なんとなくハーメルンでも放出します。よろしく。
「時よ止まれ、汝は美しい」
ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテの戯曲『ファウスト』の一節。ファウスト博士は悪魔メフィストフェレスと契約して魂を捧げることで、若返ってこの世の享楽を得る。
少し前に読んだ本だったが、祥子はこのお話が好きだった。
今はもう戻らない大切な時間。自分で壊してしまったその時間に戻れたら。身勝手な願いだと分かっている。けれど紛れもなく幸せな時間だったが故に、そう願わずにはいられない。何度も何度も願ってしまう。
だからこそ今この瞬間、祥子は自身に起こった事象を飲み込もうとした際、真っ先にこの言葉が脳内に浮かび上がった。
「ここ、は……」
淀んだ空気。
酒気を帯びた独特の臭い。
ギシギシと音を立てる床は硬く、それによって痛む体を起こしながら髪を整える。薄汚れたシンクと錆び付いた玄関のドア。視界に飛び込んでくる情報から、ここが少し前まで住んでいたあの空間なのだと悟る。
だが同時に、これは夢だと確信した。祥子は今、初音と共に支え合って暮らしている。赤羽のアパートに戻ることはもう無い。だから今こうしてここで目を覚ましたということは、それは夢なのだ。
(……暑いですわ)
のそのそと玄関のドアを開ける。
夏の熱気と共に清涼な風が入ってきて、寝起きの汗ばんだ肌を冷やしていく。少し気分が落ち着いた。
だが同時にキャミソール姿のまま外に出てしまったことに気づき、慌ててドアを閉める。見られてはいないだろうか。
(夏頃の夢。やけにリアルに感じますわね。出来れば目を覚ましたいですけれど、どうすれば)
鏡を見た。
寝起きの自分の顔は酷いものだった。生活水準が下がろうとも自身の姿の美しさだけは保とうと努力したわけで、今の寝起きの姿はその決意とは程遠いものになっている。
顔を洗い、スキンケアをして、安いヘアブラシで髪を梳かす。髪をいつものリボンで結ぶと、ようやくいつもの祥子になる。ブラウスとスカートを身につけ、自身の影のある表情と対峙した。
(暗い顔)
夏頃と言えばAve_Mujicaを結成した頃だろうか。この頃の自分は荒みに荒み切っていた為、このような表情はザラではなかった。いや、今もかつてのように笑えてはいないが、そこは気にしないことにする。
さて顔を洗っても目が覚めない以上、祥子はこの夢の中を探索する必要に迫られていた。まず今は何月何日なのか。スマホの画面を確認すると、そこには『8/20』と映し出された。
(武道館ライブの直後、ですか)
運命の武道館の日。
その時間の直後、それがこの夢の中の舞台設定らしい。
がたんっ。
向こうの部屋から音がした。
なんの音か、など考えるまでもない。立て付けの悪いスライド式扉を引くと、そこには黒いスウェットを着た中年男性が寝返りを打ったところであった。酒缶の空虚な音が室内に響く。
豊川清告。
祥子の父親。
そうだ、自分はこの人を助けるためにこんなところで暮らしているのだ。
悲しいと思った。
哀れだと思った。
でもそれ以上に、自分が父から離れることで父と自分のつながりが消えてしまうことが何よりも怖かった。母を亡くしたばかりで家族という存在を一層大事に思っていた祥子からすれば、父を見捨てる選択肢は絶対にあり得なかった。
あの時の選択は間違っていたとは思わない。
CRYCHICの崩壊は必然だった。
あれは自分なりのケジメであり、通過儀礼だ。その結果多くの人を傷つけ、あの幸せな時間は永遠に失われてしまったけれど、祥子にはとある確信があった。
(きっと、この夢の舞台がCRYCHIC崩壊前だったとしても、わたくしは同じ選択を取るのでしょうね)
そして同時にこうも思う。
(お父様を苦しめていたのもわたくし、でしたわね)
父を見捨てることはあり得ない。
けれど当時の祥子に何かが出来たかと言われると、何も出来なかっただろう。
父については離れることが正解だった。これは間違いであって正解。即ち、袋小路だ。
「うぅ……みず、ほ……」
「ーーーーッ!? ……お父様」
Ave_Mujicaの復活武道館ライブ、その時点で祥子は豊川家を掌握している。
初音の件で豊川定治を脅迫し、豊川本流の血を引く自身を次期当主の座に据えさせた。他の親族も親族会議で全員ねじ伏せた。そこに至るまでに色々根回しはしたのだが、その過程で祥子は父についての真実を知ることとなる。
入婿だった父に豊川の実権が渡ることを憂慮した他親族が、詐欺事件の責任を父1人に背負わせた。これがことの真相。
本来であれば父のミスではなかったあの事件。親族からの裏切りを受けて失脚した心境を思えば、「もう頑張れない」と宣った清告の心は理解できる。
父は本来、人の上に立つ器じゃなかったのかもしれない。あまりにも誠実であまりにも潔白。だから簡単に人を信じるし簡単に裏切られる。祥子は父のそういう部分が大好きだ。けれど、豊川の人間としてその在り方は余りにも脆い。
(…………夢でもいい。わたくしが、お父様を救えた可能性。それを見ることが出来るのだとしたら、夢から覚めたわたくしはきっと少しだけ救われる)
そうだ。
父だけではない。
(わたくしは、本来ならもっと沢山選択肢があった。視野が狭くプライドも高かったわたくし自身がその選択肢を奪っていた。今ならわかる。わかってしまう。
自己満足かもしれない。
無意味かもしれない。
けれど)
「………ごめんなぁ、ごめんよぉ、祥子ぉ」
名前を呟く清告。
この人は紛れもなく祥子を愛している。
祥子も父が好きだ。大好きだ。
なればこそ、
「ふふっ」
祥子は自嘲気味に笑う。
純粋だった頃には戻れない、穢れに穢れ切った自分。運命はいつだって自分を逃してはくれなくて、祥子は運命を決める側に立とうと決めた。
神を自称する傲慢な自分。
そんな自分が傲慢にも神として、大好きな人たちを救えるのなら。
「わたくし如きの魂なんて幾らでも差し上げます。悪魔の契約、上等じゃありませんか」
これから始まるのはとある1人の神様の、一世一代の頑張り物語。
償いをするかのように魂を差し出して頑張る祥子と、1人でなんでも出来てしまって遠いところに行ってしまいそうな祥子を見て脳を焼かれ曇っていく少女たちの物語。
……良い加減、女の脳を焼くのは辞めないか祥子?