カラン――と、扉のベルが鳴った。
午後の『アルカナ』は、陽の光がカウンターの奥まで届き、磨かれたテーブルにぼんやりとした影を落としていた。花畑チャイカはいつものように棚の整理をしていたが、その音に反応して振り返る。
現れたのは、仕立ての良いスーツに身を包んだ男と、その背後に控えるもう一人の男――黒縁眼鏡の秘書風の人物。
「ようこそ、お堅いビジネス二人組。」
チャイカが皮肉まじりにそう言うと、先頭の男――加賀美ハヤトは、微かに笑みを浮かべて店内に足を踏み入れた。
「どうも、ご無沙汰しております、チャイカさん。相変わらずですね」
「そっちこそ。よく働くわね。前回の“除霊”の疲れで、てっきり長期休暇にでも出たのかと思ったわよ」
「はは……おかげさまで、なんとか。あの件については改めて感謝しています」
チャイカは、カウンター越しに彼を見つめたまま、わざとらしく片眉を上げた。
「じゃあ、感謝ついでに今日は何しに? うち、慰労会とかやってないんだけど」
加賀美は、傍らの秘書と視線を交わしたあと、静かに腰を下ろす。
「別件です。ですが、その前に……前回の件について、やはり正式に礼をお伝えしたくて。あの場所――今では完全に浄化されているようです。あのまま放置していたら、他の人間にも被害が出ていたかもしれません」
「ま、その件でうちは結構儲かったんだから、結果として霊には大助かりだったのよねぇ」
「ふふ……それはそれは。ビジネスとして結構なことですよ。ただ、今回は前回以上に“複雑”な情報を探していまして。ですので、その「ビジネス」の報酬も……それに見合った額を用意させていただきます」
加賀美の言葉に、秘書が鞄から分厚い封筒を取り出して机に置いた。無地の紙に包まれたそれは、いかにも重そうな代物であった。
「―これが報酬ってわけ?」
「いえいえ、あくまでこれは前払金です。今回の依頼は私にとても大事なものなので…報酬は別に」
ハヤトは、立ち上がるとスーツの裾を軽く直し、傍らの秘書に無言で合図を送る。
秘書はカツン、と革靴の音を響かせながらカウンターに寄り、手にしていたアタッシュケースの金具を外す。カチリ、と小気味よい音と共に蓋が開き、その中身がチャイカの視界に露わになった。
そこには、厳重にクッション材に包まれた一本のボトル――深緑色のガラスに、黄金のラベル。封蝋には王家の紋章を模したような繊細な意匠が施されている。
「……ほう」
チャイカはわざとらしく鼻を鳴らし、目を細めた。
「“クローネ・グラン・オブ・ヘルエスタ”、百年物の洋酒。リゼ=ヘルエスタ王女が国外公式訪問の際、唯一献上を許したっていう、幻の酒じゃないか」
加賀美はわずかに笑みを浮かべた。
「……さすが、よくご存知で。やはり、ここに持ってくるには少々芸が必要かと思いまして」
「芸というか、もはや道化。まったく……この街じゃあ、金持ちの趣味もずいぶん進化したものねぇ」
チャイカはあきれたように呟きながらも、ボトルを包む布の手触りを楽しむように撫でる。
「まぁ、嫌いじゃないけど」
「では、詳細はまた“適当な機会”に」
そう言って、加賀美は丁寧な所作で一礼すると、秘書を従えて店を出ていった。扉のベルがカランと鳴り、その姿が消える。
店の空気が、再び静寂に包まれる。
しばらくすると、カウンターの奥から別の客がひとり、読んでいた新聞をゆっくりと下ろしながら顔を上げた。
「あの人、なんかすっごい“できる男”って感じだけど、やってること大人のごっこ遊びだよねぇ」
チャイカは、くっ、と喉の奥で笑い、先ほど受け取った封筒をぱらりと開いた。
中から出てきたのは、きちんとローダーに収められた高額トレーディングカードの束。希少イラスト、シリアル入り、初版タグ――コレクターなら卒倒するレベルの品ばかりが、隙間なく揃っていた。
「ちょっと!!こんなんどうやって管理すれば良いのよ!!もう!!」
文句を叫びながらも、カードの光沢を確かめる指先は、どこか楽しそうだった。
「でも、まぁ――あいつらしいわな」
チャイカはカードをそっと封筒に戻しながら、窓の外をぼんやりと見つめた。
「“本気の遊び”ってのが一番厄介なんだよ、まったく……」
それでも、その口元には、皮肉まじりの笑みが滲んでいた。
蒸し暑い夜だった。
窓を少しだけ開け、薄いタオルケットを腹にかけたまま、咲はベッドの上で眠っていた。扇風機の風が、回るたびに部屋の中の空気をわずかに揺らす。
けれど、咲の額には汗がにじんでいた。
夢の中――
彼女は、白い部屋にいた。無機質な蛍光灯が天井から照らし出す空間。壁も床も天井も、清潔すぎるほど真っ白だった。
その中心に、金属製のベッド。
そして、自分は――そのベッドに、縛られていた。
「……え、ちょ、なに……なんで……?」
声はかすれ、身体は動かない。手首と足首には冷たいベルトの感触。胸の奥がざわつき、心臓が早鐘のように打ち鳴らされていた。
キィ、と扉の開く音。
そこから現れたのは、白衣の学生だった。
昼間に旧校舎で出会った、あの銀髪の少女。今は白衣の前をきちんと閉じ、手には何かの器具を収めたトレイを持っていた。
「うんうん、いい感じだね~。やっぱり、こういうのは“動かない状態”で観察するのが一番なんだよ」
彼女は無邪気に笑いながら、器具のひとつ――金属のピンセットのようなものを持ち上げる。その先端が光を反射して、きらりと光る。
「まずは脊椎まわりの反応から見てみよっか。痛かったら言ってね? あ、でも動いたら困るから喋るのもダメだよ?」
「っ……や、やめっ、やめてやっ……!」
叫んでいるのに、声は外に出ない。喉がふさがれたようで、掠れた呻きしか漏れなかった。目を見開き、もがいても、ベルトはびくともしない。
銀髪の学生は笑顔のまま、器具を咲の背中に向けて構える。
「どんな悲鳴を上げるのか、すっごく興味あるなぁ……」
「やめろおおおおおおお!!」
バッ、と跳ね起きた。
暗闇の中、息が荒く、汗が背中を伝って流れていた。時計を見ると、深夜2時過ぎ。
部屋の隅で扇風機が静かに回っているだけで、他に音はない。
ただの、夢。
咲はしばらく呼吸を整えたあと、タオルケットを握りしめたまま、ぽつりと呟いた。
「……最悪や……マジで最悪や……」
でも、その最悪の夢の中の光景は、やけに“現実感”があった。
白衣の学生が見せたあの目。あの声。あの距離感。
忘れようとしても、まぶたの裏に焼き付いて離れなかった。
昼休み、学校の屋上。
真っ白な空の下、フェンス沿いのベンチに座って、咲は持ってきたパンを片手に、唯華に向かって身を乗り出すように話しかけていた。
「なぁ椎名!! 昨日うちが黒曜崎行ったって話、聞いてたやんな!?」
椎名は紙パックのミルクティーをちゅーっと吸いながら、だるそうに片目だけ開ける。
「うん。制服貸したしな……なんやねん、またなんかあったん?」
「いや、なんかどころちゃうって!! マジでヤバいねん!!」
咲はパンを置き、身振り手振りを交えて必死にまくし立てた。
「白衣の女子に会ってな、最初は普通やってんけど、だんだん言動がおかしなってきて……解剖がどーとか脳がどーとか言い出して、うちマジで実験台にされるかと思って、命からがら逃げてきたんやって!!」
「へぇ~」
「“へぇ~”じゃないっ! んでな、その帰りに、今度はうちに妙な質問してくる女子おって……なんか、うちが通ってる学校が本物か偽物かとか、制服が似合ってたとか……めっちゃ怖ない!?」
椎名はペットボトルのキャップを閉め、少しだけ眉を寄せる。
「……で? それが霊の仕業ってこと?」
「間違いないって! だって! 人間があんな目ぇするか!? あと! 気配おかしいもん!! 絶対何かに取り憑かれとるか、もしくは本人がもはや人ちゃうかや!!」
「……あのなぁ」
椎名は、ため息と一緒に視線を空へ向けた。
「うち、そいつらのこと一回も見てへんし、会ってもない。けどな――霊障が出とらんって時点で、うちは関係ないと思うわ」
「えぇっ!? でも! 気配がっ!」
「笹木、たまに“失礼”ってこと言うよな」
バッサリと切り捨てるように椎名が言うと、咲は口をぱくぱくと動かして固まった。
「どんな言動しようが、変なこと言おうが、気味悪い人間なんていくらでもおる。そんなんいちいち“霊”に押しつけてたらキリないで」
「で、でも……夢まで見たんやで……!」
「そんなん“おまえの心がビビっとるだけ”やんww」
「弱ってへんわ!! ちょっとビビっただけや!!」
椎名は肩をすくめながらも、少しだけ笑みを浮かべた。
「ま、アンタが無事やったんならええけどな。とりあえず、霊のせいにするんはやめとき。そいつら、たぶん“人間として”めんどくさいだけやから」
「……そんなん言われても……」
咲は不満げに頬を膨らませながらも、それ以上言い返せなかった。
椎名の目は鋭い。もし本当に霊が関わっていたら、彼女はもっと早く気づいていたはずだ。その事実が、逆に咲をもやもやさせる。
「……マジで人間なんやろか、あいつら……」
ぼそっとつぶやいた言葉に、椎名はあくびを噛み殺しながら小さく返す。
「人間でも、幽霊より怖いヤツなんて、山ほどおるで」
午後の授業。
教室の空気はほどよくぬるく、先生の声は子守唄のように遠のいていた。
咲は、教科書を立てかけてその裏で腕を組み、机に突っ伏していた。目を閉じると、体温がじわじわと広がっていく。昨晩の悪夢の疲れもあり、ほんの数分のつもりが、すっかり深い眠りに落ちていた。
――チャイムが鳴る。
その音に、咲はゆっくりと頭を上げた。
「……うわっ、寝てもうた……」
教室はすでに閑散としていた。ちらほらと残っていた数人の生徒も、すでに帰る準備をしているか、廊下へ出ていっている。
咲は大きく背伸びをして、鞄を引き寄せる。
「は~、やってもうたわ……ってか、なんか夕方の空気ってだけで“自由”って感じすんのええよなぁ」
制服の襟を少し緩めながら、荷物をまとめて立ち上がる。
と――そのとき。
廊下の奥、同じ階にあるはずの“空き教室”から、ふいに人の声がした。
「……ん?」
誰かが笑っている。数人分のざわめきと、机や椅子がわずかに動く音。
だが、咲は覚えていた。その教室は使われていないはずだった。クラス替えのタイミングで空きになり、今は備品置き場のようになっている、と聞いていた。
「……誰か残ってんのかな?」
ふらりと興味を引かれるように、咲はカバンを肩に引っかけ、足音をなるべく立てずにそちらの廊下へと向かった。
夕方の陽射しが斜めに差し込む廊下。ガラス窓に照り返す橙色が、少しだけ非日常の気配を運んでくる。
音のする教室は、廊下の突き当たり、右手の角の一室。
咲は足を止め、ドアの前で耳を澄ませた。
笑い声。囁き声。紙をめくる音。何かが机を叩くような音。
どれも、普通の放課後にあるはずの――けれど、何故かほんの少しだけ“違う”空気を孕んでいた。
「……あれ、部活とかじゃないよな……?」
そう呟きながら、咲はゆっくりとドアに手をかける。
ギィ――。
静かな音を立てて、空き教室の扉が開いた。
笹木咲が中を覗き込むと、思わず「は?」と声が漏れそうになった。
教室の中は、想像していた“空き”とは程遠い賑わいを見せていた。机と椅子が端に寄せられ、中央にぽっかりと空いたスペース。その真ん中に、あの少女――灰色の制服が立っていた。
「さぁて、次は誰かな~? ……あ、そこの窓際の子!今開いてるの、“都市伝説系のまとめサイト”だよね。しかも“学校の七不思議特集”。へぇ~、怖いの好きなんだ?」
「えっ!? 当たってる! なんで!? なんで!?」
「ね? 楽しいでしょ~」
教室中にどっと驚きが広がる。
「じゃあ次~……あ、そこの子、スマホ貸して。……バッテリー、12%? じゃあ、いくよ~」
1。
2。
3っ!!
手をかざすようにスマホに触れた瞬間、画面の上部に表示された充電表示がみるみるうちに上昇し――
100%。
「うっそ……充電器も繋いでへんのに……!」
またもどよめき。教室の空気が熱を帯び、拍手や歓声が飛び交う中、咲は呆然とその光景を見つめていた。
――なんや、これ。マジで何してんねん、あいつ。
マジック? それともトリック?
でも今のスマホの充電は、どう見ても普通じゃなかった。
少女は笑顔で生徒たちに手を振った。
「みんな、ありがと~。……あ、そうだ!わたし、“夜見れな”っていいます。よかったら、またどこかで遊んでね~」
「よるみ……れな……?」
咲は、ぽつりとその名前を口にした。
今初めて知った。あの灰色の制服の少女の名前――
“夜見れな”。
そして彼女は、咲の存在に気づいたように、くるりとこちらを振り返る。
あのときと同じ、底の見えない笑顔で、まっすぐに。咲は背中にひやりとした汗を感じながら、その場に立ち尽くしていた。
「笹木先輩、また会えましたね~♪」
扉の向こう。教室の中から顔を覗かせる少女は、いつも通りの笑顔だった。灰色の制服に黒いマントをひらひらさせながら、楽しげに小首をかしげて咲を見つめている。
「……なんで、あんたがここにおるん……」
咲は半開きの扉の外に立ったまま、呆れと戸惑いを入り混ぜた表情で問いかけた。
「昨日先輩、黒曜崎に来ていただきましたよね? だから今日はそのお礼に、先輩の学校に来てみましたっ♪」
「……その言い方おかしいやろ。」
「でもほら、こうしてちゃんと“再会”できたし、ね?」
にこにこと言う夜見に、咲はじりっと半歩後ずさった。
「……で、その再会ついでに、うちを呼び出したってワケ?」
「ううん? それは……偶然?」
「どっちやねん!!」
バンッと咲が扉を押さえようとしたそのとき、夜見がくるりと振り返って、教室の中の生徒たちに向き直った。
「みんな~、ちょっと注目! 今から、“この扉を閉めると、笹木先輩がどこかにワープする”っていうマジックをやりま~す♪」
「……は?」
耳を疑った。
「……え、ちょ、ちょ待て待て待て!? いやいやいや!? 何言うて――」
「わぁ~~!」
「ほんと!?」
「すごーい!」
盛り上がる生徒たちの拍手と歓声。
「……ちゃうって!! なぁ!? 普通に考えて無理やろ!? どこにワープすんねん!? そもそも物理法則どうなってんねん!? 椎名ァァ!!」
叫んだが、扉の向こうはすでに夜見の「それじゃ、3・2・1……」という軽やかなカウントダウンが響いていた。
「ちょ、おい、やめ――」
――バタン。
扉が閉まった。
……ちゃぷっ。
ぬるい水の感触が、頬に当たる。
「……んぐ……え?」
目を開けると、そこは青空の下――学校の中庭にある、深さもない観賞用の小さな池の中だった。
スカートの裾はびしょ濡れ。腕も腰も水に浸かっている。背中には石の感触。どうやら、そのままごろんと仰向けに倒れているらしい。
鯉が、一匹、顔のすぐ近くをすぃーっと通過していった。
「……いや、ちょっと待てや……」
ぽつりと呟いた咲の顔に、鯉が水を跳ねさせた。
「誰がワープ芸人やねん!! どないなっとんねんマジで!!」
周囲には誰もいない。ただ、風が吹き抜け、どこからかチャイムの音が微かに響いていた。
制服はびしょ濡れ。
咲は、池の中で仰向けのまま、ただ空を見上げた。
「……うち、絶対もうマジックとか信じへん……」
水の音を引きずるように、廊下を歩く笹木咲の足元からは、ぴちゃ……ぴちゃ……と悲しげな音が響いていた。