咲-saku- 【完結】   作:えいどら

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第1章 第4話:故に我あり

 びしょ濡れの靴下がくちゃりと鳴るたびに、制服のスカートの裾からも水が滴り落ちる。池の水は驚くほどぬるくて、ぬるい分だけ、冷たさではなく「虚無感」が押し寄せてくる。

 

 「……あいつ、マジで……どんな仕組みやねん……」

 

 呆然としたまま自分の教室に戻ると、ドアを開けた瞬間――

 

 「っぶはっっ!! ……な、なにそれ、笹木!? どこにワープしてきてんっ!?」

 

 唯華の笑い声が炸裂した。

 

 教卓の端に腰をかけていた椎名は、咲の姿を見た瞬間、腹を抱えて転げ落ちそうになっている。咲の後ろ髪から水がぽたぽた垂れているのを見て、他の同級生たちも驚きと笑いが入り混じった声を上げた。

 

 「夜見さんの言ったとおりや!!ほんまに池落ちてきたみたい……!」

 

 「えっ、ガチでワープしたの!?」

 

 「てか、すご……再現できるならうちもやってほしい……」

 

 「やらすかボケェェェェ!!」

 

 咲は震える声で叫びながら、机の上に投げ置かれた体操服のジャージを手に取った。

 

 「唯華ぁ!! 笑ってんと止めろや!!」

 

 「無理やって……笹木、びしょ濡れで帰ってくるの、反則やろ……」

 

 涙を浮かべながら笑う椎名に背を向け、咲はドタバタと更衣室に駆け込む。

 

 数分後――

 

 すっかり乾いたジャージ姿の笹木咲が、教室に戻ってきた。

 

 その目は、先ほどとは打って変わってギラギラと光っていた。

 

 「……なぁぁぁぁ!!夜見れなぁぁ!!どこ行ったぁぁぁぁ!!」

 

 生徒たちは一瞬だけ固まり、そのあとぽつぽつと答える。

 

 「……え? さっきまでいたけど……気づいたらもういなかったよ?」

 

 「えっ、どっか行ったの? うちもわかんない」

 

 「名前、夜見いうんや……はぇ~」

 

 「知らんのかい!!」

 

 咲は机をバンと叩き、教室を飛び出した。

 

 「許っっさん……あいつだけは絶対に許っっさん……」

 

 その姿は、すでに小雨の中を戦地へと向かう戦士のような迫力だった。

 

 廊下を駆ける咲の足音が、校舎中に響き渡る。

 

 職員室、

 

 階段下の倉庫、

 

 図書室、

 

 音楽室、

 

 どこを探しても、夜見れなの姿はなかった。

 

 「おらん……マジでおらん……!!こっちはズブ濡れで帰ってきたってのに……」

 

 荒い息を吐きながら、咲は壁に手をついて肩で呼吸をした。

 

 「ぜったい見つけて、ぶっ殺してやるからなぁぁぁ……!!」

 

 その執念は、夕暮れの校舎にまで響いていた。

 

 どれほどの時間、校内を走り回っていたのか。額に汗を浮かべながら階段を下りていた。人気のない通用階段を辿り、普段は使われることのない地下のフロアへ。薄暗く、埃っぽい空気。時折、換気口から漏れる風の音が、静けさを破るように響く。

 

 「……こんなとこにまで来てるとか、マジでどんだけ自由人なん……」

 

 ぶつぶつ言いながら曲がり角を抜けたそのとき――

 

 視界の先に、人影があった。

 

 地下の一番奥、古びた鉄扉の前。誰も使っていないはずの倉庫の扉。その前に、静かに立っていたのは

 

 ――夜見れなだった。

 

 だが、咲は足を止めた。

 

 夜見は、あのいつもの気味の悪い笑みを浮かべていなかった。代わりに、横顔には険しい影が差していた。眉間には微かに皺が寄り、何かを見つめるように、耳を澄ませている。

 

 「よるみぃぃぃぃぃ………ぃ?」

 

 咲が呼びかけると、夜見はちらりと振り返った。

 

 「笹木先輩……来ちゃったんだ。ふふ……でも、今は笑ってる場合じゃないかも」

 

 その言葉に、咲は一瞬だけ言葉を失った。

 

 「な、なにやねん……今度はなに企んでるん……?」

 

 「この部屋……なんか、おかしい。ずっと静かにしてたのに、今日に限って急に“音”がしたの。……呼吸みたいな、震えみたいな、そんな音」

 

 咲は思わず扉に近づき、指先をあてる。

 

 ――ゾワリ。

 

 肌が粟立つような気配が、指から腕へと這い上がってきた。空気が重い。古いだけじゃない、“何か”が閉じ込められている。

 

 「……っ、これ……!!」

 

 わかる。これは、霊だ。正真正銘の、霊障。

 

 ふいに、夜見が口を開いた。

 

 「どうする? いっしょにやってみる?」

 

 その目はまっすぐだった。普段のからかいも、いたずらっぽさもなかった。

 

 けれど、咲は深呼吸してから首を振った。

 

 「……今回は、うちがやる」

 

 「へぇ……?」

 

 「うちが、勝手にアンタを霊扱いして、勝手にビビって、勝手に怒っとったから。せやから、これくらいやらんと気が済まんねん」

 

 咲は制服のポケットから、小さく折りたたんだ護符を取り出した。

 

 咲専用の簡易除霊符。

 

 「ま、唯華に“無理すんな”ってまた言われるやろけど……」

 

 夜見はそれを見て、わずかに目を細めた。

 

 「……うん。いいと思う。じゃあ、わたしは見てるだけにするね」

 

 咲はコクリと頷き、手をかける。

 

 古びた扉の取っ手に力を込め――

 

 ――ギィ……ッ。

 

 ゆっくりと開いたその先から、冷たい風が流れ込んできた。

 

 空気が、確かに“変わった”。

 

 笹木咲は、

 

 「―しゃあないわ。」

 

 覚悟を決めて足を踏み入れた。

 

 

 

 

 

 

 

 ギィ……

 

 ギィ……

 

 重たい扉の軋む音が遠ざかり、笹木咲はひとり、その中へと足を踏み入れた。

 

 ――そこは、“部屋”ではなかった。

 

 まっすぐ進んだはずの廊下は、いつの間にか斜めに傾き、床が壁に、天井が地面に反転したような錯覚に囚われる。明かりの差さない空間には、空気の流れさえ感じられず、咲の歩く音だけが、鈍く響いていた。

 

 「ぐるぐるしてきたな……」

 

 視界の端で壁がうごめくように揺れ、足元の感触が宙に浮いているかのように不安定になる。左右が、前後が、上下が、すべて曖昧になる。

 

 咲は立ち止まらなかった。

 

 一歩、また一歩と進み続ける。

 

 「……なにがどっち向きでもええ。うちが“進んでる”って、信じられる方向に進むだけや」

 

 そう口にした瞬間、ふいに声が響いた。

 

 「笹木先輩、こういうとき“迷わない”んですね」

 

 背後でも前方でもない、空間そのものから聞こえるような声――夜見れなの声。

 

 咲は振り向かず、ただそのまま前を向いたまま、ぽつりと呟いた。

 

 「……こないだ、アンタ言ってたよな。

 

 “どっちがホンマの自分か”

 

 とか、

 

 “どっちもウソかも”

 

 とか」

 

 暗がりの中を歩きながら、咲は少し笑った。

 

 「うちは、どっちでもええと思う。

 

 “ホンマ”

 

 か

 

 “ウソ”

 

 か

 

 なんて、結局あとから決まることや」

 

 足元は揺らいでいたが、彼女の声には揺らぎがなかった。

 

 「せやけどな――もし、“自分”ってもんを信じるんをやめてしもたら、その瞬間、うちはうちでなくなってまう」

 

 右も左も、前も後ろもわからない。

 

 それでも、咲は前を向く。

 

 「たとえそれが間違ってても、自分が意志を持って、自分であるって思い続けなあかんねん。じゃないと、狂う。消えてまう」

 

 風がないはずの空間で、なぜかスカートの裾がふわりと揺れた。

 

 その瞬間、ふわっと頭の中が晴れたように、視界が広がる。

 

 目の前には、扉があった。

 

 不格好で、ひび割れた木の扉。まるで誰かの内面を象徴するかのように、不安定で、けれど確かに“ここから先”へと続いている扉。

 

 咲は、静かに息を吐いた。

 

 「……うちは、うちや」

 

 そう言って、扉に手を伸ばす。

 

 ギィィィ――……。

 

 咲の手で、扉が静かに開いた。

 

 その向こうは、無機質な一本の通路。

 

 左右に広がることもなく、曲がる気配もない。ただ真っ直ぐに、まるで何かの“芯”へと誘うかのように奥へ続いていた。床は冷たく、天井は低く、光源は見当たらないのに足元だけがぼんやりと照らされている。

 

 咲は、一歩足を踏み入れた。

 

 そのまま何歩か進んだ後、すぐ背後に気配を感じてふと口を開く。

 

 「……夜見、アンタはどうや?」

 

 「……なにが?」

 

 「自分が、自分であるって話や。さっき言ったやろ。“自分を信じることで、自分であろうとする”って。……アンタは、自分のこと、どう思ってんの?」

 

 問いかけた声は静かだったが、空間に染みこむように響いた。

 

 背後から、コツン、コツンと靴音が響く。夜見れなは、咲の数歩後ろで足を止めた。

 

 「……わたしは、どれが“自分”かなんて、考えたことないよ」

 

 「……え?」

 

 夜見の声は、どこまでも淡々としていた。

 

 「この姿が“自分”なのか、笑ってるときのわたしが“自分”なのか、それとも誰かをからかってるときが本当なのか。……そんなの、別に、どれでもいい」

 

 ぴたりと空気が張り詰める。

 

 「ただ――

 

 

 

 人間が壊れる瞬間を見るのは、すっごく面白い」

 

 

 

 

 

 夜見は、微笑んだ。

 

 「自分がその“世界の中にいる”なんて、わたし、考えたこともないの。……わたしは、ただ、観察してるだけだから」

 

 その言葉に、咲は足を止めた。

 

 背中に、じんわりと冷や汗が滲む。

 

 ――ああ、この子は、本当に“あっち側”なんや。

 

 人の死や壊れゆく心に、美しさや価値を見出してしまう。そういう“ズレ”が、この少女には確かにある。

 

 それでも咲は、後ろを振り向かずに、ふっと息を吐いた。

 

 「……そっか。でもさ」

 

 小さく笑った。

 

 「人の命に“興味ある”って思える時点でさ。……アンタの心、ちゃんと生きてるやん」

 

 静かな声だった。

 

 強くもなく、押しつけでもない。ただ、まっすぐな気持ちを乗せた言葉。

 

 その瞬間――

 

 夜見は、ほんの一瞬だけ、言葉を失った。

 

 瞳が、わずかに揺れる。

 

 「……え?」

 

 無邪気な笑みも、淡々とした口調も消えた。その顔に浮かんだのは、初めて見る表情だった。

 

 驚きか、

 

 あるいは、

 

 戸惑いか。

 

 咲は、にっと笑ったまま、再び前を向いた。

 

 「……さ、そろそろ行くで。そんなに見たいなら、“壊れるとこ”見せたるわ。そんなもんより、うちのほうが、しぶといって教えたるからな」

 

 そう言って、一本の通路の先――未知の何かが待つ方へと、再び歩みを進めた。

 

 冷たい空気が、肌を裂くように肌理細かくまとわりついていた。

 

 笹木咲は、まるで霧の中に立たされているような、奥行きのない空間にいた。足元には影がなく、空気の流れさえ止まったかのようだった。ただ、そこに“何か”が確かにいた。

 

 呼吸をするたびに、肺が凍える。

 

 その中心――何かの気配が、ぐるりと咲を包み込んでいた。

 

 「……これが、正体か……」

 

 自分の手が、わずかに震えているのがわかる。

 

 寒さのせいだけではない。霊としての“格”が違った。

 

 力の密度、執念の深さ――

 

 それらが重く、肌を焼くようにじわじわと迫ってくる。

 

 でも。

 

 「……うちは……うちはもう、ビビって終わるんはやめたんや……!」

 

 咲はポケットから取り出した護符を、ぎゅっと握りしめた。

 

 手のひらが痛くなるほど、爪が紙に食い込む。それでも、その痛みが自分を繋ぎ止めてくれた。

 

 「椎名……貸してくれて、ありがとな……」

 

 深く息を吸って、前に出る。

 

 そして、手を伸ばした。

 

 声が、空間に弾けた。

 

 次の瞬間、眩い閃光が護符からほとばしり、空間を切り裂いたような感覚が走る。

 

 呻くような音。

 

 風が逆巻くように渦を巻き――何かが、確かに“断ち切れた”。

 

 視界が、ぐらりと揺れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 目を開けると、そこは階段の前だった。

 

 新大阪第三高校の、一階。

 

 見慣れた白い壁、木の手すり、床のタイル。

 

 笹木咲は、数秒間、呆然と辺りを見回した。

 

 「……え、なんで……」

 

 立っていたのは、確か地下だったはずだ。

 

 でも、よく考えれば――

 

 「うちの学校に、地下1階なんて……ないやん……」

 

 背筋にひやりとした汗が流れた。

 

 どこからが現実で、どこからが霊の影響だったのか。あの通路も、あの空間も、全部が“なかった”ことなのか――

 

 ふと、我に返って辺りを探す。

 

 「夜見……!? おい、夜見!! どこ行ったんや!!」

 

 だが、どこにもその姿はなかった。

 

 昇降口、教室、階段の上――姿どころか気配すらない。

 

 咲は一瞬だけ、“あれが夜見自身だったのではないか”という考えが脳裏をよぎった。

 

 だが、校門を抜けて校庭を横切ろうとしたそのときだった。

 

 「……ん?」

 

 ポケットの中に違和感。

 

 手を突っ込むと、そこには小さな、折りたたまれた紙片。

 

 咲は眉をひそめながら、それを広げた。

 

 そこには、可愛らしい文字で――

 

 《夜見れな》

 

 そして、その下に一言だけ。

 

 「また今度ね」

 

 咲はしばらくその紙を見つめたあと、ため息まじりに笑った。

 

 「……勝手なヤツやな……ほんま……」

 

 けれど、不思議と腹は立たなかった。

 

 空は高く、風がやわらかく吹いていた。

 

 彼女は紙をくしゃりと握り、ポケットにしまうと、ゆっくりと校門をくぐっていった。

 

 

 

 

 

 

 

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午後の「アルカナ」は、相変わらず薄暗い照明に包まれていた。

 

 棚には香り高い豆が静かに並び、窓の外では木々の枝が春の風に揺れている。カウンターの奥で新聞をめくっていたチャイカの前に、スーツ姿の男――加賀美ハヤトが、今日もぴたりと隙のない姿で腰を下ろしていた。

 

 背後にはいつもの秘書はいない。今日の彼は、どこか少しだけ、口数が多かった。

 

 「昔話を一つ、お聞きになりますか?」

 

 チャイカは鼻を鳴らしながら、カップを磨いていた手を止めることなく返した。

 

 「暇つぶしにゃなる。真に受けるかは別だけどな」

 

 「ふふ……では、ただの戯言ということで」

 

 そう前置きして、加賀美はゆったりと話し始めた。

 

 「昔、ある貴族が、知恵のある奴隷たちだけを買い集めて、剣闘士として育て上げたそうです。彼らはただ腕っぷしが強いだけじゃない。状況判断、陣形、撹乱、罠……あらゆる“戦術”を学び、実戦に応用した」

 

 「またカードゲームの設定か?」

 

 チャイカは無表情でコーヒーを注ぎながら、ぼそりと突っ込む。

 

 「……いえいえ、あくまで昔話です」

 

 ハヤトは微笑を浮かべたまま、淡々と続ける。

 

 「そしてその貴族は、知略に長けた剣闘士たちを駒のように使い、次々と闘技場で勝ちを収めていった。やがて彼らは観客から“知恵ある死者たち”と呼ばれ、貴族は莫大な富を得ました――が、同時に、彼らが“どれほど知恵を持とうと奴隷のままだった”ことも、誰も忘れなかったそうです」

 

 「へぇ……それで、そいつらは最後に反乱でも起こしたのか?」

 

 「いいえ。全員、最期の試合で死んだそうです。知恵を持ったまま、主の勝利のために」

 

 ハヤトはまるで、紅茶の銘柄を語るような口調で締めくくった。

 

 チャイカは無言でうなずき、そしてポツリと呟いた。

 

 「……だんだん現代のカードゲーマーみたいに聞こえてきたな」

 

 「そう思っていただければ、本望です」

 

 笑いながらそう返したハヤトは、少しだけ姿勢を正す。

 

 「――さて、本題を少しだけ」

 

 チャイカは、ようやく視線を彼に向けた。

 

 ハヤトは、コーヒーのカップに指をかけながら、視線を伏せたまま語り出す。

 

 「かつて、私がまだカードゲームに夢中だった頃――よく通っていた団地がありました。そこには、似たような趣味を持った仲間たちがいて、放課後や休日になると、自然と顔を合わせてデュエルが始まった。子どもらしい、健全な戦いです」

 

 「団地のデュエル場か……それはまたロマンあるな」

 

 「ええ。でも、時が経って……ある日、誰かが言い出したんです。“またみんなで集まってみよう”って。懐かしさに釣られて、私もその声に応えました」

 

 ハヤトの声が、わずかに低くなる。

 

 「……でも、集まってみたら、明らかに“人が少なかった”んです。誰が来なかったのか、何人いたのか、はっきり思い出せない。けれど、その“足りなさ”だけが妙にリアルで」

 

 静かになった店内に、時計の針の音が響く。

 

 チャイカはコーヒーを注ぎ終え、カウンターに肘をついた。

 

 「……それが“野暮用”の正体ってわけか」

 

 「ええ。あれは……どうにも、気味が悪くて」

 

 ハヤトは立ち上がりながら、ジャケットの前を整える。

 

 「お願いしますよ、チャイカさん」

 

 その一言を残して、彼は店を後にした。

 

 扉のベルが小さく鳴る。

 

 チャイカは、ハヤトの去った方向をしばらく見つめてから、ふっと鼻で笑った。

 

 「……やれやれ。闘技場の戦士が、今度は団地で幽霊と勝負かよ」

 

 そうぼやきながら、静かにカウンターの整理を再開した。

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