笹木はふと目を覚ました。
あたりは静まり返っていた。唯華の部屋の障子越しに、朧な月明かりが差している。
目をこすって上体を起こすと、窓際にちひろが立っていた。
白いパジャマが月に照らされて、青髪がふわりと浮かんで見える。
まるで夢の中の風景みたいやな、と笹木はぼんやり思った。
「……眠れへんのか?」
そっと声をかけたが、ちひろは答えなかった。
ただ、じっと外を見つめている。
気になって笹木も布団から出て、ちひろの隣に立った。
その視線を追うと、そこに広がっていたのは――
唯華家の境内の奥、通常なら庭石と灯籠が見えるはずのその場所に、異様な光景が広がっていた。
幾重にも折り重なるように石の階段が現れ、その先は濃い靄に覆われ、地の果てにすら続いているかのようだった。
遠近感が崩れているような、底のない落とし穴のような恐怖を覚える構造。
「……霊、か?」
笹木は息を呑んで呟いた。
あの階段の空間そのものが、すでにこの世のものではない気配を纏っていた。
「……ちょっと、見てくる」
そう言って、ちひろの肩を軽く叩くと、笹木は部屋を抜け、静かに廊下を進む。
神社特有の木の匂いが、やけに鋭く鼻を刺した。
境内へ出るための扉を開けると――
目の前に、誰かが立っていた。
夜の帳の中で、月明かりに照らされていたその姿。
黒の学生服のような装束に、背の高い青年。
髪は暗く、目は鋭い。
「……誰や、アンタ……!」
笹木は反射的に身構えた。
青年――剣持刀也は何も言わなかった。
代わりに、腰の刀に手をかけ、そのまま音もなく抜刀する。
「――っ!?」
月光を反射して冷たく光る刃が、笹木の胸元を向いた瞬間、背筋が凍った。
「ま、待て! なにして――」
笹木が言い切る前に、刀也は一歩踏み出す。
笹木は本能的に後ずさる。
喉が乾いて呼吸も浅くなる。
一歩、また一歩と刀也が迫る。
その気配は、まるで死人のように静かで、感情のない真っ直ぐな殺気を孕んでいた。
――もう駄目や。
そう思った瞬間。
「来て!」
高く透き通った声と共に、ちひろが間に割って入った。
小柄な身体で、刀也の胸元を両手で押し返す。
思わず刀也は一歩後退し、その隙にちひろは笹木の手を掴んだ。
「えっ……ちょ、おまっ――」
反射的に引っ張られるまま、笹木はちひろと共に境内の異界の階段へと駆け出した。
足音が石を打ち、滑るように下る。
階段は重力を無視するように、どこまでも続いていた。
夜の空気はいつしか冷たい霧に変わり、月が見えなくなっていた。
二人は椎名家の敷地を抜け、かつて異形の階段が現れていた場所へとたどり着いた。
だが――そこには、何もなかった。
石畳は冷たく、草木は静かに揺れているだけ。
あの底のないような霊の階段も、異界の空間も、まるで初めから存在していなかったかのように消え去っていた。
「……あれ、どこいったんや……?」
笹木が困惑して呟いた時、砂利を踏む音が聞こえた。
音の方を振り返ると、月明かりの中に一人の男の姿が浮かび上がっていた。先ほど、刃を向けてきたあの青年が、無表情のまま歩いてくる。
その一歩一歩が、地面に音を刻むたびに、周囲の空気がざわりと揺れるようだった。
「……アンタ、何のつもりや!」
笹木は声を荒げて突っかかる。
怒りと恐怖が入り混じった声。けれど、立ち止まって静かに口を開いた。
「……そんな体で歩いて、気づかないとはな」
その声は低く、しかしどこか哀れむような響きを含んでいた。
「自分の身体を……よく見てみろ」
「――え?」
笹木は言われた通り、自分の両手を見下ろした。
次の瞬間、息が詰まった。
手が――六本あった。
ぶれているわけではない。確かに、左右に三本ずつ指が動いている。
その指先が、勝手に震えて、まるで誰かの手を自分に重ねられているような感覚に襲われる。
視界の端が滲み、首元がじっとりと冷たくなった。
「……う、あ……っ」
声を出そうとしたが、自分の声が――自分のものではなかった。
喉奥から聞こえるのは、低く濁った、幾重にも重なるような「声」。
明らかに自分一人の発声ではない。誰かの、何かの、混ざった音。
「いやや……いや……なんやこれ……」
自分の体が、自分のものじゃなくなっていく。
手足の感覚が薄れ、頭の中がぐらぐらと揺れはじめた。
目の焦点が合わない。視界がくるくると回り、耳鳴りが脳髄を貫く。
笹木は咄嗟に懐を探った。だが、パジャマ――布一枚。
霊障対策の札も、護符も、何もない。
「……あかん、なんもない……っ、助けて……!」
意識が今にも崩れ落ちそうになったその時。
――ふっ、と。
身体が、軽くなった。
頭が晴れていく。息が吸える。視界が戻る。
何が起きたのか分からず、笹木は慌ててあたりを見回した。
ちひろも驚いたように後ろに下がっている。
そして――
そこに立っていたのは、銀白の長髪を持つ巫女装束の少女。
椎名菜塚。
その目は真っ直ぐに、射抜いていた。
月の光に照らされたその姿は、まるで神域に降り立った霊そのもののようだった。
「……その男は、過去に早良親王に仕えた者」
菜塚の声が静かに響く。
「表向きには歴史から抹消されたが、その後の政でも裏から糸を引き続けた――“剣持”の一族」
「剣持刀也」
刀也は黙ったまま、目を細めた。
笹木は肩で息をしながら、膝をついていた。
あの異常な感覚が、まだ体内に余韻として残っていた。
冷や汗が背中を流れ落ち、心臓は今も悲鳴を上げている。
菜塚は笹木に近づき、やさしく手を伸ばした。
「大丈夫。まだ、完全には侵食されていなかった」
その言葉が、地獄の底から救い上げられたように感じられた。
笹木は、ただ震える手を握り返した。
剣持刀也は、無言のまま笹木と菜塚を見つめていた。
沈黙の中に、冷たい圧が広がる。
そして――小さく笑った。
「……ここなら、思う存分“仇”を始末できるか」
その声音は、静かでありながらも、明確な挑発の色を帯びていた。
菜塚の肩が、わずかに揺れる。だが、目は微動だにしない。
刀也はその無反応を受けて、再び刀の柄に手をかけた。
「来ないのであれば――こちらから行かせてもらう」
鞘鳴りと共に、刃が月明かりを裂いた。
刀也が一歩、踏み出そうとした瞬間――
彼の周囲に、蒼い炎がふわりと灯る。
それはゆらゆらと揺れながら、ゆっくりと彼を取り囲んだ。
その炎は冷たく、美しく、そして確実に――実体を焼き尽くす力を孕んでいた。
「ここで始めるようなら……あなたは、焼け死ぬことになる」
そう静かに告げたのは、ちひろだった。
先ほどまでの無言からは想像もできないほど、凛とした声。
彼女の掌から、さらに一つ、炎が灯った。
続いて、菜塚も口を開く。
「……敵討ちよりもまずは、笹木さんの霊障の対策が優先のはずです」
その瞳は、怒りも悲しみもなく、ただ一点を見据えている。
刀也は一拍、沈黙したのち――刀を静かに収めた。
「……ふん。まぁ、そうだな」
その声はもはや敵意ではなく、疲れを含んでいた。
刀を腰に戻し、ゆっくりと息を吐く。
「……あの悪霊は、すでに抑えきれないほどの“怨念”を溜め込んでいる」
刀也の声が夜の静寂に沈み込んだ。
「その片鱗に触れただけで……霊障が延々と残るほどに、な」
笹木は思わず身をすくめた。
未だに、手足の感覚がおぼつかない。
先ほどの“異形”の気配は、確かに自分の中に食い込んでいた。
「このままでは、いくら除霊しようと“株分け”の霊が次々と寄ってくるだけだ」
刀也は笹木に目を向けず、ただ空を見上げるように言った。
そして一歩、また一歩と静かに歩き出し――そのまま、夜の闇の中へと姿を消していった。
残された三人のもとに、しんと冷たい風が吹き抜ける。