乙名史悦子は忘れない   作:名主権兵衛

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登場人物
乙名史悦子……月刊トゥインクルの記者。“運命”にまつわる不思議な手帳を持つ。




 朝の陽光に包まれた東京レース場。開催日でもない静かなこの朝、人気は少ないが、ゲートは静かに開かれ、誰にでも訪れることを許していた。湿り気を帯びた空気に、芝の匂いがほのかに混じる。

 乙名史悦子は、東門をくぐった。脇に広がる博物館の重厚な外壁をちらと一瞥し、迷いなく真っ直ぐに足を進める。目指すは、馬頭観音像──あの場所だけが、彼女を受け入れてくれる気がした。

 なにか確かな根拠があるわけではなかった。導かれるような兆しも、約束された結果もない。ただ、今こそがその時だと、乙名史の直感が告げていた。だからこそ、迷いはなかった。

 かつてと同じように、観音像を祀る祠の前へと歩み寄る。風が頬をかすめ、木々のざわめきが遠くで応えるように揺れていた。乙名史はそっと目を閉じ、両手を合わせる。

「──すべてのウマ娘が、無事でありますように」

 祈りの言葉は、静寂に溶けていく。目を開け、前を見た──だが、そこに“彼女”の姿はなかった。像は確かにある。だが、それはただの、彼女の姿を模した彫像。生命の気配は、どこにもなかった。

 何かが足りない──乙名史は胸の内でそうつぶやきながら、肩にかけたカバンへと手を伸ばした。

 そのとき、不意に指が手帳に触れ、弾かれるようにしてそれが地面に落ちた。乾いた音が、祠の前に小さく響く。乙名史はすぐにしゃがみこみ、手帳を拾おうとする。ページが開かれ、裏返ったそれが地面に貼りつくように伏していた。

 慎重にそれを拾い上げ、ふと目を落とす。偶然開かれたそのページに、彼女の視線が吸い寄せられた。

 ──『タナグラのダーモグとジラード』

 その言葉を目にした瞬間、乙名史の中で、いくつかの歯車が音を立てて噛み合った。

 彼女は立ち上がる。次に向かうべき場所は、もう決まっていた。

 あの少女に、もう一度、話を聞かなければならない──。

 

 ネオユニヴァースとの邂逅は、「現実世界」ではこれが初めてとなる。

 乙名史には、彼女とすでに言葉を交わした記憶がある──それは夢とも幻ともつかぬ、まるで精神世界のような不可思議な場所での出会いだった。しかし、そんな記憶を相手が共有しているとは到底思えなかった。あれは偶然の、あるいは一方通行の接続だったのだろう。

 だからこそ、現実の場では慎重にならざるを得ない。奇妙な人間だと思われれば、彼女の警戒を招き、肝心な会話に至る前に扉を閉ざされかねない。取材者としての顔を保ち、あくまでも自然に近づく必要があった。

 乙名史はまず、『新入生密着取材』と銘打った企画書を用意し、正式にトレセン学園への取材許可を申請した。

 トレセン学園では、入学から一年間は学業と基礎訓練に集中し、二年目の後半頃からトレーナーが付き、本格的な競技生活が始まるのが通例だ。その過程の中でも、「新入生」の動向は、多くの関係者が密かに注目する要素である。

 乙名史は、まさにその「可能性の種」を見つける眼を持っていた。彼女の連載する『新入生密着取材』シリーズは、単なる学園内の紹介記事にとどまらず、未来のスターをいち早く見抜く慧眼として業界関係者の間で高く評価されている。記事の掲載号は毎回完売し、トレーナー志望の若者たちの教材としてすら扱われるほどだった。

 だからこそ、今回の取材も不自然ではなかった。むしろ、ネオユニヴァースのような異彩を放つ新入生を取り上げないほうが不自然とすら言えた。

 ──この名目なら、接触は自然に行える。乙名史はそう確信していた。

 

 放課後のトレセン学園。空はすでに茜に染まり、校舎の窓ガラスには淡い橙色の光が差し込んでいた。

 新入生たちは、屋内練習場に集まっていた。学園ではこの時間帯、クラスの枠を越えて合同の基礎トレーニングが行われる。乙名史はその場に直接足を運ぶことなく、あらかじめ取材対象をリストアップし、順に呼び出すという段取りを整えていた。

 今日、彼女が待っているのは四人目──ネオユニヴァース。

 まずは、合同トレーニングの指導を担当している教官へと連絡を入れる。返事は手短なものだったが、仕事の正確さには定評がある人物だ。間違いなく仕事をこなしてくれるだろう。

 少しすると、カツ、カツ、と規則正しい足音が廊下に響いた。やがてその音は止まり、ドアがノックされることもなく開かれた。ネオユニヴァースだ。

 制服の襟元はきちんと整えられ、髪は一筋も乱れていない。冷えた水面のように静かな目をして、彼女は無言のまま教室へと足を踏み入れた。淡い夕光が背後から差し込み、彼女のシルエットを金の縁取りで包む。

「お疲れ様です、ネオユニヴァースさん」

 乙名史は、机の前に座ったまま、静かに声をかけた。だが、その言葉の端にはわずかに震えがあった。

 ──あのときの光景が、どうしても頭から離れない。

 言葉では表せないあの邂逅。夢か現かもわからない、不確かな世界で交わした彼女との対話。それがただの幻だったとしても、乙名史の中では確かに“体験”として刻まれていた。

 けれどネオユニヴァースの表情には、乙名史を知っているという素振りは一切なかった。ただ、静かに、端然と立っている。それだけだった。

「“ANOI”。ネオユニヴァースは、『取材を受ける』をするよ」

 その言葉が、乙名史の挨拶への返答であったのか、それともただの独白だったのか、判断はつかなかった。だがその声は、まるで寸分違わぬ間合いを読んでいたかのように、ぴたりと静寂を断ち切った。ネオユニヴァースはすっと前へ歩み出ると、乙名史の正面に用意された椅子に、何の躊躇もなく腰を下ろした。

 乙名史の喉が、ごくりと小さく鳴った。体温が指先から抜けていくような、独特の緊張が身体を包んでいた。

「……ネオユニヴァースさん、単刀直入に……」

 声が震える。こんなに緊張したのは、いつぶりだろうか。だが、もう逃げられない。この一言に、すべてを賭ける。

 彼女はそっと息を吸い、まるで硝子細工を扱うような細心の注意で言葉を選び、そっと滑らせた。

「『タナグラのダーモグとジラード』──」

 それを告げたその瞬間、空気がわずかに変わった。教室の空調の音さえ遠のくような、張り詰めた静寂。

 ネオユニヴァースのまなざしが、瞬時に変わった。

 ぱちり、とまばたきを一度。ついで、両の瞳が大きく開かれる。その虹彩が、灯りを映してわずかに揺れた。

 彼女は何も言わぬまま、ゆっくりと天井へと視線を移していった。まるで、遥か彼方の記憶をたぐり寄せるかのように──あるいは、別の何かと無言で交信しているかのように。

 乙名史は、息をするのも忘れていた。目の前の少女が、あの“邂逅”を知っている──そう確信するには、十分な反応だった。

「“アップリンク”、“アップリンク”……。“DBER”より彼方……」

 ネオユニヴァースの口から滑り出るのは、やはり意味を成さない言葉の連なりだった。耳慣れぬ音の羅列。既知の言語体系には当てはまらず、まるで通信記録の断片を口述する機械のようだ。

 だが、それでも乙名史は目を逸らさなかった。どれだけ意味不明でも──いや、意味不明だからこそ──そこにすがるしかないのだ。彼女の直感は告げていた。今、ここで逃してはならない、と。

「コード完了。“INTI”、“PRLS”は今、“アルタイの断崖”。“EMGY”だね」

 再びネオユニヴァースが言葉を発する。今度は、先ほどよりも明確に、こちらへ向けられた語調だった。その双眸には、先ほどのぼんやりとした光ではなく、強い焦点が宿っていた。

 まるで何かが“つながった”ような──そんな確信めいた眼差し。

「ネオユニヴァースさん……実は、お力をお借りしたい案件が発生しておりまして……」

 乙名史は、声を震わせずに言うことができた。いつの間にか緊張よりも、確信のようなものが心を支えていた。あの異界の記憶は、やはり夢ではなかった。

 ネオユニヴァースは一拍の間を置き、はっきりと頷いた。

「アファーマティブ。でも、もっと“INTI”が必要。“FOTX”のために」

 そして、天を仰ぐように両手を掲げた。掌を広げ、静かに空を受け止めるようなその所作は、まるで何かの儀式めいていて、乙名史は思わず息を呑む。

 だが、ただ圧倒されているだけでは、記者の名が廃る。

 乙名史は胸のざわめきを必死に押さえ込みながら、ネオユニヴァースの発した言葉を一つひとつ、頭の中で反芻し始めた。

 “INTI”──それは、彼女が自分を指して最初に使った語。精神世界の邂逅のときも、今この現実の場でも、ネオユニヴァースは乙名史を“INTI”と呼び続けている。ならば、「もっと“INTI”が必要」というのはどういう意味だ?

 “INTI”は、自分ひとりではない。複数存在する……ということだろうか。

 とすれば、その“INTI”とは、どんな存在を指すのか。

 そのとき、乙名史の脳裏に、理屈も分析も追いつく前にこれまで取材を行ってきたウマ娘たちの顔が、ありありと脳裏に浮かび上がる。

 その誰もが、定められた道に抗い、運命をねじ曲げようともがく者たちだった。生き方そのものが問いかけであり、破壊であり、創造であるような少女たち。

 ──そうか、“INTI”とは、「変えようとする意志」のことだ。

 運命に巻かれるのではなく、運命に楔を打ち込もうとする存在。

「……私に、当てがあります」

 乙名史はそう言った。そして、今しがた脳裏に浮かんだ名前をネオユニヴァースへと伝える。

 その瞬間、ネオユニヴァースの動きがわずかに止まった。

 瞼の奥で揺れていた不可視の情報波が一瞬静まり、そして、彼女の唇の端に、うっすらと笑みが浮かんだ。まるで、「ようやく届いたね」とでも言いたげに。

 そしてなお、ネオユニヴァースの視線は遠くの何かと交わっていた。乙名史には見えない“彼方”と、いまもなお何かを交信し続けている。

 だが、確かに今、ふたりの間にひとつの“了解”が芽生えた。

「“INTI”、あなたは“根本”へ向かって。“私たち”もきっと、“ランデブー”するから」

 ネオユニヴァースのその言葉は、まるで透き通った鈴の音のように、乙名史の胸の奥に静かに降り積もった。

 

 やがて取材は一通り終わり、乙名史は彼女の言葉に導かれるように、足を静子の店へと向けていた。

 午後の陽はすでに傾き、学園の坂道の影が長く伸びていた。通い慣れたその道も、今日はどこか異なる色をして見える。あの言葉のせいかもしれない。あるいは、これから起こる何かを、無意識が予感しているのか。

 店の前に立ち、重い木の扉に手をかける。

 ──ギィ、と丁寧な音を立てて開いたその瞬間、ほんのりと温かな空気と、スパイスを含んだ香ばしい香りが乙名史を包んだ。

 中には、静子と諏訪がすでに待っていた。ふたりは乙名史の姿を認めると、同時に笑みを浮かべて近づいてきた。

「お待ちしておりましたよ、乙名史さん」

 静子の声は、いつもと同じ穏やかな響きだった。だが、その語尾にはどこか重みのある含みが宿っていた。彼女は深々と一礼し、それに続くように諏訪も礼を取る。

「準備は整いました。いつでも大丈夫です」

 努めて冷静な口調を乙名史はとったが、それでもどこかに緊張の色は滲んでしまっていた。

「わかりました。あと十五分ほどで迎えが参りますので、しばしお待ちを」

 静子の言葉は一言一句淀みなく、まるで舞台の脚本を読み上げるかのようだった。

 ──この場面は、きっと彼女が“視た”ものの中にある。乙名史はそう確信した。すべては静かに、予め決まっていたかのように運んでいく。

 そのとき、諏訪が湯気の立つティーカップを差し出してきた。銀縁のカップからは、アールグレイの芳醇な香りがふわりと立ちのぼり、乙名史の鼻先をくすぐった。

 受け取ったカップは手に心地よい温もりを伝え、わずかに張りつめていた胸の奥を和らげる。

 乙名史はそっと腰を下ろした。静子が用意した椅子──まるで初めからそこに座ることが決まっていたかのような、完璧な位置だった。

 迎えが来るまで、あと十五分。

 ティーカップを口元に運びながら、乙名史は遠くに響く鐘の音のようなネオユニヴァースの言葉を、再び思い返していた。

 

 迎えの車に揺られ、約二時間。乙名史は再び、静子の邸宅へと辿り着いていた。

 窓の外を流れる景色は次第に色彩を失い、林に囲まれたその一帯に足を踏み入れたとき、彼女はまたしても感じた──ここはまるで世界から切り離された場所だ、と。

 木々は音を吸い込み、空気さえも沈黙している。まるで時間そのものが、ここだけ別の位相にあるかのようだった。

 静子が先に立ち、屋敷の奥へと進む。かつて、襖の迷路に翻弄され、暴漢に襲われかけた場所。だが今は不思議なほど静かで、障害ひとつ存在しない。すべてがまるで、最初からこの瞬間のために整えられていたかのように、滞りなく進んでいく。

 乙名史はその背を黙って追い、やがて──あの部屋へと辿り着いた。

 『大穴』。

 静子が振り返り、そっと口を開いた。

「乙名史さん。……実を言うと、これからの“運命”を視ようとしてみたのですが──」

 その先の言葉を、乙名史は軽く右手を掲げて制した。

 もはや、他者の“視た未来”に揺らぐような精神ではなかった。たとえこの先にどんな運命が待ち構えていようとも、それに踊らされる自分ではいられない。覚悟はすでに、胸の内に宿っている。

 静子は一瞬だけ驚いたように瞬きをしたが、すぐに表情を和らげ、深々と頭を下げた。

「……ご武運をお祈りいたします」

 それだけを残し、彼女は部屋を後にする。

 しばらくして、遠くで扉が閉まる音。続いて、錠を下ろすような硬い金属音が重なった。

 乙名史はただ一人、『大穴』と呼ばれる空間に取り残された。

 部屋の中央には、大樹の幹をくり抜いた、ぽっかりと開いた空洞。その中心には、木彫りの馬頭観音像が鎮座している。

 地面はむき出しの土。冷たく、硬く、湿り気を帯びている。だが、乙名史は構わずその場に膝をつき、静かに正座した。両膝に重心をかけ、まっすぐ像と向き合う。

 観音像の瞳は、何も語らない。ただそこに在るだけ。

 しばらくすると、その像が、かすかに霞み始めた。

 目の錯覚かと思い、何度かまばたきを繰り返す。だが、視界の靄は晴れない。むしろ、像はますます輪郭を失い、現実と非現実の境界が曖昧になっていく。

 そして──

 意識が、すとん、と身体から抜け落ちるような感覚に襲われた。

 瞼が異様に重くなり、指先から力が抜けていく。まるで深い水の底へ沈み込むような、抗えぬ静けさが全身を包んだ。

 ──お願いします。

 誰にともなく、心の底から祈る。その一言だけを心に残し、乙名史悦子の意識は、深い闇の奥へと沈んでいった。

 

 次に乙名史の意識が浮上したとき──彼女は、そこに「在った」。

 立っているのか、寝転んでいるのか、自分でもわからない。ただ、背筋と膝が真っ直ぐに伸びており、自分の身体が棒のように固まっていることだけは、確かだった。

 目の前に広がるのは、無限の白。

 空でも地でもなく、ただ“そこにある”だけの、あやふやな白い空間。境界も陰影もないが、真っ白でもない。不気味なまでに均質な世界だった。天と地の区別はつかず、重力さえ感じない。

 乙名史はゆっくりと右手を持ち上げてみた。

 指先が、確かに“そこ”に存在している。手を開いて、握って。ゆるやかに、意識と肉体を再接続するような所作。生まれたばかりの赤子が自分の指を見つめるように、彼女はその動きに集中した。

 そのとき──頭上から声が降ってきた。

「おや、乙名史くんじゃないか」

 唐突すぎて、思考が追いつかない。反射的に顔を上げると、そこには白衣を身に纏ったアグネスタキオンが、両脚を気まぐれにパタつかせながら浮かんでいた。

 空を泳いでいる、というよりは、重力のない水の中を漂っているかのような姿勢だった。無意味に優雅で、意味深に軽やか。彼女は宙に浮かんだまま、楽しげに乙名史を見下ろしていた。

「珍しいこともあるものだねぇ。君が明晰夢に出てくるなんて」

 口調は軽く、どこか嘲笑を含んでいるようにも聞こえる──が、そこに悪意は感じられなかった。

「……明晰夢じゃねェよ」

 続いて、遠くから別の声が響く。低く、荒れた声。明らかに異なるテンポで場に割り込んできた。

 乙名史は右を向いた。

 そこには、勝負服を纏い青い布を翻しながら、こちらへ真っ直ぐに歩いてくるエアシャカールの姿があった。

 彼女は足元を確かめるように一歩ずつ踏み出しているのに、不思議と音も重力も感じさせない。だが、その眼差しには揺るぎない重さがあった。

「夢じゃない……って、どういう意味よ」

 その声は、まるでこの会話が始まるずっと前から、そこにいたかのような自然さで乙名史の背後から響いた。

 乙名史は瞬時に、その声の主を悟る──キングヘイロー。

 凛とした気品と、よく通る声質。振り返らずとも、それが彼女であることに疑いはなかった。

「私はこの感覚に覚えがあるわ。……あの菊花賞の時……」

 またしても背後から、今度は異なる声が差し込まれる。その低く澄んだ響きに、乙名史の胸がわずかに震えた──アドマイヤベガ。その名を聞かずとも、彼女の声だけでそれとわかる。

 そのとき、アグネスタキオンがふわりと姿勢を変え、乙名史のすぐ隣へと脚を伸ばす。まるで重力を忘れたような、軽やかな着地。

「なるほど、では此処が君の言う“星空の世界”ということかな?」

「見た目は違うわ。でも、感覚はそっくり」

 アヤベが静かに返す。 言葉の余韻に、微かに震えるような懐かしさが滲む。まるで、この不可思議な空間に対する“既視感”が彼女の奥底を揺さぶっているようだった。

 乙名史の意識も徐々に霧を晴らし始め、指先に力が戻ってくる。視線を巡らせると、いつの間にか身体の自由を取り戻していた。

 気づけば、アヤベとキングが、静かに乙名史の左側から回り込んでくる。その足取りは迷いなく、まるで導かれるように、タキオン、シャカールとともに、乙名史を中心に円を描き始めていた。

 五人のウマ娘とひとりの記者。奇妙で、意味深な輪が、白い空間の中に静かに形成されていく。

「この空間の正体よりも、今は“なぜ”、そして“誰が”、ここにオレたちを集めたのかを知る方が先だろ」

 エアシャカールの声が、真っ白な空間に裂け目のように響いた。音のない世界に、鋭く、重く、問いが刻まれる。

 金と黒の瞳が、真っ直ぐに乙名史を射抜いている。単なる疑問ではない。その眼差しは、沈黙を許さぬ問い詰めであり、答えを求める圧力だった。

 乙名史はその視線を正面から受け止める。

 飲み込んだ息を静かに吐き出し、覚悟を込めて口を開こうとした、そのときだった。

「“INTI”。“ランデブー”は『成功』だね」

 すべてを包み込むような、穏やかでいて冷たい声が空間に満ちた。

 乙名史の正面──彼女の視線の先に、いつの間にか立っていたふたりの少女の姿。

 ひとりは、記憶に深く刻まれた存在。通信のような言葉を操り、どこか世界の外側から来たような少女──ネオユニヴァース。

 そして、その隣に立つもうひとりのウマ娘は──

「──めぐり合わせ、ってやつか」

 淡々と、肩の力を抜いたような声──ステイゴールド。

 

 これまで乙名史が記者として、ひとりの人間として紡いできた数多の縁──それが今、この“白の空間”に六人を呼び寄せた。

 偶然ではない。呼び集められたのではなく、引き寄せたのだ。目的は、誰ひとり口にしていない。だが、全員が心のどこかで、それを察している──乙名史には、そう確信できた。

「……エアシャカールさん、みなさん。まずは、急な召集をお詫びします」

 彼女は周囲を見回し、円陣を成した六人の中心に立ちながら、静かに頭を下げた。

 返答はなかったが、各々の表情が応じていた。タキオンは唇の端を釣り上げ、まるで何か面白い実験が始まるかのように、きらきらと目を輝かせていた。

「ほぉ……どうやら乙名史くんには、此処が何なのか、ある程度見当がついているようだ」

「はい。そして……皆さんにお話ししたいことがあります」

 乙名史は頷き、ここに至るまでに掴んだ“情報”と“感触”──そして“恐れ”について、丁寧に言葉を選びながら口にした。

 ──今、“運命”は正しく選定されていない。枝葉は無数に伸び放題に伸び、その一本一本が確定を拒むように揺れている。

 選ばれない未来。決まらない結果。その混沌はやがて、“すべてが可能で、何ひとつ現実にならない”という、最も不毛な終末をもたらしてしまう。

 乙名史の声は静かだったが、どこか祈りに似た切実さを帯びていた。

「このままでは、“運命”が運命たりえなくなるんです」

 言葉が空間に落ちる。

 それは説得ではなかった。理解されることを前提にした、共有だった。

 キングが眉をひそめる。アヤベが目を細める。ステゴは、目を閉じたまま何かを反芻していた。

 その沈黙のなかで、タキオンがぽつりと笑った。

「なるほど。“可能性が増える”というのは、つまり“現実が消える”ということか……ずいぶん皮肉な話だねぇ」

 アグネスタキオンの口元に浮かんだ笑みは、いつものように知性と狂気の境界線を揺らいでいた。

 続いて、エアシャカールが言葉を継ぐ。

「“定められた運命”ってヤツは確かにクソだ。だが、何を選び取っても“可能性”の段階に戻っちまうってンなら、そもそも“成し遂げる”こと自体が無意味になる」

 その言葉には皮肉と苛立ちが混じっていたが、それは真正面からこの状況を理解しようとする姿勢の裏返しでもあった。

 おそらくこの場で最も論理を駆使するふたり──タキオンとシャカールは、それぞれが思考の海へと潜り込み、しばし言葉を発さなかった。

 その沈黙を破るように、乙名史は一歩踏み出す。

「ですから……皆さんに、“運命再編”をお手伝いいただきたいのです」

 その目には、迷いがなかった。覚悟を決めた者の、それも誰かに強いられたのではなく、自らの意思で歩み出そうとする者だけが持つ光を宿していた。

「“運命再編”……? 具体的には?」

 アドマイヤベガが顎に指を添え、思索の声を漏らす。

 乙名史は頷き、ゆっくりと言葉を紡ぎ出した。

「元々、“運命”は大樹の幹のようなものでした。太く、一本の幹が根元からまっすぐに天を目指し、誰の介入も許さずに伸びていく。定められた流れは、決して乱れることはなかった」

 言葉を切り、彼女は視線を円陣の全員に向ける。

「けれど今、その幹が崩れている。枝葉ばかりが暴れて、もはや何が中心だったのかさえ分からなくなってきている。未来は無限にあるけれど、どれも“確定”できないまま、彷徨っているんです」

 その情景は、誰の胸にも不穏な余韻を残した。

 乙名史は、両の手を合わせ、指先で丸を描くように動かしながら続けた。

「だから私は、“編み直す”というイメージを使います。毛糸のように。一つひとつは細い、弱い糸かもしれない。でも、それが何重にも絡み合い、ねじれ、螺旋を描きながら一つの形を成していく──それが“運命再編”です」

 言葉に、熱がこもる。

「無数の“可能性”は交わることなく、それでも共に編み上がり、あるべき形を目指して進んでいく。それぞれが独立した意志を持ちながらも、大きな“運命”という織物の中で意味を持つように」

 沈黙が降りる。

 それは否定でも同意でもない、ただ圧倒されたような静けさだった。

 乙名史は最後に、深く頭を下げた。

「……どうか、力を貸してください」

「もちろんよ」

 真っ先に声を上げたのは、キングヘイローだった。

 その表情に揺らぎはなかった。誇り高く、清廉で、何より真っ直ぐだった。彼女にとって“運命に立ち向かう”という言葉は、誰よりも己の在り方に近いのだろう。

 乙名史が顔を上げると、他の面々もまた、静かに、あるいは柔らかく頷いていた。

 誰ひとりとして反対はしなかった。“運命再編”という未知の概念に対し、躊躇う様子もない。皆、それぞれのやり方で、乙名史の言葉を受け止めていた。

「……ありがとうございます」

 その一言が、掠れるように口から漏れた。乙名史の瞳には、抑えきれない涙がにじんでいた。

 この空間の温度が変わったような気がした。心の奥から沸き上がる熱に、胸がいっぱいになる。

「まだ泣くのは早ェだろ」

 エアシャカールが肩をすくめながら言う。口調はぞんざいでも、その眼差しは優しく、どこか微笑んでいた。

「プランはわかった。だが、それをどうやって実行するんだ?」

 彼女の指摘は至極当然だった。“再編”という壮大なビジョンを語ることと、それを現実に移す手段は、まったく別の問題だ。

 乙名史は言葉に詰まり、唇を噛んだ。

 数秒の静寂。

 その沈黙を破ったのは、ネオユニヴァースだった。

 彼女は無言のまま、右手をゆっくりと掲げた。掌が宙を切り、何かを“捕まえる”ような仕草を見せる。

 次の瞬間──ぱ、と手のひらに光が集まり、それはひとつの形を成した。

 ──方位磁石。

 真鍮のような輝きに包まれたそれが、音もなく彼女の手に現れる。

「“PRLS”の場所は、この先に」

 淡々としたその言葉に、場の空気がまた揺れた。

「な、ンじゃそりゃ!」

 エアシャカールが、柄にもなく声を上げる。

 その驚きの表情に、タキオンが口元を押さえ、くっくっと喉を鳴らした。

「やはり……この空間では、“願い”が具現化するようだね。ならば──」

 タキオンは目を伏せ、自らの足元に視線を落とす。そして、なにか短く念じた。

 その瞬間、彼女の体がふわりと浮き上がった。重力の縛りを失い、羽根のように軽やかに空へ舞い上がっていく。

「……面白い。惜しむらくは、この場で満足に実験する時間がとれなさそうということだね」

 どこか嬉しげな声で、彼女は白の空間をくるりと一回転した。

「では、向かいましょう。ネオユニヴァースさん、先導をお願いします」

 乙名史の声に、ネオユニヴァースは静かに頷いた。

 彼女は一歩も踏み出さぬまま、音もなく滑るように──いや、空間そのものを平行移動するかのように、ふわりと前へと進んだ。まるで彼女の“進む”という意志に、空間のほうが応じているようだった。

 その背に、他の五人もそれぞれの方法で続く。

 アグネスタキオンとアドマイヤベガは、白い空間に身を横たえるようにして、まるで泳ぐように進む。軽やかに、優雅に、風も水もない場所を遊ぶような動きだった。

 キングヘイローとエアシャカールは、対照的に“地面”を意識するかのように、しっかりと足を踏みしめながら進んだ。虚構の空間でさえも、彼女たちの走りには現実の重みが宿っていた。

 ステイゴールドは、子どものようにスキップを踏む。リズミカルで軽快で、しかしどこか懐かしい音楽が聞こえてきそうなステップだった。

 そして──乙名史もまた、駆け出していた。

 本来ならば決して追いつくことの叶わないはずのウマ娘たち。だが今、この空間では彼女もまた同じ速度で並走できていた。

 風を感じる。息が弾む。心が躍る。

 六人の少女とひとりの記者が、“同じ歩幅”で進んでいくという奇跡。それがこの空間で、いま、確かに起こっていた。

 

 全員が動き始めてしばらくすると、ネオユニヴァースの手にある方位磁石の針がぴたりと一方向を指し続けた。

 その先に、異物は現れた。

 白一色で塗りつぶされたこの空間において、そこだけがまるで“染み”のように黒く、よどんでいた。

 異様な黒──それは単なる色ではなかった。まるで空間そのものを腐蝕させ、輪郭を侵し、存在の境界を曖昧にしていくような、侵食的な“闇”だった。

 乙名史はその光景を目にした瞬間、脊髄反射のように理解した。

 ──これが、“運命の淀み”だ。

「ネオユニヴァースさん……!」

 走りながら声を上げる。振り返ったネオユニヴァースは、声には応えなかった。ただ、静かに、しかし力強く頷いた。

 それだけで充分だった。彼女もまた、あれが目的地であると認識している。

 黒の塊は、どこか鳥の卵を思わせる楕円の形をしていた。が、その表面には脈動するような不規則な光と闇が入り混じり、見る者の視界すら狂わせてくる。

 まるで世界の論理から逸脱した存在が、そこに「潜んでいる」のではなく「現れつつある」と言わんばかりに、膨張と収縮を繰り返していた。

 皆の足が自然と止まる。

 風も音もないはずの空間に、はっきりと“緊張”という名の気配が走った。

 誰が最初に、あの塊に近づくのか。口には出さないが、誰もがその問いを抱えていた。

「──馬頭観音さん……?」

 思考よりも先に、乙名史の口が動いていた。

 言った瞬間、彼女自身が驚きに目を見開く。けれど、口を押さえるその手は震えていなかった。その言葉が間違いだとは、どうしても思えなかったのだ。

「観音? この塊が?」

 ステイゴールドが声を上げる。彼女は他の誰よりも早く、一歩、二歩と黒い塊へと近づいていた。その表情に怯えの色はない。ただ、純粋な好奇心と、何かを見極めようとする眼差しだけがあった。

 そのときだった。

 卵型の“塊”──その中心から、黒く波打つ“闇”がするりと伸び、蛇のようにステイゴールドの足首へと絡みついた。

「あぶないっ!」

 鋭い声を放ったのはアドマイヤベガ。

 だがステイゴールドは動じない。闇に捕らえられてもなお、彼女は笑っていた。まるで、自分だけが答えを知っているとでも言うように。

「怖いもんじゃないよ。ただこいつは──」

 その言葉の続きを言い終えるよりも早く、彼女の身体は黒に染まり、音もなく塊へと吸い込まれていった。

「離れろッ!」

 エアシャカールが叫ぶ。

 その一言で、場の緊張が一気に弾けた。誰もが反射的に塊から距離をとり、円陣は乱れた。

 白の空間に、静寂が落ちる。

 塊──そしてその傍らには、ステイゴールドの姿を模した“影”がただ黙って立っていた。

「どうするのよ乙名史さん! ステイゴールドさんを助けないと!」

 キングヘイローの叫びが、空間に鋭く響く。乙名史は拳を握りしめ、足を止めたまま考える。

 ──馬頭観音。もし、あの塊の中心にそれがいるのだとすれば、彼女はウマ娘に危害を加えるような存在だろうか。数々の邂逅の記憶が、乙名史の中で連なっていく。

 あれは、求めていた。

 理解を、共鳴を、願いを。

 ただ、言葉では語れない方法で。

 ステイゴールドの言葉が、脳裏によみがえる。

「怖いもんじゃないよ。ただこいつは──」

 その先の言葉。これまでの経験から推察できるその意味。これは“攻撃”ではなく──。

 乙名史は息を吸い込む。瞳に、確信の光を宿して。

「──助けてほしいだけなんだ」

 静かに、しかしはっきりと、そう言葉を置いた。

「助けェ……?」

 エアシャカールが、呟くように言葉を漏らした。その声には、理解しきれないものに対する戸惑いと、本能的な警戒が滲んでいた。

 だが──乙名史はもう、誰の反応も待たなかった。

 足を一歩、また一歩と前へ踏み出す。五人の視線が彼女を追うが、誰も止められなかった。

 ──十五歩。

 彼女と“塊”との距離が、現実的な手の届く範囲へと縮まっていく。

 ──十歩。

 黒いよどみが、静かに乙名史の視界を浸していく。

 それは影ではなかった。煙でもなく、液体でもない。音もなく、質量もなく、ただ“そこに在る”という異質な存在だった。

 闇は、触れたわけでもないのに、彼女の輪郭を削り取るように包み込んでいく。

 冷たさも、温もりも、息すらも感じられない。

 それなのに──確かな意思だけがあった。

「……!」

 背後で誰かの叫ぶような声がした。だが、それはもう届かない。音さえも、ここには存在しない。

 乙名史の意識は、闇のなかへと沈み込んでいった。

 重く、静かに──けれど恐怖ではない。

 それは、深海に潜っていくような、静かな圧力だった。

 そしてその奥で、乙名史はついに彼女と再会した。

「……馬頭観音」

 乙名史はそっと名を呼んだ。

 返答は、なかった。彼女──馬頭観音は、膝を抱えるようにして座り込み、丸く、卵のような物体をその胸に抱えていた。まるで、それだけが世界のすべてであるかのように。

 そのすぐ隣に、ステイゴールドがいた。

 両手を背後について座り、足をだらしなく前に投げ出している。ラフで無防備な姿勢のまま、彼女は乙名史に顔を向けた。

「ずっとこうだよ。私の声も、届いていないみたいだ」

 疲れきった声だった。まるで何時間、あるいは何日もそうしていたかのような口調で、ステイゴールドは静かに言葉を落とす。

 やがて彼女はゆっくりと立ち上がり、乙名史のもとへと歩み寄ってきた。

「思うに──あの卵。あれが、問題の根本だ。どう思う?」

 乙名史は、視線をその“卵”に向けた。それはただの物体ではなく、何かを“守っている”ようにも、“閉じ込めている”ようにも見えた。

 ──どうすれば、それを解けるのか。乙名史の中には確信のない答えがあった。それは“運命”が崩壊しかけていると言われた時から、この空間で皆と再会してから、そして此処に来て馬頭観音と再会を果たせてから、ずっと乙名史の脳内にいた考えだった。

「……ステイゴールドさん。あなたが、走る理由は何ですか?」

 一瞬、沈黙。

 質問に質問で返されたことに、ステイゴールドは少しだけ意外そうな顔を見せた。口元がわずかに上がる。

「なるほど……いい返しだね」

 そして彼女は、ふっと空を見上げた。黒くよどんだ天井のない空間を見つめるその瞳には、どこか遠くを見る光があった。

「“走りたいから”ってのは──まぁ、理由にはならないか。……うーん、ちょっとこっぱずかしいけど……」

 頬をかき、眉を寄せ、何かを誤魔化すように笑う。

 けれどそのあと、しばしの沈黙を経て──彼女は観念したように、素直な声で言った。

「やっぱり、“勝ちたい”からだなぁ」

 ぽつりと、言葉が落ちた。

 その瞬間だった。

 言葉が、空気に熱を持ったように震え、そして──光り出した。

 ステイゴールドの目の前に、小さな金色の光球が現れた。それは何の音も立てず、ただ暖かく、静かに存在していた。まるで、彼女の“願い”が具現化したかのように。

 乙名史はその光に、確かな“希望”を見た。

 と、乙名史の背後に気配が現れる。

「おや、やはり二人ともここにいたんだね」

 声とともに、アグネスタキオンの顔が現れた。いつもの得意げな笑み。まるで答え合わせに正解した子どものようだった。

 そのすぐ隣に、やや息を荒くしたエアシャカール。焦燥を押し隠しながらも、無事を確認して安堵しているようだった。

「ったく……とことんロジカルじゃねェぜ……」

 小さく毒づくも、その言葉には鋭さよりも温かみがあった。

 続いて、キングヘイローとアドマイヤベガが姿を現す。最後に、音もなくネオユニヴァースが歩み寄ってきた。

「……あそこにいる、“人”? は大丈夫なのかしら?」

 キングヘイローが心配そうに塊と馬頭観音を交互に見つめる。

「白い空間の次は、黒い空間に光る玉……?」

 アドマイヤベガは周囲の変化を冷静に観察しながら、思案の声を漏らす。

「“FOTX”は、もうそこに」

 ネオユニヴァースがぽつりと呟いたその言葉の意味はわからない。だが、それでも彼女の声には確かな“到達”の実感が込められていた。

 それぞれがそれぞれの言葉を口にしながらも、再び一堂に会したことへの安堵が空気に溶けていく。

 乙名史は、そのすべてを受け止めるように、強く、まっすぐな声を上げた。

「みなさん! みなさんの“願い”を、お聞かせください!」

 声に、力がこもる。

「それが、“運命再編”の力になります!」

 唐突な言葉に、一同は一瞬面食らったような表情を見せた。

 だがすぐに、ステイゴールドの目の前で揺れる金色の光球を見て、誰もが理解する──これは冗談ではない。

 “願い”が現実を変える。この空間では、それが“力”になる。

 誰からともなく、静かに口を開き始めた。

 小さく、しかし確かな声。

 一人ひとりが、自らの“本音”を、胸の奥から引き出す時が来たのだ。

 

「私は──」

 静かに、しかし誰よりもはっきりと、最初に口を開いたのはアドマイヤベガだった。その声には揺れがなかった。けれど、言葉はゆっくりと慎重に選ばれていた。

「──“報いたい”。私を応援してくれるすべての人に。私の走りを好きだと言ってくれた人に。……そして、私を信じて、守ってくれる──あの子に」

 その目は閉じられていた。けれどその姿は、まるで遠くの光を見ているようだった。

 言葉に込められた想いは、静かに、空間に染み込んでいく。まるで一滴の水が澄んだ湖面に落ちたように、波紋のような余韻が広がる。

 そのときだった。

 アヤベの目の前に、ふわりと二つの光球が現れた。ひとつは深い藍のような青。もうひとつは、翡翠のように柔らかな緑。

 ふたつの光は互いに引き寄せられるように近づき──ゆっくりと溶け合い、美しい碧の輝きとなって、淡くその場に浮かび続けた。

 それはまるで、彼女の“願い”が形となり、支えてくれた人々への「答え」がこの空間に宿ったかのようだった。

 アヤベは目を開けると、その光をただ静かに見つめた。その瞳には、どこまでもまっすぐな誠実さが宿っていた。

 

「興味深い……」

 アグネスタキオンは、唇の端を釣り上げて笑った。

 その表情には、ただの好奇心ではない。確かな“実感”があった。実験が成功したときに見せる、あの独特の笑みだった。

 そして彼女は、ゆっくりと歩み出ると、自らの願いを口にした。

「私は……そうだな。言葉にするなら、“超えたい”、か」

 その声は低く、静かで、けれどどこか熱を帯びていた。

「過去を超越し、自らを超越し、“運命”や“因果”──そういった全ての制約を乗り越えて、その先の景色を見てみたい。そこに何があるのか。誰も知らない地点の向こう側を、私は……知りたいのだよ」

 語られる願いは、まさしく彼女らしかった。

 研究者の知的欲求。そして競技者としての根源的な挑戦心。

 それはただの“知りたい”ではなく、“超えたその先へ行きたい”という、境界に向き合う者の本能に近い。

 その瞬間、タキオンの前にふわりと光が生まれた。

 紺青。夜の海のように深く、重たく、限界を引き裂こうとする力を秘めた光。

 その光球は、彼女の身体の周囲をゆっくりと巡りながら、足元から照らし出していた。

 影が濃くなる。

 けれどタキオンは、その光と影の交錯の中で、静かに笑みを浮かべ続けていた──自らの“願い”が、現象として世界に作用する。それこそが、彼女にとって最大の報酬であり、次なる実験への入り口だった。

 

「私は、“繋げたい”」

 静かに、けれど芯の通った声で、キングヘイローが言った。その語尾には、まるで誓いを立てるような強い意志があった。

「私の“一流”の走りを。私が挑み続けたという“歴史”を」

 その言葉は、誇りだけではなく、痛みも背負っていた。

 出自ゆえに、常に期待されてきた。そこそこの結果では許されず、勝利が当然のように求められた。だが、競走とはそんなに単純なものではない。

 勝てず、負け、滑り、潰され──それでもなお立ち上がり、走り続けた。

 何度も叩きのめされながらも、彼女は「キングヘイロー」という大輪を咲かせた。

 けれど彼女の願いは、それで終わらなかった。

 花が咲き、実がなり、やがて種がこぼれるように。その挑戦と歩みを、未来へと“繋げる”こと。

 それこそが、彼女の誇りの結晶だった。

 その瞬間、彼女の言葉に共鳴するように、空間が淡く振動した。

 彼女の目の前に、深く、澄んだ緑の雫がぽたりと現れる。それは森の奥の泉に浮かぶ滴のように静かで、強く、美しく。

 キングヘイローの立ち姿を、どこまでも真っ直ぐに照らし出していた。

 

「ネオユニヴァースは……『わたし』は……“会いたい”」

 その声は小さく、けれど空間に吸い込まれるように澄んでいた。まるで森の奥で忘れ去られた古い教会で、独り手を合わせるような──祈るような声。

 誰に届けるわけでもない言葉。しかし、その場の皆の心にはしっかりと届いていた。

「『星空のディスタンス』を超えて……『傾きかけた天秤』でも、想いを積み上げて……」

 詩のような、断片のような言葉たち。普段のネオユニヴァースの曖昧な断章とは違っていた。

 それは、“伝える”ための言葉だった。

 語彙や文法といった言語のルールを超え、想いそのものが、音として紡がれていた。

「“最愛”の人に……“会いたい”」

 その一言は、どんな理屈よりも真っすぐだった。届かないと思っていたものへの、届いてほしいという願い。

 それは確かに、彼女の深淵から湧き出した“本当の声”だった。

 ふわり、と。彼女の心から、それは現れた。“愛”を内包した優しい球は、空中で光を帯び、澄んだ青へと変わってゆく。

 その輝きは、波打ち際の水面のように広がり、淡く、ちらちらとネオユニヴァースの足元を照らし出した。

 まるで、遠く離れていた星々の距離が、少しだけ縮まったような──そんな感覚だけが、空間を満たしていた。

 

 皆の視線が、自然とエアシャカールへと集まっていた。

 彼女は一瞬、鋭く全員を見返すように視線を走らせると──次の瞬間、バサリと乱暴に後頭部を掻きむしった。

「アー……オレ、は……だな……」

 言葉を探す声は、どこか気恥ずかしさをにじませていた。強くあろうとする自分と、まだどこか躊躇っている自分。納得していないことはしたくない。だが、目を逸らすわけにもいかない。

 数秒、長い沈黙。

 やがて、大きく息を吸い込み──彼女は、己の中にある“答え”を、絞り出すように叩きつけた。

「オレは、“変えたい”。」

 声が空間を裂く。

「くだらねェ“運命”も、“仕来(しきた)り”も、当然みてェなツラしてそこに居座りやがる。声を上げなきゃ、誰も、オレらの存在に気付きもしねェ」

 その言葉は叫びだった。

 知っているのだ。痛みを。無視されることを。抑圧される怒りを。

「だからこそ──オレはぶちかます。たとえ“世界の最期”が来たってな。そこには、世界に逆らう“オレ”がいるだけだ」

 その言葉は、凶暴なほどの信念に貫かれていた。理屈じゃない。理想じゃない。ただ、抗うための魂だ。

 その瞬間、彼女の目の前に、真紅の光が現れた。

 鋭く、熱を持ち、まるで燃えさかる焔のように脈打つ──多面体の結晶だった。

 冷たい知性の奥で燃える怒りと情熱。その“矛盾”が、そのまま結晶の形を決めたのだ。

 

 六人の“願い”が、夜空の星のように空間を彩っていた。

 紅、藍、碧、金、緑、そして淡い青──漆黒の虚無に浮かぶそれらは、それぞれの魂が結晶した光だった。

 乙名史はその輝きに、思わず胸の奥から言葉をこぼした。

「……素晴らしいですっ!」

 両手をぎゅっと握りしめ、感嘆と高揚に満ちた瞳で周囲を見渡す。

 けれど、その感動の余韻はあっさりと打ち破られた。

「なァにぼーっとしてやがンだ? オマエも早くやれよ」

 エアシャカールが鋭い視線で睨みつけてくる。

「えっ……わ、わたし……?」

 思わず面喰う乙名史。しかし、彼女の目が泳ぐ先には──頷くタキオン、静かに見つめるアヤベ、慈しむような視線のキング、まっすぐな瞳のネオユニヴァース、優しい笑みのステイゴールド。

 誰もが、“あなたも願うべきだ”と語っていた。

「“FOTX”が起こる。『私たち(ウマ娘)』だけでは“不能”」

 ネオユニヴァースの言葉は、どこか切実だった。

「そうね。そもそも貴方が私たちを呼んだんでしょう?」

 キングの言葉は、真実を突いていた。

「ぜひ伺いたいねぇ。キミが私たちにどのような“願い”を抱いているか」

 タキオンの言葉は、期待と興味に満ちていた。

 皆の視線が集まる。

 乙名史は戸惑いを隠しきれず、一歩だけ後ろに下がった。けれど──逃げなかった。

 瞳を閉じる。胸に手を当てる。

 “願い”という言葉が、こんなにも重いものだったなんて──けれど、その重さごと、ずっと自分は抱えてきた気がした。

 不確かなもの。曖昧なもの。確信なんてない。

 それでも。

「……わたしは──」

 彼女の声は、震えていた。けれど確かに前を向いていた。

「“伝えたい”んです……」

「レースの景色を。皆さんの走りを。心の叫びを。願いを。わたしは、忘れたくない。……“この時代に生きたウマ娘たち”のことを」

 それは、走らない者の祈りだった。共に戦えない者ができる、たった一つの行動。

「願うんです。ずっと、語り継がれますようにって。あなたたちが“確かにここにいた”という、その証が、いつまでも残りますようにって──」

 その瞬間だった。

 乙名史の胸元から、ぽつりとひと雫の光が生まれた。

 それは他のどの色とも違っていた。太陽のように輝き、薄く柔らかな光。それは、どこまでも暖かく、優しく、すべてを包み込むような輝きだった。

 静かに浮かび上がったその光は、まるで灯のように──彼女と、彼女が愛した世界を、そっと照らし出していた。

 

 誰からともなく、天へと“願い”が舞い上がっていった。それは一つひとつ異なる色と形をした光となって、空間の高みに向かって漂い、やがて一点に収束する。

 そして、次の瞬間。

 そのすべてが、流星のような速度で、馬頭観音の胸に抱かれた卵へと注がれていった。

 卵の周囲に渦巻いていた漆黒の“闇”が──光と交わる。色と混ざる。想いと重なる。

 すべての“願い”を取り込みながら、卵の内側から光が滲み出す。初めはひと筋の白。だがそれはすぐに、赤、橙、黄、緑、青、藍、紫──まるで光の断層そのものが割れて現れたかのように、虹色の放射が空間いっぱいに広がっていった。

 圧倒的な光。視界が焼かれそうになるほどの輝き。思わず目を瞑りかけた乙名史は、しかし──手帳を開いた日から、ここまで辿ってきたすべての“瞬間”を思い出す。この瞬間を、忘れるわけにはいかなかった。見届けなければいけない。それが記者としての、自分の使命だ──!

 乙名史は、眩しさに歪む視界のなか、それでもまっすぐに“光の核”を見据える。

 ──そこに、人影があった。

 虹の中心。揺らめく光の渦の只中に、誰かが両の手を卵へと添えていた。指先で、そっと包み込むように、まるでその光が暴走しないよう制御しているように見えた。

「……ありがとう、乙名史さん。ありがとう、みんな」

 それは、声ではなかった。音でも、言葉でもない。だが、確かに彼女の心へと届いた──直接、意識に語りかける声。

「あなたたちの“願い”、確かに受け取ったよ」

 光の核は、どの色にも染まり切ることなく、すべての色を尊重するかのように柔らかく、静かに輝いていた。それはまるで、乙名史が語った“運命再編”のイメージそのものだった。

 乙名史は一歩、前に出る。口から漏れた声が、自分でも驚くほど強かった。

「……馬頭観音さん!」

 名を呼ぶ。音か、意識か、もはや境界は曖昧だった。だが、それでも叫ばずにはいられなかった。

 

「まだ足りません! 貴方の“願い”も、そこに込めてください!」

 貴女が始めたんです。

 貴女が、“運命”に誰かが触れうるように仕向けた。

 私や静子さんを、目覚めさせたのは──あなたの祈り、だったのではありませんか。

「貴方だって……本当は、願っていたはずです……!」

 “運命”を知るだけの存在なんかじゃない。

 願いを抱いてはいけないなんて、そんなことない。

 どうか──

 

 光が弾けた。

 

「……死んでしまったのでは?」

 暗闇の奥から、ふいにそんな物騒な声が降ってきた。

 どこかで聞いた声。でもそれは、遠くて、くぐもっていて、まるで水底から耳を澄ませているようだった。

「……生きて……ますよ……」

 乾いた喉から絞り出された言葉は、自分でも驚くほど掠れていた。だが、そのひと言で、世界はゆっくりと色を取り戻し始めた。

 視界の端に、薄ぼんやりと人影が二つ。

 ひとりは、いつかと同じように穏やかに微笑んでいた。

「……おかえりなさいまし」

 静子だった。彼女は乙名史のすぐ隣に座り、そっと右手を包み込むように握っていた。

 その手の温もりが、どんな薬よりも確かに、乙名史を現実へ引き戻してくれた。

「静子、さん……。私は……」

 あの“願い”は届いただろうか。運命は、変わったのだろうか。それを問う前に、静子はふわりと笑みを浮かべて頷いた。

「私の思っていた“運命”の選定とは異なりましたが、少なくとも、崩壊は免れたようです」

 それは、控えめなようでいて、最大限の称賛だった。

 乙名史はようやく自分の指先に力が戻ってきたことを感じた。静子がそっと手を引き上げる。乙名史もそれに合わせて、ふらつきながらも立ち上がった。

「見ていただきたいものがあります」

 静子は先に立ち、洞窟の奥から出口の方へと歩き出す。その後ろ姿には、どこか張り詰めていた何かが解けたような軽さがあった。

 静子に続いて、乙名史は館の扉をくぐる。夜の帳はまだ空を覆い、世界はしんと静まり返っていた。

 だが──その空の一角に、明らかに“場違い”なものがあった。

「……あちらを」

 静子が指し示す方へ、乙名史の目が導かれる。

 視線の先、漆黒の天幕を背にして、ひときわ鮮やかな光が脈打っていた。それは──

 

 (アルクシャ)

 

 だが、ただの虹ではない。

 色は幾重にも折り重なり、渦を成して空に浮かんでいた。螺旋のように、あるいは大樹の年輪のように、中心へ向かって幾筋もの光が巻きつき、天へ昇っているように見えた。

 例えるならば──そう、まるで蹄跡だ。

 ウマ娘たちが全力で駆け抜けた、その“跡”が空に刻まれたような、美しく、力強く、そして儚げな渦。

 乙名史は、思わず息を呑んだ。

 ただの自然現象ではない。これは、きっと“証”なのだ──願いが、運命が、確かに届いたという。

 乙名史はその光景を目に焼き付けた。これから始まる新たな“運命”の出発点、それが今、目の前にあるのだから。

 

 

 午前七時。空はまだ淡い藍色を帯び、遠くの山並みが朝の霞に溶け込んでいる。やがて陽光が差し込み、黄金の光がゆっくりと東京レース場を包み込む。芝生に降りた露が煌めき、風が静かに通り抜けるたび、葉擦れの音が微かに響いた。

 レース場に集う人々の気配が、少しずつ濃くなってゆく。出走を控えたウマ娘たちは控室で静かに気を整え、トレーナーたちは最後の調整に余念がない。係員たちは場内を巡り、着々と準備を進めていた。その光景を眺めながら、乙名史悦子は足を止め、深く息を吸い込んだ。

 秋の東京レース場には、鮮やかな紅葉が風に揺れ、陽の光を浴びて赤や橙の葉がひらひらと舞っていた。季節は移ろえど、ここは常に新しい夢が走り出す場所だ。デビュー戦を控えたウマ娘たちの緊張と高揚が、空気の中に確かな熱を生んでいた。

 乙名史は、そんな熱を背に受けながら、ゆっくりと観客席へ向かっていた。

 肩にかけたショルダーバッグは、今日も資料で重たい。その膨らみは、彼女の真摯な眼差しの重さそのものだ。胸元で揺れる金の蹄鉄のネックレスが、朝陽を受けてきらりと輝く。

 乙名史は、ゴール板が真正面に見えるスマートシートに腰を下ろす。手帳を開き、なめらかな指先でページをめくる。

「メイクデビュー戦が二回……聞くところによると、シンボリクリスエスの完成度は段違い……」

 彼女の声は誰に向けるでもない、だがそこには確かな熱があった。ページには出走するウマ娘たちのデータがびっしりと並び、欄外には乙名史自身の書き込みもいくつも見受けられる。

 一つ一つの名前に目を通し、そして、その中の一つに目を留める。

「……第八レース、ブラウンシュガーの復帰第一戦目」

 記者として、乙名史は贔屓目を使ったことはない。だが、その名前は、彼女だけは見逃せなかった。

 この結果が運命を凌駕したのか、それとも運命の一部なのか。乙名史には判別がつかないが、ただひとつ、諦めない意思が一人のウマ娘の復帰を後押ししたという事実だけは確かだった。

 乙名史はそっと立ち上がると、ゆっくりとコースに向かって一礼した。その動きは誰に見せるでもなく、しかし明らかに意味のある所作だった。まるで神聖な儀式のように、それは乙名史にとって毎度の“始まり”の印だった。

 そして、観客席を離れ、レース場の片隅へと歩き出す。向かい先は、あの祠。

 そこは、乙名史にとって特別な場所だった。奇妙な出来事の幕開けとなった、あの日の記憶が染みついた祠。小さな石段を上がった先に、馬頭観音像が静かに祀られている。

 その姿を目にした瞬間、乙名史は自然と背筋を正し、両手を合わせる。鳥のさえずりも遠のいたように、辺りが静まり返った。心の内から滲み出すように、ただ一つの願いが唇から零れる。

「──全員が、無事に走り切れますように」

 風が吹いた。秋の朝の澄んだ空気が、祠の周囲を優しく撫でていく。音にはならない言葉が、風に乗ってどこかへ運ばれていくような気がした。乙名史はそっと目を開き、跳ねた前髪を払うと、肩からずり落ちかけたショルダーバッグを持ち直した。

 その時、場内アナウンスが低く、響くように告げる。レース場の朝が、本格的に始まったのだ。正門が開く音と同時に、堰を切ったように観客たちが押し寄せてくる。老若男女、さまざまな想いを胸にこの場所へ集った人々。ある者は勝利を信じて。ある者は、無事な出走をただ祈って。

 そして、その想いに応えようと、ウマ娘たちもまた走る。己の限界まで力を振り絞り、願いを背負い、コースを駆ける。時にその想いは重すぎて、身体を蝕み、心を傷つけることすらある。だからこそ、支える者が必要だ。トレーナー、スタッフ、医師、そして家族。数えきれないほどの関係者たちが、その一走のために存在している。

 乙名史は、そのすべてを見逃さない。歓喜に叫ぶ声も、悔しさに唇を噛む表情も、失意に俯く背中も──すべてを記録し、言葉に刻みつけて、語り継ぐ。

 どんなレースにも、貴賤はない。

 どんな勝者にも、敗者にも、そこには確かに「挑んだ軌跡」がある。

 ウマ娘たちの残した蹄跡、そのすべてを──

 

 乙名史悦子は、忘れない。




完結
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