咲-saku- 【完結】   作:えいどら

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最終章 第2話:侍の密命

 除霊を終えた後の夜風は、いつもより重たく湿っていた。咲は家の前まで戻って、疲れ切った顔で立ち止まった。

 

 「……はぁ……」

 

 深く息を吐き、乱れた襟を無理やり整える。その指先に、霊障の中で掴まれた感触がまだ生々しく残っていた。

 

 ふと、背後から足音が近づいた。硬いブーツのような、ゆっくりとした、それでいて焦りを含んだ足取り。

 

 「……危なかったな」

 

 低くしゃがれた声が背中に落ちる。

 

 振り返ると、街灯の下にチャイカが立っていた。暗がりで赤黒い瞳が鈍く光り、顎を少し引いて咲を見下ろしている。

 

 だが、いつもの余裕を含んだ笑いはなく、声も、眉間の皺も、妙に切羽詰まっていた。

 

 「追ってたやつが……こっちに来てたみたいだな」

 

 チャイカは目を逸らし、煙草でも探すようにコートのポケットをまさぐった。

 

 けれど取り出さない。

 

 手は途中で止まり、そのままポケットに突っ込まれたまま震えていた。

 

 咲は黙ってその様子を見ていた。普段は涼しい顔で何でも斜めから笑ってみせるくせに、今はまるで別人だった。

 

 街灯が照らすその横顔に、皺が深く刻まれている。

 

 

 

 「……本当に、あれで良かったのか」

 

 ポツリと、チャイカが言った。声は掠れていて、飲み込むように低い。

 

 「……あの時、こんな風に……すぐに行動していれば……」

 

 絞り出すような言葉。視線は咲を通り越して、どこか遠くの闇を見ていた。

 

 夜風が吹き、灰色の髪を揺らした。

 

 咲はしばらく黙っていたが、やがてため息をついた。

 

 「今回は、団地の時とはちゃうやろ」

 

 チャイカがぴくりと眉を動かす。

 

 「除霊して何が悪いんや。ほっといたら、誰か巻き込まれとったかもしれん」

 

 咲の声は疲れていたが、変に真っ直ぐだった。

 

 チャイカは何も言わなかった。ただ、うっすらと目を細めた。

 

 まるでそこに、別の誰かを重ねて見るように。赤い瞳に光が差したかと思うと、その光はすぐに沈んだ。

 

 咲はその顔を見て、口を開きかけた。

 

 「……なあ、さっき言うてたこと、どないいう――」

 

 けれどそこで、言葉を飲み込んだ。チャイカの顔が、あまりにも険しかった。

 

 目元に深い影が落ちていて、そこには咲の知らない後悔や記憶が詰まっているようだった。

 

 「……ま、今じゃなくてもええわ」

 

 結局、咲は小さく鼻を鳴らした。

 

 肩をすくめると、チャイカを避けるように一歩歩く。チャイカはその背中を見送ったが、追いかけなかった。

 

 「……気ぃつけろよ」

 

 低く、それだけを投げかけた。咲は振り向きもせず、手を軽く上げて応えた。

 

 夜の住宅街は静かで、二人の影をゆっくりと呑み込んでいった。街灯の下に残ったチャイカは、最後までその小さな背中を見送った後、ため息をつき、ゆっくりと闇に溶けていった。

 

 

 

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  寺は、時の重みを吸い込んだように静まり返っていた。煤けた梁が低く頭上を横たわり、蝋燭の光がゆらゆらと細長い影を刻む。

 

 廊下を隔てた堂内からは、僧たちの読経が低くうねるように聞こえていた。その声は鐘の音と共鳴し、古い木の床を震わせる。

 

 一人の少年が歩いていた。制服のブレザーをきっちりと着込み、ネクタイも緩めないまま、背筋を伸ばして足を進めていた。

 

 ただ、その瞳はどこか伏せがちだった。古木の床が軋む音も、衣擦れの音も、すべてを耳に入れながら、意識は別のところにあった。

 

 ――絶対に勝てないもの。

 

 己が剣を研ぎ澄ませ、心を無にしてきた。そよぐ森のように自然に逆らわず、斬るべきものを斬る。

 

 けれど――

 

 どうしても理解しえない神髄にいる少女がいる。

 

 椎名唯華。

 

 あの笑い方も、泣き方も、すべてを無造作に曝け出すようでいて、肝心なものは絶対に渡さない。まるで深い湖に沈んだ底の石を見せてはくれない。

 

 気がつけば、その表層のさざ波を見つめるだけで心を乱されている。

 

 「……」

 

 軽く目を閉じた。数息観を行うように呼吸を整えようとする。

 

 今は僧の読経すら雑念を払ってはくれない。むしろ、唱える経の節回しの間に、唯華の声が滲むような気がした。

 

 廊下の先は開け放たれ、石畳の中庭が見える。

 

 苔むした灯籠。

 

 ぼんやりと咲く椿。

 

 風はなく、空気だけがひやりと湿っていた。

 

 古びた雨戸には割れ目が走り、冬の名残の冷たさが微かに吹き込む。木の床を乾いた音で打つたびに、その律動が思考を引き戻そうとした。

 

 しかし――

 

 「心が乱れておいでですな」

 

 唐突にかけられた声。

 

 そこには、質素な僧衣に身を包んだ住職が立っていた。白い眉を細め、しかしその目はどこか透徹していた。

 

 短く息を吐き、少しだけ目を逸らした。そして住職は、言葉を切ってから少し声を潜めた。

 

 「――先の森を焼き尽くした生霊の残滓を、椎名家の者が見つけたようです」

 

 瞳が僅かに鋭くなる。

 

 「尼様を焼いた、憎き悪霊の名残だと」

 

 住職の声は決して感情的ではなかった。だが、その奥にこびりついた怨念を知っている者の声だった。

 

 蝋燭の光がふっと揺れる。

 

 「……それで」

 

 低く促した。住職は頷いた。

 

 「いかがでしょう。今回は――唯華様と刀也様、二人で除霊を行うというのは」

 

 淡々とした提案だった。しかしその内容は、思考の奥を刺すようだった。

 

 

 呼吸をひとつだけ乱した。

 

 その手がゆっくりと、腰に下げた刀の柄にかかった。木目の柄が、掌に冷たく馴染む。

 

 その瞬間、住職の瞳がわずかに細められた。意思を、言葉よりも先に悟ったのだ。

 

 「……なら、仕方ありませんな」

 

 住職は目を伏せ、ゆっくりと後ずさるようにその場を離れた。衣擦れの音だけが残り、やがて経の声に溶けて消える。

 

 彼は誰もいなくなった廊下に立ち尽くした。

 

 冷えた風が割れた雨戸から吹き込み、彼の黒髪をわずかに揺らした。指先が柄を握ったまま、白くなるほど力を込めていた。

 

 深い溜め息をひとつ。その音は、経の声の向こう側を打ち鳴らしていた。

 

 

 

 

 

 夜気が降り、古寺の境内はひどく冷え込んでいた。外灯の明かりは頼りなく、石畳に長い影を落としていた。

 

 読経の声も今はなく、静寂を破るのは時折、山風に鳴る竹林の音だけだった。その奥――苔むした墓地。墓標が、古い寺の歴史を示すように立ち並ぶ。

 

 月光に濡れて浮かび上がるそれらの間で、住職は柄杓で墓石に静かに水をかけていた。

 

 肩を落とし、背を丸めるようにして、その動作を何度も繰り返す。石に打つ水音が、境内全体に染み入るように響いた。

 

 住職は背を向けたまま、ゆっくりと口を開いた。

 

 「尼様が御仏の下に旅立たれてから……もう、何年経ちますかな」

 

 その声は小さかったが、墓地に吸い込まれてもなお、確かに届いた。

 

 少し離れたところに立つ男がいた。黒いコートを羽織り、赤黒い目を伏せたまま。暗がりの中でも、その長身と骨張ったシルエットはよく目立った。

 

 ポケットに手を突っ込み、ぼそりと応える。

 

 「……俺があの時、森にいなければな」

 

 声はかすれて、どこか笑っているようでいて笑っていなかった。

 

 「上塚さんは……まだ生きてた」

 

 住職は水をかけ終えると、しばし柄杓を見つめる。

 

 「森が……燃え落ちた」

 

 吐き出すように言葉を継ぐ。

 

 「精霊の森。……あそこが、俺の故郷だった。人間なんか滅多に寄りつかない、ずっと静かな場所だった」

 

 指先が無意識に震えるのを止められず、コートのポケットの中で握りしめる。

 

 「それが、あの悪霊のせいで焼かれた。全部、燃えちまった」

 

 夜風が冷たく吹き、竹が軋む。声も、少し掠れた。

 

 「……上塚さんは術式を使って、俺をあの火の中から引っ張り出した。でも……」

 

 言葉を切ると、暗がりの奥で僅かに目を細めた。

 

 「……本人は、取り込まれた。悪霊に食われたんだ。尼様なんて呼ばれてたのに。」

 

 肩が小さく震えた。

 

 「……あれからだ。全部が敵だって思ったのは」

 

 ポツリ、と吐き出すように言う。

 

 「他の人間も、霊も、誰も信じちゃいけないって、そう決めた。全部潰してやるって、本気で考えた」

 

 目を伏せ、闇の中で自嘲するように低く笑った。

 

 「でも……結局、何も変えられなかった」

 

 住職は背を向けたまま、墓石に手を当てた。蝋燭のように、風が彼の衣を揺らす。

 

 長い沈黙があった。

 

 そしてようやく、チャイカの声が低く響いた。

 

 「だから……今度こそは決着をつけたい」

 

 握り拳が白くなる。

 

 「この残滓ごと全部、焼き尽くす。二度とこんなことが起きねぇように」

 

 目に宿ったのは、怒りだった。暗闇に潜む怨念と同じ色の怒り。

 

 住職はやっと振り返った。

 

 深い皺の奥に宿る、厳しくも穏やかな目が捉えた。

 

 「……チャイカ殿」

 

 低い声は、しかしよく通った。

 

 「怒りでは、何も救われませぬ」

 

 その言葉は柔らかだったが、石のように重かった。赤黒い瞳が、射抜かれたように僅かに揺れる。

 

 住職は墓地を見渡しながら、静かに続けた。

 

 「尼様は、そのようなことをお望みではないでしょう」

 

 夜気が、また二人の間を冷たく吹き抜けた。月明かりが墓碑を白く照らし出す中、チャイカは何も言わなかった。

 

 ただ、ぎり、と奥歯を噛み締めた音だけが、墓地に小さく響いた。




正直笹木の新衣装見たら、例の没案でも良かったような気がしてます
新衣装見ると書きたくなる
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