた。

 

 C-21はトイレの個室に入り、扉を閉めるとすぐにポケットから携帯を取り出した。

 画面を開くと、新しいメッセージが届いている。

 

 『あの盗聴器は普通に売ってるものじゃない。売った相手も、本当は取引禁止の品物だ。だから、誰が付けたか分かれば大ごとになるよ』

 

 C-21は読みながら、眉をひそめた。

 ――盗聴器なんて、別に興味はない。突き詰めてみても、好奇心以上の理由はないんじゃないか。

 

 そう思い直し、そのまま素直にメッセージを打ち返す。

 『特に興味ない。盗聴器は、とある大人の人のもの。その人は、大きなお客さんの秘密を知りたくて付けてたみたい』

 

 送信してしばらくすると、再び携帯が震えた。

 画面を開くと、苛立ちを含んだ文面が表示される。

 

 『そういうことを知ってたなら、あの時にちゃんと言ってほしかった』

 

 続いて、少し長いメッセージ。だが、子供でもわかるような平易な言葉だった。

 

 『うちのお客さんはいろんな人がいる。だから盗聴器を付けた相手も三つの可能性があるんだ。

 一つは、悪い人の組織を追ってる国の人。

 もう一つは、この施設をつぶしたい国の人。

 最後の一つは、国の人を出し抜きたい悪い人の組織。

 でもね、あんな違法な機械をこっそり使うのは国の人じゃない。だから最後の可能性が高いよ。

 もしうまく国の人に知らせられれば、もしかしたら助けてもらえるかもしれない』

 

 C-21は小さな手で携帯を握り直し、画面をじっと見つめた。

 胸の奥に、じわりと熱いものが広がる。

 

 「……通報、できれば……」

 

 小さく呟いた声は、個室の狭い空間に溶け、決意を帯びた響きに変わっていった。

 

 C-21は個室の狭い空間で、膝に携帯を置き、震える指で文字を打ち込んだ。

 

 『どうすればいい?』

 

 すぐに返事が返ってくる。

 『とりあえず、盗聴器をつけた大人のことを教えて』

 

 C-21は画面を見つめ、眉を寄せた。

 思い浮かんだのは――あのピエロの男。

 薬品をくれたり、どうでもいい話に付き合ってくれたり……妙なやり取りばかりだったが、少なくとも他の大人とは違っていた。

 

 「……あの人を危ない目に遭わせるのは……」

 

 唇を噛みしめる。

 だが同時に、脳裏には「変な人に売られていく」未来がちらつく。

 どちらを選ぶか――。

 

 狭い個室で、何度も携帯の画面と床を交互に見つめる。

 長い沈黙の末、C-21は深く息を吐き、素直に文字を打ち込み始めた。

 

 『盗聴器をつけたのはピエロみたいな大人。変な人だけど恩もある人だから、悪い様にしないでほしい』

 

 最後に小さく、ジト目をしながら心の中で呟く。

 「……ごめん」

 

 送信ボタンを押すと、画面が暗くなり、雨音だけが耳に残った。

 

 C-21の携帯が小さく震えた。

 画面を開くと、新しいメッセージが表示される。

 

 『その人のことは知ってるよ』

 『くわしいことは言えないけど、その人の雇い主のことも知ってる』

 『医務室はわかるよね? そこにあるパソコンの中に「顧客リスト」っていう名前のフォルダがあるんだ』

 『その中身をぜんぶ携帯で写真に撮って、送ってほしい』

 

 C-21はじっと文面を見つめ、唇を引き結んだ。

 指先でそっと携帯を閉じる。

 

 「……顧客リスト、ね」

 

 立ち上がり、足枷を小さく鳴らしながら、C-21は医務室へと足を向けた。

 

 C-21は医務室の机に身を寄せ、パソコンの光に照らされながら、携帯の指示を確認していた。

 「……顧客リスト……あ、これか」

 無表情のまま、次々と画面を写真に収めていく。

 

 ――その時。

 

 ガンッ! と扉が荒っぽく開かれる音が響いた。

 振り向くと、髪を濡らしたままの少女が立っていた。肩で息をし、服には「B-17」の番号が縫い付けられている。

 

 少女は医務室をぐるりと見渡した。だが中にはC-21しかいない。

 次の瞬間、彼女はためらいなく駆け寄り、C-21の手首を掴んだ。

 

 「来て!」

 

 「……は?」

 

 抗議する間もなく、腕を強く引かれる。

 勢いに任せて、C-21は椅子を蹴るように立ち上がり、そのまま医務室を飛び出した。

 

 外に出ると、雨はもう止んでいた。

 だが空気にはまだ湿った匂いが濃く残り、石畳の隙間から立ち上る土の匂いが鼻をつく。

 水滴が草葉から滴り落ち、足を進めるたびにぬかるんだ水たまりを踏みしめる音が響いた。

 

 「ちょっ……! 足枷あるんだから走りにくいっての……!」

 

 C-21は顔をしかめ、足にまとわりつく鎖を気にしながらも走る。

 サンダルの底は滑り、時折バランスを崩しては小さく舌打ちした。

 

 対照的に、B-17の少女は必死だった。

 荒い息を吐きながらも、一度も振り返らずに全力で前を見ている。

 その小さな手は震えながらも、C-21の手首を決して離そうとしなかった。

 

 「……ほんと、面倒くさい……」

 そうぼやきつつも、C-21は少女に引かれるままに、雨上がりのC区画を抜け、二人でB区画へと駆け抜けていった。

 

 B区画の建物に足を踏み入れると、湿った空気が重たくこもっていた。

 薄暗い部屋の真ん中で、一人の少女が床にうずくまっている。

 その目は虚ろで、焦点が合っていない。

 

 「おい、大丈夫か?」と近くの少年が声をかけても、少女は口をぱくぱくさせるだけで、意味を成す言葉にならない。

 

 C-21の腕を引いてきたB-17が、怯えた声で説明する。

 「突然こんな風になっちゃったの。今日はどこの医務室の先生も休みだから……」

 

 C-21は緊張に喉を鳴らし、しゃがみ込んで少女を診る。

 脈拍は穏やかで、熱もない。皮膚の色も正常。

 ただ――放心して、言葉が出てこないだけ。

 

 「……何だこれ……」

 

 考えうる病気の名が頭をよぎる。

 ――てんかんの後の「もうろう状態」か? 

 あるいは、一時的に脳に血が回らない「失神発作」の後?

 けれど呼吸も脈も安定していて、身体におかしな反応は見られない。

 

 「……違う……どれも違う……」

 

 焦りを隠せず、C-21は立ち上がる。

 「ちょっと、人を呼んでくる」

 

 そう嘘をつき、建物を出る。

 外の湿った空気を吸い込みながら、どうすればいいかを必死に考えていた。

 

 ――そのとき。

 携帯が震えた。

 

 画面に表示されたメッセージは、簡単な言葉で書かれていた。

 

 『今日は医務室がお休みでしょ。だから伝えておくね』

 『これから施設の中がバタバタすると思う。でも、それはあなたには治せないことだから』

 『知らないふりをしておけばいい。何もしなくて大丈夫だから』

 

 C-21は無意識に携帯を強く握りしめた。

 

 携帯の画面を閉じると、C-21の顔から血の気が引いていった。

 「……そうだよ。医者でもないのに、ここまで関わる必要なんてない」

 

 心の中で冷たく言い切る。

 「盗聴器の件を通報さえすれば、もう助けてもらえる。ガキの一人や二人救ったってどうにもならない」

 「私だって、自分が一番だ」

 

 足枷が鳴るたびに、思考はどんどん冷酷さを増していく。

 「ここは国も関わってる施設なんだ……。バカなことしても、どうせ全部なかったことにされる」

 「音沙汰を立てて助けてもらえなくなったら……その方が危ない。売られるのは、私だ」

 

 唇に浮かぶのは、ぞっとするような笑み。

 「……あいつの脳みそ、解剖すれば新しい病気の発見になるかもな」

 「そうだ。きっとあいつは、そのためのモルモットなんだ」

 

 邪悪な笑みを浮かべたまま、C-21は足を遠ざけていった。

 ――はずだった。

 

 気づけば足はB区画へと向かっている。

 理屈では拒絶していたはずなのに、体が勝手に少女たちのもとへと戻っていた。

 

 「……え?」

 

 放心したまま、目の前には再び怯えた少女たち。

 虚ろにうずくまる子のそばで、必死に見守る子供たちの視線が、C-21に集まる。

 

 そして、口が勝手に動いた。

 「わ、私……山の下に病院とかないか見てくるよ……!」

 「柵の前で働いてるときにさ、救急車の音がするの聞いたことあって……!」

 

 ――え。

 

 頭の中で自分の声がこだまする。

 (え……私、何言ってるの……!?)

 

 胸の奥がぐらりと揺れ、C-21は混乱した目で少女たちを見つめ返した。

 冷酷な理屈とは真逆の言葉が、無意識の正義感に突き動かされて飛び出していた。

 

 午後の柔らかな光が差し込むクリニックの相談室。

 青いラインの入った白いブレザーに黒いシャツ、制服姿の桃色の髪をした高校生は、膝の上にノートを置いて真剣な顔をしていた。

 

 「……どうしても患者さんが嫌がる治療をしなきゃいけないときがあるじゃないですか。

  頭では分かってるんですけど……気持ち的に、どうしても拒絶したくなっちゃって……」

 

 院長は落ち着いた眼差しで頷き、穏やかに言葉を返す。

 「それは自然なことだよ。治療というのは時に患者さんにとって辛いことだ。

  だからこそ、少しでも患者の気持ちに立つことが大切なんだ。

  苦しい気持ちや辛い気持ちを共有してあげる……それだけで、救われる人も多いんだよ」

 

 ペンを握りながら、ぱちぱちと瞬きを繰り返した。

 

 「……なるほど……。その“共有する”っていうのが、一番大事なんですね」

 

 面談が終わり、カバンを肩に掛けてクリニックを出ようとする。

 ガラス製の扉に近づいたその時――。

 

 コン、コン、と外側から音が響いた。

 顔を上げると、そこには――囚人服に身を包み、足枷をつけた少女が立っていた。

 

 「……えっ……!?」

 

 花那の目が大きく見開かれる。

 次の瞬間、慌てて鍵を開け、扉を押し開いた。

 

 「ちょっ……ど、どうしたのその格好!? えっ……!?

  ちょっと、警察! 警察呼ばなきゃ……!」

 

 パニックに陥った彼女は、目の前のC-21を思わず抱き寄せ、大声を張り上げた。

 だがC-21は必死に肩を掴み、低い声で押しとどめる。

 

 「ちょっと、待ってください! ……話を……話を聞いてください」

 

 扉の向こうから吹き込む湿った風に、二人の声が揺れて消えていった。

 

 「ごめんなさい……!」

 C-21は花那に深々と頭を下げた。

 「今から案内するところに来てください! でも、そこで見たことは全部忘れてください!

  何も聞かないでください! 誰にも話さないでください!」

 

 その真剣すぎる表情に、花那は目を泳がせた。

 「えっ……えっ、ちょっと待って……。それ、絶対無理だよ……!」

 

 困り果てて声を漏らす花那の背後から、落ち着いた声が響く。

 院長だった。

 「言われた通りにしなさい。この街で暮らす人間なら、踏み入ってはならない領域があることを知らねばならない」

 

 花那は呆然と院長を見つめた。

 (……なにそれ……?)

 困惑したまま頷くことしかできず、C-21は小さく「ありがとうございます」と礼を言うと、花那の手を取って外へ引いた。

 

 「絶対ダメだけど……!」

 花那は声を上げつつも、停めてあった原付にまたがり、C-21を前に乗せる。

 エンジンをかけると、二人を乗せた小さな車体は夜の街へ飛び出した。

 

 原付は住宅街を抜け、街灯の少ない道へと進んでいく。

 道路の両脇に並ぶ電柱が流れるように後方へ消え、雨上がりのアスファルトには街灯の光が滲んでいた。

 白いシャツの裾を風がばたつかせ、湿った夜風が顔を切るように吹き抜ける。

 

 道が郊外に差し掛かると、舗装は次第に荒くなり、ガタガタとした振動が原付を揺らした。

 両脇には雑草が腰の高さまで伸び、雨に濡れた葉から雫が飛び散って頬を打つ。

 

 やがて街灯すら途切れ、闇の中をヘッドライトだけが切り裂いていく。

 遠くで蛙の声がこだまし、時折、梟の鳴き声が闇に響いた。

 道の片隅にはひび割れた標識が倒れかけ、舗装の隙間から小さな草が伸びていた。

 

 悪路をしばらく走ると、目の前に不自然な影が立ちはだかった。

 錆びた鉄柵――その向こうには、街の灯りから隔絶された建物群がぼんやりと佇んでいる。

 

 花那は思わずハンドルを握り直し、前に座るC-21の背中に目を落とした。

 (……ここが……?)

 

 原付はゆっくりと停まり、二人をその異様な施設の前に降ろした。

 

 原付を降りた花那は、前にそびえる建物を見上げ、思わず目を疑った。

 高く伸びる有刺鉄線の柵。所々錆び、黒ずんだ鉄格子。

 窓という窓は分厚い鉄格子で覆われ、壁には雨の跡が縦に筋を残している。

 灯りはわずかで、風が吹くたびに軋む音が遠くから響き、まるで廃墟に足を踏み入れる前のような息苦しさがあった。

 

 「……なに、これ……」

 花那は呟き、目を丸くする。

 けれど次の瞬間、顔をしかめて小さく首を振った。

 「うちの東校舎みたいなこと言われても……」

 

 それでも足を前に出し、施設の入口に向かおうとする。

 

 しかし――。

 

 先ほど半開きだった鉄格子の扉は、今はぴたりと閉ざされていた。

 鎖が絡み合い、重く錆びた南京錠がぶら下がっている。

 

 C-21は立ち止まり、額に冷や汗を浮かべた。

 「……どうしよう……」

 扉を前に、足がすくむ。

 

 その時。

 ギイ……と錆びた蝶番が軋む音と共に、鉄格子の向こうから人影が現れた。

 

 女の職員だった。

 白い制服のような作業着に身を包み、冷たく研ぎ澄まされた視線をこちらへ向けてくる。

 

 その視線を受けた瞬間、C-21の喉がひゅっと鳴り、冷たい汗が背を伝った。

 だが次の瞬間、花那がすっと腕を回し、C-21を自分の胸元へ抱き寄せた。

 「……っ」

 

 睨み合うように二人を見据えた職員の耳に、不意に電子音が鳴り響く。

 ――C-21の懐からだ。

 

 職員は無言のまま近づき、C-21の震える体を押さえ込むようにして携帯を取り出す。

 冷たい仕草で着信に出ると、数秒、無表情のまま耳を傾けた。

 やがて短く「……そう」と答え、電源を切ってC-21の懐に押し戻す。

 

 「荒木のやつ……」

 

 低く呟くと、無造作に入口の鍵を外し、鉄格子を開けて中へと戻っていった。

 

 閉ざされた空気がその場に残り、花那とC-21の心臓の鼓動だけが、はっきりと響いていた。

 

 B区画の一角。

 床に座り込んだ少女は、まだ虚ろな目で宙を見つめていた。

 その周囲で、怯えた子供たちが小さな声で彼女の名を呼んでいる。

 

 花那は額に汗を滲ませ、手にしたスマホで必死に院長へ状況を伝えていた。

 「呼びかけても意味が分からないことしか言わなくて……脈はあるし、熱もないです……」

 声は震え、喉が乾いていた。

 

 しばらく院長の声を聞いた後、花那は曖昧に頷き、視線を落とす。

 「……寝かせておけば治るって」

 

 言いながらも、その目はどこか虚ろで、自分でも納得できていないのが伝わってくる。

 「……ごめん……私、もう帰るね」

 小さく俯き、少女の手を握りかけては引っ込めた。

 「……あんまり力になれなくて……ごめん」

 

 その声には、悔しさが滲んでいた。

 けれども彼女はその悔しさを飲み込むように肩を落とし、出口へと歩き出す。

 

 ――その背に、鋭い声が飛んだ。

 「君」

 

 花那はびくりと振り返る。

 そこには、先ほどの女性職員が冷たい目で立っていた。

 

 「君、世怜音女学院の生徒だろう? 環崎教頭は知ってるか?」

 

 唐突な問い。

 職員は無造作にメモ帳を差し出した。

 

 花那は睨み返し、唇を強く噛んだ。

 「……知りません。私、西の生徒なので」

 

 胸糞悪そうに目を逸らしながらも、差し出されたメモ帳を乱雑に受け取り、そのまま踵を返す。

 後ろ姿には、やり場のない怒りが滲んでいた。

 

 そんな花那の横顔を、C-21は少し距離を置いて眺めていた。

 その表情には何の感情も浮かんでいない。

 視線をわずかに下げ、まるで見たくない現実から目を逸らすかのように、ただ足枷の鎖を小さく鳴らしながら歩いた。

 

 翌日。

 

 薄暗い独房の中、C-21は鉄格子の隙間から差し込むわずかな光を背に、携帯を手にしていた。

 昨日の女性職員のことを思い返し、指先で文字を打ち込む。

 

 『昨日の女の先生のこと……どうすればいいの?』

 

 数秒後、短い返信が返ってきた。

 

 『まあ、あんまりたくさんは言えないけど、先生達も一筋縄じゃないってことだよ』

 『でも、これじゃあ国の人は君のこと助けてくれないかなぁ』

 

 その文字を見た瞬間、C-21の胸にずしりと重さがのしかかった。

 力が抜け、ベッドへ倒れ込む。

 

 「……終わった……」

 

 魂が抜けたように天井を見つめ、ただ息だけが出ていく。

 指先から携帯が滑り落ち、ベッドの端でかろうじて止まった。

 

 しばらくそうしていると、再び小さな振動。

 気怠く画面を開くと、そこには明るい調子の文章が並んでいた。

 

 『でも良いんじゃない?』

 『みんなを守った! カッコいいじゃん!』

 

 C-21は目を見開き、思わず顔を両手で覆った。

 「……でもおかげで私はもう……」

 

 声は震え、目尻に力がこもる。

 けれど、そのまま画面を凝視し、口の中で繰り返した。

 

 「……みんなを……守った?」

 

 疑問が胸に芽生え、言葉が頭の中でこだまする。

 

 夕刻の医務室。

 白い壁と薬品の匂いの漂う空間に、C-21と年配の男性職員だけがいた。

 窓の外からは雨音がぼそぼそと響き、どこか沈んだ空気が部屋を覆っている。

 

 「……うちで薬の実験を手伝っていることは知ってるじゃろ」

 男は椅子に深く腰掛け、静かに口を開いた。

 

 C-21は無言で頷く。

 

 「本来、あれはワシが作った失敗作の薬でな。データを取るためだけに、別の企業が試験をしておった」

 「本来なら、試しても大して健康被害は出んはずだったんじゃ」

 

 低い声が部屋に落ちていく。

 C-21は眉を寄せながら聞いていた。

 

 「……だが、今回の一件は……何かしらの要因で、その薬の研究を別の誰かが進め始めたということじゃ」

 

 淡々と語る職員の言葉は重かった。

 そして彼は視線をC-21に移す。

 

 「もちろん、この研究については――昨日お前が助けを求めた院長も知っていることだ。

  だが今回、それが外に漏れたことで……その研究を知る人間達に、公にされることになった」

 

 C-21はわずかに顔を歪め、ぽつりと問いかける。

 「じゃあ……別に国には良い話だったんじゃないですか」

 

 男は首を横に振り、深いため息をついた。

 「いや……今回の失態は“施設のもの”である以上、そこを相手取って取引していた国の責任にもなる。

  結果として、国の機関は信用を失うんじゃ」

 

 C-21は、机に置いた拳をゆっくりと解き、声を震わせながら問いかけた。

 「……私……もう、買い取ってもらえないんですか?」

 

 年配の職員は間髪入れずに答える。

 「国の人間には無理じゃろ」

 

 即答だった。

 その一言に、C-21の肩は大きく落ち、目は伏せられた。

 小さな背中が、絶望の重さに押し潰されるように沈んでいく。

 

 だが職員は、静かに続けた。

 「何を言う。あのまま見て見ぬフリをしていれば……確かに国を陥れようとする悪人を捕まえることはできた」

 「じゃが、その分、苦しむ友達はもっと増えたんじゃ」

 

 語る声はゆっくりと、諭すように重かった。

 「医療に携わる者として……わしは誇りに思うぞ」

 

 だが、C-21はうつむいたままだった。

 嬉しさの色は顔に浮かばず、ただ沈黙とともに小さく唇を噛んでいた。

 机の上に落ちる影は、彼女の心の重さをそのまま映し出していた。

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