少し前、午後の陽射しは少しずつ傾き、街の影を長く落としはじめていた。
雑居ビルの一角にある喫茶店「アルカナ」の前に、笹木咲と勇気ちひろの二人が静かに立っていた。
無機質なドアの前、笹木はちひろの横顔をじっと見つめながら、声をかける。
「……いきなり魔法ぶっ放したりしたら、ダメやで……?」
その声には、どこか冗談めいた響きを含ませながらも、本心からの心配がにじんでいた。
ちひろの霊力、いや“魔法”が、どれほどのものなのか――笹木には分かっている。
発狂すれば、いくら大男とはいえ、命はない――不安が拭いきれなかった。
ちひろはその言葉に、ふっと目を伏せた。そして、静かに、かすれたような声で返す。
「……それは、約束できない」
その言葉の重さに、笹木の眉がわずかに動く。
だが、ちひろは続けた。
「ただ……」
顔に手を当て、指の隙間から小さく息をつく。
その仕草には、迷いと、そして深い疲労が宿っていた。
何かと戦い続けてきた少女の、今にも折れそうな声。
「そこまで言うなら……話してみようとは思う」
その言葉を絞り出すようにして吐いたちひろの目は、少し潤んでいた。
けれど、それでもなお、何かを信じようとする、そんな光もあった。
笹木は少し黙ったまま、そんなちひろの横顔を見つめた。
小柄な体、細い肩。どれほどの痛みをその中に閉じ込めてきたのか。
(……こいつもまた、放っとけへんやつやな)
思わず心の中で呟きながら、笹木はふと、他の面々の顔を思い出す。
椎名家の運命を担う唯華。
人の良心に無頓着で悪魔のように振舞いながらも、どこか温かみのある夜見。
その知識欲に邪悪さすらも感じるが、それでいてどこか冷静な視点も持つ葉加瀬。
宿命を背負いながら、何かを悟ったように生きるましろ。
拭い去れない思いを抱えながらも、明るく振る舞うひまわり。
心に闇を抱えながらも、正義であろうとする葛葉。
触れるだけで命の灯が途絶えそうな、殺戮を尽くす殺し屋のヒスイ。
自分の夢にまっすぐで、それでいて無鉄砲なチグサ。
その穏やかで真面目な見た目の中に、数えきれない深淵を抱える美兎。
過去の拭い去れない何かと後悔を隠しながら、人を導こうとするチャイカ。
《君はその“放っておけない”っていう矛先を、いったいどこに向けたいんだい?》
ふとサンゴに言われたことが心の中で反響する。確かにそうだ。放っておけないというだけでは、何も変わらない。
でも、それでもいい、何もできなくても。
それでも、うちは――
「……まったく、放っておけんやつばっかりやな……」
苦笑を浮かべて、笹木はちひろの手をそっと取った。
ちひろは驚いたように手を見つめたが、何も言わず、そのまま笹木の隣に並んだ。
「行こか」
気持ちだけで、十分。
暖かい仲間がいて、相談できる相手がおって、
ちょっと価値観とか物の捉え方が変でも、分かり合おうとしてくれる人がいる。
それを守るために、生きていきたい。
笹木の声は、柔らかくて、あたたかかった。
その手は、小さく震えるちひろの指を、しっかりと包み込む。
燃えさかる森の中、焦げた葉の隙間から、ひときわ冷たい水溜まりが顔をのぞかせていた。
その水面に、笹木咲はふと、自分の姿が映っているのを見つける。
――だが、それは自分ではなかった。
「……え?」
息を呑んでしゃがみ込み、水面を覗き込む。
そこに映るのは、見覚えのあるツインテールの少女――勇気ちひろ。
笹木は、青ざめた顔で小さく呟く。
「なんなん、これ……うち、ちゃうやん……」
だが次の瞬間、視界が、裏返った。
炎の熱が薄れ、周囲の音が遠のき、
まるで深い井戸に落ちるように、意識が滑り落ちていく――。
――そして、目を開けたのは“ちひろ”だった。
細く、震える指がチャイカの方へ向けられていた。
今まさに蔓に絡め取られ、炎に飲まれかけている少年――その姿を、涙目で睨みつけながら、
「そうだ……この時……こうやって……」
「お前だけ、死ねばよかったんだ……」
――その声には、怒りと悲しみが重なっていた。
呪いのような言葉に、自らも胸を刺されながら、それでも口に出さずにはいられなかった。
隣で、尼がその言葉を聞き、驚きながらも少女を抱きとめる。
「ちひろ……」
しかし、ちひろは尼の手を握り返し、必死に訴えた。
「先生……私と帰ろう? お願い……」
「そうすれば、先生は、もう苦しまなくていい。焼かれずに済む……!」
涙が熱風に舞い、頬を伝って落ちる。
その必死の言葉に、尼は悲しげに目を伏せ、そっと首を横に振った。
「……ちひろ、それは……できません」
ちひろが呆然とする。
その横で、チャイカが振り絞るように叫んだ。
「そうだ! 俺を置いて逃げろ!!」
「……上塚さん、早く……!!」
だが、尼――上塚は、凛とした声で告げた。
「この悪霊は……私そのもの、なのです」
その言葉に、ちひろも笹木も、言葉を失う。
炎の轟きだけが周囲を包む中で、ひび割れたように、時が止まった。
炎に包まれた森の中、灼けた枝が崩れ落ちるたび、空気が裂けるような音が響いていた。
しかしその中心、焦げた袈裟をまとった尼――上塚の声は、不思議と静かに、二人の耳へと届いていた。
「……私は――早良親王に仕えていた、ただの霊媒師にすぎません」
その口調に怒りも嘆きもなく、ただ遠い記憶をなぞるような穏やかさがあった。
「幼い頃より……災厄を呼び込む力を持っていました。だから、五百枝王に拾われ、使われた」
「……でもその力ゆえに、平城京では表立って生きることは叶いませんでした。尊い血筋を戴いていながらも、日の目を見ることはなかったのです」
ちひろの肩がピクリと震える。
チャイカも口を閉じたまま、その言葉を真摯に受け止めるように、少年の姿のままじっと耳を傾けている。
「……親王の死ののち、私も命を絶ちました」
「でも……その時、私は死ねなかった。この身に宿った強すぎる霊力が、私を冥府へ導くことを拒んだのです」
どこか虚ろな瞳をしながら、彼女は淡々と続けた。
「やがて……私は、悪霊として目覚めました」
「意識は曖昧で……年月も、意味も、名前さえも忘れていた」
「気づけば……この時代で、私はまた人を傷つけていた……」
火の粉が宙を舞い、上塚の頬を照らす。
「チャイちゃんを……ちひろちゃんを……巻き込むつもりなんてなかった」
「本当は、ここからチャイちゃんを逃がして……そのまま、私は消えるつもりだったのです」
「でも……二度目の死すらも、あなたたちの人生に深い傷を与えることになるなんて……」
そこまで言うと、上塚は炎の中に立ち尽くし、そっと両手を合わせる。
「……許してください。これは、私の罪。私が――向き合うべき過ちです」
燃えさかる森の中、霊であるはずの彼女の姿が、どこまでも人間らしく見えた。
そして、悔恨の中に立つその背中は、たしかに――母のようだった。
燃え盛る森の中心――かすかに立ちこめる焦げた薬草と血の混ざった匂いの中で、上塚は穏やかに言った。
「……私の首を落としなさい」
「そうすれば、この霊も、すべて終わる」
その声は、決して命乞いの裏返しではない。
まるで、自らを贄とすることに納得したような……静かな覚悟の声音だった。
しかし、ちひろは――力なく首を振った。
「……できないよ……そんなの……」
「先生のこと、……私が……」
その言葉は、涙に濡れた喉の奥で詰まりながら漏れた。
上塚は一歩だけ前に出て、優しく言う。
「ちひろちゃん、あなたが手を下さねば……あの少女は、本当に命を落としてしまうのですよ」
「この霊は、私そのもの。私がこの世にいる限り、彼女の魂は、地獄の炎に引きずられる」
それでも、ちひろは一言も返せない。
こわばった顔のまま、ただ両手を震わせ、視線を落とす――
――その時。
「――やらなあかんて……!」
ちひろの目が見開かれ、その身体がビクリと跳ねる。
続けて、まるで別の存在がちひろの身体を操るように、ぐっと腕が天に掲げられた。
“笹木咲”の意識が、ちひろの身体を乗っ取っていた。
「このままじゃ……皆、死ぬんや……!」
「私がやる……!」
記憶の奥底――ちひろの魔法の知識が呼び起こされる。
空気が歪み、手から吹き上がるように紫の魔力がほとばしる。
霊力と生命力が混じり合い、燃え盛る火の粉が円を描き、魔法の陣が浮かび上がる――!
「――焼き払えッ!!」
けたたましい声とともに、咲が放った焦熱の魔法が、霊へと放たれようとした――
だが、
バシィッ!!
咲(ちひろ)の手元に、燃えた蔓が弾け飛ぶように絡みつき、その魔法を相殺する。
次の瞬間――その蔓は、生き物のようにちひろの身体を襲いかかった。
「ッ……!? なにこれ――ッ!」
蔓が彼女の身体を締め付け、喉元へ、胸元へ、骨ごとへし折ろうとするように迫ってくる――
だが、直前。
「ダメッ!!」
ちひろの意識が咲の制御を押しのけて前面へと戻る。
とっさに蔓の動きを読み、半身を逸らして、その攻撃をかわす。
ちひろは駆け寄って、まだ蔓に捕らわれた少年の姿のチャイカを抱え起こす。
力のない身体をそのまま背負いながら、歯を食いしばり、必死に上塚から距離を取る。
静寂が戻りつつある、崩れかけた炎の森。
残る燻りの中に――剣持刀也と椎名唯華の二人が現れた。
その姿を見た尼は、半ば取り乱したように唇を震わせた。
「け、剣持様……? なぜ、都の……霊媒師と……?」
かつて仕えた平安の記憶が重なり、目の前の青年が“主”であるかのように見えたのだろう。
だが、剣持は静かに首を横に振り、霊の正体を正確に見抜いていた。
「……そいつは、もういない。俺は剣持刀也。現代を生きる一人の男だ」
その声には、優しさも、怒りもなかった。
ただ、霊の過去に引きずられることを良しとしない、“今”の存在としての宣言だった。
と、そこで。
「私、椎名唯華。で、二人合わせて――もちもち! なんてな~」
唯華が剣持の腕に頬を寄せて、茶化すように笑う。
剣持は肩をすくめて、呆れたように吐き捨てた。
「いつそんなの考えたんだ……やめろ」
「えー、せっかくの漫才コンビ結成の瞬間やのに~」
ふざける唯華と、それに釣られない剣持。
そのあまりに「今らしい」やりとりに――尼は、はっと目を見開いた。
「……そうですか」
その呟きは、どこか温かく、同時に切なげでもあった。
ゆらり――
森の火が、一気に風に吹かれて消えていく。
炭となった木々は灰へと崩れ、代わりに眩しいほどの白い光が、上空から差し込んできた。
尼の身体もまた、透けはじめていた。
「ちひろ……チャイちゃん……」
二人が駆け寄ると、上塚はゆっくりと目を細めて語った。
「かつて、藤原種継の件の後……
一つであったはずの皇族は、信頼を失い、心がバラバラになってしまいました」
「思えば……それだけが、私の心残りだったのかもしれません」
「けれど……まさか……」
滲んだ瞳で、剣持と椎名を見つめる。
「まさか剣持様の末裔が……桓武天皇の霊媒師と、このような形で手を取り合うとは……」
「……時代が巡っても、人は歩み寄れるのですね……」
その言葉を残して、上塚の身体は、光の粒子となって空へと還っていった。
その瞬間、辺り一面に――優しい光が満ちた。
かつて焼け落ちた森の残骸はすべて浄化され、静かに、静かに……風が吹いた。
それは、長く彷徨った霊の魂が、ようやく還るための風。