六月。盛夏にはまだ遠いはずなのに、街を包む熱気はどこか異様に肌へまとわりつく。勤怠打刻をすませた乙名史悦子は『あの手帳』を机にそっと置き正対するようにそれを眺める。ウマ娘の名を記すだけで、その子のレースの行方が見えてしまう。それは突拍子もないオカルトじみた話だったが、変えようもない事実として彼女の脳内にこびりついていた。そんな力は望んでいない。だが、手放そうとも思えない。責任感だろうか、知っているのに覆せないもどかしさを解決したい欲求からだろうか。しかし、この手帳では仕事にならない。知りたくもない情報を伝えてくる媒体など、何も伝えていないのと同じだ。
新たに買い求めた手帳にウマ娘の名を記すとき、彼女の指先はわずかに震えた。けれども、何も起こらなかった。あの異様な力は、この古い手帳だけに宿っていたようだった。
ゆっくりとページをめくる。日付、覚え書き、メモ欄。事件のあとから時が止まったままのような手帳が、静かに何かを待っているようだった。
「レースの結果もウマ娘の未来も。変えられない定め」
白紙のページに、その文字がふと浮かび上がった気がした。幻覚か、それとも夢か。いや、あれこそが現だったのか──出来事を知るのはただひとり。重苦しい事実が彼女を記憶の深みに引きずり込む。
「乙名史、ちょっと来てくれ」
上司の声が、その沈黙を破る。彼女はそっと手帳を閉じ、ゆるやかに立ち上がった。編集長の机の上には、束ねられた資料の山。彼の目には、どこか皮肉めいた光があった。
「この前、“運命”がどうとか言ってたな。おかげで編集部内でもお前はすっかり“霊感記者”扱いだ」
唇の端に浮かぶ笑みに、悦子は何も返さない。反論の言葉はもう使い古してしまった。
「だからな。これをやれ」
バサリと置かれた資料の表紙に、達筆とも悪筆ともつかぬ字でこう書かれていた──『トレセン学園の七不思議』。
「来月号に載せる。よろしく頼むぞ」
ふう、と短く息を吐き、乙名史は資料と愛用のショルダーバッグを携えて社を出た。街路を彩る紫陽花の群れ。六月の湿気に花弁が重たげに垂れている。普段なら心を和ませるその光景も、今日ばかりはどこか遠い。
歩いてすぐのトレセン学園。府中の町並みに静かに寄り添うように、その入り口はあった。濡れた紫陽花の気配が、歩道の片隅からかすかに香る。通常、取材時には緑の制服に身を包んだ案内役、駿川たづなが入り口前で到着を待ってくれている。しかし、今日の門前には違う影があった。
それは、あの日の祠で出会った少女──馬頭観音の化身。
「また会ったね」
金の髪が風に溶け、微笑が空気に音もなく広がる。彼女の声は、確かに乙名史の耳に届いたはずなのに、どこからともなく胸の内側に響いたようでもあった。
「トレセン学園に何か御用ですか」
敵意はない。だが、安心もできない。声に混じるわずかな震えを、乙名史自身が自覚していた。
「いいや。あなたに伝えたいことがあるんだ」
「私に……?」
疑念が眉間に影を落とす。少女はゆるやかに右手を持ち上げると、人差し指で乙名史の肩から下げているショルダーバッグを指し示した。
思わず視線を下ろす。そこに、入れた覚えのない例の手帳──『運命を綴る手帳』が、何食わぬ顔で収まっていた。
「わたしの行動には限界がある。だから」
「どういう──」
問いかけの途中で、風がふっと横切った。顔を上げると、そこに彼女の姿はもうなかった。
木々のざわめき、梅雨の湿気を帯びた空気、遠くで聞こえるホイッスル──すべてが現実の輪郭を取り戻す。だが、さきほどの光景が夢幻だとは思えない。眼前にあったものの不在。それがかえって、その存在の確かさを刻んでいた。
乙名史悦子は、深くひとつ息を吸い込んだ。思考を切り替える。そう、まずは仕事だ。取材をこなす。それが、彼女に許された唯一の行動である。
再び、足を進めた。
その背を追うように、遠くで蹄音が、微かに、微かに──未来を知らせる鐘のように、学園の中へと消えていった。
「出迎えに遅れて申し訳ありませんでした。立て続けに処理しなければならない案件が発生してしまいまして」
応接室へ向かう廊下で、駿川たづなが丁寧に頭を下げた。やわらかな声に、乙名史は少し緊張をほぐされる。
「いえ、突然取材を申し込んだのはこちらですから」
乙名史は首を振りながら答えた。話しながらも、彼女の心は今日の取材内容を再確認していた。競技者たちの秘めた日常に目を向けることはこれまでにもあったが、今回はそうした日常の裏側にある、もっと曖昧で、もっと古びたものが対象だった。
「学園の七不思議……でしたよね?」
応接室に入り、二人は向かい合ってソファに腰かけた。窓からの光が室内に静かに差し込んでいた。乙名史はバッグから取り出した資料を駿川に手渡す。
駿川は資料にさっと目を通しながら、唇に小さな影のような笑みを浮かべた。まるで懐かしい古い紙芝居をめくるような手つきだった。
「私の耳に入っている噂もいくつかあります。トイレの怪談や、金の蹄鉄の話……」
彼女は資料を揃えて机に軽く当てた。控えめな音が、室内に穏やかに響く。
「たいていは、生徒たちの悪戯ですけどね」
微笑む駿川に乙名史も微笑み返す。しかし彼女の脳裏には、やはり例の手帳が浮かんでいた。あれが悪戯ならどれほど気が楽になるか。この世の中には偶然や悪戯では説明のつかないことがあるのだ、と無理やり分からせられているような気がしてならない。
「乙名史さん?」
はっと我に返る。こちらを不思議そうに見つめる駿川に曖昧に眉を寄せる。
「あぁ……すみません、少し考え事を」
「お疲れのようでしたらしばらく休まれてから……」
「いえ、大丈夫です。とりあえず現場を当たってみます。めぼしい噂をいくつか教えていただけますか?」
「え……えぇ。それでは、おくり坂道の話を……」
窓の外では、風に揺れる木の葉がさらさらと音を立てていた。
──おくり坂道の噂──
これはトレセン学園、というより府中市全体に昔からある一種の言い伝えのようなものです。O町の小さな小道、木々に囲まれた緩やかな坂道には“オクリ様”が現れる。それは背中に憑りつくそうです。こう、覆いかぶさるように。重みを感じたら、それは“オクリ様”の合図。ヒト、ウマ娘関係なく憑りつき、気に入った者を異世界に“送って”しまうらしいです。その坂道は、誰がつけたか“おくり坂道”と呼ばれて、現在でもこの伝承が信じられているのです。実際、この道をトレーニングコースに使う生徒さんも少なくはないですが、時折“オクリ様”の話をしているところを見ると、今でもそこに何かが潜んでいることは確かでしょうね。
────
トレセン学園の生徒たちが練習に用いるのは、なにも整備された施設ばかりではない。学園の円周、あるいは少し離れた峠道なども、彼女たちにとっては好ましい鍛錬の場である。もっとも、学園の者たちの言う「少し」は、常人の感覚では「なかなか」の距離であるのだが。
学園から電車で約10分。駅を降りて坂を下ると、道中が四辻に分かれている。その左手へ進むとすぐ、先ほどまでの住宅街が嘘のように鬱蒼とした林が顔を出す。そこでまた道は二つに分かれる。ひとつは町中へ流れていく道、もう一方は山林の奥へと続いている。林へと至る細道の入口には、苔むした石がひとつ。そこには『おくり坂道』と、やや崩れた文字で彫られていた。あたかも誰かがその名を忘れまいとして刻んだかのように。駿川たづなから聞いた『オクリ様』の噂。その舞台は、この道であった。
乙名史は石の傍らに立って、奥へと延びる獣道を見つめていた。木漏れ日がまだらに照らすその道は、舗装こそされていないが、見た目にはそれほど険しさを感じさせない。だが、その素朴な外見こそが、逆に負荷の大きさを物語っているのかもしれなかった。
ザリ、と一歩、足を踏み入れる。不意に異様な気配があるかと構えたが、何も感じはしない。ただ、空気がわずかに濁ったような、あるいは時間の感覚がひと息だけ遅れたような、そんな違和があった。だがそれは、ほんの僅かの揺らぎであり、誰に指摘できるようなものではない。
あの少女と出会う以前の彼女なら、そもそも霊や怪異といった存在を真に受けることはなかった。乙名史は無意識に、肩のショルダーバッグを掛けなおした。革の感触がやけに冷たく、どこかよその誰かの持ち物のように思えた。
ゆっくりと、しかし迷いなく歩みを進める。自らを健脚とは呼ばぬが、記者という職業柄、あちこち歩き回る日々は続いていた。とはいえ、整えられた歩道と、自然のままにうねるこの道とでは、足運びもまた違ってくる。乙名史は獣道の歩き方を知らなかった。少しヒールのある靴では、体のバランスをとるだけで精いっぱいであり、体力を温存する余裕などどこにもなかった。
「なるほど、これは、しんどい」
呼吸を整えるように、言葉をこぼす。肌を撫でる風は湿気を含み、思わず眉間を寄せるほどの重たさを持っていた。風の向こうに誰かの声のようなものが一瞬混ざった気がして、彼女は立ち止まりかけたが、音はそれきりだった。
ふと、乙名史は自らの異変に気づいた。
膝に力が入らない。熱中症か、と疑ったが、眩暈も吐き気もない。ただ、膝の裏が、何かに支えられているような、逆に力を抜かれているような、妙な感覚だった。彼女は鞄から水筒を取り出し、一口含む。水は口内を潤すが、目の前の不調までは癒してはくれなかった。
「重みを感じたら、それは“オクリ様”の合図」
駿川の言葉が、ふいに脳裏に蘇る。確かに、何かが背中にまとわりついているような、じわりと圧し掛かる気配があった。肩を下ろして深く息を吐くが、それでもその重みは去らない。彼女の影だけが、わずかに形を変えたように見えた。
──どこか、座れる場所を探さねば。
そう思いながら、乙名史は再び、木々の奥へと視線を投じた。
「ねぇ、あなた大丈夫?」
不意に背後から声を掛けられ、乙名史は肩を震わせた。胸の奥で、何か小さなものが跳ねる。振り返ると、見知った姿があった。
「アドマイヤベガさん?どうしてこちらに」
風に揺れる枝の隙間から差す日差しが、彼女のシルエットを縁取っていた。細身の体躯に、濃いえんじ色のジャージがよく映える。
「それはこっちのセリフよ。貴方のような記者が来るようなところではないと思っていたのだけれど」
アドマイヤベガは腕を組み、少々不機嫌に見える態度で切り返す。だが乙名史は、その態度がけして本心からではないことを知っていた。
アドマイヤベガ。彼女は日本ダービーで、テイエムオペラオーやナリタトップロードに勝利したウマ娘。だがその後の菊花賞では精彩を欠き、現在無期限の休養に入っている。
「こちらにいらした、ということは復帰に向けて順調に──」
記者の魂が燃え上がり、すぐさま取材を始めようと手帳を取り出す。しかしその様子を見たアドマイヤベガに、手首を軽く掴まれて制止される。
「ちょっと、まずは座れるところまで行かないと。貴方の顔、真っ青よ」
導かれるままに歩を進める。足元の土は柔らかく、ところどころ苔が厚く繁っていた。鳥のさえずりが、木々の合間を縫うように響く。しばらく歩くと、木々がゆるやかに開けた一角にたどり着く。
そこには、朽ちかけた木製のベンチがあった。かつて誰が設置したのかも定かでないその場所は、地図にも載っていない休息所のように静かで、周囲の風景がまるで時を止めたかのように感じられた。
二人はそこへ腰かけ、乙名史は思わず息を吐く。
「はいこれ。気休めだけど、ないよりマシだろうから」
アドマイヤベガは小さな包みを取り出す。銀紙に包まれた塩分補給飴だ。すみません、と一言謝りつつそれを口に含む。塩の粒が舌に触れ、少しずつ溶けていく。その感触が、不思議と現実に引き戻してくれた。目を閉じて深く呼吸すると、空気の中にわずかに木の香りが混じっていることに気づく。風が髪をそっと撫で、木漏れ日が膝に落ちていた。ささやかな自然の気配が、疲労した身体をそっと包み込んでくる。背もたれに全体重を預けてコロコロと飴を転がしていると、次第に気怠さは引いていった。目の前の木々が、ほんの少しだけ鮮明に見える。
「助かりました。それで、アドマイヤベガさん! 現在のご様子は!」
すっかり元気を取り戻した乙名史は、早速アドマイヤベガへ質問を投げる。一方の彼女は鬱陶しそうに眉を顰めたものの、少しだけ肩の力を抜いた。
「順調に来ているわ。今日も貴方がいなければ、この坂道を踏破する予定だったもの」
と皮肉交じりに答えてくれた。
「なるほど、トレーナーさんと二人三脚、復帰に向けてギアを上げていく所存だと! それで、復帰戦は神戸新聞杯でしょうか? それともいきなりG1を!?」
だんだんとボルテージが上がってきた乙名史は、持ち前の強引さと『補完力』で手帳にメモ書きを残していく。おそらくアドマイヤベガは、助けの手を伸ばしたことを後悔しただろう。不意に立ち上がり、伸びを始める。
「大丈夫そうなら私は行くわ」
そう言い残し走り去ろうとするアドマイヤベガ。乙名史は慌てて立ち上がる。
「あ、あの! この坂道にはオクリ様が出るといううわさが……」
「なに、そんなことを取材しに来ていたの?」
じっと見つめられ、言葉に詰まる。しかし、実際に先ほど体験したのだ。あの体の重さ、体の自由が利かなくなる感触。どれも幻ではない。
「それなら、私は大丈夫だから」
「いえ、先ほど私も経験しましたが、この坂道には何か未知の……」
警告を含んだ実体験を話し出そうというタイミングで、アドマイヤベガはこちらを制止するように手を出す。そして小さく首を振る。
「それは単なる低血糖症。ここまで歩いてきたのでしょう? そんな靴とスーツで。自分の疲労にも気づかず、取材のために無茶をしたってところかしら」
じとっとこちらを責めるかのような目線を向けてくる彼女に、乙名史はただ言葉を飲み込むしかなかった。
「それに今は梅雨時期よ。湿気を含んだ暑さは余計に体力を奪うわ。舗装されていない不安定な道を歩くうちに、体の揺れを眩暈と錯覚した可能性もあるわね」
彼女の言葉は止まらない。なんとしても自分についてきてほしくないのだろう。
「トレーナーにも言われたわ。急こう配が続く坂や獣道をトレーニングに使うときには、軽食を持って行けって。貴方みたいになるから」
とどめを刺すように言い切ると、彼女は屈伸運動を始める。風に乗って、どこか遠くで木が軋む音が聞こえた。まるで誰かが耳打ちするようなその音に、乙名史は思わず木立の奥へ目をやった。
だが、その空間には穏やかな静けさが満ちていた。風に揺れる枝葉の音、地面を這う小さな虫の足音。ほんの少し前の不安が、溶けていくようだった。“オクリ様”の正体、いや、もはや存在していたのかもあやしいソレの真相は、実に単純な不注意から生まれる身体の危険信号だったのだ。
「……すみません。ここ最近、不思議なことが立て続いていて、冷静さを欠いていたのかもしれません」
固定観念から生まれる誤解、ともすれば自身の過剰な論理の飛躍に自省の弁を述べる。すると、アドマイヤベガの耳がピコンと立ち、こちらへ振り返る。
「……不思議なこと?」
意外だった。アドマイヤベガの反応はこちらが想定していたものよりも大きかったのだ。そのことを彼女も自覚したのか、すぐに顔を伏せる。だが、その瞳の奥に微かに揺れる光を、乙名史は見逃さなかった。どうやらアドマイヤベガの中にも何か引っかかることがあるようだ。
なにか、具体性はないが“なにか”が二人の共通認識にいるような気がした。乙名史はバッグから例の手帳を取り出しながら、慎重に言葉を選ぶ。
「信じていただけないかもしれませんが、ある日を境に、この手帳に“運命”を見る力が宿ってしまったのです」
少しの無言。自分で話していても冗談ではないかと思ってしまうような内容だ。アドマイヤベガからしたら突拍子もないうわ言に聞こえるだろう。
「たとえばレースの結果、起きるアクシデントやハプニング。すべてがこの手帳に記されます。まるで初めからそうだと決まっていたかのように」
木漏れ日がアドマイヤベガの頬を照らす。彼女の瞳は揺れない水面のようだった。ただ黙して乙名史の話を聞いている。その沈黙に、乙名史は波紋のような確信を感じ取っていた──この人もまた、秘密を抱えている、と。
さら、と一陣の風が二人の間を横切る。二人は互いに瞬きを取り戻し、膠着していた時間が再び歩みを始めた。
「嘘みたいな、話ですが……」
中途半端に緊張感が抜けてしまったようで、乙名史は自分の話していることが先ほどアドマイヤベガに指摘された“思い込み”を脱し切れていないことに恥ずかしさを覚えた。
「証明できる?」
ふと、アドマイヤベガが口を開く。その口調は面白がるようでも憐れむようでもなく、いたって真剣に物事を試そうとする研究員のような鋭さだった。それに応える方法は一つしかない。彼女の名前を手帳に書き込むのだ。しかし、そのようなことは乙名史のポリシーが許さなかった。いたずらに他人の運命を試すような真似はしたくない。それがたとえ本人からの要望であっても。
「……いいえ。もしその言葉が“私の名前を手帳に書いてくれ”という意味だったとしても、いいえ、です」
強く、まっすぐに彼女を見据えながら乙名史は断言する。試されているようにも懇願されているようにも感じた彼女の視線は、すぐに坂道へと注がれた。
「……そう」
とだけ言うと、アドマイヤベガは走り出してしまった。呼び止める間もなく、彼女の姿が坂の上、木立に消える。いったい彼女の秘めるものとはなんなのだろうか。妙にひっかかるなにかが心の内にこびりつく。──あとを追うべきだろう。思考するが早いか、乙名史は軽く肩をはねさせてバッグをかけ直すと、坂の頂上へ向けて歩みを進め始めた。
先ほどの二の舞にならないように慎重に歩を進める。普段よりも高い頻度で水筒を取り出し水を口に含む。帰りはお腹がこぽこぽになってしまうなと諦観しつつ、アドマイヤベガの辿ったであろう道すがらをなぞる。ゆるやかな傾斜だったが、それでも油断ならなかった。
しばらく行くと、小道の木々が開けた。深いオレンジの光が乙名史の顔を久しぶりに照らす。乙名史は思わず目を細めた。すっかり傾きかけた太陽は、街を朱色に染め始めるところだった。
「こんなところに出るなんて」
色づく街並みを眺めながら言葉を漏らす。坂道を上がってきた乙名史は小高い丘の頂点付近に差し掛かっており、ちょうど木々が開けたこの場所からはコンクリートでできた住宅街と木々や広場の緑、自然との調和が見て取れた。
そして乙名史は、景色以外の存在にも気づいていた。アドマイヤベガが木陰のベンチに座り、息を整えていた。
「あなた、まだいたのね」
アドマイヤベガは怪訝そうにこちらに声をかけてくる。乙名史は気まずそうに苦笑いで返す。
「実は、どうしてもお伺いしたいことがありまして」
「復帰予定なら未定よ。私じゃなくてトレーナーに聞いて」
「いえ、その件ではなく」
ぴたり、とふたりの空気が止まる。お互いに、内心通じ合っているであろうことは一つ。
「……証明はできないんでしょう?それで話は終わったはずだけど」
「なぜ、手帳に名前を書き込んでほしいのですか?」
ぴくり、とアドマイヤベガがこちらを見る。やはり人には話せないなにかを隠している。
「お話しいただければ、お力になれるかもしれません」
まっすぐに、乙名史はその目を見る。言葉は少ないが、彼女の意思はそこにあった。
アドマイヤベガの警戒はすこしずつほどけていく。やがて諦めたように溜息を一つ漏らし、
「詮索好きのおせっかい焼き……誰かさんみたいね」
ぽつりと一言つぶやいた。
「私には、妹がいたの」
──アドマイヤベガの話──
私には、妹がいたの。双子だったわ。同じとき、同じ場所で生まれて、そして……。あの子だけが命を落とした。双子って、特殊なきずなで結ばれているってよく言うでしょ。あれは決して生きている間だけの話じゃないの。私は常にあの子を感じていたし、あの子も、たぶん、私を通して世界を感じていたんだと思う。私は一生懸命走ったわ。あの子にそうするべきだって思ったから。レースにだけ集中すれば、勝ちの景色を届ければ、贖罪になるはずだって信じていた。……でも、それは間違いだった。菊花賞のあの日、あの子が初めて私の前に現れた。心底……、心底楽しそうな笑顔で私を見ていたの。屈託のない、無邪気な、あの子の顔を見て察したわ。私はあの子のことを何もわかってあげられなかったんだって。どうしてあの子の望みだなんて自惚れることができたのかしら、ただの一度だって会話すらしたことがなかったのに。……あの日、あの子は私に別れを告げた。“運命”を連れていくと言って。私にとってはあの子こそが“運命”だったのに、それでも、いなくなってしまった。
────
「だから知りたいの。“運命”とはなにか」
聞き終えた乙名史には、返す言葉がなかった。あまりに現実離れした突拍子のない話。しかしそれが圧倒的な実感を持って語られたとき、人は言葉を失うのだろう。
それに、乙名史には似たような経験があった。存在しないはずの存在が語り掛けてくること、“運命”にまつわる宣告を行われること、現実かどうかを確かめるすべをもたないこと……。
乙名史は静かにカバンから手帳を取り出した。今自分にできることは何か、それを実行するべきだと思ったのだ。
「……アドマイヤベガさん、お話ありがとうございました。これから私は……あなたの名前をこの手帳に記します。あらかじめ断っておきますが、これは決して手品や奇術の類ではありません」
「えぇ、わかっているわ。何が起きても、心の準備はできている」
ペンを取り出し、しっかりと握りしめる。あの日以来となる手帳への書き込み。もしかしたら、すでに効力は失われているかもしれない。それか、あの日の出来事はすべて勘違いで、最初からこの手帳には何の力も宿っていないのかもしれない。
早鐘のようになる心拍を体で感じながら、白紙のページに名前を記す。
アドマイヤベガ
スッとインクを飲み干した紙は、すぐさまその対価を差し出した。
菊花賞にて6着。その後、7月の練習にて
文字の出力が止まる。見たことのない現象に、二人は目を丸くした。
菊花賞にて6着。その後、7月の練習にて左
菊花賞にて6着。その後、7
菊花賞にて6着。その後、7月
エラーを起こしたコンピューターのように、同じ文章が明滅を繰り返す。そして
菊花賞にて6着。
この文章で更新が止まった。
「……これは」
「……終わったの?」
困惑しつつ視線を向けてくるアドマイヤベガ。乙名史も同じ困惑を抱えていたものの、手帳の持ち主として何か答えないわけにもいかないだろうと口を開く。
「ぉ、おそらくは……」
言葉がのどに張り付きうまく発声できなかったが、二人にはそれを気にかける余裕はなかった。
「『菊花賞にて6着』……それから『7月』という単語も見えたわね」
「それと、『練習』!『7月の練習』という言葉がありました」
「『7月の練習』……。これだけじゃ、なにもわからないわね」
アドマイヤベガは少ない手がかりからなにかを読み解こうとしているらしい。しかし手帳は沈黙を続け、二人には辿る糸口が少なすぎた。
「手帳がこんな挙動を見せるなんて私も予想外で、何と言ったらいいか」
「あなたは悪くないわ。私自身、半信半疑だったし」
どちらからとも知れずため息を吐く。緊張感から解放された緩みと期待外れの喪失感が二人を襲っていた。
と、乙名史の脳裏にとある考えが浮かんできた。今日ここへ来た目的、学園の七不思議にも“運命”を騙った噂があったのだ。
カバンを漁り、資料を取り出すと左手で荒々しくページをめくる。確か題目は……。
「あった!」
不意に上げた大声に、アドマイヤベガはびくりと体を震わせた。
「アドマイヤベガさん、“白い鏡”の噂について、ご存じですか?」
つづく