午前七時。空はまだ淡い藍色を帯び、遠くの山並みが朝の霞に溶け込んでいる。やがて陽光が差し込み、黄金の光がゆっくりと東京レース場を包み込む。芝生に降りた露が煌めき、風が静かに通り抜けるたび、葉擦れの音が微かに響いた。
レース場に集う人々の気配が、少しずつ濃くなってゆく。出走を控えたウマ娘たちは控室で静かに気を整え、トレーナーたちは最後の調整に余念がない。係員たちは場内を巡り、着々と準備を進めていた。その光景を眺めながら、乙名史悦子は足を止め、深く息を吸い込んだ。
朝露に濡れた芝が、朝日に照らされてエメラルドグリーンに輝いている。柔らかい光を浴びながら、彼女はゆっくりと観客席へと向かった。手にした手帳の端が風に揺れる。肩にかけたショルダーバッグは資料で膨らみ、彼女の胸元では金の蹄鉄のネックレスが朝陽を反射してきらりと光った。今日はトゥインクルシリーズの取材。彼女はゴール板が正面に見えるスマートシートに座してしっかりと手帳を広げる。
「第一レースの注目株はシシドジョー。前走は思い切ってハナを取りに行くも、粘りきれず2着……。」
乙名史は独り言のように呟きながら、手帳のページをめくる。出走するウマ娘たちの情報を、一つ一つ丁寧に確認していく。彼女の取材力とレース知識は、並みのトレーナーを凌駕するほどだった。全てのウマ娘たちの努力や秘めた才能を見出し、その物語を世に伝えることに情熱を注いでいる。
誰もいないスタンドで流れるこの時間は何物にも変え難い。視線の先には、まだ誰も駆けていないコースが広がっている。風がそよぎ、白い柵の向こうに青空が広がる。観客たちが詰めかける前のこの静寂の時間は、乙名史にとって特別なものだった。彼女の脳裏には、これまで見届けてきた数々のレースが浮かぶ。歓声、疾駆する影、ゴール前の熾烈な競り合い——それらが今もこのコースに刻まれているように思えた。
「……よし。」
彼女はそっと立ち上がり、視線をコースに向けたまま一礼する。まるで神聖な儀式のように、それは彼女の習慣となっていた。そして、歩き出す。向かう先は、レース場の片隅にある馬頭観音を祀る小さな祠。
人々の喧騒から離れたその場所は、まるで別世界のように静かだった。風が木々を揺らし、鳥のさえずりが微かに響く。供えられた色とりどりの造花が風に揺れ、線香のほのかな香りが漂っていた。
「全員が無事に走り切れますように——」
乙名史は静かに手を合わせた。レースという過酷な競技に挑むウマ娘たちへの、心からの願いだった。手を合わせた指の間に、朝の冷たい空気がしみ込む。目を閉じ、祈りを終えた彼女は、ゆっくりと目を開く。
ふと振り返ると、そこに見知らぬ少女が立っていた。
金色の髪は朝の光を受けて淡く輝き、風にそよぐたびに柔らかな金糸のように揺れた。肌は白磁のごとく透き通り、薄霧のように儚い気配を纏っている。漆黒の瞳は深い夜の湖を思わせ、静かに乙名史を見つめていた。
「ええと……」
突然現れた少女に思わず困惑の息を漏らす。乙名史は職業柄、ほとんどの競技ウマ娘の名前と顔を覚えているはずだった。しかし、目の前の少女には見覚えがなく、だとすれば競技関係者の親族か会場のスタッフかと思われた。当の少女は何も話さず、ただ微笑んだ。まるで言葉という枠には収まりきらない何かを、微笑の奥に隠しているかのように。
「あの、何か御用でしょうか……?」
「──そうだね」
声が、不思議と近くに感じられた。まるで隣で囁かれたような、けれどもどこからともなく響いてくるような——。
「わたしはあなたたちと共にある。彼女たちとも」
空気が微かに波立つ。少女の言葉は、ただの言葉として受け取るにはあまりにも曖昧で、だが確かに、乙名史の内側に沈殿するように残った。
「でも、すべての願いを叶えられるわけじゃない。運命はすでに決まっている」
運命——その響きに、乙名史の心がざわめいた。
レース場という場所は、運命の交差点だ。疾走するウマ娘たちはその身一つで勝利を掴み取るが、そこに絡みつくのは才能か、努力か、あるいは運命か。例えば、日本ダービーは『最も運のいいウマ娘が勝つ』と囁かれる。乙名史は幾度となく取材の中で“運命”というものを感じざるを得ない瞬間に立ち会ってきた。偶然と必然が交わり、何か目に見えぬ大きな流れの中で、勝者と敗者が生まれる。
その流れの中に、今、目の前の少女がいる。
少女の正体を尋ねようとした、その瞬間——
電子音が静寂を引き裂いた。
乙名史のスマートフォンが震える。画面には上司からの呼び出しメッセージ。現実が否応なしに割り込んでくる。
「すみません、そろそろ……」
ほんの数秒。ほんの一瞬。
だが、その短い時間の中で、少女はかき消えていた。まるで最初からそこには存在しなかったかのように。
残されたのは、白くゆらめく朝霧。その形は、まるで蹄鉄のようだった。地面に淡く浮かび上がるその痕跡が、少女の存在の証だったのか、それとも——。
乙名史は微かに震える息を吐いた。
午前9時30分。
場内アナウンスが微かな残響を伴いながら広がり、待ち侘びた観客たちが、一様に足を速めてレース場へと吸い込まれていく。初夏の陽が鈍く照り、芝生の上に儚い陽炎が揺れていた。パドックへと姿を見せるウマ娘たち。蹄の音、ざわめく人々の声。次第にレースへの熱を高めていくこの時間は、いつも何物にも代えがたい緊張感を纏っている。乙名史は普段から、一般客に紛れてパドックを眺めるのが好きだった。我先にとパドック場の前列を確保しに動く者、建物の二階から双眼鏡越しに見下ろす者……。そしてなにより出場するウマ娘たちの緊張、高鳴り。そのすべてが地肌で感じることのできる瞬間を逃す手などなかった。
乙名史は再び手帳を開く。第一レースの出走者を書き出したページを開いた時、目に入った文言に思考が止まった。
『シシドジョーは伸びきれず8着。優勝はレイボヤージュ。3馬身差』
違和感。
確かに存在する文言。しかし、そんなことを書いた覚えはない。たびたびレースの展開を予想することはあるがそれはあくまで仮定の話であり、まだ始まってもいないレースの結果をこのようにはっきりと書き記すことはあり得ない。
紙の上の文字をじっと見つめる。インクは乾いており、今しがた記したものではないと分かる。何かの見間違いだろうか。だが、まぶたを閉じて再び目を開けても、そこに刻まれた文字は変わらず、まるで確定した事実のように動かぬまま、乙名史を見つめ返してくる。
シシドジョーが8着?
あり得ない。前回のレースでも安定した走りを見せ、事前の人気投票では圧倒的な支持を集めていた。彼女が凡走することなど、想像もつかない。だが、その“あり得ない”と断じたものが、いま目の前の手帳にはっきりと記されている。
右手のペンを握りしめる。試しに、とばかりに文言の上にペン先を落とす。ジッと紙にインクが染みいる感触があり、消えた。驚愕で一瞬息をのむ。喉元で止まった空気を深呼吸して流し込む。何かの間違いだ、と心の中で言い聞かせ、もう一度ペン先を落とし、今度は線を引こうとする。だが、新しい痕跡は瞬間に消え去り、残酷な文言だけがそこに残った。
心臓が妙に騒がしい。指先が冷える。遠くで、ウマ娘たちの蹄が土を踏みしめる音が響いていた。
月刊トゥインクルへのコメントをもらうために地下馬道へと向かう。日に当たることのないこの道は、初夏特有の暑さを防いでくれる。暗がりに足を踏み入れた時、視界を覆う残像の中に先ほどの文言が見えた気がした。アスファルトに響く靴音が、やけに硬質に思えた。照明の白い光が壁に落ち、長い影を伸ばす。先ほどの記述が頭から離れない。
シシドジョーは8着。
ひとつ頭を振り、思考を切り替える。ここは神聖なる地下馬道だ。レースを控えたウマ娘たちが静かにその時を待つ場所。ここはいつもと変わらぬ静寂に包まれている。だが、その静けさは決して安らぎではない。緊張と期待、焦燥と覚悟が交錯し、目に見えぬ圧力となって空間に充満している。
そして、シシドジョーの姿が見えた。
栗毛が光を受けて艶やかに輝く。強い瞳で前を見据え、静かに呼吸を整えていた。全身の筋肉が無駄なく整い、歩くたびにしなやかな動きを見せる。緊張の色は微塵もない。むしろ、レースを待ち侘びているかのような余裕すら漂わせていた。
対照的に、レイボヤージュはまるで別人のようだった。呼吸は荒く、細かくかかとを鳴らしている。視線は定まらず、時折、小さく震える仕草が見えた。張り詰めた神経が、そのまま表に現れているのだろう。
そして感じる。ここにいる全員の本気を。その瞬間に乙名史は身震いした。同時に先ほどまでのもやもやが払拭された気がした。
そうだ。彼女たちは常に本気だ。彼女たちのレースの結末はまだ誰にもわからない。こんなものに惑わされてどうする。
「シシドジョー、今のお気持ちは?」
乙名史は、声を落ち着かせるように努めながら、問いかける。
第一レース、優勝者はレイボヤージュ。2着のウマ娘とは3馬身をつけた圧勝だった。一方で注目のシシドジョーは8着。スタートから後方につけ、直線で追い上げる作戦だったのだが、位置取りが悪すぎた。先行したウマ娘たちが分厚い壁となり、進路をふさがれ、力を出し切れぬまま……。
──まるで、最初からそうなることが決まっていたかのように。
乙名史の脳裏に、あの手帳の文言が蘇る。偶然と呼ぶには、あまりにも出来すぎていた。
ページをめくる。第二レース、第三レース、第四レース──いずれも優勝者と注目株の結果がそこに記されていた。1着、3着、クビ差の2着……。
そして、第六レースの項目に目を落とした瞬間、背中を冷たい指がなぞった。
『第六レース。ブラウンシュガー競争中止。復帰のめど立たず一年後に引退』
空気が変わった。
喉の奥に鉛が沈む。指先の血が引いていくのがわかる。こんなものを書いた覚えはない。冗談にすらならない。だが、その言葉は確かにそこに存在している。紙の繊維に滲み込んだインクが、まるで呪詛のように消えることなく定着している。
──そして、第二レース、第三レース。その結果は、手帳に記された通りになった。
ただの偶然か? いや、そんなはずはない。だが、あり得るはずもない。鼓動が速まる。どうか何事もありませんように。どうか、これは悪い冗談でありますように。
だが、その祈りは、すでに定められた未来を変えるものではないのかもしれなかった。
午後12時50分、第六レース。ブラウンシュガーが出走。
乙名史は、このレースを見たくなかった。だが、見届けずにはいられなかった。この手帳は明らかに何かがおかしい。そしてそれは、今朝の出来事と密接に結びついているはずだ。震える手で双眼鏡を取り出し、ブラウンシュガーの様子を探る。
ゲートが開く。スタート直後、ブラウンシュガーは軽やかに走り出し、スムーズに先行集団へ取り付く。その走りには翳りひとつなく、風を切るたびに陽光が栗毛を輝かせた。観客席からは彼女の名を呼ぶ歓声が次々に湧き上がる。確かに強い。確かに順調だ。このままいけば──。
第四コーナー。その瞬間、空気が変わった。ブラウンシュガーの体が、まるで目に見えぬ手に絡め取られたかのようにぐらついた。均衡を失い、蹄が地を踏み損ねる。次の刹那、砂塵が舞い、観衆の悲鳴がスタンドにこだまする。彼女は激しく転倒した。乙名史は息を呑む。頭の中で何度も否定の声がこだまする。嘘だ。こんなことがあっていいはずがない。コース内に救急車が駆けつけ、スタッフたちが一斉に駆け寄る。静かに交わされる会話。張り詰める空気。──彼女は無事なのか? 数秒か、あるいは永遠にも感じられる沈黙の後、ブラウンシュガーが、ゆっくりと身を起こした。
場内が歓声に包まれる。右脚を庇うように引きずりながら、それでも彼女はスタッフの手を借りることなく、毅然とした足取りで救急車へと向かう。乙名史は、ふっと息を吐いた。
「大事なく……」
安堵が胸を撫でる。しかし、それと同時に、脳裏にこびりついたあの文言が、静かに心を侵食する。
『第六レース。ブラウンシュガー競争中止。復帰のめど立たず一年後に引退』
視界が揺れる。頭の奥がぐらりと揺らぎ、思考がまとまらない。どういうことだ。目の前で起こった現実は、あの記述と寸分違わぬ形で繰り返された。偶然なのか? だが、そんなことが何度も続くはずがない。乙名史は、居ても立ってもいられなくなった。この問題の元凶──今朝出会った、あの少女。確かめなければならない。乙名史は駆け出した。
馬頭観音の祠へと向かう道は、冷えた空気に満ちていた。彼女の靴音だけが静寂を裂き、微かな霧が、まるで誰かの吐息のように足元に絡みつく。祠の前に立つと、線香の煙がゆらりと揺らぎ、その先に、今朝見た少女の姿があった。
「気づいた?」
乙名史が声を発するよりも早く、少女は静かに微笑み、囁くように言った。
その声音は、夢と現の狭間にあるように、遠くもあり、近くもある。乙名史は震える声で問いかけた。
「……あなたは何者? 手帳に何をしたの?」
少女は首をかしげ、祠へと視線を移した。
「それは、運命を記す手帳。すべてのウマ娘の運命を記す」
乙名史は息を呑む。
「すべての……?」
少女はゆっくりと頷いた。
「そう。レースの結果も、ウマ娘の未来も。あなたがこの手帳を通じて見ているのは、変えられない“定め”なの。」
意味が分からない。違う、脳が理解を拒んでいる。考えようとしても思考が霧の彼方へと消えていく。『変えられない定め』とは?誰が定めた?目の前の彼女か?それともこの手帳か?
あまりに非現実な状況と言葉に乙名史はすでに朦朧としていたが、少女は気にするそぶりも見せずに淡々と語る。
「わたしは、ただ“わかる”だけ。手も加えず、何も変えれず、ただ“運命”を見通しているだけ。あなたの手帳は、その力を少しだけ授かった。」
乙名史は背筋に冷たいものが走るのを感じた。もし、それが本当なら──この手帳に記されたことは、必ず現実になるということではないか。
少女は最後にこう告げる。
「でもね、乙名史さん。運命が決まっていることと、何もできないことは違うんだよ」
そう言い残し、少女は朝霧のように消え去った。
乙名史は病院へ向かう道を歩いていた。初夏の夜の空気は蒸し暑く、まとわりつくような湿気が肌を覆っていた。街灯の下では蛾がひらひらと飛び交い、遠くで鳴る救急車のサイレンが静かな夜を裂く。高架下を抜けると、病院の白い建物がぼんやりと浮かび上がった。窓からこぼれる灯りは冷たく、どこか遠い世界のもののように感じられる。彼女は深く息を吸い、背筋を伸ばして自動ドアの前に立った。
白い廊下を歩く。窓から差し込む光は淡く滲み、足元に長く伸びた影がゆらりと揺れる。消毒液の匂いが鼻を刺し、遠くからナースコールの電子音が響くたび、現実が鋭く輪郭を取り戻す。静けさの中に、微かな焦燥が滲んでいた。
乙名史の手の中には、例の手帳があった。『復帰のめど立たず 一年後に引退』。乾いたインクのように冷たいその文字が、胸の奥を締めつける。だが、それは決して確定した未来ではない。彼女はそう自分に言い聞かせながら、病室の前に立ち、軽くノックをした。
「どうぞ!」
戸を開けると、ベッドの上でブラウンシュガーが微笑んでいた。右脚には白い包帯が巻かれ、ギプスがその下からのぞいている。だが、彼女の顔には翳りがなかった。むしろ、晴れ渡った空のような明るさがあった。
「お見舞い、ありがとうございます!」
乙名史はベッド脇の椅子に腰掛け、息を整えた。
「調子はどうですか?」
ブラウンシュガーは照れくさそうに笑う。
「良いとは言えませんね……。でも、まだまだこれからですよ!レースには戻りますから」
その笑顔は、まぶしいほどだった。乙名史は一瞬、言葉を失った。こんなにも強い意志を持っているのに、手帳にはあの文言が刻まれている。それが、どれほど残酷なことか。
「……怪我の具合は?」
「全治三か月……。完治したとしても普段通り走れるかどうかはわからないって。でも、諦めたくないんです。トレーナーも、絶対に戻れるって言ってくれました。だから、やるしかないんですよ」
隣で控えていたトレーナーが静かに頷く。
「あぁ。どんなに厳しい道のりでも、俺たちは挑戦する。それだけだ」
乙名史の胸に、熱いものが込み上げた。彼女は、どこかで怖がっていたのかもしれない。運命を知ってしまったからこそ、それに抗うことができるのかと。だが、目の前のブラウンシュガーも、トレーナーも、最初から抗うことを選んでいた。ならば記された文字がどうであれ、それに縛られる必要などないのではないか。
乙名史は小さく笑った。
「……復帰を諦める必要なんて、どこにもないですよね」
ブラウンシュガーの目が輝いた。
「そうですよ!」
病院を出る頃には、夜風が心地よく肌を撫でていた。遠くで夏の虫が鳴いている。蒸し暑かった空気はわずかに冷え、夜の静けさが深まる。乙名史はふと手帳を開いた。『復帰のめど立たず』──そこに記された文字は変わらない。だが、彼女の心はもう揺らがなかった。
未来など、誰にもわからない。ならば、決まっていると言われたものを蹴飛ばしてしまえばいい。
乙名史悦子は忘れない。どんな困難が待っていようとも、彼女たちは、再び歩き出したのだから。