笹木はふーっと大きく息を吐く。外に出ると夜の住宅街は、アルカナを出たときより少し冷え込んでいた。
スーツ姿の笹木は、まだ慣れない服装に肩をすくめて歩いていた。
その隣を歩く唯華は、両手をポケットに突っ込んだまま、ニヤニヤと笑いながらついてくる。
「なぁ笹木。あんたほんま、今日サラリーマンみたいやったな」
「……うっさい」
「ふふ、あてぃしは面接なんて無縁やからな~」
唯華は顎をしゃくって得意げに言う。
「どっかで『唯華様どうぞ!』って招待される予定やから」
「家継がないつもりじゃなかったんか…」
笹木は吐き捨てたが、どこか気が抜けたような声だった。
笑いながら歩く二人の足音は、やがて人気のない路地へと進んだ。街灯はところどころしかなく、光の届かないところは真っ黒に沈んでいる。コンクリ塀が高く、木の影が不気味に揺れていた。
唯華が鼻歌をやめ、ぴたりと立ち止まった。笹木もつられて止まる。
「……椎名?」
笹木の声がかすれた。
その視線の先に、黒いフードを被った人間が立っていた。街灯の端に半分だけ照らされ、顔は影に沈んで見えないが――じっと、こちらを見ていた。
「なんや、あれ……」
笹木は眉をひそめ、声を潜めた。しかし相手は無言のまま、じりじりとこちらに近づいてくる。
コツ、コツ、コツ――
硬い靴音が、夜気を切り裂くように響いた。
「お、おい、帰ろ。アカンてこれ」
スーツの裾をつかんで方向を変えようとした。だが、相手はさらに一歩近づいた。
「行くで!」
耐えきれず、唯華の腕を引こうとした。だが動かない。むしろ前に出て、そのフードの人間に手を伸ばした。
「おい、お前」
フードの人物がわずかに顔を下げた。
その手を唯華ががしっと掴む。
「お前……アルマルと同じやな」
静かな声だった。「は?」と目を見開く。
唯華は一切動じず、フードを乱暴に剥ぎ取った。
――出てきたのは、青い髪の少女だった。夜風にさらされても真っ直ぐ落ちる青い前髪。小さな顔に、しかし鋭いほど真剣な眼差しを宿している。
瞳が夜の光を飲み込み、冷たく澄んで唯華を真っ直ぐに射抜いた。
「……お前、魔法使いなんか」
唯華が低く言った。少女は応えない。
ただ、その細い手首を唯華に掴まれたまま、視線を逸らさずにいた。
肩を上下させて荒い息を吐き、目を大きく見開いたまま固まった。夜の住宅街に、三人の影が、無言で絡み合うように伸びる。
夜風が、剥がれたポスターをカサカサと鳴らした。
唯華にフードを剥がされた少女は、その青い瞳を鋭く光らせたまま唯華の手を払った。
その仕草は小柄な体格に似合わず、無駄なく鋭かった。
少女は睨むように笹木を見た。
「……まさか、花畑チャイカが雇ってる霊媒師が、こんな女の子だとは思わなかった」
一歩下がりつつ、睨み返す。
「……はぁ?」
声が、夜気に鋭く切り込む。
「霊能力を使うのか」
「……」
笹木はわずかに口を開きかけたが、少女は言葉を被せた。
「もしその力で私腹を肥やしてるなら、そんなのは倒すべき悪だ」
その声は静かだが、張り詰めた強さがあった。一瞬言葉を失ったが、すぐに眉を釣り上げた。
「はぁ!? 霊能力なんて使えへんわ!」
「でも霊媒師だって――」
「こき使われてるのは認めるわ! せやけど金なんか貰っとらんし、むしろ請求したいくらいや!」
スーツのポケットをぐしゃぐしゃにしながら息を荒げた。
「チャイカのやつにな、どんだけ動かされてると思ってんねん。あのオッサン、ほんまにケチやし!」
唯華が少し口を開けてポカンと見ていたが、少女は目を細めて黙っていた。
苛立ちをそのままぶつけるように、少女を指さした。
「第一な、お前に何かしたんか、あのオッサン!」
少女は無言で見つめ返した。
「もしお前に何かしたんなら、それこそとっちめてやらなあかんのちゃうんか!」
声が夜に響いた。肩で息をしてにらみ続けた。
しばらくの沈黙。
少しだけ目を見開き、眉を寄せて呟いた。
「……本当に、何も知らないの」
その声は呆れたようでもあり、少しだけ怯えたようでもあった。
まだ睨みを解かず、拳を震わせたまま少女を見据えていた。街灯がゆっくりとその影を揺らし、三人の息づかいだけが細い路地にこだました。
スーツのポケットに手を突っ込んだまま、睨み続けた。そして、思い切り吐き捨てるように言った。
「……第一なぁ、お前みたいな女子高校生が、そんな黒いフード被ってこんな真っ暗な路地歩いとったらな」
少女がピクリと眉を動かす。
「本当の不審者に連れていかれたらどうすんねん!」
声がちょっと裏返っていた。唯華が「ぶっ」と吹き出しかけて、慌てて口を押さえた。構わず続ける。
「……今日はもう、上がってきぃや」
目を見開いて、わずかに口を開けたまま笹木を見つめた。その目はまだ警戒があったけど、苛立ちは少し消えていた。
笹木は顔を背けて、そっぽを向きながらボソボソ言う。
「……どうせ知らん土地やろ。帰り道分からんとか言うたらめんどいし」
視線を落とし、小さく頷いた。
歩き出した後を、少女は静かに追う。唯華も肩を揺らしながらついてきた。
夜風が少し冷たく、三人分の足音が細い路地に響く。
しばらくして、笹木がちらりと後ろを振り返った。
「……で、お前、名前は?」
少し間を置き、真っ直ぐに答えた。
「……勇気ちひろ」
その声は硬いけど、震えてはいなかった。少しだけ息を吐いた。
「ちひろ、な」
名前を確認するように呟いたその横から、唯華がずいっと割って入ってきた。
「ちょっと待ちぃな」
ちひろと笹木が同時に振り返ると、唯華はニヤニヤした顔で二人を見ていた。
「ちひろは魔法使いやろ?」
わずかに目を伏せた。唯華は満面のドヤ顔で指を立てる。
「せやったら、うちの方がええやん」
笹木が「は?」と聞き返す。
唯華は胸を張って言った。
「アルマルも、うちんとこの神社の部屋、泊まるときに使っとるしな」
目を丸くした。唯華はそのままちひろに向き直る。
「だから、今日はうち来ぃや。笹木んとこより、魔法使い対応慣れてるで」
ちひろは笹木と唯華を交互に見て、目をしばたたいた。
ちょっとむくれたように腕を組んで言った。
「……まぁ、別にうちはどっちでもええけど」
唯華が得意げに鼻を鳴らした。
「決まりやな!」
夜の住宅街を、スーツ姿の笹木、ドヤ顔の唯華、そして無表情なちひろが並んで歩き出した。暗がりの中を、三人分の影がゆらゆらと揺れながら進んでいった。
神社の鳥居をくぐると、街灯の明かりから切り離されたように空気が変わった。周りの住宅街とは明らかにスケールの違う、広大な境内。
夜気は冷たく、大きな木々が風にざわめく音がやたら響いた。古びた石畳が白く濡れて、参道を照らす灯籠がぼんやりと淡い光を落としている。
スーツの襟を握って肩をすくめながら、ぽつりと呟いた。
「……やっぱりデカいなここ…」
唯華が自慢げに鼻を鳴らした。
「せやろ」
三人は参道をゆっくり歩く。
神殿の屋根が暗闇に浮かぶように見えて、脇には小さな社や倉庫、裏庭への小道が続く。砂利を踏む音が静まり返った空気にやけに大きく響いた。
ふっと横目でちひろを見た。フードを取ったちひろは無言で、表情もほとんど変えずに足元を見つめていた。
笹木はわざと気怠そうに肩を揺らし、半目で言った。
「……にしてもさ。魔法使いとか、現実味なさすぎやろ」
ちひろがピクリと顔を上げる。
「霊媒師とか変なやつはこれまでもおったけど……さすがにゲームみたいやん」
ちひろはむすっとした顔を崩さず、だが唯華は溜め息をついて肩を落とした。
唯華はゆっくりと笹木を振り返り、指を立てた。
「魔法って言ってもな、現実に存在するのは、生命力を原動力にして射出する、列記とした物理現象や」
笹木は「はぁ?」と半笑いで首を傾げた。
唯華は真面目な声で続ける。
「変にモンスター召喚したり、馬鹿でかいエネルギーをぶっ放したり、そういうのはゲームの中の話や。実際は自分の身体削って出力するのが基本や」
「……身体を、削る?」
「せや」
ちらりとちひろを見た。ちひろは何も言わなかったが、その無言が逆に重かった。唯華は少し声を落とした。
「お前、例の“主様”の話覚えとるやろ」
笹木は眉をひそめた。
「あの……祓室の連中か」
「そう。あれも結局、魔法使いの一族や。主様の秘術こそが、魔法の正体みたいなもんや」
しばらく黙って、足元の砂利を蹴った。
「……マジかよ」
唯華はさらに説明を続けた。
「下手したら霊能力者とか超能力者の方が、よっぽどファンタジーやで」
「なんやそれ……」
口をぽかんと開けてから、急に眉をしかめた。
「……なんかムカつくわ」
「アホやな」と笑って、ちひろを振り返った。
「まぁ、うちの神社はそういうやつも面倒見とるしな。安心しとき」
ちひろはじっと唯華を見つめ、少しだけ頬を緩めた。そして、また無言で小さく頷いた。
境内を抜けると、その奥には椎名家の屋敷がひっそりと構えていた。神社と地続きでありながら、そこだけが別世界のように格式を感じさせる。
苔むした飛び石が整然と並び、庭木は手入れされ、夜の暗さの中でもその輪郭を崩さない。
屋敷の玄関へ向かう三人の前に、和装の従者たちが何人か仕事をしていた。懐中電灯を持つ者、帳簿を抱えた者、それぞれがすぐに唯華の姿を認めると、黙って一礼して道を譲る。
当然のように涼しい顔で、そのまますらすらと屋敷の中へ入った。ちひろはきょろきょろと周囲を観察しつつ、唯華の後を無言で追う。
渋々ついていったが、不意に立ち止まった。
従者の列の中に、一人だけ見覚えのある五十代ほどの男性を見つけたからだ。渋い顔立ちで、腰を落ち着けたような立ち姿。
笹木は少し口を緩める。
「……おっさん、久しぶりやな」
男性も懐かしそうに笑い、頭を下げた。
「これはこれは。少し大きくなりましたかな」
笹木はスーツの襟を少し直し、気恥ずかしそうに目を逸らした。
「……逢ってきたで。あんたの言う“坊ちゃん”に」
顔に、静かな安堵の色が滲んだ。
「そうですか……坊ちゃんはお元気でしたか?」
鼻を鳴らすように笑った。
「まぁ元気は元気や。なんや、変わった奴やけど」
少しだけ目を細め、遠くを思い出すような顔になる。
「……ああいうのも、悪くはないと思うわ」
男性は口元を緩め、深く一礼した。
「そうですか。……どうやら、坊ちゃんは良縁に恵まれたようですね」
その言葉は、どこか父親のように柔らかかった。
なんやそれ、と小さく笑い、また足を進めた。
屋敷の中から唯華の「早よせぇやー」という声が聞こえてくる。ちひろが振り返り、待つように立ち止まっていた。手を軽く振って「行く行く」と答え、その背中に従者たちの静かな視線を感じながら、再び屋敷の中へ入っていった。
椎名家の屋敷、その奥にある唯華の部屋は、畳敷きでありながらも、少女らしい淡いピンクのカーテンとぬいぐるみが並んだ棚が並ぶ、不思議なバランスの空間だった。
襖の向こうには障子越しのやわらかな光が差し、布団が三組、整えて敷かれていた。天井から吊るされた小さな和風のランプがぼんやりと灯っている。
パジャマ姿の笹木とちひろは、そんな唯華の部屋に揃っていた。長袖のチェック柄パジャマ、ちひろは淡い水色の、まるで修道女のようなデザインのナイトウェアを着ている。
唯華は手に頬杖をつきながら、笹木の胸元をじっと見つめた。
「……ちょっと、また大人に近づいたんちゃうか?」
からかうような口調に、笹木は布団をぎゅっと掴んで睨み返す。
「どこ見とんねん、やめぇや!」
だが、笹木の顔にはどこか遠くを見つめるような気配があった。
思えば――2年の時は本当に、色々あった。
普通の高校生として、部活に恋に進路に――そんな平凡な日々からは、すっかり遠ざかってしまった。あまりに日常離れした現実が、今や自分の一部になってしまった気がする。
「……まぁ、もう慣れたけどな」
小さく呟く声は、ちひろには聞こえなかったようだった。
唯華は立ち上がると、棚の引き出しからひとつのきんちゃく袋を持ってきた。中には、薄く光を帯びた琥珀が何個も入っている。それをちひろの膝の上にぽすっと乗せた。
「これ、持って行き」
ちひろは驚いた顔で顔を上げた。
「えっ……いいの?」
唯華はふっと笑った。
「アルマルが置いていったもんやし、あんたが持ってた方がええやろ」
笹木はそれを横目で見ていたが、あくびをひとつして、手元の布団をばさっとめくった。
「……もう疲れた。寝るわ」
ぼそっと言って、布団の中に潜り込む。
唯華は「おやすみ~」と軽く言って、再びちひろの隣に腰を下ろした。
夜の椎名家は静かで、どこか懐かしい木の匂いが、三人をやさしく包んでいた。