乙名史悦子は忘れない   作:名主権兵衛

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登場人物
・乙名史悦子……月刊トゥインクルの記者。
・高柳……月刊トゥインクルの男性記者。主にレース場の紹介を担当している。
 キンイロリョテイ……目黒記念にてようやく重賞初勝利を収めたベテランウマ娘。
・ステイゴールド


キンイロとゴールド

──音声記録──

 

 一度、二度ほどの雑音。紙を擦る音。

「それでは、インタビューを開始します。よろしくお願いいたします」

「よろしく」

 二人の声。片方は乙名史悦子。もう片方は女性にしては少し低めな、かすれた声。

「まずは天皇賞春、お疲れさまでした。惜しくもメジロブライトさんに敗れてしまいましたが──」

 トン、と机をたたく音。

「──スキップ」

「……失礼いたしました。では、本題に移ろうと思います。今年でシニア級、デビューから三年目を迎えるわけですが、これまで一度も重賞級の勝利がありません。にも(かか)わらず、現状ですでにプロチーム含め社会人レースチームから多数のスカウトが来ていること、どう受け止めていますか?」

 咳払い。

「あー、まず、プロチームに入る気はない。それは今だからってわけじゃなく永遠にだな。私は自分のレースを商業化する気はない。引退も、考えてない。まだここで終わる旅じゃない」

 少しの沈黙。紙をめくる音。

「旅……ということは、海外レース挑戦も視野に入れている、ということでしょうか?」

 ため息。ギっという高い音。背もたれに寄り掛かったのだろう。

「しらん。だが、海外か。悪くないかもな」

 沈黙。

「進学のご予定は?学園内でトップの成績を修めていらっしゃるとか」

「しらん。先のことなんて考えるだけ無駄だ。私は“今”を輝かせたいんだ」

「それでは、次走も未定と?」

「そういうのはトレーナーに任せてる。色々言いたいことはあるが、悪い奴じゃない」

 少し遠くから、金属の戸を叩く音。

「……お時間のようです。キンイロリョテイさん、ありがとうございました」

 席を立つ音。少し遅れて扉が開き、閉まる。

 

────

 

 部屋の整理をしていたときのことだった。古い書類の隙間に、埃をかぶったSDカードがひょっこり顔をのぞかせていた。乙名史は特に期待もせず、それをプレイヤーに差し込み、何の気なしに再生を始めた。

 最初は環境音や取材メモの断片だった。乙名史はその音を作業のお供として聞き流しながら、当時の記憶に思いをはせていた。そのうちざらついたスピーカーから流れ出したのは、どこか懐かしい声と、控室独特の微かな物音。乙名史の指先が止まり、意識がスッと音声に吸い寄せられる。耳が、それだけを拾い上げる。

 ああ、覚えている。

 インタビュー場所は京都。レース後の曇り空の午後、控室の簡素なテーブルにレコーダーを置き、対面したウマ娘の姿。まるで昨日のことのように、その光景が脳裏に浮かぶ。

 だが──ひとつ、忘れていたことがあった。

 彼女の名前だ。

 キンイロリョテイ。

 黒髪を後ろでひとつに結い、緑の瞳が印象的な少女。目つきは鋭く、それでいて語り口は妙に落ち着いていた。重賞勝ちはないものの、観客の心を惹きつける何かを持っており、取材当時はすでに実業団やプロチームから声がかかっていたほどだ。

「──そういえば彼女、今何してるんだろ」

 ぽつりとこぼれた声。自分でも気づかぬうちに、乙名史の中で何かがざわめいていた。

 気になり始めると止まらないのが性分。スマートフォンを手に取り、キンイロリョテイと入力する。読み込みのわずかな沈黙。その先に現れたのは──“ステイゴールド”のページだった。

 競争成績、ファンクラブ、関連ニュース。画面下部には『もしかして:ステイゴールド』の表示。眉をひそめながら「原文で検索」をタップする。しかし、そこに現れたのは無情な文字列。

『一致する情報が見つかりませんでした』

「……聞き間違えかな……?」

 自分の記憶に微かな疑念が差す。再び音声を再生し、耳を澄ます──間違いない。キンイロリョテイ。はっきりと、そう発音されている。

「……ま、明日出勤したら確認すればいいか」

 自嘲ぎみにひとつ息をつき、スマホを伏せる。このネット時代、トゥインクル・シリーズの出走者に情報が存在しないはずがない。恐らく自分の記憶違いか、あるいはデータの消失か──会社の資料庫を漁れば、あの日のインタビュー記録が見つかるだろう。

 乙名史はそう考え、再び散らかった備品の山へと目を戻した。だが、心のどこかで、今しがた胸をかすめた違和感が静かに残っていた。

 

 翌日。

 夏のよく晴れた日差しは、乙名史だけでなく街を歩くあらゆる生き物の体力を無差別に奪っていく。アスファルトからの反射熱が、まるで大地そのものが煮え立っているかのように靴底を焦がす。

 息を詰めるようにしてビルの入り口をくぐり抜けた瞬間、冷房の風が肌を打つ。ひやりとした快感と同時に、張り詰めていた汗腺が「待ってました」とばかりに一気に解放され、首筋から背中まで汗が噴き出した。

 乙名史は短く息を吐き、二度、三度とハンカチを滑らせながら、ビルの奥にある事務所直通のエレベーターへ足を進める。

 誰もいないエレベーターの扉が開き、すぐさま乗り込む。涼しい空間。扉が閉まると同時に、密室特有のわずかな圧迫感とモーターの唸りが耳を満たす。

 壁には大きな全身鏡がはめ込まれていた。乙名史は普段から、取材帰りの乱れた身だしなみを直すのにここをよく利用している。夏は特に化粧が崩れやすく、この日も何気なくポーチを取り出し、鏡の中の自分を覗き込む。頬に赤み、額に薄く浮かぶ汗の筋。ファンデーションを軽く抑え直しながら、深呼吸をひとつ。

 そのときだった。

 ──背後に、人影が映った。

 ぎょっとして鏡を見据える。

 金髪が目を引く異様な姿。独特の気配、威圧感。馬頭観音だ。血が引く感覚に襲われながら、慌てて振り返る。

 しかし、そこには誰もいない。冷房の音が静かにうなるだけの、がらんとした箱。気まずさに喉を鳴らし、乾いた唇を舌で湿らせる。

「あの、馬頭観音さん。手帳の件でお話ししたいことがありまして」

 息を整えつつ、虚空へ向かって声をかける。返事はない。ただエレベーターの灯りだけが、無表情に乙名史の影を床へ落としていた。

 仕方なく再び視線を鏡へ戻す。

 ──息が詰まった。

 今度は、馬頭観音が乙名史の鏡像に張り付くように近づいていた。境目が溶けるかのように、鏡の中で輪郭が曖昧になり、あたかも乙名史自身の姿を侵食してくるかのようだ。

「わっ」

 声が裏返る。反射的に後ずさり、体がきしむ。

 そのタイミングでエレベーターが到着し、乾いた音を立てて扉が左右に開く。頼りにしていた背後の壁が突如なくなり、支えを失った体がそのまま前へ崩れる。

「わわわ!」

 慌てた叫びと同時に重心が決壊し、どん、と鈍い音を立てて床へ倒れ込んだ。フロアの涼しい空気が肌を撫でる。痛みより先に、頭を駆け抜けるのは羞恥だった。

「……なにやってんだ乙名史ぃ」

 呆れた声が頭上から落ちてくる。顔を上げると、偶然通りかかった同僚が半眼でこちらを見下ろしていた。乙名史はひどく情けない気分で、震える声で小さく「すみません……」と謝るしかなかった。

 

 今日の乙名史は一日内勤だった。

 冷房の効いた編集部フロアには、コピー機の駆動音やキーボードを叩く軽快なリズムが、途切れ途切れに響いていた。窓の外は青く澄んだ夏空だが、日差しは容赦なく、ガラス越しに焼けつくような光を落とす。

 乙名史は取引先から届いた分厚い書類をめくり、赤ペンを走らせ、次の取材予定をまとめ、さらに数か月先の特集記事の構成にまで目を通す。この日はほとんど、夏の増刊号の紙面づくりに張り付いていた。

「ほい、頼まれてた春の資料」

 机の上にどさりと書類の束が置かれる。紙が擦れる音とともに、同僚の高柳が顔をのぞかせた。

「……にしても大変だよなぁ。聞いたぜ? 今年の夏はオカルト推しでいくんだろ?」

 乙名史はペンを置き、軽く礼を言って書類を受け取る。背をぐっと伸ばすと、肩の張りが鈍く痛んだ。

「トレセン学園やウマ娘には、まだまだ未知の部分がありますからね。上の人たちも色んな切り口を試したいんでしょう」

 正直、レース雑誌の売れ行きは年々厳しかった。

 数年前、地方競技公的委員会の公式レース誌が定期更新をやめたときから、状況はずっと下り坂だ。週刊や日刊のレース新聞も予想記事を中心に売り上げを保つのがやっと。ウマ娘人気に便乗した雑誌も、一時は息を吹き返したが、最後の大ブームを挙げるなら、オグリキャップ引退まで遡らなければならない。再びあの熱狂が訪れる保証など、どこにもない。

「とは言ってもなぁ」

 高柳が苦笑交じりに眉を上げる。

「いくら何でも“七不思議”ってのは、子供だましすぎないか?」

 乙名史は一瞬目を伏せ、机の書類に視線を落とした。

「……まぁ、勝算があると思ってのことでしょうから」

 小さく息を吐く。

 ──今朝の、そして昨日の出来事が頭をかすめる。この世界には、まだ言葉にできないものがある。理解の及ばないものがある。それは、目を背けた瞬間に最も危険な影を伸ばす。乙名史はそう考えていた。

 思考を切り替えるように、乙名史は顔を上げた。

「そうだ、レース資料を何個か拝見したいのですが、この後、資料室って空いてます?」

 高柳が近くのホワイトボードをちらりと見やる。そこには部署内の利用予定が磁石で示されていた。

「14時からならいけるな。……お前が資料室なんて、珍しいな」

 その声に、わずかに間を置く。

 高柳の驚きは無理もなかった。乙名史は「一度会ったウマ娘を忘れない」ことで有名だった。インタビューの内容はもちろん、レース展開、表情、口調──全てを細かく覚え、まるで歩く資料室のようだと揶揄されるほどだ。

 それなのに。

「まぁ……どうしても思い出せないウマ娘がいまして。“キンイロリョテイ”って覚えてます?」

 高柳が眉を寄せる。

「……? ステイゴールドか? この前目黒記念勝ったろ。初の重賞制覇だよな?」

 一瞬、時間が止まったように感じた。高柳の口調に嘘はない。むしろ自然すぎるほどだ。

 ──“キンイロリョテイ”を聞いたはずなのに、なぜ“ステイゴールド”の話をしている?胸に滲む違和感を、言葉にすることができなかった。

「そう……ですか。ステイゴールド……」

 声がかすれる。喉の奥がひりつくようだった。

 昨日の検索結果も、確かに“ステイゴールド”に置き換わっていた。自分の耳や記憶が誤っていたのか、それとも──

 ちらりと時計を見る。11時。不安と焦燥が胸を突き上げる。早く、このざわめきを解消したい。

 乙名史は立ち上がり、自身の名前が書かれた磁石をつまみ、ホワイトボードの14時の資料室欄へとぴたりと貼り付けた。

 冷たい感触が、わずかに汗ばんだ指先に残った。

 

 仕事を片付ける傍ら、乙名史は何度も時計を盗み見ていた。

 11時15分、11時20分、11時21分……。

 秒針がやけに大げさに刻む音が耳について離れない。普段は一瞬で過ぎ去るように感じる午前中の時間が、今日だけは何かに引き留められているかのように遅く、重かった。

「……いけない」

 息を吐き、無理に思考を切り替える。机の上は、夏の増刊号へ向けて取り寄せた資料で埋め尽くされていた。新入生特集のアンケート回答、去年の増刊号のレイアウト案、写真の使用申請書──。どれも未整理で、崩れれば雪崩のように広がりそうな紙の山。

 こういうときは仕事に没頭したほうがいい。考えたくないことを封じ込めるように、ペンを握り直し、書類に視線を落とす。細かい数字を確認し、文章を推敲し、次に必要なデータを呼び出す。指先と目だけを機械のように動かし、心を鈍くさせた。昼を過ぎても机を離れる気になれず、気づけば空腹感すら意識から滑り落ちていた。

 ようやく資料の山をざっと整理し、全体の構成案をまとめ上げた頃、デスク上の小さな時計は13時を回っていた。

 「ふぅ……」

 背もたれに身を預け、肩をぐっと伸ばす。背骨が軽く鳴った。意識が戻ると、急に血の巡りが速くなったような気がする。このままだと、また考えがそちらへ引き戻されてしまう。

 小さく首を振り、気分転換を決めた。資料を机の端に揃え、ペンを閉じ、椅子を引く音を立てて立ち上がる。

 エレベーターホールまでの廊下は静かで、昼休みを取る同僚たちのざわめきが遠くにこだまする。自販機の前に立つと、ぼんやり光るボタンが整然と並んでいた。目当ては決まっている。『DONN』と大きく書かれた缶コーヒーのボタンを押す。ガタン、と落ちてくる軽い金属音。その音が小さな達成感を運んでくる。

 取り出し口から缶を取り上げ、指先に伝わる冷たさにほっとする。カシッとプルタブを開けると、わずかな水滴が弾け飛んだ。そのままゆっくりと口に含む。一口目の苦み、遅れて舌に乗る甘い香りが脳を刺激する。鼻から息を吐くと、コーヒーの芳香が肺の奥まで広がり、頭の芯がしゃっきりとするようだった。

 ──ああ、こうして飲むのも久しぶりだ。最近はずっとバタバタしていて、コーヒーを味わう余裕すらなかった。そんな自分を少しだけ苦笑しながら、缶の中身を最後まで飲み干した。

「……よしっ」

 小さく口にした意気込みは、これから向かう場所への覚悟のようなものだった。カラン、と軽い音を立てて空き缶をゴミ箱へ放り込む。

 時計はすでに13時50分を指していた。心臓が早鐘を打つのをなだめるようにゆっくりと呼吸を整え、乙名史は資料室へ向かって歩を進めた。

 資料室に入ると、ひんやりとした空気と乾いた紙の匂いが鼻をくすぐった。並ぶ棚には所狭しとファイルや分厚い書籍が詰め込まれ、時間の重みそのものが詰まっているようだった。乙名史は周囲を軽く見回し、棚の中段に差し込まれた背表紙を指でたどる。

 ──あった。

 『ウマ娘名鑑』。背を引き抜くと、長年の使用で表紙の角が丸くなっていた。重さを支え直し、木製の閲覧机にそっと置くと、ぱらり、と乾いた音を立ててページを開いた。

「『か』……『カンナムキング』……」

 指先をページに這わせ、目次を追いながら声を潜めて呟く。湿度を帯びた指が、滑るように文字をなぞる。

「『き』……ここだ」

 該当ページを開く。五十音順に並ぶウマ娘たちの名前がびっしりと記されている。指先を慎重に動かしながら、ひとつひとつを確認していく。

「『キロキロ』……『キンカンバー』……」

 ──あれ?

 一度ページを戻し、再び同じ箇所をゆっくりと読み込む。目を凝らして、何度も、何度も。しかし、“キンイロリョテイ”の文字は、どこにもなかった。

 心臓が小さく鳴った。ページをめくる手が、わずかに湿る。本を閉じかけて、もう一度、同じところを逆から追い直す。

 だが、いない。

「……やはり聞き間違えて……?」

 喉の奥でかすれるように声が漏れる。だが、あの音声では確かに“キンイロリョテイ”と発音していた。耳にこびりつくような、あの響き。

 ──次だ。乙名史は無理やり思考を進めた。手掛かりは、あの録音の中で触れられていた天皇賞春。メジロブライトが優勝した年の、あのレースのことを再び調べよう。当時の出走者を洗えば必ず何か掴めるはずだ。

 棚から引き抜いた二年前のレース記事のスクラップブック。表紙をめくると、新聞の切り抜きがきれいに整然と貼られ、出走者一覧が活字で並んでいた。視線を這わせる。上から、順に。一人ずつ。

 ──いない。

 名前は、どこにも。ページの隅をつかんだ手が小刻みに震えた。

 だが、次の瞬間、目がある名前を捉えて止まった。

「2着、“ステイゴールド”……!」

 乾いた声が漏れる。胸の奥を何かが冷たく這い回る感覚がした。まただ。昨日も、あの同僚も──どこをどう辿っても、必ずこの名前に行き着く。

 乙名史は無意識に奥歯を噛みしめた。指先でページを閉じる。バン、と硬い音が資料室に響き、小さな埃が舞った。

 呼吸を整え、すぐにポケットからスマートフォンを取り出す。画面を開く指が、かすかに汗で滑る。それでも迷わず番号を押し、発信ボタンを強く叩くように押した。

「もしもし、お世話になっております。月刊トゥインクルの──」

 声は、いつもの取材用のトーンに無理やり戻した。だが心の底では、確信にも似た不気味さが渦巻いていた。

 これは、もう偶然なんかじゃない。

 

 夕方。

 トレセン学園前の通りには、夏特有の濃い橙色の光が落ちていた。建物の影は長く伸び、門扉やフェンスを縞模様に染め上げる。乙名史は深く一礼し、息を整えて声を出した。

「突然の訪問で申し訳ございません」

 突然の取材に押しかけた無礼を、せめて言葉で詫びる。しかし、学園側の対応は誠実だった。駿川は書類を軽く抱え直しながら、穏やかに首を振る。

「いいえ、お気になさらず。ですが、ステイゴールドさんの居所は、我々でもつかみかねていまして」

 柔らかい口調の中にも事務的な線引きが滲む。取材対象は、ここにはいない。思ったよりも簡単に断絶を告げられた。

「そうなんですね……。誰か、知り合いとか──」

 なおも食い下がろうとしたとき、ふいに背後から声が落ちてきた。

「乙名史さんですか?」

 反射的に肩が震える。

 幼い──だが芯の通った、曇りのない声。振り返ると、そこにはまだ幼年期と思しきウマ娘が一人立っていた。眼鏡越しにもはっきり伝わる垂れ目の形。それなのに、底が見えない得体の知れなさを帯びている。

「はい、そうです。あなたは……?」

 乙名史が名乗ると、その子は僅かに微笑んだ。しかしその笑みは、人を拒むほどの圧を伴っていた。

「私が誰かは問題ではありません。どうぞ、こちらへ」

 反論を挟む余地のない断言。視線を外し、くるりと踵を返す。長い髪に走る白から黄色にグラデーションするメッシュが夕暮れにちらりと光る。印象的な姿だった。

「こちらです。さぁ、どうぞ。アネゴがお待ちです」

 声だけはやけに礼儀正しかった。

 どれくらい歩いただろうか。商店街を抜け、住宅地を越え、舗装も古びた路地に入る。やがて、乙名史は自分が市の境を越えたのではないかと錯覚するほど、見知らぬ景色の中を進んでいた。気づくと、あたりはほとんど人通りも絶えていた。

 目的地は、小さな公園だった。遊具すらなく、舗装もされていないむき出しの土が広がる、ただの広場。しかし、その空虚さがかえって異様だった。

 足を踏み入れる。日が完全に落ちかけ、街灯の黄色と夕焼けの残光が溶け合う、輪郭の曖昧な明るさが辺りを包んでいた。風が木の葉を鳴らすたびに、妙に耳が冴える。

「……ステイゴールドさん?」

 思わず声を低くする。視線の先、広場の奥の古い木製ベンチに、黒い影が横たわっていた。

 近づくと、その正体がゆっくりと形を取っていく。後ろ手に無造作に結んだ黒髪。ところどころ外はねした髪が、何も抑えようとしない気質を語る。瞳は、朝焼けの水平線のように深く、強い光を内包していた。

 見たことはない顔だ。なのに、その存在がすべてを説明していた──間違いない。これが“ステイゴールド”だ。

「おー来たか。……()()()()()かな?」

 低く、しかしどこか楽しむような声音。影の中で唇が弓形に吊り上がった。

 彼女はゆっくりと上体を起こし、ベンチの空いた場所を右手で軽くたたいた。

 ──来い。言葉はなくとも、それは明確な誘いの合図だった。

 乙名史は息を詰めたまま、その手を視界に収めた。それから、決意を固めるように一歩踏み出す足元の砂がわずかに鳴る音が、この場の沈黙を引き裂くように耳についた。

 やがて隣に腰を下ろす。体温を直前まで吸い込んでいたベンチは、乙名史を優しく出迎えた。並んで座った二人の間に風が通り抜ける。しかし、互いに一言も発さないまま時間が流れた。

 乙名史の脳裏には無数の疑問が渦巻いていた。だが、それを口にするのをためらった。この場で“キンイロリョテイ”の名を出すことが、まるで禁忌を犯す行為に思えた。問いかけは、呪文のように舌の上で固まった。

 ──もしかして、この世界ではその名を口にすること自体が、許されていないのではないか。そう考えた瞬間、重い諦観が胸を満たした。

 その沈黙を、彼女の声が割いた。

「話してくれよ、乙名史さん。あんたの()()をさ」

 その言葉は不思議なくらい滑らかで、耳に入り込むと同時に心に深く沈み込んだ。まるで全てを知っていて、それでも全てを問いただすような声音だった。

 乙名史は拳を膝の上で握った──覚悟を決めろ。

「……私の記憶では、貴方は存在しない。重賞連敗に苦しんだのも、今年それを打破したのも、貴方じゃない」

 口から出た瞬間、その言葉は自分自身をも刺した。記者として、取材相手を否定するような最悪の発言だ。そんなことは痛いほど分かっていた。だが、抑えきれなかった。

 言葉にした途端、堰を切ったように記憶が溢れ出す──彼女のデビュー戦。震えるほど真っ直ぐな走り。勝利をつかめなかった長い未勝利期間。それでも重賞で食い下がった粘り強さ。泣きそうな顔でインタビューに応じた日の声。

 思い出は、どれも生々しかった。まるで無理に詰め込んだ空気が袋を限界まで膨らませていくように、脳内のイメージが極限まで張り詰めた。そして、その薄い膜が破れる。栓が外れた炭酸のように、乙名史の中からあらゆる記憶が吹きだそうとしていた。

 もう、止められなかった。喉が痛むほど呼吸が荒くなる。震える声で、それでも絞り出す。

「全部“キンイロリョテイ”が成したことです。デビュー戦からずっと……」

 両手でスカートの上からパンプスのつま先をぎゅっと掴む。爪が食い込み、布がきしむ音がかすかに聞こえた。それは怒りや憎しみではなく、純然たる悔しさだった──こんなことを告げなければならない無念。彼女が奪われた全てを思い出すほどに滲む痛み。乙名史の胸は、押しつぶされそうだった。

「しかし()()は貴方を示している。……貴方は何者なんですか?なぜ彼女は消えてしまったんですか?」

 張り詰めていた思考が堤防を決壊させた。声が震え、問いが止めどなく溢れ出す。息が詰まるほど胸が苦しかった。

 しかし、ステイゴールドの返答は短かった。

「私は、私だ」

 声は低く、しかし芯を持っていた。その瞳が真っ直ぐ乙名史を射抜く。

「……あいつも、私だ」

 その瞬間、乙名史は悟った。彼女もまた、“キンイロリョテイ”を知っている。覚えている。

 こみ上げる感情が声を押し上げた。

「何が起こったんですか? 貴方は何を知っているんですか?」

 泣き出しそうになるほど、声がかすれた。普段は抑えられるはずの理性が、今は跡形もなかった。

 ステイゴールドは乙名史の肩にそっと手を置いた。その手は意外なほど温かく、しかし拒絶を許さない重さがあった。

「私にもわかることしかわからない。だが、あんたは違う」

 その目が闇の底から覗き込むように、乙名史を射抜く。街灯の光が反射し、瞳の奥がわずかにぎらついた。

「──なにか心当たりがあるんじゃないのか」

 その声に、乙名史の記憶がかき乱された。浮かんでは消える記憶の断片。精査する間もなく消えていくそれを、まるで車内から見る景色のように流しながら、その中にいくつか輝く断片を見つけた。

「手帳……」

 呟きが零れた瞬間、慌ててカバンを探る。がさがさと紙が擦れる音が、やけに大きく響いた。なぜあの手帳が脳裏に浮かんだか、それは乙名史にもわからなかった。だが、何かが乙名史を突き動かす。

 ──あった。あの手帳。何を書いても、文字が消えてしまうはずの、あの手帳だ。

「手帳?……ははっ、面白いな」

 ステイゴールドが声を漏らして笑った。心底興味深そうに。そしてすぐに真剣な眼差しを乙名史に向ける。

「そいつに名前を書いてくれ。私じゃなくて、あいつの名前をな」

 乙名史は無言で頷き、手帳を膝に開いた。ペンを取り出す手が小さく震える。だが、迷わなかった。

 深く息を吸い、心を落ち着ける。

 そして静かに、確かに、その名を書き込んだ。

 ──キンイロリョテイ。

「ほぉ……」

 ステイゴールドが低く息を吐くように声を漏らした。彼女の視線は乙名史の手帳に釘付けになっていた。わずかに身を乗り出し、書かれた文字を確かめる。指先がページの縁をなぞるようにゆっくりと動く。

 乙名史もまた、その名前から目を離せなかった。しかし、その理由はステイゴールドとは違っていた。胸の奥に冷たい感触が広がる。息を呑む。

「……消えない?」

 声が震えた。手帳のページには、確かに“キンイロリョテイ”と書かれた文字があった。黒いインクが滲むことなく、そこに留まっていた。この手帳は、もう何も記せないはずだった。記したものはすべて消えてしまう。それが、この手帳の“普通”だった。

 だが、今は違う。この名前だけが、残っている。それが異様で、息苦しいほどに不気味だった。普通ではないこの“普通”が、乙名史の胸をひどく締めつけた。

「“キンイロリョテイ”……」

 ステイゴールドがゆっくりと、その名を呼んだ。噛みしめるように、一音一音を確かめるように。声にはわずかな揺らぎが混じっていた。やがて、遠い記憶を手繰り寄せるように視線を上げる。夕闇がすでに濃く、空には街の光を反射する雲が鈍く漂っていた。

 その目は過去を見つめていた。何かを思い出し、何かを失ったような、静かな痛みを帯びていた。

「その名前を聞くだけで、あいつの旅路が目に見えるようだ。長く、永い旅が……」

 ステイゴールドの声は低く、どこか遠くへ向かって投げかけるようだった。彼女の瞳は宙を漂っていた。何も映していないようでいて、しかしその奥には確実に“何か”を見ている光があった。乙名史は黙って、その横顔を見つめた。

「あいつの旅は、幸せだったんだな」

 ぽつりと、吐き出すような一言。それはまるで、自分自身を慰めるようでもあった。次の瞬間、ステイゴールドの口元に微かな笑みが灯る。優しく、そして悟ったような笑みだった。その微笑に、乙名史ははっとした──今この人は、“キンイロリョテイ”であり、“ステイゴールド”でもある。その事実を確信させる、あまりに人間らしい表情だった。

「私にあいつの名前は背負えない」

 声が少しだけ震えた。

「私は“ステイゴールド”だ。あいつの代わりも務まらない。何がきっかけであいつと私が変わってしまったのかもわからない……私には何もできない」

 言葉が重く落ちる。それは懺悔のようでもあった。夜風が吹き抜け、二人の間の空気を冷やした。ステイゴールドは小さく息を吐き、そしてゆっくりと立ち上がる。伸びをしながら、空を仰ぐ。その目には再び決意の光が宿っていた。

「だが、せめてあいつに恥じない走りをしようと思う」

 声が低く響く。

「国内でも海外でも、私を──あいつを世界に刻み付けてやるさ」

 言葉は強く、だが美しかった。静かな公園の真ん中で、誰にも届かないかもしれないその宣言は、だからこそ真実だった。

 ステイゴールドはゆっくりと振り返り、乙名史の目を真っ直ぐに射抜く。口角を上げて笑った。それは挑発にも似た、しかし確かに前を向く者の笑みだった。

 乙名史はその姿に胸を打たれ、自然と立ち上がっていた。この瞬間、自分もまた試されていると感じた。記者として、証人として、人間として。

「……はい」

 喉の奥で言葉が震えたが、押し殺した。

「私もお供します。貴方の行く末、しかと見届けさせていただきます!」

 声は強かった。

 言葉は祈りだった。

 手帳には消えない文字がある。

 頭には忘れない記憶がある。

 乙名史は自分に誓った。()()()()の物語を、どこまでも追い続けると。

 そして、ステイゴールド(キンイロリョテイ)の旅路を、最後の一歩まで、目を逸らさず見届けると。

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