咲-saku- 【完結】   作:えいどら

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おまけ:白銀の翼 4章

 半年後――。

 

 C-21は虚ろな目をしたまま、ほうきを握っていた。

 足枷の鎖がカランと鳴り、乾いた音を響かせながら、無言で床の埃を追い払う。

 背筋は曲がり、動作は機械のようにぎこちなく、そこには生気の欠片もない。

 

 「そこ、もっと丁寧に」

 

 女性職員の冷たい声が背後から飛んだ。

 抑揚も情けもない命令口調。

 C-21は「……はい」とだけ返し、従順に掃き方を直す。

 声色には抗う気配もなく、ただ空っぽの音が響くだけだった。

 

 ふと脳裏に過ったのは、半年前の出来事。

 ――あの時、自分がやった愚行。

 あれから状況は何一つ良くならず、むしろ悪化したようにも思える。

 携帯はとうに充電が尽き、ただの無用な金属の塊になった。

 同じ班で作業をしていた子供の顔も、いつの間にか半分ほどは見なくなっていた。

 誰もそれについて口にせず、ただいなくなった事実だけが、重苦しく空気に積もっている。

 

 「……」

 

 C-21は黙々とほうきを動かし続ける。

 その時、不意に廊下の先に視線を感じて顔を上げた。

 

 ――緑の髪。

 かつて、自分の部屋に忍び込み、薬品を盗んで飲んでいたあの少女。

 

 C-21は目を細め、口を歪める。

 「……なんだよ……」

 

 低く睨みつける。

 だが少女は何も言わなかった。

 小さく足枷を鳴らし、視線を逸らすと、そのまま背を向けて歩き去っていく。

 

 冷たい空気が再び廊下に戻る。

 C-21はほうきを握る手を強く握りしめた。

 胸の奥に溜まるのは、どうしようもない喪失感――それだけだった。

 

 掃除を終えて用具を片付けていると、不意に背後から声が飛んだ。

 

 「ついて来なさい」

 

 振り返れば、無表情の女性職員が立っている。

 C-21は用具を雑に棚に戻し、渋々従った。

 

 最初は「また雑用か」とでも言いたげに、つまらなさそうな顔をしていた。

 だが、足取りは次第に重くなる。

 歩き慣れたC区画の廊下を抜け、見知らぬ建物へと導かれていくからだ。

 

 ――D区画。

 

 ほとんど来たことのない、閉ざされた区域。

 薄暗い廊下は湿った匂いがこもり、壁には剥がれた塗装と錆の跡が広がっている。

 時折、鉄扉の奥から物音が響くたびに、C-21の心臓は強く跳ねた。

 

 「……まさか……」

 

 胸に嫌な予感が広がる。

 足取りは自然と狭まり、歩幅は子供のそれよりも小さくなっていく。

 鎖の擦れる音が、不安を煽るように耳に響いた。

 

 やがて耐えきれず、前を歩く職員の背中に向かって声を絞り出す。

 「……え……私、売られるんですか?」

 

 問いかけは震えていた。

 だが職員は振り返らない。

 ただ冷たく一言。

 

 「早く歩け」

 

 それだけ。

 

 C-21の喉がきゅっと詰まる。

 「……ヤバい……」

 

 背中に汗が伝う。

 足は鉛のように重く、それでも無理やり前へ進ませるしかなかった。

 果てしない不安が心を締めつけ、目の前の廊下がどこまでも長く続いているように感じられる。

 

 扉を開けると、そこは応接室のような部屋だった。

 古びた革張りのソファと小さな机。窓は厚いカーテンで閉ざされ、重苦しい空気が漂っている。

 

 ソファには中学生ほどの少年が座っていた。

 C-21を見ると、少年は目を丸くして小さく息を呑んだ。

 けれど取り繕うように机の上のカップを手に取り、C-21へ差し出す。

 

 「……あ、その……これ、多分俺に出されたやつなんだけど……君が飲む?」

 

 気まずそうに笑いながら、目を逸らす。

 「なんか俺、こういうところ……あんまり慣れなくて」

 

 居心地の悪そうな表情。

 C-21は無言で受け取ると、黙り込んだ空気を破るように話し始めた。

 

 「……脊髄反射って、知ってます?」

 

 少年が首を傾げると、C-21の声は少し熱を帯びた。

 

 「例えば膝をトントンって叩くと、勝手に足が跳ねるじゃないですか。あれは脳じゃなくて脊髄が直接判断してるんです。

  感覚神経が刺激を受けて、脊髄の中の介在ニューロンを経由して、すぐに運動神経に信号を送る。だから脳まで情報が行く前に、体が動いちゃうんですよ」

 

 言いながら、C-21はじっと少年の腕を見つめた。

 

 細い二の腕に指を這わせ、軽く押し込む。

 

 「この辺り……上腕二頭筋。ここを反射で引き伸ばせば、肘が勝手に曲がる。

  でも、解剖して神経の走行を確認すれば、もっと詳しく反射経路が見えるはず……」

 

 その目は異様な光を帯びていた。

 小さな手で少年の肩甲骨の辺りを押さえながら、口元に不気味な笑みを浮かべる。

 

 「例えばここを切開して、神経根を一つずつ露出させれば……どう繋がってるか、ちゃんと分かるんです。

  どこを切れば反射が消えるのか――見てみたいと思いません?」

 

 その声色は冷たく、しかし興奮を隠さない。

 恐怖を植えつけるような、知識欲に満ちた声音だった。

 

 けれど、少年は身を引くどころか、目を輝かせて答えた。

 「……すごい! 君、頭いいんだね!」

 

 想像もしなかった反応に、C-21の表情が固まる。

 「……は?」

 

 恐ろしいはずの話を真っ直ぐ受け止め、むしろ興奮している少年を前に、C-21は初めて困惑を浮かべた。

 

身を乗り出し、少年らしい熱で語り出した。

 

 「ストーリーの中にさ、天才の科学者が出てくるんだよ。

  その人が“魔道具”って呼ばれる装備を作ったんだ。最初はすごい発明だったんだけど……」

 

 目が輝く。

 「でもさ、封じてたクリーチャーの魂があまりにも強大すぎて、制御できなくなっちゃうんだ。

  それで魔道具は、クリーチャーの世界を荒らし始めるんだよ。

  やっぱり天才って、観てる世界とか全然違うんだなって思って……!」

 

 C-21は眉をひそめ、ぽかんとした表情で彼を見ていた。

 少年の興奮と、この閉ざされた施設の冷たい空気の落差に、頭が追いつかない。

 

 しばらくC-21の反応を待っていたが、その曖昧な表情に気づくと、ふっと肩を落とした。

 視線を床に落とし、小さな声で言う。

 

 「……本当はさ、一緒にカードやってくれる家族が欲しくて、ここまで来たんだ」

 

 C-21の目がわずかに揺れる。

 

 「ここなら、お金を払えば家族になってくれる人がいるって聞いたからさ。それで来たんだ。

  最初はお父様も嘘言ってるんじゃないかって思ってたけど……レンタル彼女とか、そういうのもあるって聞いたことあったし」

 

 声は次第に小さくなり、言葉の端は震えていた。

 少年は居心地悪そうに肩を竦め、辺りを覗いた。

 ――だが、この部屋から垣間見えるのは、厚い鉄格子や監視用のカメラ、異様な無機質さだけ。

 場違いにも程がある現実が、ようやく自身を圧し掛かるように覆っていく。

 

 直感的に理解していた。

 ――彼は、この異様な場所を知らず、あの高揚したテンションのまま来所の予約を入れ、ここに連れてこられた。

 ――先生たちは困っていた。問題児で処分に迷っている自分を、この子供に“宛がう”ことで。

 

 その滑稽さに、C-21の胸に冷たい諦念が滲む。

 けれど彼女はそっと少年の手を掴み、顔を上げた。

 

 「それで――私は何をすればいいの?」

 

 恐ろしくも微笑んで、唇に皮肉を滲ませる。

 「……ご主人様」

 

 その笑みは肯定にも見え、諦めにも見えた。

 少年は驚いたようにC-21を見返し、言葉を失ったまま固まった。

 

 ドアが開き、硬い靴音とともに女性職員が入ってきた。

 手には簡素なリュックがひとつ。

 少年の前に立ち、にこりともせずに尋ねる。

 

 「いかがですか? 他が良ければ代替品を探しますが」

 

 C-21はその言葉を聞いて、心の奥で冷笑した。

 (どうせ“在庫がない”とか言って追い出すつもりだろ……)

 

 目の端で職員を睨みながら、無言で佇む。

 

 その時、不意に少年が小さな声でこちらに顔を寄せてきた。

 「……君の名前、呼びたいんだけど」

 

 C-21は目を細める。

 「……そんなもの、ない。管理番号ならあるけど」

 

 ぼやくように吐き捨てる。

 しかし少年の目は変わらず、真剣にこちらを見つめていた。

 

 その視線に耐えかね、C-21は唇を噛み、しばらくの沈黙の後――。

 

 「……葉加瀬冬雪」

 

 掠れるように、しかし確かにその名を口にした。

 何年も、誰にも呼ばれることのなかった、自分の名前。

 

 少年の目が一瞬、驚きに見開かれる。

 だがすぐに口元を引き締め、職員に向き直った。

 

 「――葉加瀬さんを……俺にください!」

 

 少年らしい声は、応接室の重苦しい空気を切り裂くように響いた。

 職員は一瞬まばたきし、その無機質な瞳を細めて二人を見比べた。

 

 「……じゃあこれ持って、早く出てけ」

 

 女性職員は短く言い放つと、かがんでC-21の足枷を外した。

 硬い金属が外れると同時に、鎖の重みから解放された足が軽くなる。

 職員は用意していたリュックを無造作に押し付け、そのまま応接室を出ていった。

 

 扉が閉まる。残されたのは、少年とC-21――いや、葉加瀬冬雪。

 

 応接室を抜けて廊下に出ると、そこにいた他の少女たちが足を止めた。

 彼女たちの視線は、一様に少年へ。

 赤面して小声で囁き合う者、目を丸くして彼の整った容姿に見惚れる者。

 その光景は異様で、けれど一瞬だけ場の空気を和らげていた。

 

 やがて施設の出口を抜けると、視界には広がる青空。

 重苦しい空気から解き放たれた瞬間、葉加瀬はわずかに目を細める。

 

 二人は少年が乗ってきたタクシーに滑り込む。

 車の中はひんやりとしていて、外の熱気が嘘のようだった。

 

 「……何入ってるの?それ」

 

 隣で少年が問いかける。

 視線の先には、膝の上でリュックを漁る葉加瀬の姿。

 

 葉加瀬は瓶に入った薬品や、色とりどりのアンプルをひとつひとつ確認していた。

 「……私物です」

 

 淡々とした声で答える。

 そのまま手を突っ込んでいると、不意に指先に硬い感触が触れた。

 

 引き上げると、それは――電源の切れた携帯電話だった。

 

 葉加瀬は眉をひそめる。

 「……こんなものまで渡されても」

 

 小さくぼやきながら、携帯を再びリュックの奥にしまい込む。

 窓の外では、施設の柵が遠ざかり、空と街の風景が流れていった。

 

 

 

 

 

 

 タクシーの車窓を流れる街並みを眺めながら、少年―加賀美ハヤトは指先で名刺を弄んでいた。

 「一応、他の施設も予約したんだけどな……」

 

 名刺とスマホの番号を見比べながら、ぽつりと呟く。

 けれどすぐに口元を緩め、軽く肩をすくめた。

 「でも、葉加瀬さんも来てくれたから、もういいかな」

 

 そう言って名刺を仕舞おうとした瞬間――。

 葉加瀬が冷めた声を差し込んだ。

 

 「……それやったら、タダじゃ済まないと思うよ」

 

 加賀美は一瞬きょとんとし、すぐに苦笑する。

 「やっぱり、キャンセル料はいるよね」

 

 まるで映画のチケットでも軽く流すような声音。

 だが葉加瀬は視線を窓の外に逸らしたまま、静かに続けた。

 

 「……人身売買の約束ドタキャンしたりしたら――

  ご主人様、下手したら生きて帰れないよ」

 

 その言葉の冷たさに、加賀美の背筋がぞくりとした。

 腕に鳥肌が立ち、手の中の名刺を落としそうになる。

 

 「や、やっぱり……少し見ていこうかな〜……」

 

 額に冷や汗を垂らしながら、わざと軽い調子を装って答える。

 だがその声には震えが混じる。

 

 タクシーは山の麓を抜けて、長い道路を走り続けた。

 最初は人の行き交う商店街や学校帰りの子供たちの姿が見えたが、やがて建物の数は減り、代わりに空き地と雑草が目立つようになる。

 

 窓の外には、看板の文字が色あせたまま放置された古い商店。

 シャッターの閉じたままの店先には雨水が溜まり、街の匂いは湿った土と錆のように変わっていった。

 人影は少なく、時折すれ違う自転車のブレーキ音がやけに響く。

 

 隣町に入ると、街並みはさらに寂れた印象を深めた。

 古びた電柱が斜めに立ち、切れかけた電線が垂れている。

 空は晴れているはずなのに、どこか薄暗く、色を失った景色の中にぽつりと現れたのは――。

 

 高い塀に囲われた、大きな教会のような施設。白壁には黒ずんだ雨跡が垂れている。

 柵には鉄条網が絡み、門の前には不自然なほど整列した石畳。

 

 ――「シヴィルト」。

 

 タクシーが停まると、葉加瀬と加賀美は降り立った。

 夏の陽射しが容赦なく照りつけるが、施設の周囲だけは冷え切った影が漂っているかのようだった。

 

 葉加瀬は無表情で門を見つめ、背筋を伸ばして立った。

 だが対照的に、加賀美は明らかに空気に飲まれ、彼女の背後に回り込んでしまう。

 

 「……よく私のこと買ってくれましたね」

 葉加瀬の声は静かだが、どこか自嘲の響きを含んでいた。

 

 加賀美は目を逸らし、唇を噛んだ。

 「……正直、怖かったよ。でも……友達欲しかったし……」

 

 小さく呟き、視線をシヴィルトへ向ける。

 白い外壁と鉄条網、沈黙した門扉。

 その異様な光景に、彼の喉はごくりと鳴った。

 

 「……葉加瀬さんのところは、研究所みたいな感じだったから、まだ割り切れたんだ。

  でも、これはちょっと……」

 

 声が小さく震える。

 

 葉加瀬はそんな加賀美を横目で見やり、仕方なさそうに前へ出た。

 無言で門扉に手を伸ばし、冷たい鉄のチャイムを押す。

 

 チャイムを押しても、しばらく応答はなかった。

 乾いた鐘の余韻だけが門扉の前に残り、二人を取り囲むように不気味な沈黙が降りる。

 

 加賀美は不安げに辺りを見回し、葉加瀬は眉をひそめ、ぽつりと呟いた。

 「……教会?」

 

 その言葉が口をついた直後――。

 

 ギイ、と重たい鉄の扉がゆっくりと開いた。

 内側から現れたのは、白い修道服に似た装いを纏った職員。

 表情は硬く、歓迎の色はどこにもない。

 

 「お待ちしておりました。加賀美様」

 

 事務的な声が響く。

 職員は二人を中へと導いた。

 

 加賀美は恐怖に駆られ、葉加瀬の囚人服の袖をぎゅっと引っ張りながら、恐る恐る足を進める。

 葉加瀬は顔をしかめたまま、それを拒まずに歩みを合わせた。

 

 職員は淡々と口を開く。

 「加賀美インダストリアルの若き代表ともあろうお方のお眼鏡に適うかどうかは分かりませんが……」

 

 その言葉に、葉加瀬が横目で加賀美を見やる。

 「……ご主人様、社長なの?」

 

 加賀美はびくりと肩を跳ねさせ、小さな声で答えた。

 「名前だけだよ……」

 

 声はかすれ、まるで自分を縮こませるように。

 

 葉加瀬は無表情を装いながらも、その答えを頭の隅に留める。

 そして歩きながら、職員に問いかけた。

 「あの……レナって子、いますか」

 

 職員はぴたりと歩みを緩めた。

 眉間にしわを寄せ、しばらく黙り込む。

 やがて返事をせずに再び歩き出す。

 

 加賀美は不安げに葉加瀬へ顔を寄せ、小声で囁いた。

 「……レナさんって……?」

 

 しかし葉加瀬は何も言わなかった。

 ただ職員の背中を見つめ、無言でついていく。

 

 シヴィルトの内部は冷たい石造りの床に、薄暗い照明が並んでいる。

 湿った空気が重たく肌にまとわりつき、どこか遠くから低い祈りの声が微かに響いていた。

 

 やがて職員は二人を入口のホールに残し、足早に奥へと去っていった。

 急ぎ足で消えていく背中が、かえって不安を煽るように見える。

 

 ホールは広いのに、不自然なほど静かだった。

 外の世界の音はすべて遮断され、灯りは薄暗く、わずかに揺れる燭台の炎だけが空気を照らしている。

 

 時間が経っても職員は戻ってこない。

 加賀美は落ち着かず、何度もスマホの画面を確認していた。

 「……そろそろ、タクシーの貸切の時間、切れちゃうかも……」

 小声で呟くその声音には焦りが滲む。

 

 葉加瀬は痺れを切らし、無言で奥へ足を踏み出した。

 ――異様なほど静かだ。

 歩みを進めるたび、靴音が石床に吸い込まれていく。

 人の気配がないはずなのに、背後から視線を感じるような空気。

 

 その時。

 

 「――みぃつけた!」

 

 甲高い声が背後から弾けた。

 葉加瀬が振り返ると、そこに白い修道服を纏った少女が立っていた。

 

 レナ。

 

 彼女は唇を大きく歪め、邪悪な笑みを浮かべていた。

 「……あはは! ありがと〜! おかげでたくさん面白い物が見られたよ!」

 

 ケラケラと笑う声が、異様な静けさに反響する。

 

 葉加瀬は眉をひそめ、冷めた声で答えた。

 「……私はそんなに面白くなかった」

 

 レナはさらに近づき、覗き込むようにして笑った。

 「あ〜、そっかぁ。あの後どうなったか知らないんだぁ」

 

 目を細め、囁く声で続ける。

 「だってフユキのおかげで、師匠を雇ってた人……死んじゃったんだよ?

  頭、鉄砲で撃たれてさ! ――バーンって!」

 

 小さな手で銃の形を作り、楽しげに真似をする。

 

 だが、葉加瀬の顔はますます無表情になった。

 「……別に興味ないし」

 目を逸らし、淡々と吐き捨てる。

 「人なんて死んだらただの肉塊だろ。何の興もない」

 

 そのままレナの小さな手を取ると、迷いなく入口へ歩き出した。

 無邪気に笑うレナと、冷え切った瞳の葉加瀬。

 二人の足音だけが、静まり返ったシヴィルトの中に響いていった。

 

 入口まで戻ると、加賀美は壁際に立ち尽くしていた。

 蒼ざめた顔で、葉加瀬を見るなり声を上げる。

 

 「ちょっと……一人にしないでよ……!」

 

 その声音は恐怖に滲んでいた。

 葉加瀬はすまし顔のまま、レナの手を握ったまま加賀美を指差す。

 

 「この人、私のご主人様だから」

 

 レナは加賀美をじろりと見上げ、細めた瞳でじっと覗き込む。

 「ふぅ〜ん……」

 

 渋々といった調子で視線を合わせるが、離す気配はない。

 

 加賀美は落ち着かない様子で、葉加瀬に小声で尋ねる。

 「この人が……レナさん?」

 

 けれどレナの手は強く、加賀美を逃がさない。

 数秒、じっと見つめたまま――やがて小さく呟いた。

 

 「……綺麗」

 

 その言葉に加賀美は一瞬きょとんとする。

 しかしレナはすぐにプイと顔を背け、頬を膨らませて吐き捨てた。

 

 「つまんない……」

 

 場の空気が張り詰めたその時、奥から女性の職員が駆け寄ってきた。

 レナを見るなり、声を荒げる。

 

 「いけません! まだ精神のケアも済んでいないのに!」

 

 その声には苛立ちよりも、心配が強く滲んでいた。

 続いて加賀美と葉加瀬に向き直り、頭を下げる。

 

 「申し訳ありませんが、今は彼女は誰にも売れません!」

 

 だが、レナは聞き入れなかった。

 加賀美の腕をがっしり掴み、子供らしい声で言い放つ。

 

 「私、もう社長の言うことしか聞かないからねぇ〜」

 

 そう言って強引に入口から外へ引っ張り出す。

 抵抗する間もなく、加賀美は連れ出されていった。

 

 残された葉加瀬は、ほんの一瞬だけ肩をすくめ、薄く笑う。

 「……じゃあ、そういうことで」

 

 そのまま職員を振り返ることもなく、施設を後にする。

 

 重々しい扉を抜けると、門の前には別の職員が立っていた。

 加賀美は反射的にレナの前へ出て、庇うように腕を広げる。

 

 しかしレナは、にやりと笑って小さな声で囁いた。

 「大丈夫だよ〜」

 

 その無邪気な調子に、加賀美の肩から力が抜ける。

 

 職員は無言で書類の束を差し出した。

 「彼女の身体状況が記されたものです」

 

 淡々と告げると、三人を見送るように頭を下げた。

 門の外に出た瞬間、外気の自由な匂いが三人を包み込む。

 

 タクシーに乗り込むと、エンジン音とともに施設が遠ざかっていく。

 狭い車内には妙な沈黙が漂っていた。

 

 やがて加賀美が口を開く。

 「……レナさんは、名前はなんて言うの」

 

 レナは窓の外を眺めながら、つまらなそうに答える。

 「もう知ってるでしょ」

 

 加賀美は首を振る。

 「いや……そうじゃなくて。苗字とかはないの?」

 

 レナは肩をすくめて、子供っぽい声で返した。

 「知らな〜い」

 

 加賀美は受け取った書類を開く。

 そこに記されていたのは、身体的な数値や管理番号ばかり。

 ――だが、苗字の欄だけは空白のまま、徹底的に抹消されていた。

 

 「……」

 

 しばらく悩んだ末、加賀美は夜空を見上げた。

 窓の向こう、群青の闇に無数の星が瞬いている。

 

 「じゃあ――夜に見る、で。

 

 

 

 夜見れな……

 

 

 

 

 って言うのはどう?」

 

 言葉は不器用だが、どこか真剣な響きを持っていた。

 

 レナは加賀美をじっと見つめ、やがて小さく笑った。

 「……じゃあ、それでいいや」

 

 その瞬間、タクシーの車内にだけ、新しい名が静かに刻まれた。

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