乙名史悦子は忘れない   作:名主権兵衛

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乙名史悦子……月刊トゥインクルの記者。
エアシャカール……クラシック級ウマ娘。
高橋……メイショウドトウのトレーナー。
メイショウドトウ……覇王世代の一角。宝塚記念二着。
五十嵐……ベレー帽の記者。“運命”は変えたくないらしい。
片桐静子……占い師。運命が視得るという。
諏訪……静子の右腕的存在。いちいち大げさ。


オール・アイズ・オン・ユー【急】

 タン──。

 乾いた音とともに、小瓶が机の上に置かれた。乙名史は口を真一文字に結び、眉を寄せて静かに目を閉じる。まるで判決を待つ被告のように、一切の動きを止めた。

 数秒、数十秒。部屋の中では、小さな腕時計の針の音だけが、狂いなく時を刻んでいた。やがて、乙名史はゆっくりと瞼を開ける。

「──私の勝ちですね」

 言葉を発したのは乙名史だった。体調の異変はない。喉の奥にわずかに残る嫌な後味──それは、ただの水が持つ微かな鉄の匂いのようなものだった。

「……なるほど」

 静子はふう、と長く息を吐いた。その視線を天井へ向け、肩の力を抜く。まるで何かから解放されたかのように。

「なぜ、その瓶が毒入りではないとわかったのです?」

 静子の問いかけに、乙名史は椅子に背を預け、口を開いた。

「まず、あなたは凄腕の占い師だ。事業で成功し、信者も多い」

「ここはあなたの本拠地でもある。ここで人死にが出れば──どんな理由であれ、あなたの築いたものはすべて潰えるでしょう」

 乙名史の言葉は、静子を批判するものではなかった。それは、彼女が愚かではなく、冷静な計算で動く人間であるという前提への信頼でもあった。

「それに──あなたが私へ送った手紙にはこう記されていた。『貴方の持つ“力”を有効に活用したいというのであれば、ご相談ください』と。もし本当に“運命”を見通せるのなら、ここで私を殺すはずがない。自ら求めた“力”を、無駄にするわけがないでしょう」

 乙名史は静かに吐き出し、机の上の空の小瓶を指で軽く回した。

「……もちろん、これは賭けでした。もしあなたが、ただ“力”を欲するために平然と他人を殺める人間なら──私は、もうここにはいません」

 乙名史の視線が、静子を射抜く。

 静子はふっと小さく笑みを浮かべると、頭を覆っていた紫の布を指先で摘み、静かに外した。艶やかな黒髪が肩へ流れ落ち、その瞳にはどこか安堵したような光が宿っている。

「……完敗、ですね」

 柔らかな声でそう告げ、静子は立ち上がった。その動きはゆったりと、敗北を認めながらも気品を保つようだった。

 しかし、諏訪はなおも食い下がるように、静子の前へ一歩出て手を差し出す。

「ですが、“水”はどうなんです? 大広間で皆さんもご覧になったでしょう!」

 諏訪の声には焦りが滲んでいた。大広間での『お代講』──あのとき静子が見せた、水がこぼれない不可思議な現象。それを盾に、彼は最後の支えを求めたのだ。

「あンなの、ただの手品だろうが」

 諏訪に答えを叩きつけたのは、エアシャカールだった。立ち上がり、顎をしゃくりながら冷ややかに言い放つ。

「ペットボトルの飲み口に、透明な薄い網目シートを貼る。普通に傾ければ水はこぼれるが、口を完全に覆って逆さまにすりゃ、表面張力で水は落ちねェ。単純な理科の実験だ」

 シャカールはそこまで言うと、ズイと前に出た。その鋭い眼光が、諏訪を正面から射抜く。

「ここまで騒ぎをデカくしたんだ。当事者には、ケジメを取ってもらわねェとな」

 重く低い声。その一歩一歩に、部屋の空気が再び緊張を帯びるのがわかった。

「乙名史さん」

 静子が口を開いた。その声音は、勝負を終えたはずの今になって、なお人を引き寄せるような柔らかさを帯びていた。

「最後に、もう一度……私を信じてくれませんか?」

「ふッざけんな! これ以上テメェらに──」

 激昂したエアシャカールが声を荒げる。だが、乙名史が片手を上げてその言葉を制した。

「ここへ来た目的は二つあります。一つは──メイショウドトウさんの救出」

 乙名史は静子の目を逸らさず、まっすぐに見返す。その視線の奥には、もう一つの目的を告げる強い意志が宿っていた。

「そしてもう一つは……『大穴』。あなたが、“運命”を視るときに使うという──その場所です」

 その名が出た瞬間、静子はわずかに目を細めた。だが、すぐに小さく頷き、ゆっくりと歩みだす。

「……ありがとうございます」

 静子は静かに礼を言うと、そのまま部屋を出た。その背を追って、諏訪が三歩下がって付き従う。肩を落とし、しょぼくれてはいるが、最後まで静子に付き従う覚悟のようだ。

「エアシャカールさんは、高橋さんの拘束を解いてください。そして――メイショウドトウさんを頼みます」

 乙名史は振り向かずに指示を飛ばすと、静子たちの背中を追った。

「……気をつけろよ」

 背後からシャカールの低い声が響く。その一言を背に受け、乙名史は改めて息を整え、足を進めた。

 

 静子、諏訪、乙名史の三人は、ただ黙々と廊下を進んでいた。

 やがて廊下の二度目の角を曲がると、静子はぴたりと足を止めた。行く手には一枚の扉──これまでと打って変わって、そこにあったのは艶のある木目の重厚な造り。和風の襖で統一されていた廊下の中で、それは異質にして浮いた存在だった。それゆえに、逆にこの扉の持つ意味がひときわ強く感じられた。選ばれた者だけが辿り着く場所、あるいは閉ざされた秘密を守るための結界のようにも思えた。

 静子は無言で懐に手を入れ、小さな鍵を取り出す。それを錠前に差し込み、ひねる。金属が擦れる小さな音──チャッ、という開錠音が、ひどく大きく聞こえた。

 ゆっくりと扉が開かれる。そこから先は、すぐに下りの階段。手すりのない急傾斜、踏み込めば吸い込まれそうなほどの暗がりが口を開けていた。冷たい空気が足元から立ちのぼり、どこか地下独特の湿気を帯びている。

 諏訪が手慣れた様子でポケットから小型の懐中電灯を取り出すと、それを逆手に握り、先頭に立って足元を照らす。細い光が段差をひとつひとつなぞっていくたび、壁の影が揺れ、揺らいだ。

 乙名史は黙ってその背を追う。足を踏み入れた瞬間、夏場に相応しくないひんやりとした空気が三人を包み込んだ。

「この地下道は、私の祖父の祖父の祖父にあたる人物によって造られました」

 静子の声が、湿った土の壁にこだまし、わずかな残響となって乙名史の耳に届く。

「そして──私の祖父の祖父が『大穴』を発見しました」

 先ほどまで敷かれていた板張りの床は、いつの間にかむき出しの土に変わっていた。地面はところどころ隆起し、踏みしめるたびに靴底に重たい湿気が絡みつく。ライトの光が照らす先に、うねるように続く一本道が闇の奥へと伸びている。

「私の祖父が、初めて『大穴』で“運命”を目撃しました」

 道は右へと緩やかにカーブし、その先で視界が開ける。そこに()()はあった。

 『大穴』──そう呼ばれるそれは、樹だった。

 太くねじれた幹は、天井へ伸びることを拒まれたように途中で無残に断ち切られ、まるで大地に突き立てられた杭のように存在している。中心は人工的にくり抜かれ、その中には、同じ木材で彫られた人型の彫像が鎮座していた。

 しかし何より目を引いたのは、その異様な枝葉だった。

 陽光の届かぬ地下空間にあるにもかかわらず、幹から伸びる枝々は豊かに葉を茂らせ、しかもそれらは枯れることなく青々とした輝きを放っていた。まるで大気の中に“生きた意志”を孕んでいるかのように、微かに震えながら、音もなくその存在を主張している。

「この異形……お分かりになりますでしょう?」

 静子は足音も立てずに『大穴』へと歩み寄る。枝の一本にそっと手を伸ばし、優しく葉を撫でた。感触を確かめるように、あるいは懐かしいものを慈しむように。

「以前は、このような枝葉はなかったのです……」

 そう言ったとき、静子の顔はわずかに陰り、困ったように視線を落とした。

「私の祖父、そして私自身、この『大穴』のそばで寝泊まりすることで──“運命”を視ることができたのです」

 静子の声は、どこか遠くを見つめるように沈み、地下空間にひっそりと反響した。語り口には、敬虔な祈りのような、そして同時に哀愁を帯びた響きがあった。

「“運命”とは本来、揺るがぬものでした。変わらぬがゆえに、価値がありました。だからこそ私たちは視ることができたのです」

 乙名史は静かに耳を傾けていたが、次の静子の言葉に、微かなざわめきを覚えた。

「……ですが、数か月前からです。視えた“運命”に、僅かな揺らぎが混じり始めました。まるで、静かな湖面に石が投げ込まれたかのように……」

 静子は振り返り、青々とした枝葉が無数に伸びる『大穴』を見上げた。

「そしてある時から、この樹に枝葉が()り始めたのです。その数だけ、“運命”は分岐しはじめました。未来が枝分かれしている……そんなはずではなかったのに」

 その姿には、かつて信じていたものが崩れていく戸惑いと、受け入れがたい現実への諦念が滲んでいた。

 ──だが、それでも乙名史には納得できなかった。

 未来が定められているという発想自体が、彼女にはどうしても受け入れがたい。誰もが、選んで、生きて、変えていくものではないか。たとえ過酷なものであっても。

「……私からすれば、そっちの方が自然です。生まれたときから決まっている“運命”なんて、馬鹿らしい」

 そう断じる乙名史の目に、迷いはなかった。だが次の瞬間、静子が鋭く顔を向ける。平静を保とうとするあまり、彼女の表情はこわばり、声は抑制された緊張に包まれていた。

「──では、問います」

 その声は、今や儀式のように厳かで、空気を切り裂くようだった。

「あなたは、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()?」

 その問いかけに、乙名史は思わず眉をひそめた。

 ──馬鹿な。そんなもの、記者である自分にとっては常識だ。あの日、あの興奮、忘れるはずがない。

「それは……アグ……」

 口にしようとした瞬間。

 思考が白く弾け、世界がぐにゃりとねじれた。

 立っていた足元が崩れ、脳の奥に鋭い針が突き刺さるような、そんな感覚。視界が眩く明滅し、乙名史はその場に立っているのかさえ分からなくなった。

「──ダービーウマ娘です」

 それは、あまりに自然に、あまりに無意味に乙名史の口から滑り出た。

 言葉そのものに違和感はなかった。だが、それが答えになっていないことは、本人が誰よりも痛感していた。

「そう──ダービーウマ娘」

 静子の声は、淡々と、だがどこか裁きを下す者のような重みを伴っていた。

「では、その名は?」

 その問いに、乙名史の心臓が跳ねた。彼女は答えられるはずだった。あの日のゴール前の息詰まる攻防、シャッター音、沸き立つ歓声──あれを記事にしたのは自分だったのだから。

「……ダービー……ウマ娘、です」

 言葉が詰まる。確信が霧の中に溶けていく。名前が、出てこない。脳裏に広がるはずの記憶が、まるで初めから存在しなかったかのように抜け落ちていた。

 この感覚は、以前に経験したことがある。

 キンイロリョテイに起きた異常。存在していたはずの誰かが、記録からも記憶からもすっぽりと消えてしまった、あのときの感覚だ。

 世界が、何かを思い出すことを拒絶している。

「……それは、口にできないのです。断定することができない。なぜならば──その“運命”は、未だ確定していないからです」

 静子の声が、地下に静かに響く。樹の枝葉が、ざわ、と音もなく揺れた気がした。

 乙名史はそのとき、ようやく理解する。静子が語った危機の本質を。

 “運命”とは未来に限られたものではない。過去の出来事、記録されたはずの事実、交わされた言葉、刻まれた記憶──そのすべてが、“運命”の網に織り込まれているのだ。

「もしこの状態が続けば、いずれ世界は──“無運命”状態に陥ります」

 静子は枝葉の一本を撫でながら言った。まるでそれが、生き物であるかのように。

「“運命”がなければ、何をしても意味がない。何も起こらず、何も残らない。過去も未来も存在しない。ただ、空白だけが──広がっていく」

 乙名史は、自分の胸中にわだかまるものをはっきりと自覚していた。

 ──この騒動は、自分が“運命”を敵視したことから始まった。

 それが本当に悪だったのかは、まだわからない。だが、静子の語る《大穴》の異変、世界の“揺らぎ”が事実ならば、自分の言葉や行動がその歯車を動かしてしまったのかもしれない。

 そんな考えが心に影を落とし始めていた。

 ──だが、悔やんでいる暇はない。

 たとえ過去の“運命”がほどけてしまったとしても、それは終わりではない。ならば、もう一度編みなおせばいい。より良い未来のために。新たな“運命”の糸を、自分自身の手で──

「全員動くなッ!」

 その思考の流れを、突然の怒声が断ち切った。

 乾いた響き。空気が震え、場の空気が一変する。

 乙名史が驚きと共に振り返ると、視界に飛び込んできたのは、見慣れたベレー帽。そして、諏訪の首筋に突きつけられた一本のナイフ。

 それを握るのは──五十嵐だった。

 普段は飄々とした風貌の彼が、今は目を鋭く見開き、諏訪の腕を背中にねじ上げている。

「落ち着きなさい、五十嵐さん」

 静子の声は低く、しかし決して怒気を含まず、あくまで冷静だった。まるで深海の底から響いてくるような静謐な声音だ。

「俺がここに来る“運命”は視えたかよ?」

 それを皮肉で返す五十嵐。その声音は張り詰め、声帯の震えが怒りを露わにしていた。

「落ち着きなさい」

 再び静子が告げる。諏訪の首に添えられた刃が、灯りにきらりと鈍く光る。

「ここが……『大穴』かよ? 思ったよりショボいじゃねぇか。薄暗ぇしよ……」

 荒い吐息と共に吐き捨てる。周囲の空気が、じりじりと焼けつくように重くなる。

「諏訪を離しなさい」

 静子の声に、ほんのわずかな焦りが混じった。

「うるせぇっ! 助けてほしけりゃ──来週上がる株の銘柄、全部教えろ!」

 何とも貧相な要求だった。乙名史は呆れたように目を伏せ、そして静かに言葉を紡ぐ。

「五十嵐さん……今はそんな話をしている場合じゃありません」

 その声には、落胆よりも心からの忠告が込められていた。だが五十嵐には、もう理性を取り戻す余裕など残っていないようだった。

「なんだとぉ? お前だって──」

 そう叫びかけたその瞬間、諏訪が鋭く身体をねじった。わずかな隙を突いた巧みな身じろぎ。ひゅ、とナイフの刃が空を切り、五十嵐の腕から諏訪の身体が離れる。

「ちっ──!」

 諏訪は土を蹴って静子の後ろへと後退。だが、五十嵐はそれで退くどころか、逆に殺気を濃くした。

「こうなっちまえば面倒だ……。全員ここで終わらせてやる……」

 握られたナイフが、薄暗がりの中で白く光る。五十嵐の目は狂気に染まり、今まさに、理性の最後の灯が吹き消されようとしていた。

「おい、五十嵐」

 低く鋭い声が、突如として五十嵐の背後から響いた。はっとして振り返ったその瞬間、彼の身体は宙に浮き、次の瞬間には地面へと叩きつけられていた。

 荒く土を舞い上げる音。身動きを取れぬまま、五十嵐の体が強く地面へと押さえつけられている。その上に馬乗りになっているのは──高橋トレーナーだった。

「さっきの礼だ……! このやろう……!」

 かすれた声とともに、高橋は自らの体を縛っていた縄を使って五十嵐の手足を容赦なく拘束していく。

 遅れて到着したエアシャカールとメイショウドトウも、その光景をしかと見届けた。騒動の張本人が完全に制圧されると、乙名史は一歩前に出て、今しがた知った“運命”崩壊の事実を共有しようとした。

「皆さん、聞いてください──」

「あーーーっ!! わーーーっ!!」

 その言葉を遮るように、地面に伏した五十嵐が子どものように声を張り上げる。わざとらしいほどの絶叫に、場の空気が一気に白けていく。

「うっせェな……」

 シャカールが忌々しげに呟きながら歩み寄る。そして、懐から取り出したのは、あの最後に残っていた液体入りの小瓶だった。

「おい、おっさん。これが何かわかるかァ?」

 五十嵐の目の前でしゃがみ込み、人差し指と親指で小瓶をつまみ、ゆらゆらと揺らして見せる。中の液体が、光を受けて透明に煌めいた。

「ジハイドロゲンモノオキサイド──つまりは猛毒だ」

 そう告げると、シャカールの口元にはいたずらっ子のような笑みが浮かぶ。

「一滴でも金属に触れれば腐食が始まり、人が摂取すりゃ中毒症状を引き起こし死に至る。怖ェだろ?」

 五十嵐の顔色が見る見るうちに青ざめていく。冗談とは思えなかったのだろう。その表情は、緊張と恐怖に引き攣っていた。

 乙名史は横で堪えきれずに唇を噛みしめる。ジハイドロゲンモノオキサイド──確かにその化学的名称を聞けば物騒に聞こえる。だが、正体はただの水だ。『ジハイドロゲン』は『二つの水素』を意味し、『モノオキシサイド』は『一つの酸素』を意味する。

「お前にくれてやってもいいが……」

 瓶の蓋をカチリと外しながら、シャカールは挑発的に言う。五十嵐は目を見開き、口を真一文字に結び、ぶんぶんと首を横に振る。

「……いい子にしてろ」

 軽く肩をすくめて、シャカールは瓶を持ったまま悪戯っぽく笑い、乙名史たちの元へと戻ってきた。

 その光景を目にしたとき、乙名史の中でひとつの可能性が閃いた。

 “運命”そのものを塗り替えるのではなく──“本質”を保ったまま、“性質”だけを変えることができれば。それは、まるで別の糸を継ぐように、ほどけかけた編み目を繋ぎ直すことができるのではないか。もしかすると、“運命”を取り戻す糸口になるかもしれない。

「静子さん、この『大穴』で“運命”を視るには……眠る必要があるんですね?」

 乙名史の問いに、静子はゆっくりと頷く。その目には、確かな覚悟を読み取ったような静かな光があった。

「ええ。ただし、“選ばれし者”のみが、それを視ることが許されるのです」

 彼女の声は低く、響くように地下の空間に染み渡った。静子と乙名史が対峙するその様子を、誰もが息をひそめて見守っていた。

「……私に、その機会をいただけますか?」

 乙名史は言った。まっすぐに、迷いなく。

「“運命”の乱れを私が──解決できるかもしれません」

 その声音には、揺るぎない意志があった。静子は目を細め、やがてふわりと、これまでにない柔らかな笑みを浮かべる。

「その言葉を……ずっと、待っておりました」

「私の視た“運命”のなかでも、最も希望に満ちた光景です」

 その一言が、乙名史の胸に静かに沁みていく。彼女はゆっくりと身体を反転させ、『大穴』の中心──あの不可思議な樹のなかに鎮座する彫像へと視線を向けた。

 彫像は、まるで乙名史の内奥に語りかけるように、荘厳な沈黙を守っていた。その姿に見覚えがある。

 ──府中レース場、正門脇に静かに佇むあの像。

 そこにあったのは、まぎれもなく、“馬頭観音”だった。

 

 地下道から五十嵐を連れて地上へ戻ると、すでに夜の帳はすっかり下りていた。虫の声だけが静かに林を満たし、冷えた空気が肌を撫でる。館の前に立つ一行は、しばしの間、その静寂の中に佇んでいた。

「五十嵐はこちらで()()()対応いたします」

 諏訪が一歩前に出てそう申し出る。丁寧で穏やかな口調だったが、その声音はどこか感情を遮断したように冷ややかで、何を考えているのか測りかねた。

「……オレたちは犯罪者を捕まえに来たワケじゃねェからな。……好きにしろ」

 シャカールは視線もくれず、冷淡に吐き捨てた。その言葉が五十嵐の肩をさらに落とし、顔から血の気が引いていくのが見て取れた。

 一方で、少し離れた場所に立つドトウと静子が、声をひそめて言葉を交わしていた。ドトウの目には、涙が浮かんでいた。必死に何かを訴えかけているのだろう。だが静子は、その一つひとつを穏やかな言葉と眼差しで受け止め、やがてその手に何か小さな包みを握らせた。まるで旅立ちを見送る者のように。

 そのやり取りを訝しんだ乙名史は、ゆっくりと近づいていく。

「……乙名史さんも、よろしくお願いしますね。この子は……あまりにも優しすぎるのです。だから、どうか。彼女が悪意に触れるときは、手を引いてあげてください」

 静子は深く頭を下げた。姿勢は静謐で、まるで神前に祈る巫女のようでもあった。シャカールはその様子を横目で見ながら、何か言いかけて──結局、言葉にはせず、ただ一歩後で黙って見守った。

 

「では、また後日」

 木霊するような静子の言葉が、林に溶け込んで消えていく。来たときと同じバンのスライドドアが音を立てて閉まり、彼女の姿もその向こうに隠された。運転手が静かにエンジンをふかし、車はゆっくりと闇の道へと進み出す。

 進み始めた少し後、ドトウが口を開く。

「あ、あの……本日は、私のせいで……多大なご迷惑を……」

 おずおずと、それでも一生懸命に言葉をつむぐ。声は震えていたが、そこには確かな決意が滲んでいた。

「気にすンな」

 シャカールの低い声が、それを遮るように響いた。短い一言──だが、そこに込められたのは、ぶっきらぼうな優しさだった。

「わ、私……シャカールさんに、元気になってもらいたくて……!」

 ドトウの声が少し上ずる。想いがあふれて、胸の奥からこぼれ落ちたようだった。

 その言葉を受けて、シャカールはスモークのかかった車の窓越しに、闇に沈む林の外を見やった。街灯のないその世界は、静かで、どこか懐かしい。

 ぽつりと呟く。

「……お人よし」

 その声音には、わずかな照れと、揺れ動く心の陰影が滲んでいた。

 

 暫く走ると、車内は自然と静かになった。シャカールは腕を組んだままシートに身を沈め、険しい顔で眠りに入っている。ドトウは膝を抱えて座り、ウトウトと船をこいでいる。高橋もようやく落ち着いたのか、窓にもたれて浅い呼吸を繰り返していた。

 ただ一人、乙名史悦子だけが、目を閉じることなく、膝の上に広げた手帳と向き合っていた。闇を照らす車内灯の薄明かりに、ペンが静かに走る。

 ──“運命”の修復。『大穴』で眠る。

 ページの端にそう書き記し、乙名史は思考を巡らせる。向かうべきは、あの場所だ。自らの“運命”が始まった、あの地へ。

 

 府中レース場。馬頭観音。

 

 きっと、そこにある。ほどけてしまった“運命”の糸を、もう一度編み直すための糸口が。




つづく
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