咲-saku- 【完結】   作:えいどら

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最終章 第5話:剣持刀也

 笹木はふと目を覚ました。

 あたりは静まり返っていた。唯華の部屋の障子越しに、朧な月明かりが差している。

 

 目をこすって上体を起こすと、窓際にちひろが立っていた。

 白いパジャマが月に照らされて、青髪がふわりと浮かんで見える。

 まるで夢の中の風景みたいやな、と笹木はぼんやり思った。

 

 「……眠れへんのか?」

 そっと声をかけたが、ちひろは答えなかった。

 ただ、じっと外を見つめている。

 

 気になって笹木も布団から出て、ちひろの隣に立った。

 その視線を追うと、そこに広がっていたのは――

 

 唯華家の境内の奥、通常なら庭石と灯籠が見えるはずのその場所に、異様な光景が広がっていた。

 幾重にも折り重なるように石の階段が現れ、その先は濃い靄に覆われ、地の果てにすら続いているかのようだった。

 遠近感が崩れているような、底のない落とし穴のような恐怖を覚える構造。

 

 「……霊、か?」

 笹木は息を呑んで呟いた。

 あの階段の空間そのものが、すでにこの世のものではない気配を纏っていた。

 

 「……ちょっと、見てくる」

 そう言って、ちひろの肩を軽く叩くと、笹木は部屋を抜け、静かに廊下を進む。

 神社特有の木の匂いが、やけに鋭く鼻を刺した。

 境内へ出るための扉を開けると――

 

 目の前に、誰かが立っていた。

 

 夜の帳の中で、月明かりに照らされていたその姿。

 黒の学生服のような装束に、背の高い青年。

 髪は暗く、目は鋭い。

 

 「……誰や、アンタ……!」

 笹木は反射的に身構えた。

 

 青年――剣持刀也は何も言わなかった。

 代わりに、腰の刀に手をかけ、そのまま音もなく抜刀する。

 

 「――っ!?」

 月光を反射して冷たく光る刃が、笹木の胸元を向いた瞬間、背筋が凍った。

 

 「ま、待て! なにして――」

 笹木が言い切る前に、刀也は一歩踏み出す。

 

 笹木は本能的に後ずさる。

 喉が乾いて呼吸も浅くなる。

 一歩、また一歩と刀也が迫る。

 その気配は、まるで死人のように静かで、感情のない真っ直ぐな殺気を孕んでいた。

 

 ――もう駄目や。

 そう思った瞬間。

 

 「来て!」

 

 高く透き通った声と共に、ちひろが間に割って入った。

 小柄な身体で、刀也の胸元を両手で押し返す。

 思わず刀也は一歩後退し、その隙にちひろは笹木の手を掴んだ。

 

 「えっ……ちょ、おまっ――」

 反射的に引っ張られるまま、笹木はちひろと共に境内の異界の階段へと駆け出した。

 足音が石を打ち、滑るように下る。

 階段は重力を無視するように、どこまでも続いていた。

 

 夜の空気はいつしか冷たい霧に変わり、月が見えなくなっていた。

 

 二人は椎名家の敷地を抜け、かつて異形の階段が現れていた場所へとたどり着いた。

 だが――そこには、何もなかった。

 石畳は冷たく、草木は静かに揺れているだけ。

 あの底のないような霊の階段も、異界の空間も、まるで初めから存在していなかったかのように消え去っていた。

 

 「……あれ、どこいったんや……?」

 笹木が困惑して呟いた時、砂利を踏む音が聞こえた。

 

 音の方を振り返ると、月明かりの中に一人の男の姿が浮かび上がっていた。先ほど、刃を向けてきたあの青年が、無表情のまま歩いてくる。

 

 その一歩一歩が、地面に音を刻むたびに、周囲の空気がざわりと揺れるようだった。

 

 「……アンタ、何のつもりや!」

 笹木は声を荒げて突っかかる。

 怒りと恐怖が入り混じった声。けれど、立ち止まって静かに口を開いた。

 

 「……そんな体で歩いて、気づかないとはな」

 その声は低く、しかしどこか哀れむような響きを含んでいた。

 「自分の身体を……よく見てみろ」

 

 「――え?」

 

 笹木は言われた通り、自分の両手を見下ろした。

 

 次の瞬間、息が詰まった。

 

 手が――六本あった。

 

 ぶれているわけではない。確かに、左右に三本ずつ指が動いている。

 その指先が、勝手に震えて、まるで誰かの手を自分に重ねられているような感覚に襲われる。

 視界の端が滲み、首元がじっとりと冷たくなった。

 

 「……う、あ……っ」

 

 声を出そうとしたが、自分の声が――自分のものではなかった。

 喉奥から聞こえるのは、低く濁った、幾重にも重なるような「声」。

 明らかに自分一人の発声ではない。誰かの、何かの、混ざった音。

 

 「いやや……いや……なんやこれ……」

 

 自分の体が、自分のものじゃなくなっていく。

 手足の感覚が薄れ、頭の中がぐらぐらと揺れはじめた。

 目の焦点が合わない。視界がくるくると回り、耳鳴りが脳髄を貫く。

 

 笹木は咄嗟に懐を探った。だが、パジャマ――布一枚。

 霊障対策の札も、護符も、何もない。

 「……あかん、なんもない……っ、助けて……!」

 

 意識が今にも崩れ落ちそうになったその時。

 

 ――ふっ、と。

 

 身体が、軽くなった。

 頭が晴れていく。息が吸える。視界が戻る。

 

 何が起きたのか分からず、笹木は慌ててあたりを見回した。

 ちひろも驚いたように後ろに下がっている。

 そして――

 

 そこに立っていたのは、銀白の長髪を持つ巫女装束の少女。

 

 椎名菜塚。

 

 その目は真っ直ぐに、射抜いていた。

 

 月の光に照らされたその姿は、まるで神域に降り立った霊そのもののようだった。

 

 「……その男は、過去に早良親王に仕えた者」

 

 菜塚の声が静かに響く。

 

 「表向きには歴史から抹消されたが、その後の政でも裏から糸を引き続けた――“剣持”の一族」

 

 「剣持刀也」

 

 刀也は黙ったまま、目を細めた。

 笹木は肩で息をしながら、膝をついていた。

 あの異常な感覚が、まだ体内に余韻として残っていた。

 冷や汗が背中を流れ落ち、心臓は今も悲鳴を上げている。

 

 菜塚は笹木に近づき、やさしく手を伸ばした。

 「大丈夫。まだ、完全には侵食されていなかった」

 

 その言葉が、地獄の底から救い上げられたように感じられた。

 笹木は、ただ震える手を握り返した。

 

 剣持刀也は、無言のまま笹木と菜塚を見つめていた。

 沈黙の中に、冷たい圧が広がる。

 そして――小さく笑った。

 

 「……ここなら、思う存分“仇”を始末できるか」

 

 その声音は、静かでありながらも、明確な挑発の色を帯びていた。

 菜塚の肩が、わずかに揺れる。だが、目は微動だにしない。

 刀也はその無反応を受けて、再び刀の柄に手をかけた。

 

 「来ないのであれば――こちらから行かせてもらう」

 

 鞘鳴りと共に、刃が月明かりを裂いた。

 刀也が一歩、踏み出そうとした瞬間――

 

 彼の周囲に、蒼い炎がふわりと灯る。

 

 それはゆらゆらと揺れながら、ゆっくりと彼を取り囲んだ。

 その炎は冷たく、美しく、そして確実に――実体を焼き尽くす力を孕んでいた。

 

 「ここで始めるようなら……あなたは、焼け死ぬことになる」

 

 そう静かに告げたのは、ちひろだった。

 先ほどまでの無言からは想像もできないほど、凛とした声。

 彼女の掌から、さらに一つ、炎が灯った。

 

 続いて、菜塚も口を開く。

 

 「……敵討ちよりもまずは、笹木さんの霊障の対策が優先のはずです」

 その瞳は、怒りも悲しみもなく、ただ一点を見据えている。

 

 刀也は一拍、沈黙したのち――刀を静かに収めた。

 

 「……ふん。まぁ、そうだな」

 その声はもはや敵意ではなく、疲れを含んでいた。

 刀を腰に戻し、ゆっくりと息を吐く。

 

 「……あの悪霊は、すでに抑えきれないほどの“怨念”を溜め込んでいる」

 刀也の声が夜の静寂に沈み込んだ。

 

 「その片鱗に触れただけで……霊障が延々と残るほどに、な」

 

 笹木は思わず身をすくめた。

 未だに、手足の感覚がおぼつかない。

 先ほどの“異形”の気配は、確かに自分の中に食い込んでいた。

 

 「このままでは、いくら除霊しようと“株分け”の霊が次々と寄ってくるだけだ」

 刀也は笹木に目を向けず、ただ空を見上げるように言った。

 

 そして一歩、また一歩と静かに歩き出し――そのまま、夜の闇の中へと姿を消していった。

 

 残された三人のもとに、しんと冷たい風が吹き抜ける。

 

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