ふと、気がつくと――
そこは、誰もいないアルカナの店内だった。
灯りはすべて落ちており、薄暗い室内に差し込むのは、曇り空の午後の光だけ。
カーテンがわずかに揺れているのは、きっと窓の隙間から風が吹き込んでいるのだろう。
その中に――咲と、ちひろの二人だけがぽつんと残されていた。
まるで嵐が過ぎ去った後のような、静けさ。
「……なんやこれ、夢みたいやな」
咲がポツリと呟くと、隣に立っているちひろは何も言わない。
肩にかかった長い髪を指で弄びながら、目を伏せている。
咲は少しだけ間を置いて、くすっと笑った。
「ただ、まあ……」
「結構ええとこもあるやんけ、お前」
それはからかいでも、慰めでもない。
素直に、心から出た言葉だった。
けれど、ちひろはやはり、何も言わなかった。
ただその手の動きだけが、少しだけ止まった。
そのとき――
カララン――と、入口の扉のベルが鳴る。
「まだ寝とったんか……」
聞き慣れた、けだるげな声。
椎名唯華が、ゆるく歩きながら中へと入ってきた。
咲はその姿に少し安堵しながらも、ふと問いかける。
「お前こそ、あの刀下げた男……あいつ、どうしたんや?」
唯華は目を細め、ふうっと息を吐く。
「もう行ってもうたわ」
「『暑苦しいから帰れ』って……」
そう言って、肩をすくめるように笑うが、その目はどこか疲れている。
「……昔から、そういう奴やねん」
呆れるような、どこか寂しいような――そんな声。
唯華はそのままカウンターの中に入り、店内をぐるりと見渡す。
整えられたコーヒーカップの列、丁寧に並べられたカトラリーの棚、埃一つないグラインダーの横顔。
しばし黙って見つめた後、ぽつりとこぼす。
「チャイカも……もうこの店には戻らんやろうな」
その言葉は、淡々としていながら――どこか、深く、刺さるようだった。
咲も、ちひろも、何も言わなかった。
ただその場に、しばらくの沈黙が流れた。
アルカナの扉を再び後ろ手に閉めて、外に出ると――
そこには、ものすごい光景が広がっていた。
ひしゃげた看板、割れた植木鉢、柱に走るひび……あちこちに飛び散った木片。
明らかに“普通の営業店の前”とは思えない、散々な様子。
咲は思わず、ちひろと並んで立ち尽くした。
「なんやこれ……」
ぽつりと漏らした言葉には、あきれと戸惑いと、ほんの少しの諦めが混ざっていた。
ちひろは唇を結んだまま、ただ黙ってその光景を見つめていた。
後ろから出てきた椎名は、その二人の視線を追うようにして、少しだけ気まずそうに目線を逸らしながら、苦笑いを浮かべた。
「まあ……ちょっとな」
その言葉の中に、どこか“やらかした”側の自覚がにじんでいる。
そして、ふと――椎名は、アルカナの柱に寄りかかるようにして、ぽつりと呟いた。
「…あのおばさん、いつ自分が霊の正体やって気づいたんやろな」
その疑問は、誰にというわけでもなく、風に溶けていくような声だった。
確かに――と、咲は思う。
最初、あの尼は「チャイカを探している」と叫びながら、燃え盛る森を駆けていた。
まるで、自分が“ただ誰かの記憶”を、何かに憑かれたように再現していた。
チャイカを見つけた時の、あの焦燥と、救い出そうとする必死の手。咲が声をかけた時は、まるで言葉は届いているようで、思考だけが別の時代に縛られているようでもあった。
「……あれ、記憶やったんかな」
咲がぽつりと呟く。
「それとも、ちひろに会ってから…思い出したんやろか。全部」
ちひろは何も言わない。
ただ、その横顔は――少しだけ陰を落としていた。
咲は空を仰ぐように視線を上げ、遠くに見える薄曇りの空を見つめる。
そして、ふと――あの団地の子供の霊のことを思い出す。
子供たちは確かにあの団地で遊んでいた。まさか自分が幽霊だとは気づかず、ただ人間の子供たちと毎日のようにカードゲームにふけっていた。
「…仮にやけど、自分がもう人じゃないって気づいたとしても…」
咲は静かに言葉を紡ぐ。
「それでも、何かを守りたいって気持ちは……たぶん、変わらんのやろな」
記憶を失い、ただ繰り返すだけの存在になっても。
憎しみに染まった悪霊であっても。
――「正しいこと」って何かなんて、誰にも分からん。
「せやから……たとえ悪霊でも、あのおばさんは全部の手を使って、チャイカを助けようとしたんかもしれんな」
ちひろは咲の横顔を見ていた。
その表情には、怒りも、嫌悪も、哀しみもなかった。ただ、まっすぐな感情だけが宿っていた。
咲の言葉に、ちひろはほんの少しだけ――静かに視線を戻していく。
壊れたアルカナの前に立つ三人。
そこに吹く風は、少しだけ冷たかったが――どこか、清らかだ。
椎名は腰のポーチから、銀色の鍵を取り出した。
アルカナの扉に鍵を差し込み、かちゃりと音を立てて施錠する。
その音が、静かな通りにひときわ響いた。
そして、ふと――鍵を抜いた椎名は、何気ない調子で呟く。
「なあ、笹木」
咲は、隣で柱に凭れながら空を見ていたが、椎名の声にゆっくり目線を戻す。
「もしさ……ある日、自分が“自分やない何か”やって気づいたら、どうする?」
唐突な質問に、咲は一瞬「は?」という顔をするが――すぐに苦笑いを浮かべた。
「またそういう変なこと言い出す……」
咲は鼻で笑いながら頭を掻く。
「なんや、寝ぼけてるんか?」
そう言いながら、最初は軽口で済まそうとした。
――けれど。
その時、ふと脳裏に浮かんだのは――
燃え盛る森の中、チャイカを助けようとしていた尼の姿。
そして、
あの団地の一件で聞いた、自分が死んだことにも気づかないまま対戦相手を待っていた子供の霊の話。
どちらも、きっと――“まさか自分が人間ではない”なんて、すぐには信じられなかっただろう。
最初は笑って、冗談だと思っていたかもしれない。
だとしたら、いま自分が笑ってるこの感じも、彼らと同じだったのではないか――
そう思った瞬間、咲は苦笑いをやめ、急に真剣な顔つきになった。
両手をポケットに突っ込んだまま、咲は静かに唸る。
考えるほどに、答えは簡単ではなかった。
でも――それでも。
しばらく黙ったあと、咲はふと笑いかけて、ぽつりと呟いた。
「それでも……自分がやるべきことを、精一杯やりたいと思うわ」
それが、誰のためであっても。
たとえ、今の自分が何者か分からなくなったとしても。
咲は、そうありたいと思った。
「これからも、この先も」
短く、けれど真っ直ぐな言葉だった。
椎名はその言葉を聞いて、ふっと目を細めると、小さく「せやろ」と笑って返した。
それは、まるで自分自身に言い聞かせるような、でも同時に――咲という存在に向けた信頼のようでもあった。
吹き抜ける風が、夕焼けに染まる通りを通り抜ける。
二人の足元に伸びた影が、ゆっくりと夜の色へと変わっていった。