乙名史悦子は忘れない   作:名主権兵衛

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トレセン学園七不思議「白い鏡」

 合わせ鏡。二枚以上の鏡が互いを映すように配置されているとき、そう呼称される。鏡像は光の続く限り鏡へ映し出され、ある種の無限を展開する。

 乙名史は特に身支度をするときに三面鏡を使う。左右の鏡を引き出して、髪形を気にする時、意図せず合わせ鏡になることがある。ふと、うっかりそんな瞬間に合わせ鏡の都市伝説を思い出す。例えば、呪文を唱えると鏡の向こうから怪物がやってくるだとか、左右に広がる自分の鏡像は並行世界の自分の姿を映しており、どこかに自分の死に顔が見えるだとか。

 一度脳内に現れた考えは、容易に振りほどけない。特に最近はこういったオカルトチックな現象に敏感になってしまっている。考えないようにすればするほど、脳内では最悪の想定を重ねていく。

 ──これではだめだ。乙名史は一度目をつむり、鼻から大きく息を吸い込み、ゆっくりと時間をかけて口から吐き出した。

 

 目を開けると、すべての鏡像がこちらを見つめていた。

 

 

 勢い、飛び起きる。暗闇に沈む部屋と、荒い呼吸が、先ほどの出来事が夢なんだと教えてくれる。うるさいくらいに高鳴る心音を治める為、乙名史は台所に向かう。まだ冷房をつけるほどではないと高を括って床に就いたのだが、紫のキャミソールが肌に張り付くほど、乙名史の身体は汗ばんでいた。

 冷蔵庫を開き、こぼれてくる冷風で涼む。そしておもむろに水の入ったペットボトルを手に取り、キャップを回す。そのままコップに注ぐでもなく、直に唇をつけて水を飲み干す。

 ふう、と大きく息をつき、何もない暗がりへと目をやる。すっかり意識が覚めてしまった。記者をやっていると眠れない夜を過ごすことも少なくないのだが、それでも乙名史はこの時間を苦手としていた。

「白い鏡……」

 ふと、先日アドマイヤベガに共有した七不思議を思い出す。どうせしばらく寝付けないのだから、今のうちに噂について考えをまとめておこう。そう思い立って寝室のデスクへ向かう。

 棚から青いA4のノートを取り出しデスクへ広げる。椅子に座りそれと正対して、2Bの鉛筆を手に取る。考えをまとめるには、書き出すのが手っ取り早い。

 

──白い鏡の噂──

 

 今回調査する“白い鏡”の話は、トレセン学園に古くから伝わる言葉に端を発した。

『学園、真の闇に包まるるとき、天、一瞬白光を放ち、一条の光、地に降り注ぐなり。光の射し至れるその地に、白き鏡、姿を現すという。これ、映るものの運命を示すものなり』

 誰からともなく広まったとされるこの言葉は、一説によるとシンザンによって検証され、その結果は秘匿されたという。……と、怪しい尾ひれがついているところも含めて、なんとも七不思議らしいと言える。

 言葉の意味を一つずつ整理してみる。まず『学園、真の闇に包まるるとき』だが、これは言葉通りに受け取っていいだろう。『トレセン学園』が『夜を迎える』。しかし、『真の闇』というと、もう一つ捻りが必要かもしれない。シンザンが──本当に彼女がこの噂を検証しているかはさておき──噂について調査した当時と今とでは、電気の普及率やトレセン学園周りの設備も大きく違っているだろう。『寮の消灯を待ち、警備スタッフが施錠を終えるころ』そう言い換えてもいいかもしれない。

 次に『天、一瞬白光を放ち、一条の光、地に降り注ぐなり』は、まさにザ・オカルトといった具合の文章で考察するまでもないと思っていたのだが、アドマイヤベガの視点が新たな可能性を拓いた。曰く、『雷』のことを指すのではないかと。さらに『雷』が降る日は天候も悪く、月や星もでないため『真の闇』にも近くなると。

 するとそのあとの『光の射し至れるその地に、白き鏡、姿を現すという』は、『雷』が落ちたところに“白い鏡”が出現すると示している。それは『映るものの運命を示す』と。

 改めて現代風に意訳する。

『雷雨の夜、トレセン学園の電気が一通り消えたとき、雷が落ちると、そこに“白い鏡”が現れる。それに映った者は自らの運命を見ることができる』

 

────

 

 言葉の意味は整理できた。やるべきことも明確だ。あとは──

()()()()()()()()()()()()()()()()()……」

 

 午前9時15分。乙名史は再びトレセン学園へと赴く。門の前に立っているのはあの少女ではなく、駿川たづなだ。

「おはようございます、乙名史さん。アドマイヤベガさんから言伝をいただいております。『放課後、第2ウッドへ来て』と。今日はアドマイヤベガさんの取材ですか?」

「え、えぇ、まぁ、色々と並行して」

 乙名史は曖昧な返答でお茶を濁すことしかできなかった。まさか「七不思議調査のため真夜中の学園に忍び込む準備をしているんです」などと、正直に言えるはずもない。

 この時期は宝塚記念やら夏合宿前やらで生徒たち含め学園関係者は人一倍忙しくしている。生徒も職員も、誰もが時間に追われるように動いている。それは駿川たづなも例外ではない。学園への入場手続きをすませると、彼女はちらりと左腕に巻いてある時計を確認した。

「それでは乙名史さん、わたしはこれで失礼いたします」

 駿川は乙名史に向かって深く一礼をすると、迷いのない足取りで廊下の奥へと消えていった。

 トレセン学園内を部外者が引率もなしに歩き回るなど、本来ならばありえないことなのだが、これはこれまでの乙名史が築き上げた信頼がなせることであった。

「さて……」

 乙名史は入り口付近に掲示してある学園の施設案内の前に立つ。鮮やかに色分けされた案内板の全体を視界に納め、学園内の地図を頭に叩き込む。脳内でルートを想定しながら、“白い鏡”の噂を確認するための作戦を固めていく。

 

 16時。約束の放課後の時間。乙名史は第2ウッドを訪れていた。

 ウッドチップコースはその名の通り、木のくずを敷き詰めた練習用のコースとなる。芝やダートのコースに比べて足元への負担が少ないとされるが、筋肉へのアプローチとしては理にかなっており、骨に優しく高負荷のトレーニングを行えるということで脚部不安が残るウマ娘たちの絶好の練習コースとなっている。

 この時間、このコースを使用しているのはアドマイヤベガのみであるらしく、一人ウッドチップを踏みしめながら走っている姿が見えた。その姿は、遠くから眺めていても圧巻であり、まさにダービーウマ娘ここにありといったところだった。

 最終コーナーを回って直線を向く。そこから一気に脚を踏みしめ加速していく。あのダービーで見せた爆発的な末脚は、一切の陰りを見せていなかった。

「……素晴らしい」

 乙名史は思わず呟いていた。これがまさか休養中のウマ娘の走りだとは、到底信じられないことだ。

 アドマイヤベガがゴール板に見立てたヒシアマゾンのパネルを通過した後、乙名史はすぐに彼女へ駆け寄った。

「アドマイヤベガさん、お疲れ様です!素晴らしい走り、拝見させていただきました!」

 アドマイヤベガは乱れる息を整えながらちらりと乙名史へ視線をやる。そして頬を伝う汗を手の甲でぬぐい、ゆっくりとした足取りで乙名史のいるラチ沿いへと歩む。

「こんばんは乙名史さん。悪いけど取材は後にしてもらえるかしら」

 ジッと乙名史を見据えて、ここに呼び出した理由は取材のためではないと念を押すアドマイヤベガ。

「もちろん。もちろん、わかってますよぉ……」

 こみ上げる取材熱をぐっと喉元でこらえる乙名史。そうだ、今日アドマイヤベガに会いに来たのは“白い鏡”の件を共謀するため。しかし、今の走りは充分取材に値する素晴らしい出来栄えだった。気持ちを切り替える葛藤を行う最中、乙名史は両の手を握りしめ、小刻みに震える体を抑えるためにうつむいた。

 

「──ということで、雨の予報が出ている日付を洗い出してみました」

「……明後日なら、私、外泊の許可をもらっているわ。山に登って星を見るために」

「ちょうどいいじゃないですか!」

 少し声のボリュームが大きくなる。アドマイヤベガは素早く人差し指を自らの唇の前に突き立てた。

「でも、真夜中に学園に侵入するなんて至難の業よ。それに雷だって落ちるかわからないんだし……」

「えぇ、それならばお任せください」

 

──乙名史悦子の作戦──

 

 まず、真夜中の学園に忍び込む件からお話しします。以前、学園のセキュリティについて取材を行った際の資料がまだ手元に残っていました。約1年前のものですが、ここから大きく変更はないと祈りましょう。……さて、この資料によると、トレセン学園を中心として、東に練習トラック、南には屋内プール施設があり、西側にある学生寮とは塀が立てられ仕切られている状態だと。しかしこの塀もトレセン学園の外周をすべて囲んでいるわけではなく、北の方向にある森林、ちょうどあそこに見えますね、あれの近くには塀が設置されていないのです。整地されておらず、言わば天然の要害とも言えるほどに踏破には向かない環境のようですが、誰にも知られずに学園へ侵入するにはあそこから入るしかありません。

 次に、雷の落ちる場所について。これについては私にも予測できません。そもそも都内に降る雷の約9割が、避雷針に吸われて地面や家屋に当たらないそうです。当然この学園にも避雷針設備はありますし、まともに雷が落ちない可能性の方が高いです。しかし、万が一の可能性を考えて屋上へ向かいましょう。屋上からなら学園全体を見渡すことができます。

 

────

 

 滔々と作戦を披露する乙名史に、アドマイヤベガは黙って聞き入った。雨の予想される日に森林側からの侵入を試みるなど命知らずだとも思ったが、目的を達成するための唯一の手段なのだ。現に彼女には対案が浮かばなかった。“白い鏡”の伝承を確かめるには、むしろ最善の策とも思えたのだ。

「……わかったわ。北側の森林地帯に集合で、時間は真夜中零時。これでいい?」

「えぇ!噂の真相を……“運命”の正体を確かめましょう!」

 

 二日後。午前零時。

 ざぁっと風がなびく度、加減を知らない雨粒が乙名史の身体を打ち据える。雨合羽はその猛攻に抗いきれず、肌に吸い付くように張り付いて、冷たさと湿り気が皮膚をじわじわと浸食していた。冷たいのか、濡れているのか、あるいは両方か。その境界線はすでに溶けていた。

 ず、と泥に沈む足。長靴はぬかるみに囚われ、葉にまみれ、もはや重りのようだった。スティックライトを頭上にかざす。その明かりを頼りに歩を進めていく二人。光の輪の外は闇がぬっと口を開けて待ち構えている。この森林は噂通り、いやそれ以上に苛烈だった。葉をすり抜けた雨粒が滴り、髪に、頬に、首筋に忍び込む。枝は風にあおられてざわめき、濡れた音を立てて乙名史の肩をたたく。まるで、ここから先には行くな、そう言われているかのようだった。

 乙名史はぎゅっと目をつむり思い込みを打ち消す。今は雨に打たれて辛いからネガティブな考えが生まれるのだ。もう少し行けば屋内に入れる。今はそれだけを考えてやり過ごそうとしていた。

「乙名史さんっもうすぐよ……っ」

 先を見据えたアドマイヤベガがちらちらとペンライトの明かりを揺らしながら語り掛ける。その言葉に乙名史も前方へ視線を向ける。たしかに、森林の終わりが見えた。

「それで、校舎内にはどうやって入るの?」

「ご安心ください。宿直のトレーナーさんに便宜を図ってもらっておりますので」

 森林から抜けた先は、ちょうどトレセン学園を後ろから見た形になる。そこにはちょっとしたピロティと、裏口とも言うべき入り口があった。

 乙名史は事前に当日の宿直トレーナーを調べ上げ、特定の時間だけ裏口のカギを開けておくように頼み込んでいた。その甲斐あって、二人は雨の中足止めされることなく、スムーズに校舎内へと侵入することができた。

 

「あなた……まさかいつもこんなことをしてるわけじゃないでしょうね」

「とんでもありません。ただ、取材には丹念な根回しが必要だということを知っているだけですよ」

 長靴を脱ぎ、校内へと至る。吹きすさぶ風が、時折窓枠をタン、タンと叩く。合羽から水滴がフローリングへ零れ落ちる。予想通り、屋内は真っ暗だった。

「……わかっていたけど、やっぱり少し不気味ね」

 手元のスティックライトが空気の粒子を切り裂きながら道を照らす。廊下に並ぶ扉、掲示物、掲示板──すべてが見慣れたはずの光景なのに、夜の帳が下りるとその輪郭は歪み、不安の影を孕んでいた。

「七不思議の舞台って、夜中の学校とかトイレの個室とかが多いですよね。未知であること、孤独であることなどが不思議を生み出すのでしょうか?」

「今はその話しないで。余計なことを考えそうになるから」

 ただ屋上に向けて歩みを続ける。道中、雷が落ちないことを願いながら。

 三階。ここで階段を変える必要がある。裏口近くの階段は屋上に繋がっていないため、教室を三つ横切り、別の階段へと進むことになる。薄暗い廊下、静まり返った教室のガラス窓の向こうには、誰もいないはずの影がちらつくような錯覚があった。

「……理科準備室」

 足を止め、立て札を読むように呟く。だがそれは、ただの気まぐれではなかった。扉が──開いていた。

 ぎ、と微かに軋んだ扉の隙間から、冷たい空気が滲み出てくる。嫌な予感がした。この言葉をこれほど正確に使える瞬間は、そう多くない。なぜこの扉だけが開いている? 風か? それとも──誰かが?

「乙名史さん、早くいきましょう」

 後ろからアドマイヤベガの低い囁き。促されながらも、乙名史の足は止まっていた。理屈では説明できない不安が胸に絡みつく。だが、それでも──よせばいいのに──好奇心が恐怖を上回ってしまった。

 そっと、理科準備室の中を覗き込む。濁った光の先に、誰か──人影?いや、シルエットだ。スティックライトをかざすと、光に浮かび上がったのは、人体模型だった。

 ふう、と乙名史は息を吐く。全身の力が抜けていくのがわかる。そう、ただの模型だ。見た目は不気味でも、それだけのもの。大人がそれに怯えるなんて、少し滑稽だとさえ思える。安堵が胸の奥に灯り、小さな勇気すら芽生え始めていた。

 ──ほら、誰もいないじゃないか。ビーカーに、人体模型に、普通の道具たちだ。あそこの骨格標本だって、見た目は怖いけれど目が赤く光っているだけで何も……。

 ()()()()()()()()()

 その時、窓越しの夜空がカッと光った。一瞬の光に照らし出される教室。たっと後ろで床を蹴り上げる音。まさかと振り返れば、そこにアドマイヤベガの姿はなかった。

 まさか──置いていかれた!?

 恐怖、焦燥、情けなさが一気に胸を突き上げる。ひゅうッと喉が鳴り、息が詰まる。その瞬間、身体は勝手に動いていた。信じられないほどの速さで、雨の水気が染み込んだ廊下を乙名史は駆け出していた。スティックライトの明かりが揺れ、濡れた床がぬらりと光る。滑りそうになる足を必死に制御しながら、ただ、前へ。

 

 やがて──階段の上。屋上へと繋がる最後の扉の前。

 乙名史とアドマイヤベガは、肩で荒く息を吐きながら、壁に手をついていた。

「ひ、ひどいですよアドマイヤベガさん!置いていくなんて!」

「しょうがないじゃない!……いえ、ごめんなさい。その、見えたかもしれないけどあの骨の目が……」

 言いかけて、口を閉じる。

 二人の間に、短くも重たい沈黙が落ちた。あの赤い目を、互いに確かに"見た"という確信。それを言葉にすれば、何かが現実になってしまう気がして。

「……。し、白い鏡。それを確かめましょう」

 乙名史は、手の震えをごまかすようにノブへと指を伸ばした。

「雷が……落ちてくれることを願って」

 ここに来た理由、それだけは見失ってはならない。

 振り返るな、考えるな。ただ前へ。

 ──お願いだから、あの赤い目の骨が、いまも階段の影から覗いていたりしませんように。

 

 扉を開放すると、雨水と風が容赦なくなだれ込んできた。二人は改めて雨合羽の襟を握ると、意を決して屋上へと繰り出した。

 カッと空が光る。数瞬遅れて、空が鳴る。雷が確実に近づいてきていた。

「次の作戦は……待機、かしら?」

「辛抱強く待ちましょう。耳栓、使います?」

「……えぇ、ありがと」

 アドマイヤベガは受け取ったウマ娘用のイヤーカフ耳栓を装着すると、練習トラックの見える方面を向いた。

「実を言うと、私の脚にはもう何の異常もないの。というか、あの菊花賞から今まで一度だって足の不調を感じたことはなかったわ。でも、なんていうか──怖いの。レースに出るのが。なにか……なにか大きな、取り返しのつかないことが起きてしまうんじゃないかって」

「……それが、“運命”だとお考えなのですか?」

「そうね……。あの子があの日持って行ったはずの“運命”。でも、もし全てが“運命”による決定だったら?私が日本ダービーを勝ったのも、菊花賞で負けたのも、あの子の行動すらも全部──」

「──それなら、打ち勝ってやりましょう!」

 乙名史は迷うことなく答えていた。“運命”という言葉が何を指すのかはわからない。結果論?決定論?宿命論?様々な哲学者が、知識人が、“運命”を定義付けようと躍起になっている。だが、たとえ“運命”が存在するとしても、未来を諦める理由になどしていいはずがないのだ。

「むかし、家庭の事情で競技者の道を諦めざるを得なかったウマ娘を見ました。理由は(ちが)えど、今でも競技を諦める瀬戸際のウマ娘を知っています。そんな人たちに、『貴方が競技に参加できないのは、運命ですでに決まっているからなんだよ』なんて、誰にも言う権利なんかない!」

 アドマイヤベガは驚愕した。乙名史の熱に、そして自らの諦観に。なぜこんなにもレースに絶望的だったのだろう?結果は走るまで、ゴールするまで誰にもわからないじゃないか。“運命”という言葉に踊らされて、考えなくていいことまで考えて、その上何もせずにレースを諦めようとしていたなんて。

「私──」

 ──ごぉ、と、空が低く唸った。

 次の瞬間、ドンッと腹に響く轟音。空気がひしゃげ、地面が一瞬、揺れた。雷だ。

「落ちました! 場所は……っ」

 乙名史の言葉が途中で途切れる。

 その視線の先、屋上から見下ろす正面玄関のすぐそば──三女神の噴水像が、まるで満月のような光を放っていた。激しい雷雨の真夜中には到底そぐわない、静謐で神聖な輝き。

 そこにあったのは、鏡。

 ──“白い鏡”。

 

 屋上から正面玄関までの道のりを、二人はほとんど記憶していなかった。ただ走った。まるで地上の運命に呼ばれるように。気づけば噴水の正面、濡れた石畳の上に立ち尽くしていた。

 その鏡は、楕円形の姿見だった。枠も脚もなく、ただ宙に浮かび、噴水の水面から数センチほどの高さに静かに漂っている。鏡自体がかすかな光を放ち、闇夜の中で息をしているかのように脈動していた。

「……これが」

「“白い鏡”ね」

 二人は言葉を交わしながらも、視線を逸らせなかった。

 その鏡の表面は曇り、輪郭だけがぼんやりと返ってくる。だが、ほんの一歩近づけば──なにかが起こる。

 その一歩を、アドマイヤベガが踏み出した。

 鏡像もまた、彼女の動きをなぞるように歩み寄ってくる。現実と鏡の世界が、まるで同じ舞台で踊るように同期していた。

 足場は石畳から噴水の縁へと変わり、やがて水面へ。だが彼女は、冷たい水を意にも介さず、ゆっくりと右手を鏡へと伸ばした。

 鏡像も同じように手を上げる。二人は鏡越しに互いの手を、そっと重ね合わせた。

 ──その瞬間、乙名史は気づいた。

 風が、止んでいる。雨も、音を潜めている。あれほど激しく打ちつけていた世界が、まるでその役目を終えたかのように、ただ静かにこの光景を見つめていた。まるで、大いなる何かがこの瞬間を「神聖な時」として許したかのように。

 アドマイヤベガは静かに両の目を閉じ、額を鏡へと預けた。その頬を、一筋の涙が伝う。けれど、それは悲しみではなかった。口元には、どこか懐かしさと、微かな喜びが溶け合ったような優しい笑みが浮かんでいた。

 乙名史は、言葉をかけようとして──やめた。この瞬間を壊してはならない。今、彼女は確かに、誰かと再会しているのだ。たとえその“誰か”が鏡の中にしかいないとしても。

 

 

「『──彼女の見た“運命”は望むものだったのか。それは私にはわからない。しかし、確かなことが一つだけある。彼女は決意した。レースへの完全復帰を、ライバルたちとの再戦を。次の舞台は神戸新聞杯。彼女の次なる活躍に期待がかかる』……。ふぅん……」

 灰色のデスクに座る上長が、ビン底のような分厚い眼鏡を押し上げながら、乙名史の草案を読み上げる。読み終えたあと、眼鏡を外して両目をぎゅっと瞬かせた。

「いいんじゃないか? オカルティックで。アヤベの次走取材も読者の関心を引くだろう」

 とん、と資料の束をデスク右端に置く。それは“合格”の合図。乙名史は深く一礼した。

「お疲れさん。引き続き七不思議取材は続けてくれ。それが本当であれ嘘であれ、トレセン学園のことは……みんなが知りたがっている」

 静かにデスクへと戻る。閉じられたパソコン。その上に置かれていたのは、例の──“運命を綴る手帳”。

 椅子に座り、背もたれに体重を預ける。なにげなく手帳を手に取り、ぱらぱらとページをめくっていく。ある時、乙名史は息を止めた。

 アドマイヤベガの記述が……ない。ページをめくる。ひとつひとつ、慎重に。

 ──ない。

 シシドジョーの記録も、ブラウンシュガーも、レースの内容や今後について、痕跡ごとすべて消えていた。

 間違えた? そんなはずはない。この手帳には無数の印をつけてある。誰にも触らせず、間違えぬよう手配した。けれど──それでも、記述は消えていた。

 まるで最初から()()()()()()()と言わんばかりに。

 手帳を閉じた指先が、微かに震える。覚え違いのはずがない。あれが夢だということもない。()()()()()()()()()()()()()()()。それの良し悪しはどうであれ、今わかるのはそれだけ。

 乙名史は静かに立ち上がった。

 

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