乙名史悦子は忘れない   作:名主権兵衛

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登場人物
・乙名史悦子……月刊トゥインクルの記者。奇妙な手帳を持つ。
・ブラウンシュガー……現在怪我療養中のウマ娘。
・アドマイヤベガ……ミステリアスなダービーウマ娘。“白い鏡”の件で乙名史に借りがある。
・アグネスタキオン……今年デビュー予定のトレセン生徒。
・ゼンノロブロイ……新入生。図書委員を志望している。
・馬頭観音……美しい金髪が特徴の存在。乙名史の手帳に能力を授けた。


トレセン学園七不思議「ミラーラン」

 夜。トレセン学園内。練習トラック。第1芝コースにて。

 満月が照らす夜間練習。一人のウマ娘がスタートを待つ。

 息を整え、全身に力を込める。

 ザッと芝を蹴りだし走り始める。最初は小刻みに。

 ザ、ザ、ザ、ザ、ザ。

 コーナーを向かえ、ラチ沿いへ内をとりながら次第にストロークを伸ばしていく。

 ザッ、ザッ、ザッ、ザッ。

 一人の足音が響くコース。この辺りで位置取りを終わらせ、向こう正面は伸び伸びと走りたい。

 ザン、ザン、ザン、ザン。

 よし、エンジンがかかってきた。あとは最終コーナー。ここで減速せず少し外に膨らみながらも加速をしに行きたい。

 ──と、背後に気配を感じた。

 ザザ、ザザ、ザザ、ザザ。

 二人分の足音が響くコース。

 

 

 七月。例年より早く終わった梅雨は、しかし空気の底にじっとりとした湿り気だけを残していった。夏の兆しは既に確かな輪郭を持ち始めており、容赦のない太陽光が白々と地面を照らしては、湿気を膨張させ、まるで見えない布団のように人々の肌へ、肺へとのしかかっていた。

 そんな蒸し返すような昼下がり、乙名史は病室のドアをそっと開け、ブラウンシュガーを見舞っていた。

「──それで、こっちが友達が差し入れてくれた漫画です! 有名な漫画家さんの代表作らしくて、お勧めされたんですけど……絵が少し苦手で……」

 そう言いながら、ブラウンシュガーは漫画本を両手で持ち上げ、乙名史に向けて掲げた。目はまるで星のように爛々と輝き、話すたびに喜びの光を放っている。

 彼女が差し出したその表紙には、ケミカルな配色の背景に市松模様柄の帽子を被った白い少年が描かれていた。確かに目を引くデザインではあるが、乙名史は一瞥して、なるほど──年頃の少女が好んで選ぶものではないな、と納得した。

「最近は、上半身の維持を目的としたトレーニングに励んでいらっしゃるとか」

「そうなんです!……脚は、まだ動かせないけど。でも、復帰したときに前よりも強くなってるって、みんなをびっくりさせたいんです!」

 漫画をお腹にのせたまま、彼女は両腕を曲げて、力こぶのポーズ──いわゆるバイセップス──を見せつけるように披露する。その明るさは確かに周囲を照らすものだったが、それでもどこか、乙名史の胸には痛々しく響いた。

 あの手帳に刻まれていた、あの文言──あれが頭の奥で、消えずにざわついているからだ。

 あの日以来、乙名史は馬頭観音の姿を見ていない。例の祠も、学園の前も、思いつく限りの場所を巡り、あらゆる手段で呼び出そうと試みたが──すべて、手応えなく終わった。

 それでも、“運命を綴る手帳”がただの文房具に戻ったわけではない。何かを書き込もうとすれば、文字はまるで水に溶けるインクのように瞬く間に消え、跡形もなく白紙に戻る。“未来を記す手帳”は、今や“何も記せない手帳”へと姿を変えてしまったのだ。

「おーい、乙名史さん?」

 明るく響いたブラウンシュガーの声が、乙名史の思考を現実へと引き戻した。まるで深い水の底から一気に浮上したように、周囲の光景が急に輪郭を取り戻す。

 彼女は不意を突かれたように瞬きをし、なんとか気を取り直して口を開く。

「あ、えーと……それ、寄せ書きですか?」

 言葉を探しながら視線を向けた先、ふとブラウンシュガーの右足のギプスに目が留まる。白地のプラスチックに、カラフルなペンで書き込まれた文字や絵──それはまさしく、彼女のもとを訪れた友人たちからのメッセージだった。

「そうなんです。お見舞いに来てくれたみんなが書いてくれて。私からはほとんど見えないのに」

 そう言って、ブラウンシュガーは少し恥ずかしげに、けれどどこか誇らしげに笑う。その笑顔には、まだ若い彼女の素直な喜びが滲んでいた。

 視線をギプスへと戻すと、「がんばれ!」や「復帰待ってるよ!」といった励ましの言葉に混じって、どこかとぼけた似顔絵や、白い帽子の少年のイラストなども見える。

 その中の一文に乙名史の目が向いた。

「──『ミラーマンに負けるな』……?」

 その言葉に、胸の奥がざらりと波打つ。確かに聞いた名だった。七不思議の取材の中、配布された資料の中に見た覚えがある。

「そう!“ミラーマン”!乙名史さん、ご存じですか?」

 ブラウンシュガーは身を乗り出すようにして、声に期待をにじませた。

「噂程度なら……。もしよろしければ、お話伺えませんか?」

 乙名史の声は落ち着いていたが、その瞳の奥には明らかな興味の灯が宿っていた。“白い鏡”の一件は、確実にこの世界に影響をもたらした。もしかしたら“ミラーマン”は、今の乙名史の抱える謎を解く鍵になってくれるかもしれない。そんな予感が、静かに彼女の脳裏に浮かんでいた。

 

──ミラーマンの噂──

 

 私が入学して、一年経ったか……くらいかな?学園のみんなが突然“ミラーマン”の話をするようになったんです。なんでも、『療養明けのウマ娘』が『夜間練習』を『ひとり』で行っているときに、後ろから追走するようにやってくるんだとか。“ミラーマン”はとっても速くて、そいつに競り負けてしまったら最後、呪われちゃってうまく走れなくなっちゃうんですって!そんなこと言われたら、みんな“ミラーマン”と走りたくなっちゃいますよね!怪我したり、病気したり、やむを得ない理由で休場を余儀なくされた学園生はみーんな夜間練習を申請するんだそうです。トレーナーさんも困ってましたよ。私ですか?……うーん、やっぱり、戦ってみたいかなって……あはは……。

 

────

 

 

 翌日。乙名史は朝のうちにトレセン学園を訪れ、“ミラーマン”にまつわる噂の聞き込みを始めていた。

 生徒たちへの聞き取りは順調だった。ほとんどの者が名前を知っており、詳細な噂を語る者さえいた。だが、それはあくまで“生徒”に限った話だった。

 教職員や事務員、保健室のスタッフといった大人たちに話を向けると、決まって「聞いたことがない」「そういうのには疎くて」と首を傾げるばかり。誰も明確な手がかりを持ってはいなかった。

「……比較的新しい噂……。生徒同士でのみ共有されている?」

 昼下がりの陽光が降り注ぐ噴水前のベンチに腰掛け、乙名史は手帳に挟んだ取材メモをめくりながら、ぽつりと呟いた。

 そういえば──ブラウンシュガーも、入学して少し経った頃に“ミラーマン”の噂を耳にするようになったと話していた。ある時点を境に、突然広がった。

「──誰かが意図的に、この噂を流している?」

 言葉にした瞬間、考えの断片が輪郭を持ちはじめる。

 “ミラーマン”とは、何者かが仕組んだ作り話なのではないか。あたかも怪談のように噂を流布し、競技復帰を目指すウマ娘たちを夜の練習に引き込んでいる──まるでそれが目的であるかのように。

 だがそれならば、なぜ? 何のために、そんなことを?

 仮説は仮説に過ぎない。憶測で動くには、材料が少なすぎる。

 乙名史はメモを閉じ、深く息を吐いて立ち上がる。水のきらめきと風の音に背を押されるように、彼女は静かに校舎へと足を向けた。まだ聞ける声は、きっとあるはずだ。

 

「“ミラーマン”、ねぇ。たしかに、噂程度は耳にしているよ」

 次の取材相手──今年デビューを控える栗毛のウマ娘、アグネスタキオンは、旧理科準備室での研究の手を止めることなくそう答えた。声には笑みが混じっていたが、その響きにはどこか冷たい膜がかかっていた。

「この噂は、ある時期を境に急速に広まっています。いつ頃お聞きになったか、ご記憶にありますか?」

「……ないよ」

 短く、冷たく切り捨てるような返事。だが、乙名史の目はそのわずかな瞬きを見逃さなかった。口では否定していても、彼女は“ミラーマン”と何らかの形で接点を持っている──その反応が、無意識のうちにそれを物語っている。

「そうですか。他に、何かご存じのことは?」

「……そうだね。どの文献だったかは定かじゃないけど、図書室でその噂に触れた記述を見た気がするよ」

「ありがとうございます。参考になりました」

 乙名史は静かに一礼し、旧理科準備室を後にする。

 だが、胸の奥では思考がざわついていた。アグネスタキオンは“何か”を知っている。もしかしたら彼女こそが“ミラーマン”の正体なのではないか? そうでなくとも、噂の核心に深く関わっている可能性は高い。

 ──なのに、なぜ図書室の情報を話した?

 取材の撹乱か、それとも「気づいてほしい」という暗示なのか。

 からり、と図書室の扉を開ける。昼過ぎの今は多くのクラスが授業中で、館内はほとんど無人に近かった。それでも、カウンター席には一人──耳の大きなウマ娘が静かに座っていた。

「恐れ入ります。私、月刊トゥインクルの乙名史悦子と申します」

「あ、どうも。私はゼンノロブロイです。……えーと、先生をお呼びしましょうか?」

「いえ、それには及びません。実は“ミラーマン”の噂について、取材を行っておりまして……」

 その名を口にした瞬間、ゼンノロブロイの右耳がピクリと跳ねた。彼女はすぐに表情を整え、カウンターの下から青い背表紙の貸出記録ファイルを取り出すと、熱心にめくり始める。

 乙名史はその間、館内に静かに目を巡らせた。

 奥の席──あのウマ娘は、去年靱帯を痛めたと発表されていたシニア級。隣に座る少女は、インフルエンザによる長期離脱が続いていた子。

 思考が、ある仮説に結びついていく。

 図書室とは、ただの読書の場ではない。療養中のウマ娘たちにとっては、再起を目指すための“情報の港”だ。怪我、リハビリ、治療──そして、もしそこに「療養明けのウマ娘を狙う怪異」の本があったとしたら? それを読んだ誰かが、無意識に──あるいは意図的に──噂を広めたとしたら?

「──お待たせしました」

 背後から声が届き、乙名史は振り返る。

「“ミラーマン”を名指ししているわけではありませんが、『学園に伝わるうわさ~夜のコースに現れる怪異~』という資料に、それに該当する記述があるかと」

「その本を拝見できますか?」

「えーと、外部の方への貸出は規則で……。この室内でお読みいただくなら、お持ちできます」

「承知しました。お願いします」

 ゼンノロブロイはうなずき、迷いなく書架のひとつへと向かっていく。やがて、分厚い一冊を手に戻ってくると──それは、鋭い目をした少年と、黒く塗り潰されたような怪異の挿絵が描かれた、不穏な空気を漂わせる書籍だった。

「ありがとうございます。ところで、差し支えなければお伺いしたいのですが……この本、いつ返却されたものか分かりますか?」

「あっ、少々お待ちくださいね」

 彼女は再びカウンターの奥へ戻り、貸出記録のページをめくって確認する。

「──おととい、返却されています」

「その返却者は?」

 わずかな間を置いて──

「アグネスタキオンさんです」

 静まり返った図書室に、その名だけがはっきりと浮かび上がった。

 

その本との邂逅は、乙名史にとって実に有意義だった。

 記されていた怪異──夜のコースに現れる“黒い人影”、療養明けのウマ娘を狙う何者か、競り負けた者が原因不明の不調に陥るという記述──どれもが、“ミラーマン”と呼ばれている現代の噂と酷似していた。

 ただし──“ミラーマン”というキャッチーな呼称はどこにも記されておらず、文体も古風で堅い。

 刊行年は1970年代。当時の資料が今、学園の生徒たちの口の端に上るなどという偶然は、もはやあり得なかった。

 誰かが、古びた学園の噂を掘り起こし、再構成して現代へと流した。

 そして、その“誰か”は──最初からわかっていた。

「あなたからいただいた情報のおかげで、随分取材が進みましたよ」

 乙名史は再び、旧理科準備室の扉を叩いた。部屋の主、アグネスタキオンは机に向かい、淡々と研究内容をパソコンへ打ち込んでいた。

「そうかい。でも、私は君の上司じゃない。いちいち報告に来なくて結構だよ」

 視線を上げぬまま放たれたその言葉に、乙名史は微笑を返す。

「えぇ。ですが、こと“ミラーマン”に関しては、あなたに報告する必要があるかと」

 カタカタと響いていたタイピングの音が止まった。タキオンは視線だけを動かし、じろりとこちらを射抜く。

「……もったいぶった言い方は好きじゃない」

「なら、単刀直入に。“ミラーマン”の噂を生徒たちに広めたのは──あなたですね」

 一拍。空気が硬くなる。

「あぁ。そうとも」

 アグネスタキオンは、まるで最初から問われることを見越していたかのように、あっさりと認めた。その顔には驚きも戸惑いもない。ただ、言葉の続きを楽しむような、静かな好奇心の色が灯っていた。

「なぜ、そのようなことを?」

 問いかけた乙名史の声は冷静だった。だが、その内心では何かが跳ねるのを感じていた。それに応えるように、タキオンは不意に、突き抜けるような笑い声を上げた。

「あっははははっ!」

 右手で額を押さえながら、椅子をくるりと回し、乙名史の方へと正面から向き合う。

「これはある種の実験だよ」

 その目は、何かに取り憑かれたような、あるいは全てを見下ろす観察者のような光をたたえていた。

「いいかい?噂に必要な事とはなにか……」

 

──アグネスタキオンの話──

 

 噂に必要な事とはなにか……。それは“知られること”。多くの人に知られ、信じられ、形作られる。それこそが噂にとって最も重要な事なのだよ。我々の持つ警戒心も元は認知から来るものだ。そうだろう?鉄でできたヤカンに触ったら熱いかもしれない、回っているブレードの中に手を入れたら切れるかもしれない。それは全くの無知では警戒できないことなのさ。つまり、怪異があって噂が生まれるんじゃない。噂があって、怪異が生まれるのさ。それを私は実証した。あの図書室に会った本は、実に有意義な存在だったよ。

 

────

 

 “噂”というものの伝播と威力を測るために──

 かつて実際に行われたという都市伝説の実験。噂の広がる速度・正確性を検証するために「口裂け女」を流布したというあの話は、今では都市伝説そのものよりも語り継がれているほどだ。アグネスタキオンは、それと同じことを、このトレセン学園で行ったのだ。

 だが──なぜ?

 乙名史の心に残るのは、ただそれだった。ただ広めて終わり?彼女のような才媛が、それだけで満足するとは到底思えなかった。噂の裏には、きっと別の目的がある。

「その噂を聞いて、多くの生徒たちが“ミラーマン”に挑んだと聞きました。中には、本当に呪われてしまった生徒もいるかもしれません」

 乙名史の声には、感情が混じっていた。

「あなたは、ただ噂を広めただけなのかもしれません。でも、それによって走れなくなった子がいたら。スランプや、PTSDを起こしてしまった子がいたら。その責任は、あなたにもあるんです」

 それが“呪い”であるかどうかは重要ではない。問題は──その噂によって、ウマ娘たちが無理をし、自分の走りを見失い、傷ついてしまう可能性が現実にあるということだ。

「ずいぶん大袈裟に言うんだねぇ」

 瞬間、乙名史の心の奥に火がついた。

「大袈裟ではありません!」

 声が、室内に鋭く響いた。アグネスタキオンの目がわずかに見開かれる。

「私は、あなたの目的が知りたいんです。何故このような噂を流したのか。何故、怪我をしたウマ娘に無理をさせるような真似をしたのか」

 アグネスタキオンの瞳が揺れ動く。まるで今まさに、自分のしでかした事の副作用に気づけたかのように。口を開き、閉じる。何度か空気を取り入れるかのように開閉を行った後──観念したように、ぽつりぽつりと語り始めた。

「……私は……彼女たちの夜間練習を、こっそり見学させてもらっていただけだ。怪我で離脱することは、誰にだってある。私は“その時”のためのデータが欲しかった。それだけなんだ」

 その言葉には嘘はなく、また、その態度に傲慢はなかった。

 タキオンはただ、ウマ娘という存在にとって“復帰”がいかに困難であるかを知っていた。そして、自分自身の未来にもそれが訪れるかもしれないと、冷静に予測していた。

「練習時間もコースもバラバラだ。だから、夜間に集まる理由があれば──いいデータが、揃うと思って……」

 彼女はただ、備えたかった。科学者として、ひとりのウマ娘として。

 乙名史は、ゆっくりと息を吐いた。

「……お話しいただきありがとうございます。そして、申し訳ありません。感情的になって、叱責するような真似をしてしまいました」

 深く、丁寧に頭を下げる。人として、記者として、礼を欠くような物言いをしてしまったことに、彼女なりの悔いがあった。

 静かな沈黙が落ちる。

「アグネスタキオンさん。もしよろしければ──“ミラーマン”の噂を、一緒に検証してみませんか?」

 その言葉が落ちると、室内にわずかな沈黙が生まれた。

「……なんだって?」

 ぱちくりと瞬きを重ねるアグネスタキオン。瞳に宿る理性の光が、一瞬だけ揺らいだ。乙名史はその視線を正面から受け止め、静かに、けれど確かな意志を宿した口調で続けた。

「あなたがさっき仰ったように、『噂に必要なのは、知られること』──これは、まさにその通りだと思います。今では学園中の生徒が“ミラーマン”を知っている。名前を、姿を、あるいは影を。それはもう、誰かの空想ではなく、皆の記憶に共通する“存在”です」

 机の上で青白く灯るモニターの光が、乙名史の頬を仄かに照らしていた。その光の中、彼女の瞳はまるで星のようにきらめいていた。信仰ではない。執着でもない。ただ、真実に向かおうとする者の眼差しだった。

「だからこそ、今や“ミラーマン”は、ただの噂話ではなくなった」

 アグネスタキオンは椅子の背にもたれ、腕を組みながら乙名史をじっと見据えた。その表情に笑みはなかった。だが唇の端だけが、わずかに吊り上がっている。皮肉か、あるいは楽しげな前兆か──そのどちらとも取れる曖昧な笑み。

「……ただの伝承が、人々に知られることで実体を持ったと? 荒唐無稽な話だな」

「だから、検証するんです」

 乙名史は微塵もひるまずに応じる。理屈で測れないからこそ、確かめる必要がある。そして乙名史には、その“確かめるべき現象”が、既にほんの僅かとはいえ、現実に触れてきていることを──知っていた。

 アグネスタキオンは小さく鼻を鳴らし、やがてその唇をゆっくりと歪めた。

「──気に入った」

 それは、純粋な好奇心に火が灯る音だった。彼女のその笑みは、実験に向かう科学者のものだった。だが同時に──“未知の扉”に手をかけようとする者が、ときに持つ狂気にも似ていた。

「ところで、私はまだデビューもしていないし、今のところ健康体なんだが……検証役として、誰かあてはあるのかい?」

 冗談めかしながらも、わずかに含みのある声で問うタキオン。

 乙名史は、ひとつ頷いた。

「えぇ、ひとり。当てがあります」

 

 ──夜。月明かりがかすかに練習トラックを照らしている。

 人気のないトレセン学園の敷地内、そこにぽつんと立つのは、乙名史とアドマイヤベガのふたりだった。

「──で、私がここに呼ばれたってこと?」

 彼女は眉をひそめ、夜風に軽く揺れる前髪を気にするように手で払った。

「急なお願いにもかかわらず、ご対応いただきありがとうございます」

 乙名史は、礼を込めて深く頭を下げた。

 アドマイヤベガは短くため息をつく。呆れたような声色だったが、その言葉の奥にはあからさまな敵意はなかった。むしろ、協力してくれる意思が透けて見える。

「それで、肝心の子がまだ来てないじゃない。アグネス……タキオン、かしら?」

 アドマイヤベガは練習コースの奥を眺めながらぼやくように言う。アグネスタキオンの姿はまだ見えない。

「多分……もうそろそろ来るはずで──」

 乙名史がおずおずと口を開いた瞬間。

「おーい、待たせたねぇー!」

 明るい声とともに、遠くからきしむ車輪の音が聞こえてきた。

 現れたのはアグネスタキオン──荷車を引きながら。荷台には実験機材の山。三脚付きのカメラ、心拍数センサー、複数の記録端末、温湿度計、謎のガラス容器──あらゆる装置が乱雑に積まれている。

「いやはや、またとない機会だからね。観測できるものは、ぜんぶ拾いたいんだ!」

 彼女の頬は紅潮し、目は爛々と光っていた。科学者としての興奮が抑えきれないといった様子で、乙名史の前に荷車を止めると、すぐさまアドマイヤベガへと目を向けた。

「あぁ、君が今回の被験者──ではなく、協力者、だね!」

「……今ならまだ帰れるかしら」

 アドマイヤベガは小さくうつむき、苦味を含んだような表情でぼやいた。自ら下した決断を、もうすでに少しだけ後悔しているようだった。

「いやいや、困るよ君ぃ。ここまで来たんだから、しっかりと“ミラーマン”を実証しなければ!」

 アグネスタキオンは、もはや誰の同意もいらぬといわんばかりに鼻息荒く語り続けていた。その口調はまるで早口なプレゼンター。言葉は次から次へとあふれ出し、追いつけないほどの速度で場を支配していく。

「んん? そういえば君の顔……見覚えがある気がするなぁ……まぁいいか、今回重要なのは君じゃなくて、あくまで──って! あああっ!? 思い出したぞ!」

 タキオンの瞳に閃光が走る。

「君はかのダービーウマ娘、アドマイヤベガじゃないか!」

 まるで観客のいない劇場で独演するかのように、感嘆の声を上げるタキオン。

「いやーまさか、君の言う“当て”がダービーウマ娘だなんて、隅に置けないねぇ! これはもう、歴史的実験の域に突入したと言っても過言ではない! 光栄だよ。君のような実力者のデータを直々に取らせていただけるなんて!」

 その間にも、タキオンの手は止まらない。荷車に積まれていた大量の実験機材は、彼女の手際の良さによってあっという間に組み上がり、気づけばトラックの一角には、小型観測基地と呼べるほどの設備が立ち上がっていた。

「はい、これ──メンコに装着してくれたまえ。心拍計だ。スピーカーも内蔵してるから、こちらの声が届くはずだよ」

 手渡されたのは、コードが這いまわった小型の装置。それをためらいなく手に取るタキオン。

「こっちは──ヘッドカメラとライト。視界を記録するためのものさ。もし何者かの気配を感じたら、そちらの方向を向いてくれ。マイクも内蔵してるが、精度はそこまで高くない。話したければ、話してくれ。うまくいけばこちらに聞こえるかもしれない」

 説明を終えると、タキオンはまるで作業用ロボットのようにアドマイヤベガへ装置を取り付けはじめた。その手際は無駄がなく、容赦もなかった。

 ──許可を取る、という概念は、彼女の脳内に存在しないのかもしれない。

 されるがままのアドマイヤベガは、まるで感情を失ったように無言だった。

 腕も、首も、顔すら動かさない。彼女の瞳は夜の闇を見つめたまま、何も映していないようにさえ思える。

 乙名史の視線が、そっと彼女を捉えていた。心の中で謝罪の言葉を呟きつつ、乙名史にはただ、待つことしかできなかった。

 

「準備オーケーだ、アヤベ君。いつでも始めてくれていい」

 無線越しに聞こえてきたタキオンの声は、いつもより落ち着いていたが、わずかに浮き立つ響きが混じっていた。スタート地点に立つアドマイヤベガは、小さく右手を上げると、静かに息を整えて前傾姿勢をとる。

 風が止む。

 次の瞬間──スッと、身体が風を切った。

 ゲートも号砲もないスタート。それでもその出だしは、整ったフォームと静謐な集中を感じさせる、美しい走りだった。

 一周約2000m。直線から入り、やがて大きく弧を描くカーブへと差しかかる。アドマイヤベガのコース取りは迷いなく、スピードも抑制と解放のバランスに優れている。彼女の走りは、やはり“本物”だった。

「アグネスタキオンさん。一つ、気になることがあるんです」

 乙名史の声が、穏やかなトーンで割って入った。視線はアドマイヤベガの姿を追い続けたまま。トラックの向こう側──遠くにあるその背中を見つめながら。

「なんだい」

 タキオンの方も、計器の数値をチェックしながら応じる。心拍、呼吸、位置データ。いずれも平常値。異常の兆しは、まだない。

「あの時、なぜ私に“あの本”の存在を話したのでしょうか?」

 アドマイヤベガは、ちょうど向こう正面に入る。少しだけペースを落とし、誰もいない先頭を“誰か”と見なして、その距離感を測るような走りに切り替えた。

「さあ、なぜだろうね」

 タキオンの声は軽い。だが、そこには答えを用意していない者の曖昧さではなく、答えを意図的に隠している者の重みがあった。

「もしかして──最初からこの実験を仕組んでいたのではないですか?」

 言葉だけが、まるで霧の中を泳ぐように、空中を漂って交差する。乙名史の目はアドマイヤベガを。タキオンの目は計器を。互いに視線を合わせることなく、それぞれの“観測”に没頭しながら。

「……買い被りだよ」

 そう返したタキオンの声には、感情がなかった。それは否定でも肯定でもなく──あえて感情を落とした“無味な返答”だった。

 アドマイヤベガは、いま最後の直線に向いていた。夜のトラックに、ひとつの影が走る。

 何も起きていない──はずだった。

「なんだ!?」

 突如、アグネスタキオンが声を上げた。その瞬間、モニターの数値が急上昇する。アドマイヤベガの心拍数が、それまでの安定したリズムから一転、まるで恐怖に弾かれたかのように急激なピークを打った。そして──スピーカーから、微かに芝を蹴る音が響く。

 ひとつではない。明らかに、ふたつ。

「乙名史くん!彼女は今、どうなっている!?」

 タキオンの声が鋭く跳ねる。

「ひとりです!他に人影は──見えません!」

 乙名史はコースを凝視した。闇に目を慣らし、遠く走るその姿を細かく追う。だが、どれだけ目を凝らしても──そこにいるのは、間違いなくひとりの少女。ただ、アドマイヤベガだけだった。

「これはこれは……!凄いことが起きているぞ!」

 タキオンは歓喜にも似た声を漏らし、ノートを開いて筆を走らせる。心拍数の異常、時間、上昇幅、音響記録──そのすべてを、科学的な観測の対象として書き留めていく。

 ──その間にも、アドマイヤベガのヘッドカメラは動き続けていた。画面の視界が左右にぶれる。何かを探すように、何かを避けるように、しきりに横へ、後ろへと振り向いている。

「アヤベ君!聞こえているかい!?できるだけ鮮明な記録が欲しい!もう少し、後ろを見てくれないか!」

 タキオンの指示は熱を帯び、マイク越しに空気を震わせる。だが、応答はなかった。

 代わりに、聞こえてくる音があった。芝を蹴る音。ふたり分──いや、それ以上。それは確実に“追う者”の気配だった。

 タキオンは、顔を上げて直接トラックを確認する。乙名史もまた、同時に息を呑んだ。

 走っているのは、やはり──アドマイヤベガ、ひとり。

 だが、その疾走は明らかに“何か”から逃れるような、それでいて“何か”と競っているような、異様な迫力に満ちていた。

「……すごい……これは、間違いなく怪異だ。視認はできない。けれど、確かにそこに“何者か”がいる──我々は今、それを観測している!」

 タキオンが呟くその声には、畏怖と歓喜が入り混じっていた。

 そして──

 アドマイヤベガは、ゴールラインを駆け抜けた。

 その一瞬、乙名史には見えたような気がした。アドマイヤベガのすぐ背後に、“もうひとつの影”が──鏡写しのように重なっていたことを。

 

「お疲れ様です」

 乙名史はねぎらいの言葉とともに、スポーツドリンクをコップに注ぎ、そっと差し出した。アドマイヤベガは無言で一礼し、手渡されたコップをそのまま一気にあおる。夜の風が、彼女の汗ばんだ頬を冷ます。

「いやはや、素晴らしい結果だったよ。いや、本当に──これほど明確な反応が得られるとは思わなかった」

 機材の片付けを終えたアグネスタキオンが、ノートを片手に二人へと近づいてくる。足取りは軽やかで、目元には計測という目的を果たした科学者特有の満足がにじんでいた。

「ぜひ、当人からも体験談を聞きたいねぇ」

 アドマイヤベガは静かにコップを乙名史へ返すと、真っすぐにタキオンを見つめ返した。

「……あなたが仕組んだんじゃないの?」

「なに?」

「私に付けた装置、これに何か……何か仕込んであったんじゃないかって聞いてるの」

 タキオンはわずかに眉を上げ、次いで肩をすくめた。

「とんでもない! そんな細工をしたら、すべてのデータが意味をなさなくなる。誓って言うけどね、あれは正真正銘、ただの高性能観測機材だよ。なーんの不思議もない、科学の結晶さ」

 そう言って装置を外そうと手を伸ばすタキオンを、アドマイヤベガは軽く手で制した。そして、無言で、ひとつずつ丁寧に装置を外していく。その動作は、疑いを振り払うためというよりは──“自分の身体に何が起きたのか”を、自分自身で確かめようとするかのようだった。

「……じゃあ、私が感じたあれは……」

「“ミラーマン”だよ」

 タキオンは躊躇いなくそう口にした。乙名史もまた、小さく頷いた。それ以外に言いようがない。

 “誰もいなかった”という事実と、“確かにいた”という体感。両者を結ぶには、もう怪異という言葉しかなかった。

「『不可能を消去して、最後に残ったものが如何に奇妙なことであっても、それが真実なのである』」

 乙名史の呟きは、風のように夜空へ溶けていく。

「──シャーロック・ホームズね。でも……確かに、今はそれで納得するしかないわね」

 アドマイヤベガの表情は晴れてはいなかった。だが、それでも、否定するにはあまりにも“実感が強すぎた”のだろう。納得はできない。でも、否定もできない──そんな曖昧な位置に、彼女は立たされていた。

「ところでアヤベ君」

 ふいに、タキオンが顔を覗き込むようにして問いかけた。

「きみ、あいつらには──“勝てた”のかい?」

 その一言に、アドマイヤベガはふっと天を仰ぎ、しばし夜空を見上げた。

 そして──微笑む。

「……当然じゃない」

 その笑みは誇りの証。日本ダービーを制したウマ娘が、目に見えぬ“怪異”と競り合い、なお勝者として戻ってきたという事実を、ただその一言が物語っていた。

 

 その後、乙名史たちの働きかけにより、学園は“夜間練習”に一定の制限を設けることを決定した。特に、療養明けのウマ娘たちが単独で走る時間帯──夜のコースは、当面のあいだ立ち入りが制限されることになった。

 アグネスタキオンもまた、今回の件について深く反省の意を表した。実験に夢中になるあまり、心身の回復途上にある生徒たちへ過度な刺激を与えてしまったこと。

 「二度とウマ娘に無茶を強いるような真似はしない」

 と、乙名史の前で静かに頭を下げたのだった。

 ──ブラウンシュガーに悪いな。乙名史の胸の奥には、微かな罪悪感が残った。だが、それでも。せっかく治りかけている脚に、再び負荷をかけてほしくなかった。それは記者としての判断であり、同時に──老婆心という名の、小さな祈りでもあった。

 七不思議取材の原稿を提出し終え、束の間の休息を得た日のことだった。乙名史の元に、編集長から一本の電話が入る。

「トレセン学園七不思議を──夏の増刊号で特集することになった」

 とんでもない知らせだった。それはすなわち、乙名史の仕事量が倍増することを意味していた。

 通常、この時期の増刊号は“今年デビューする注目ウマ娘”や“新入生紹介特集”がメインで構成される。その担当者もまた、他ならぬ乙名史悦子──彼女自身である。

 自宅のリビング。カーテンの隙間から光が差し込み、キッチンの時計は午後二時を指している。

 アイスコーヒーの氷が、カランと音を立てて揺れた。

「……やれやれ」

 ため息をひとつ吐いて、グラスを口元に運ぶ。冷たい液体が喉をすべると、少しだけ背筋がしゃんとした。

 外では、ジッジッとセミの声が鳴き始めている。

 街の音も、空の色も、どこか夏の匂いを孕んでいた。

 ──夏が、始まる。

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