翌朝、椎名家の静寂な空気の中――笹木は、ゆっくりと目を覚ました。
天井の木組みの影が、朝陽で薄く伸びている。
鳥の声すら遠く、神社の奥深くで守られるような静けさ。
「……うわっ、汗……」
パジャマは背中までぐっしょりと濡れており、額にはまだ冷たい汗が滲んでいた。
昨夜の悪夢のような出来事が頭をよぎる。
夢やったんやろか……?
そう思いながら、足を伸ばそうとした瞬間、全身に鈍い痛みが走った。
「いっ……た……」
脚には確かに、あの階段を駆け下りた時についたであろう擦り傷や、草の擦れ跡が残っている。
腕も重い。背中も張っている。
これは――夢じゃない。
現実に、すべてが起きたのだと、嫌でも理解させられる。
「……マジかよ」
呆れと恐怖の混ざった呟きが漏れ、額から汗が一筋、畳に落ちた。
ふと隣に目を向けると、ちひろがすやすやと寝息を立てていた。
小さく、白い顔。
まつ毛が揺れて、枕に手を添えたまま、まるで何事もなかったかのように安らかに眠っている。
「……こんな顔しとる子がさ……」
笹木はぼそっと呟いた。
「昨日はあんな顔で……人に、簡単に殺気向けとったやんか」
ちひろの小さな胸が、規則正しく上下している。
あの体から、あんな青い炎が生まれたのかと思うと、未だに信じられない。
「……一体、この小さな身体で、どれだけの地獄、見てきたんやろな……」
笹木は深く息を吐き、汗で湿ったパジャマの裾を握りしめる。
そして、再び体を布団に預けた。
畳の香りが、少しだけ気持ちを落ち着かせてくれる。
頭の奥に重く残る疲労を感じながら、笹木はそっと目を閉じた。
もうしばらく、現実から目を背けていたかった。
「……ささきぃ~、もう朝やでぇ~」
どこか間延びした、けれど耳に馴染んだ声が布団越しに響いた。
「うぅ……もうちょっとだけ……」
布団の中でごろりと寝返りを打つ笹木に、ぽふっと枕を軽く叩く音が続いた。
唯華がすぐそばに膝をついて、笑いながら覗き込んでいる。
「風呂、沸かしてあるからな~。ちひろちゃんはもう起きてるで?」
「うそやん……ちひろ、朝強かったん……」
笹木は目をこすりながら起き上がる。
身体はまだ少し重かったが、昨日よりはずっとマシだった。
「風呂入ったらさ、三人でちょっと朝ごはんでも食べに行かへん?」
唯華がそう言うと、笹木は首をかしげた。
「……え、朝ごはんならこの家の中で済ませたらええやん。唯華んとこ、キッチン広いし」
それに対し、唯華は少しだけ表情を曇らせて、視線を外す。
「……今日は、やめとき」
その一言には深い意味が込められているようだった。
おそらく――昨日の出来事の後、椎名菜塚がまだ神域のどこかで動いているのだろう。
その雰囲気を壊さないようにする、唯華なりの配慮だった。
「……そっか。まぁ、外で食うんもええか」
笹木はそれ以上は聞かず、肩をすくめた。
唯華はふと立ち上がり、手提げ袋から何かを取り出して笹木に差し出す。
「ほい、これ着ていき」
渡されたのは、黒を基調にしたシャツ。
フリルのあしらわれた袖口に、控えめな刺繍の入った上品な布地。
さらに首元には細身のチョーカーが添えられていた。
見るからに新品。タグこそないが、誰も袖を通した形跡がなかった。
「……これ、どこから出てきたん?」
笹木が怪訝な顔をして尋ねると、唯華は「あー」と小さく唸った後、ぽつりと答える。
「前に、ましろから預かっとったやつや」
「ましろから?」
「うん。冬の初め頃に受け取ってたんやけどな、『咲に似合いそうやから』って。
でも、あん時“主様”のことでバタバタしとったやんか。渡すタイミング逃してしもてな」
唯華は、笹木の手にそっと服を押し込んだ。
「いまなら、ちょうどええやろ。今日くらい、ちょっとだけ“普通の高校生”に戻ってみてもええんちゃう?」
その言葉に、笹木は一瞬だけ返す言葉を失った。
ましろが――あの不器用で、でもどこか人を見ているましろが、自分のために選んでいた服。
「……変やったら、着替えるからな」
そうぼやきながら、笹木は小さく笑った。
どこか胸の奥に、温かな灯がともった気がした。
唯華に教えられた通り、廊下の角を曲がって奥へ進むと――
笹木の目の前に現れたのは、信じられないほど広々とした浴室だった。
檜の香りと、わずかに甘い整髪料の香りが混じる空気。
床には上質な石材が敷き詰められ、壁は磨き込まれた木目が美しく、まるで老舗旅館の大浴場のようだった。
窓際には観葉植物が置かれ、ほのかに朝の光を浴びていた。
「……いやいやいやいや、なんやねんこれ」
笹木は思わず小声で呟く。
「こいつの家ほんま……どこまでデカいねん……」
思わず天井を見上げ、溜息を漏らした。
正面には、半透明のガラスで仕切られた引き戸があり、その奥には既に湯気が満ちていた。
ただ入るにしても――どう入っていいか分からない。
こんな豪華な浴場、日常的に使うには気が引ける。
「……え、どこで身体洗うん? つか、こっち側? いや奥か?」
まるで旅館の下見に来た客のように、きょろきょろと視線を彷徨わせていると――
「さっさと入れや~、つっかえとんで」
唯華の声が、真後ろから響いた。
「うわっ!? お前らも来たんかい!」
振り返ると、ちひろも静かに立っていて、無言のまま笹木の横を見つめていた。
その視線は、まるで「早く入らないと損するよ」とでも言いたげ。
「いや、あんたら……普通こんなん家庭についてへんやろ!? 銭湯かて!」
突っ込みながらも、笹木は自分の身体が汗でべたついているのを思い出し、しぶしぶ浴場の引き戸に手をかけた。
キィィ……と音を立てて開かれる半透明のガラス戸の奥には、さらに整然とした脱衣所が広がっていた。
清潔な木製の棚に、ふかふかの白いタオル。壁には古風な体重計や鏡があり、どこか懐かしくも落ち着く雰囲気が漂っていた。
「……まぁ、せっかくやし、入るか」
三人は一緒に脱衣所へ足を踏み入れ、それぞれ棚に衣服を置きはじめた。
この非日常の空間で、一時だけでも心身を洗い流す時間が始まろうとしていた。
浴場の湯気は、まるで夢と現の境目のように、三人の肌を包み込んでいた。
笹木は広い浴槽の縁にもたれ、ぬるめの湯に肩まで沈んだまま、ぽつりと呟く。
「なぁ、唯華……昨日あんたの家の外におった、刀持ったあの男……あれ、誰なん?」
その問いに、シャワーで髪を流していた唯華は、手を止めることなく、やや気だるげな声で答えた。
「……うーん。なんか、めんどくさいねん、あれ」
蒸気の中で、彼女の声がゆらりと揺れる。
泡立てたシャンプーを指先でくるくると広げながら、唯華は続ける。
「簡単に言うとやな、剣持家っていう家があって、そこ……うちと昔から仲、悪いんよ」
「……はぁ。家同士で仲が悪いとか、そんな昭和みたいな話……」
笹木が浴槽のふちから空を見上げる。
朝の光がまだ優しく、湯気と混ざってふわりと揺れていた。
「でもな、その中でも、刀也……あいつは特に、うちを目の敵にしとる」
唯華はそのまま湯を手ですくい、ざばっと頭からかける。
泡が流れ、背中を伝って湯船の方へ落ちていく。
「おかんも、剣持の人らも、本当は子どもらにそんな因縁、引き継がせたくなかったと思うんやけどな」
その口ぶりはどこか遠く、声も目も、今ここにいないようだった。
笹木はしばらく黙っていたが、やがてぽつりと漏らした。
「……なんか、想像もできへんわ。うち、そんな家の因縁とか無縁やし」
「でも、それに執着する人間もおるし……もう終わりにしたいって思ってる人もおる。その間で、また歪みができていくっていうんが……なんや、もどかしいよな」
静かに湯の音が響く中、三人の間にはどこか言葉では埋めきれない余韻が残っていた。
それでも、心のどこかで――互いに分かり合えたような、そんな気配だけが、そっと湯の中に沈んでいた。
肩まで湯に浸かりながら、笹木はぼそっと呟いた。
「なぁ……あの霊のことやけどさ」
唯華が、桶にぬるま湯を汲みながらちらりと目線を向ける。
「昨日、あの剣持とか言うやつも言うとったやん。『凄い怨念を溜め込んでる』って……」
「……あれ、結局何者なん?」
その問いに、唯華は一瞬視線を落とし、ため息をついた。
「わからん」
その声には、いつもの唯華らしい飄々さはなかった。
言い切るというより、諦めに近い――そんな響きだった。
「ただな……あいつ、もし祓ったら……今度こそ、お陀仏かもしれんわ」
唯華は、そう言いながら自分の右手を見つめる。
細く、白い指先が、湯気の中でかすかに震えていた。
かつて――本殿で自ら霊を祓ったあの日の記憶が、未だに身体の奥に残っているのだろう。
笹木は、そっと手を伸ばした。
そして、震える唯華の手をぎゅっと握る。
「そんなこと、させへん」
「うちは、お前が危ない目に遭うのなんて、もうたくさんや」
唯華は驚いたように笹木を見たが、すぐに視線を逸らして、鼻を鳴らした。
「ふーん、変に優しいんやな……咲は」
「うっさい、たまにはええやろ」
しばらく静けさの中に、湯の音と湯気のくぐもった笑い声だけが響いていた。
やがて、湯船から上がった笹木は、脱衣所でタオルを肩にかけて身体を拭き始めた。
ふと――何かが心をよぎる。
「……あの耳長、今どうしてるんやろな」
「耳長?」と唯華が聞き返すと、笹木はタオルで髪をわしゃわしゃと拭きながら答えた。
「チャイカのことや。あいつ、なんか色々知ってそうやん。あいつなら……何かわかるかもな」
湯気の向こうで、まだ湯船に浸かっているちひろがぴくりと反応する。
笹木は二人に声をかけた。
「行ってみるか?」
唯華は髪をタオルで包みながら、「まぁ、行くならついてくけど」と軽く返した。
だが、ちひろは対照的だった。
「……嫌だ」
その声は、明確な拒絶だった。
ちひろは湯船の縁に背中を預け、顔をそらして笹木たちを見ようとしない。それ以上何も言わず、まるでこの話題には触れたくないと言わんばかりに湯の中へ沈み込んでいった。
浴室に、再び重い静寂が戻った。
蒸気の向こうに、解かれることのない何かが、薄く漂っていた。
浴室から上がった笹木は、唯華に渡された着替え――
黒地に細やかなフリルがついたシャツと、革のチョーカー、そしてシンプルながら上品なパンツを手に取って、ためらいがちに袖を通した。
「……おぉぉ……」
鏡の中に映る自分の姿に、思わず息を飲む。
少し大人びた雰囲気。これまで制服やジャージ姿の自分では想像できなかった、背筋の通った姿がそこにあった。
「……なんか……カッコつきすぎやない? これ……」
不慣れな装いに違和感を覚えながら、少し身をひねると、服の裾が腰にゆとりを持って揺れる。
「……あーもう、なんやろ……ちょっと大きいし……」
「ましろ、もしかして……“もう少し大きくなれ”って言いたかったんちゃうん……? 腹立つな……」
笹木はぼそっと鏡越しに愚痴ると、やれやれとため息を吐きつつドライヤーのスイッチを入れる。
温風がふわりと濡れた髪に当たり、湿気を追い払っていくその音の中で――
「……ねぇ、笹木さん」
不意に背後から、ちひろの静かな声が届いた。
笹木がドライヤーを止めて振り返ると、ちひろはまだ髪をタオルで軽く押さえながら、視線だけを向けていた。
「忘れたの?」
「私は、“チャイカの下で働いてる霊媒師”として……あなたを始末しに来たんだよ」
その言葉に、空気が冷える。
笹木は気まずそうに目を逸らし、しばし沈黙した後にぽつりと返す。
「……まあ……それは、そうやけど……」
ちひろは淡々と、まるで何かの記録を読み上げるような調子で続ける。
「でもね、今一緒にいるのは……あなたや唯華さんが、“あの男”と深く繋がってないって信じてるから」
「それだけ。信じてるだけだよ」
笹木は、少し戸惑いながら再びドライヤーを手に取ると、スイッチを入れて髪を乾かし始める。
「……うちは、そんな悪い奴には見えへんけどな……チャイカ」
――ゴォオ……と、ドライヤーの温風が小さな密室に響く中、ちひろの小さな声が、かき消される寸前のか細さで漏れる。
「……あいつは、敵だよ」
「私の……師匠を殺したんだ」
その瞬間、ドライヤーを握っていた笹木の手から力が抜けた。
ゴトン――と乾いた音を立てて、ドライヤーが床に転がる。
「……マジか……」
思わず口をついて出た言葉は、信じられないものを目の前にした時の、ごく自然な驚愕だった。
ちひろは、それ以上何も言わず、静かに衣服に袖を通していく。
湿った空気の中で、笹木の胸の奥に、どす黒い不安と疑念の影が、じわりと広がり始めていた。
朝の街はまだ少し冷たく、けれども澄んだ空気がどこか気持ちを引き締めていた。
唯華に連れられて喫茶店の扉をくぐると、笹木とちひろは小さく息を吐いた。
中は落ち着いた雰囲気で、木のテーブルと深い色の椅子が並んでいる。
スチームミルクの香りと焼きたてのパンの匂いが空気を和らげるように漂っていた。
席につこうとしたその時――
「……あ」
笹木の視線が隣のテーブルに向き、わずかに動揺を見せた。
そこには、夜見と葉加瀬がすでに座っていた。二人ともカップに手をかけ、のんびりとくつろいでいる。笹木は少し身を引くようにして、椅子に静かに腰を下ろした。
しかしその緊張感とは対照的に、唯華はふらふらと夜見の方に歩いていき――
「よぅみ~……」
と、胸元に顔をうずめて、力を抜くように抱きついた。
夜見は少し驚いたように目を見開いたが、すぐに口元を緩めて頭を撫でる。
「えぁ~……大変だったねぇ~、しーな先輩……」
その呑気な調子に、笹木は思わずため息をつきそうになる。
葉加瀬は、テーブルの縁に肘をつきながら、笹木を一瞥した。
「……で? 何があったん?」
その問いに、笹木は少し言いづらそうに目を泳がせながらも、昨晩の出来事を淡々と語る。
剣持刀也という青年の出現。霊障の激しさ。そして――
「……で、なんやけど……その、チャイカが……こいつの師匠、殺したらしいんよ」
葉加瀬の目がすっとこちらを向き、夜見はその言葉を聞くなり、にやりと笑った。
ちひろに向けて、にこやかなまま――
「それでぇ……あんたは、チャイチャイのこと殺したいんだぁ〜?」
その問いかけに、周囲の空気が一瞬、冷える。夜見は答えず、ただ手元のアイスコーヒーのストローをくるくるとかき混ぜながら――
「……私だったら、そうしちゃうかも~」
笑顔のまま、淡々とした声。
そこには、何の迷いも、罪悪感もなかった。まるでそれが自然なことのように。
その言葉を聞いた葉加瀬は、思わず天井の方へ視線を泳がせ、遠くを見るように考える。
夜見が「そうする」と断言できる理由。
その裏にある感情、過去、あるいは……あの人。
「……あの人に、そこまでする義理なんて……あるのか?」
葉加瀬は静かに呟くように言い、言葉の先をぼやかした。
それは、夜見の言葉に重ねられた問いであり、同時に――誰かへの、かすかな疑問でもあった。
静かだった喫茶店の空気が、また少しだけ緊張を帯びた。
葉加瀬はコーヒーカップをそっとソーサーに戻し、足を組み替えながら、ちひろをまっすぐに見た。
「……てかさ」
不意に、いつもの気だるげなトーンとは違う、低く鋭い声。
「そいつが本当にお前の“仇”って証拠、あるのか?」
その一言に、ちひろの目が細くなり、拳が膝の上で小さく震えた。
「……間違いない」
「……そうするところを、私は見た」
吐き出すような声。だがその声には、どこか――微かな迷いもにじんでいた。
葉加瀬はその一瞬の揺らぎを見逃さなかった。
「“いつ”だ?」と問い詰めながら、椅子に背を預ける。
「まさかナイフで刺す瞬間でも見たのか?」
言葉に刃を含ませるようにして問いかけながら、彼女は続ける。
「……記憶なんて、案外アテにならないぞ。特に、心がぐちゃぐちゃなときの記憶はな」
ちひろが口を開こうとする前に、葉加瀬は言葉を被せた。
「ちゃんと考えろよ」
「自分が今、どういう状態なのか」
「自分が本当は、何をしたいのか」
「だから、どういう状況になりたくて、誰にどう助けてほしいのか」
その言葉は、まるで過去の誰かに投げかけるような、痛みを含んでいた。
ちひろは目を見開き、何かを言い返そうとする。
「……そんなこと――!」
怒りと悲しみが交じった叫びが、喉の奥から出かけたその瞬間。
葉加瀬は静かに目を伏せた。
「……昔いたんだよ。お前みたいなやつが」
声のトーンはどこか遠く、感情を奥底に押し込めたような響きだった。
「お前みたいに場違いな方向に飛んでって、余計なことまで考えて、その結果、誰も望まないような苦しみを味わった…そんな奴」
ちひろの表情がわずかに変わる。戸惑いと、そして――少しの怯え。
葉加瀬はそのまま、もう一度ちひろを見据えて告げた。
「……でもさ、お前、もう子供じゃないだろ」
喫茶店のスピーカーから、ゆったりとしたピアノの音が流れる中、沈黙が、席の間を満たしていった。
それは、優しさでもあり、残酷さでもあった。