咲-saku- 【完結】   作:えいどら

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最終章 第8話:風

 少し前、午後の陽射しは少しずつ傾き、街の影を長く落としはじめていた。

 

 雑居ビルの一角にある喫茶店「アルカナ」の前に、笹木咲と勇気ちひろの二人が静かに立っていた。

 

 無機質なドアの前、笹木はちひろの横顔をじっと見つめながら、声をかける。

 

 「……いきなり魔法ぶっ放したりしたら、ダメやで……?」

 

 その声には、どこか冗談めいた響きを含ませながらも、本心からの心配がにじんでいた。

 ちひろの霊力、いや“魔法”が、どれほどのものなのか――笹木には分かっている。

 

 発狂すれば、いくら大男とはいえ、命はない――不安が拭いきれなかった。

 

 ちひろはその言葉に、ふっと目を伏せた。そして、静かに、かすれたような声で返す。

 

 「……それは、約束できない」

 

 その言葉の重さに、笹木の眉がわずかに動く。

 だが、ちひろは続けた。

 

 「ただ……」

 

 顔に手を当て、指の隙間から小さく息をつく。

 その仕草には、迷いと、そして深い疲労が宿っていた。

 何かと戦い続けてきた少女の、今にも折れそうな声。

 

 「そこまで言うなら……話してみようとは思う」

 

 その言葉を絞り出すようにして吐いたちひろの目は、少し潤んでいた。

 けれど、それでもなお、何かを信じようとする、そんな光もあった。

 

 笹木は少し黙ったまま、そんなちひろの横顔を見つめた。

 小柄な体、細い肩。どれほどの痛みをその中に閉じ込めてきたのか。

 

 (……こいつもまた、放っとけへんやつやな)

 

 思わず心の中で呟きながら、笹木はふと、他の面々の顔を思い出す。

 

 

 

 椎名家の運命を担う唯華。

 

 人の良心に無頓着で悪魔のように振舞いながらも、どこか温かみのある夜見。

 

 その知識欲に邪悪さすらも感じるが、それでいてどこか冷静な視点も持つ葉加瀬。

 

 宿命を背負いながら、何かを悟ったように生きるましろ。

 

 拭い去れない思いを抱えながらも、明るく振る舞うひまわり。

 

 心に闇を抱えながらも、正義であろうとする葛葉。

 

 触れるだけで命の灯が途絶えそうな、殺戮を尽くす殺し屋のヒスイ。

 

 自分の夢にまっすぐで、それでいて無鉄砲なチグサ。

 

 その穏やかで真面目な見た目の中に、数えきれない深淵を抱える美兎。

 

 

 

 過去の拭い去れない何かと後悔を隠しながら、人を導こうとするチャイカ。

 

 《君はその“放っておけない”っていう矛先を、いったいどこに向けたいんだい?》

 

 ふとサンゴに言われたことが心の中で反響する。確かにそうだ。放っておけないというだけでは、何も変わらない。

 

 でも、それでもいい、何もできなくても。

 

 それでも、うちは――

 

 「……まったく、放っておけんやつばっかりやな……」

 

 苦笑を浮かべて、笹木はちひろの手をそっと取った。

 ちひろは驚いたように手を見つめたが、何も言わず、そのまま笹木の隣に並んだ。

 

 「行こか」

 

 気持ちだけで、十分。

 

 暖かい仲間がいて、相談できる相手がおって、

 

 ちょっと価値観とか物の捉え方が変でも、分かり合おうとしてくれる人がいる。

 

 

 

 それを守るために、生きていきたい。

 

 

 

 笹木の声は、柔らかくて、あたたかかった。

 その手は、小さく震えるちひろの指を、しっかりと包み込む。

 

 燃えさかる森の中、焦げた葉の隙間から、ひときわ冷たい水溜まりが顔をのぞかせていた。

 その水面に、笹木咲はふと、自分の姿が映っているのを見つける。

 

 ――だが、それは自分ではなかった。

 

 「……え?」

 

 息を呑んでしゃがみ込み、水面を覗き込む。

 そこに映るのは、見覚えのあるツインテールの少女――勇気ちひろ。

 

 笹木は、青ざめた顔で小さく呟く。

 

 「なんなん、これ……うち、ちゃうやん……」

 

 だが次の瞬間、視界が、裏返った。

 

 炎の熱が薄れ、周囲の音が遠のき、

 まるで深い井戸に落ちるように、意識が滑り落ちていく――。

 

 ――そして、目を開けたのは“ちひろ”だった。

 

 細く、震える指がチャイカの方へ向けられていた。

 今まさに蔓に絡め取られ、炎に飲まれかけている少年――その姿を、涙目で睨みつけながら、

 

 「そうだ……この時……こうやって……」

 「お前だけ、死ねばよかったんだ……」

 

 ――その声には、怒りと悲しみが重なっていた。

 呪いのような言葉に、自らも胸を刺されながら、それでも口に出さずにはいられなかった。

 

 隣で、尼がその言葉を聞き、驚きながらも少女を抱きとめる。

 

 「ちひろ……」

 

 しかし、ちひろは尼の手を握り返し、必死に訴えた。

 

 「先生……私と帰ろう? お願い……」

 「そうすれば、先生は、もう苦しまなくていい。焼かれずに済む……!」

 

 涙が熱風に舞い、頬を伝って落ちる。

 その必死の言葉に、尼は悲しげに目を伏せ、そっと首を横に振った。

 

 「……ちひろ、それは……できません」

 

 ちひろが呆然とする。

 その横で、チャイカが振り絞るように叫んだ。

 

 「そうだ! 俺を置いて逃げろ!!」

 「……上塚さん、早く……!!」

 

 だが、尼――上塚は、凛とした声で告げた。

 

 「この悪霊は……私そのもの、なのです」

 

 その言葉に、ちひろも笹木も、言葉を失う。

 炎の轟きだけが周囲を包む中で、ひび割れたように、時が止まった。

 

 

 

 

 

 炎に包まれた森の中、灼けた枝が崩れ落ちるたび、空気が裂けるような音が響いていた。

 しかしその中心、焦げた袈裟をまとった尼――上塚の声は、不思議と静かに、二人の耳へと届いていた。

 

 「……私は――早良親王に仕えていた、ただの霊媒師にすぎません」

 

 その口調に怒りも嘆きもなく、ただ遠い記憶をなぞるような穏やかさがあった。

 

 「幼い頃より……災厄を呼び込む力を持っていました。だから、五百枝王に拾われ、使われた」

 

 「……でもその力ゆえに、平城京では表立って生きることは叶いませんでした。尊い血筋を戴いていながらも、日の目を見ることはなかったのです」

 

 ちひろの肩がピクリと震える。

 チャイカも口を閉じたまま、その言葉を真摯に受け止めるように、少年の姿のままじっと耳を傾けている。

 

 「……親王の死ののち、私も命を絶ちました」

 

 「でも……その時、私は死ねなかった。この身に宿った強すぎる霊力が、私を冥府へ導くことを拒んだのです」

 

 どこか虚ろな瞳をしながら、彼女は淡々と続けた。

 

 「やがて……私は、悪霊として目覚めました」

 「意識は曖昧で……年月も、意味も、名前さえも忘れていた」

 「気づけば……この時代で、私はまた人を傷つけていた……」

 

 火の粉が宙を舞い、上塚の頬を照らす。

 

 「チャイちゃんを……ちひろちゃんを……巻き込むつもりなんてなかった」

 「本当は、ここからチャイちゃんを逃がして……そのまま、私は消えるつもりだったのです」

 

 「でも……二度目の死すらも、あなたたちの人生に深い傷を与えることになるなんて……」

 

 そこまで言うと、上塚は炎の中に立ち尽くし、そっと両手を合わせる。

 

 「……許してください。これは、私の罪。私が――向き合うべき過ちです」

 

 燃えさかる森の中、霊であるはずの彼女の姿が、どこまでも人間らしく見えた。

 そして、悔恨の中に立つその背中は、たしかに――母のようだった。

 

 燃え盛る森の中心――かすかに立ちこめる焦げた薬草と血の混ざった匂いの中で、上塚は穏やかに言った。

 

「……私の首を落としなさい」

「そうすれば、この霊も、すべて終わる」

 

 その声は、決して命乞いの裏返しではない。

 まるで、自らを贄とすることに納得したような……静かな覚悟の声音だった。

 

 しかし、ちひろは――力なく首を振った。

 

「……できないよ……そんなの……」

「先生のこと、……私が……」

 

 その言葉は、涙に濡れた喉の奥で詰まりながら漏れた。

 

 上塚は一歩だけ前に出て、優しく言う。

 

「ちひろちゃん、あなたが手を下さねば……あの少女は、本当に命を落としてしまうのですよ」

 

「この霊は、私そのもの。私がこの世にいる限り、彼女の魂は、地獄の炎に引きずられる」

 

 それでも、ちひろは一言も返せない。

 こわばった顔のまま、ただ両手を震わせ、視線を落とす――

 

 ――その時。

 

 「――やらなあかんて……!」

 

 ちひろの目が見開かれ、その身体がビクリと跳ねる。

 続けて、まるで別の存在がちひろの身体を操るように、ぐっと腕が天に掲げられた。

 

 “笹木咲”の意識が、ちひろの身体を乗っ取っていた。

 

 「このままじゃ……皆、死ぬんや……!」

 

 「私がやる……!」

 

 記憶の奥底――ちひろの魔法の知識が呼び起こされる。

 空気が歪み、手から吹き上がるように紫の魔力がほとばしる。

 霊力と生命力が混じり合い、燃え盛る火の粉が円を描き、魔法の陣が浮かび上がる――!

 

 「――焼き払えッ!!」

 

 けたたましい声とともに、咲が放った焦熱の魔法が、霊へと放たれようとした――

 

 だが、

 

 バシィッ!!

 

 咲(ちひろ)の手元に、燃えた蔓が弾け飛ぶように絡みつき、その魔法を相殺する。

 次の瞬間――その蔓は、生き物のようにちひろの身体を襲いかかった。

 

 「ッ……!? なにこれ――ッ!」

 

 蔓が彼女の身体を締め付け、喉元へ、胸元へ、骨ごとへし折ろうとするように迫ってくる――

 

 だが、直前。

 

 「ダメッ!!」

 

 ちひろの意識が咲の制御を押しのけて前面へと戻る。

 とっさに蔓の動きを読み、半身を逸らして、その攻撃をかわす。

 

 ちひろは駆け寄って、まだ蔓に捕らわれた少年の姿のチャイカを抱え起こす。

 力のない身体をそのまま背負いながら、歯を食いしばり、必死に上塚から距離を取る。

 

 静寂が戻りつつある、崩れかけた炎の森。

 残る燻りの中に――剣持刀也と椎名唯華の二人が現れた。

 

 その姿を見た尼は、半ば取り乱したように唇を震わせた。

 

「け、剣持様……? なぜ、都の……霊媒師と……?」

 

 かつて仕えた平安の記憶が重なり、目の前の青年が“主”であるかのように見えたのだろう。

 だが、剣持は静かに首を横に振り、霊の正体を正確に見抜いていた。

 

「……そいつは、もういない。俺は剣持刀也。現代を生きる一人の男だ」

 

 その声には、優しさも、怒りもなかった。

 ただ、霊の過去に引きずられることを良しとしない、“今”の存在としての宣言だった。

 

 と、そこで。

 

「私、椎名唯華。で、二人合わせて――もちもち! なんてな~」

 

 唯華が剣持の腕に頬を寄せて、茶化すように笑う。

 剣持は肩をすくめて、呆れたように吐き捨てた。

 

「いつそんなの考えたんだ……やめろ」

 

「えー、せっかくの漫才コンビ結成の瞬間やのに~」

 

 ふざける唯華と、それに釣られない剣持。

 そのあまりに「今らしい」やりとりに――尼は、はっと目を見開いた。

 

「……そうですか」

 

 その呟きは、どこか温かく、同時に切なげでもあった。

 

 ゆらり――

 

 森の火が、一気に風に吹かれて消えていく。

 炭となった木々は灰へと崩れ、代わりに眩しいほどの白い光が、上空から差し込んできた。

 

 尼の身体もまた、透けはじめていた。

 

「ちひろ……チャイちゃん……」

 

 二人が駆け寄ると、上塚はゆっくりと目を細めて語った。

 

「かつて、藤原種継の件の後……

 一つであったはずの皇族は、信頼を失い、心がバラバラになってしまいました」

 

「思えば……それだけが、私の心残りだったのかもしれません」

「けれど……まさか……」

 

 滲んだ瞳で、剣持と椎名を見つめる。

 

「まさか剣持様の末裔が……桓武天皇の霊媒師と、このような形で手を取り合うとは……」

 

「……時代が巡っても、人は歩み寄れるのですね……」

 

 その言葉を残して、上塚の身体は、光の粒子となって空へと還っていった。

 

 その瞬間、辺り一面に――優しい光が満ちた。

 

 かつて焼け落ちた森の残骸はすべて浄化され、静かに、静かに……風が吹いた。

 

 

 

 

 それは、長く彷徨った霊の魂が、ようやく還るための風。

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