・乙名史悦子……月刊トゥインクルの記者。不思議な手帳を持っている。
・秋川やよい……トレセン学園理事長。常に猫とともにいる。
・アグネスタキオン……研究好きのウマ娘。“ミラーマン”の一件以降オカルト方面にも興味を示す。
・マンハッタンカフェ……アグネスタキオンの同期。体質が弱く体調を崩しやすい。
・キングヘイロー……黄金世代の不屈のウマ娘。劇的なG1勝利に皆が沸いた。
・グレードチャンプ……キングヘイローに憧れる取り巻きウマ娘。切れ長のネコ目。
・パリスクイーン……キングヘイローに憧れる取り巻きウマ娘。黒のボブカット。
・セイウンスカイ……黄金世代のトリックスター。クラシック二冠。
昼時のトレセン学園。食堂はいつも通り活気にあふれ、談笑や食器の音が絶え間なく響いていた。乙名史はその賑わいの中、学生たちに交じって座っていた。
「──こちらが、マンハッタンカフェ。私の友人だよ。カフェ、彼女が乙名史さん。ご存じの通り、月刊トゥインクルの記者さ」
アグネスタキオンは場を仕切るように、二人を交互に見やりながら紹介する。紹介された乙名史とカフェも、わずかに会釈を交わしつつ、何の目的で呼ばれたのか測りかねていた。
そのとき、マンハッタンカフェがふいに乙名史の方をじっと見つめた。いや、正確には“目を合わせる”でも“凝視する”でもなく、ただその輪郭をなぞるような、ぼんやりとした視線を投げていた。
乙名史は思わず身体を強張らせる。
「あの、マンハッタンカフェさん? どうかなさいましたか?」
たまらず声をかけると、カフェはゆっくりと瞳を瞬かせ、短く答えた。
「……いえ」
だがその直後、今度は虚空を見つめ、口を小さく動かしはじめる。
「……うん…ね……そう…だ……」
何かと会話を交わしているようなその声は、食堂の喧騒にかき消され、乙名史には一言も聞き取れなかった。
その様子を見ていたタキオンが、軽く咳払いをして乙名史の耳元へ顔を寄せ、低く囁いた。
「御覧の通りさ。彼女には、我々には見えない“何者か”が見えている。あの“ミラーマン”のようなものがね」
乙名史は息を呑む。タキオンにとっての“ミラーマン”、乙名史にとっての“馬頭観音”。他人には見えない、知られざる存在を彼女も持っているのか。だが彼女の柔らかな表情や声色からは、まるで旧知の友人に話しかけるような親密さすら感じられた。
タキオンがわざとらしくもう一度咳払いをすると、カフェはそちらを向き、口を閉ざした。乙名史も自然とタキオンへと視線を戻す。
「さて、諸君。ここへ来てもらったのは他でもない」
タキオンは芝居がかった仕草で指を立て、声を抑え気味に続けた。
「ひとつ、検証したい噂があってね」
その目は、物語の幕を上げる役者のように、わずかに笑っていた。
──金の蹄鉄の噂──
学園の三階、理事長室の前に飾られている蹄鉄を知っているかい?行事や式典があるたびに、理事長が得意満面で掲げて現れるアレだよ。さて、その蹄鉄の正式な名前を知っているかい?“金の蹄鉄”さ。おかしいと思わないか?どこからどう見ても、アレはただの蹄鉄だ。鈍い鉄色で、装蹄師なら誰でも扱うような平凡な品だよ。金なんて一欠片もない。だがね、そこが面白い。アレにはこんな噂があるんだ。
「その蹄鉄を履いたものは、どんな勝負事にも必ず勝つことができる」
荒唐無稽だろう?けれど出所はある。昔、この地では“神馬祭”という儀式があってね。今でこそお祭り騒ぎの余興になり下がっているが、かつては本気で神に祈りを捧げるための、厳粛な儀式だったそうだ。選ばれしウマ娘が村や国の願いを背負い、あらゆる競争を行い、そのすべてに勝利することで祈願者に豊穣を授けた。伝承によれば、その勝利をもたらした初代の神馬娘が履いていた蹄鉄こそが、あの“金の蹄鉄”なんだ。
────
タキオンはひとしきり語り終えると、手元のカップを持ち上げ、角砂糖の溶け切った紅茶をスプーンでゆっくりとかき混ぜた。琥珀色の液面が小さく波打つ。乙名史はその“金の蹄鉄”の話をもともと知っていた。単なる縁起物の一つだと思っていたが、今は違う考えが頭を占めていた。生徒たちが本気で信仰し始めれば、噂が実態を帯びるのはすでに実証済みだ。ならば、古来の儀式が本物の力を帯びていた可能性も、否定できない。
「……その蹄鉄を履いて、実際にレースをしてみたい、ということですか?」
記者らしく本題を外さぬ問いを向けると、タキオンは鼻で笑った。
「そういうことになるね。ただし、私は“約束された勝利”なんぞに興味はない。実験さ。ちょっと拝借して、終わったらきちんと元に戻すつもりだよ」
横で黙っていたマンハッタンカフェが視線を落としながら、静かに口を開いた。
「……私は、必要ないでしょう?」
その声音には明らかな拒絶がにじんでいた。タキオンは少しだけ口角を上げる。
「とんでもない。君の協力は不可欠だよ、カフェ。検証には対比が必要だ。私と戦ってもらうのは君と、乙名史さん、それから数人のウマ娘。ほんのすこーし協力してもらえればいい」
その説明に、カフェの眉がぴくりと動いた。無理もない。目の前で『実験台』と告げられたようなものだ。
「……私は遠慮します。お二人で検証してください」
短くそう言い切ると、カフェはがたん、と椅子を引き、食事を終えた皿を両手でしっかり抱えた。立ち去ろうとする気配は固く決意したものだった。タキオンは慌てて立ち上がり、その後を追う。
「ま、待ってくれよカフェ~!この検証は我々の“祖先”の謎を解き明かすかもしれないんだぞ!それこそ“オトモダチ”の──」
言い訳を必死にまくし立てながら、二人は連れ立って食堂を出ていった。ぽつりと取り残された乙名史は、しばらく手元の野菜ジュースを見つめ、結局静かに口をつけるしかなかった。
そして、その一部始終を少し離れた席から盗み聞きしていたウマ娘がひとり。
「“どんな勝負事にも必ず勝つことができる”──か」
小さく呟くその瞳には、獲物を狙うような鋭さが宿っていた。
結局その後、タキオンもカフェも昼食の時間中に食堂へ戻ることはなく、乙名史は一人きりで食事を終えた。食器を所定の場所に戻し、いつものかばんを抱え直すと、七不思議取材のため学園内へと歩を進めた。
今回の調査対象は、もちろん“金の蹄鉄”。足取りは迷いなく三階へ向かう。階段を登りきり、静かな直線廊下を見渡す。突き当たり近く、理事長室の前──蹄鉄が飾られているはずの場所を目にしたとき、乙名史はそこに立つウマ娘の姿を捉えた。
黒髪のボブヘア。三つ山のような特徴的な耳。乙名史はすぐに思い出した。
「パリスクイーンさん?」
名前を呼ばれた瞬間、そのウマ娘は大げさにビクリと身体を跳ねさせた。まるで悪戯を見つかった子供のような動きだ。
「あ、あー、記者さん?き、奇遇ですねー、こんなところでぇ」
声が裏返り、笑顔も引きつっている。明らかに挙動不審だった。最初は理事長室に用があるのかとも思ったが、その様子では到底そんな風には見えない。
「お久しぶりです。今、何をされていたのですか?」
乙名史は柔らかく問いを向ける。
「えー?あ、え、私ぃ、清掃委員なんですよ!最近この辺りが散らかってるって話を、耳にしたり、しなかったり……」
返事はあやふやで、視線は泳ぎっぱなしだ。何かを隠しているのは明白だった。
乙名史は、問い詰めるのは得策でないと判断した。だが、その目的が“蹄鉄”だという確信も同時に深まった。
──信じるものが増えれば、噂も実態を帯びる。試すつもりだな。
「そう、なんですね。私は道を間違えてしまって……。保健室ってどちらでしたっけ?」
完全な嘘だった。学園の構造は──とある一件以来──隅々まで頭に入っている。
「あ、あー! 保健室なら一階ですよ!この階段を下りて、左手にグーンと。えへへ」
パリスクイーンはぎこちなく説明し、愛想笑いを浮かべた。
乙名史は、賭けに出ることにした。もし本当に“金の蹄鉄”を手にして何かを企むのなら、そこで起こる出来事こそが記事になる。『すべての勝負事に勝つ』という噂が真実なら、その行動を追えば証拠が取れる。噂がただの噂なら、少しは本人も思い知るだろう。何より、パリスクイーンと親しい生徒たちから裏を取る手段も頭にあった。
「ありがとうございます。……清掃、頑張ってくださいね」
微笑みながらそう告げて背を向けた──あとになって思えば、このとき引き留めるべきだったのかもしれない。
乙名史が廊下を去る背後で、パリスクイーンは小さく安堵の息をついた。そしてゆっくりと、再び“蹄鉄”に視線を戻す。周囲を警戒するように首を動かし、懐から自分の蹄鉄を取り出す。慎重に──だが確実に──飾られた“金の蹄鉄”とそれをすり替えると、そのまま音を立てないように抱え、廊下を立ち去った。
乙名史は、パリスクイーンの知人に会うべく学園を歩いていた。目指すのは、校舎から少し離れた場所に並ぶ“部室棟”と呼ばれる平屋の建物群。その一室が彼女たちの活動拠点だった。
扉の前で深呼吸をひとつ。数回、コツコツとノックを打つ。
「どうぞー」
落ち着いた声が中から返ってきた。乙名史はノブを回し、静かに部屋へ入る。
「突然の訪問、恐れ入ります。グレードチャンプさん」
中には、泥のついた顔を袖で拭きながら、トレーニング用具を片付けているウマ娘がいた。特徴的な切れ長の目が乙名史を捉えると、ぱっと明るい笑みを浮かべた。
「あ、乙名史さんいらっしゃい!キングはいま外に出てますけど、呼びましょうか?」
パリスクイーン、グレードチャンプ、そしてキングヘイローは同じチームに所属するチームメイトだ。キングヘイローはすでにデビューを果たし、今年ついにG1勝利を掴んだ実力者。一方、パリスクイーンとグレードチャンプは来年デビューを控え、模擬レースでも上位を狙える実力をつけつつあった。
「いえ、大丈夫です。……今日はキングさんではなく、パリスクイーンさんの件で」
そう切り出すと、乙名史は歩みを止め、改まった声で話し始めた。
──金の蹄鉄の噂。『それを履けば必ず勝つことができる』という伝承。パリスクイーンがそれを試そうとしている可能性。もし彼女が本当に手を出すつもりなら、結果を追うことで噂の真偽を探ることができるが、同時に彼女自身を守るためにも誰かに目を光らせてほしい──
乙名史の説明を真剣に聞いていたグレードチャンプの瞳が、途中から興味で輝き出した。
「なるほど……つまり私が乙名史さんのスパイになるってことですよね?面白そう!」
「スパイ、というとちょっと語弊がありますが……」
乙名史は思わず苦笑を漏らしたが、グレードチャンプはどこ吹く風でにっこりと笑った。
「大丈夫です、任務了解です!パリスのことは私に任せてください」
その無邪気な前向きさに、乙名史はわずかに肩の力を抜いた。
「あ、キングにはどうしましょう?一応伝えておいたほうがいいですかね?」
グレードチャンプが真面目な声色に戻る。
乙名史は少し考え込む仕草をした後、ゆっくり首を横に振った。
「余計な心配はかけたくないですし……二人だけの任務、ということで」
「了解!」
グレードチャンプは笑顔で右手を曲げ、ピシッと敬礼のポーズをとった。その無垢な仕草に乙名史は小さく息をつき、手持ちのボイスレコーダーとメモ用紙の予備を差し出した。
「じゃあ、これを。何かあれば記録しておいてください」
「おお、記者セットですね!」
「……頼みますよ、本当に」
念を押すと、グレードチャンプは真面目な顔で頷いた。
乙名史は一抹の不安を残しながらも、彼女を信じることに決めた。そして小さく会釈を交わすと、次の目的地へ向かって足を進めた。
訪れたのは、旧理科準備室。アグネスタキオンが半ば私室のように使っている、いわくつきの研究拠点だ。乙名史は昼食時の話に進展があったことを伝えるつもりで足を運んだ。
だが、扉を開けて中を覗くと、部屋には誰もいなかった。かつて訪れたときには無かった大きな絵画と、くたびれたソファが壁際に設置されている。けれどそれ以外は相変わらず古びた棚と薬品の瓶、無造作に積まれた書類が乱雑に散乱するだけだった。
「……不在、ですか」
ぽつりとつぶやく。
そのとき、部屋を一陣の風がビュオっと吹き抜けた。紙資料が一斉にパラパラと宙を舞う。
「あっ!」
乙名史は慌てて両手を伸ばした。風に巻き上げられた紙束が四方八方に散らばる。前後も順番も滅茶苦茶だ。
──放っておけない。記者として原稿を扱う身の職業病だった。ぐちゃぐちゃの資料をそのままにするなど耐えられない。
しゃがみ込み、一枚一枚を集めながら、自然と目にタイトルが入ってくる。
『原初のウマ娘とは?資料に残る最古のウマ娘“赤兎”』
『なぜウマ娘は走る?その本能と欲求について』
『療養後復帰のいろは。要データ収集』
タキオンらしいテーマがずらりと並んでいた。興味深くもあり、どこか怖さもある──そして、ふと目を留めた見出しがあった。
『“神馬祭”について』
指先がぴたりと止まる。昼食の際にタキオンが持ち込んできた話に登場した祭りの名前だ。本人のいない隙に勝手に資料を読むなど、本来あってはならない行為だ。記者としての矜持が咎める。けれど──知りたい。いったいタキオンがどこで噂を仕入れ、なぜ乙名史とカフェ含む数人を巻き込んで実証を行おうとしたのか。この取材の核心に関わるなら。
乙名史は小さく息を呑み、決心をつけたようにそのページを開き、視線を落とした。
──アグネスタキオンのレポート──
“神馬祭”は、日本各地に古来より伝わる大儀礼の一種である。
現在では「駿大祭」と呼称を変え、各地のウマ娘団体が「奉納祭」「流鏑馬」「神馬駆」などを分担して執り行っているが、本来はそこに「御霊写(みたまうつし)」を加え、ひと月かけて連続的に進行する荘厳な祭祀であったと伝わる。
複雑な構成と長期の準備を要する「御霊写」は、詳細な記録がほとんど失われており、いまや再現は困難だ。しかし、その断片的な記録からも、神馬祭全体が単なる競技会や祝祭を超え、村落共同体の願いと畏れを凝縮した精神的儀礼だったことがうかがえる。
本稿では「御霊写」には深入りせず、特にこの祭の中核をなした「神馬」役に選ばれたウマ娘たちの歴史的変遷を検討したい。
学園図書館に所蔵される最古の「神馬祭」記録は平安期の写本である。
そこに記されているのは、まだウマ娘という存在が人間社会に馴染みきらず、畏怖や差別の対象として「鬼」「妖怪」などと記録されていた時代の物語だ。
以下はその一節を抜粋したものである。
ある春のこと、深い山間に閉ざされた村に、一人のウマ娘が現れた。その耳は鋭く、黒髪は腰まで流れ、瞳は獣のように光ったという。村人からは「鬼女」とも「山の怪」とも呼ばれ、恐れられた。
彼女は村の田畑を踏み荒らし、家畜を奪い、言葉少なくして要求を突きつけた。
「食わせろ。着せろ。従え」
村人たちは集まって祈り、相談し、ついに嘆願した。
「どうか、もうやめてくれ。これ以上は耐えられない」
しかしウマ娘は冷たく笑った。
「ならばお前らの中で最も強いヒトを出せ。私と競え。ひとつでも勝てば、言うことを聞こう」
誰もが息を呑んだ。人の身でウマ娘に勝てるなど夢物語。だが、その場にひとりの青年が進み出た。まだ二十に満たぬ若者だったが、目だけは強く澄んでいた。
「いいだろう。俺と四番勝負をしろ。勝負の内容は俺が決める」
ウマ娘は声を立てて笑った。
「無謀な愚か者め。好きに決めるがいい」
青年は深く息を吐き、指を折って勝負を告げた。
「一つ目は徒競走」
「二つ目は舞踊」
「三つ目は的当て」
「四つ目は短歌だ」
村人は青ざめた。徒競走など、ウマ娘に敵うはずがない。しかし青年は、ただゆっくりと笑っていた。
まず一つ目、誰もが徒競走はウマ娘の圧勝だと考えた。春の里道、土煙をあげる青い風の中で、青年とウマ娘は並んで走った。だが、ウマ娘はただ真っ直ぐ力任せに駆けた。青年は狭い小道を選び、土手を飛び越え、彼女の進路を巧妙に塞ぐ。人々はその卑怯とも言える策にどよめいたが、勝負は勝負だった。青年が先にゴールへ転がり込む。
ウマ娘は口を尖らせ、髪を揺らして叫んだ。
「まったくばかばかしい!だが、約束だ。村への横暴はやめよう」
そうして去った彼女のおかげで、村はしばらく平穏を得た。だが──翌年の同じ春、再びその姿を現す。
「やい!あいつを出せ!四番勝負だ!」
今年は違った。徒競走では完璧なコース取りと身のこなしを見せ、青年を置き去りにした。しかし、舞踊の番になると、荒い呼吸で踊りの型を真似るだけ。村人は静まり返り、青年はただ手を広げ、優しく舞った。勝負は青年のものだった。
翌年もまた、春の風にその声が響いた。
ウマ娘は見違えるような舞を見せた。山の花を摘み、腰に差し、長い手足でしなやかに舞い、村人は魅入った。だが、的当てになると力加減ができず、弓を引き絞りすぎて折ってしまった。彼女は悔しげに舌打ちしたという。
さらにその次の年。今度は弓を軽やかに操った。呼吸を合わせ、狙いを定め、的のど真ん中を貫いた。村人は歓声を上げ、青年は小さく拍手を送った。しかし最後の短歌になると、ウマ娘は眉を寄せて言葉を探し、何も言えなかった。
「花、風、なんだそれは……」
彼女はうつむき、震える唇で吐き捨てた。
それでも翌年、彼女はまた現れた。だがその年は、四番勝負は行われなかった。青年はすでに病の床にあり、起き上がることすらできなかったのだ。
ウマ娘は戸を叩き、声を荒げた。
「やい!来たぞ!私と戦え!」
春の風がまだ冷たい村の入り口で、ウマ娘は大声をあげた。病に伏した青年の家の戸を荒々しく叩き、いつも通りの調子で笑ってみせた。元気づけようとしていたのだ。
しかし、障子を開けた青年はもう痩せ衰え、布団の上でかすかに身じろぎするだけだった。それでもその瞳は静かで、優しく光っていた。
「……お前はもう、全部を身につけた。人知を超えた走り、美しい舞踊、力の加減、そして言葉のあや……」
青年はかすれ声で告げた。
「お前はもう、横暴なウマ娘じゃない」
それを聞いたウマ娘は、唇を噛み、震える手を握りしめ、ついにはその場に崩れ落ちたという。
まもなく青年は息を引き取った。村中が泣いたが、特にウマ娘は声を上げ、一晩中泣き通したと記されている。その声は山間に響き渡り、夜を越えて風に運ばれた。
夜が明けると、村人たちは相談し、青年を火葬することに決めた。村から山ひとつ越えた採石場の近く、古くからの火葬地へ。
その運搬と火葬役を、ウマ娘が自ら願い出た。
青年の亡骸を背負い、火のともった松明を片手に狭い山道を駆け上がった。雨上がりでぬかるんだ道を、滑り、転びそうになりながらも決して手放さなかったという。その背に揺れたのは、長い黒髪と、白布に包まれた青年の亡骸だった。
火葬地に辿り着くと、そっと彼を横たえた。そして周囲の木々を折り、松明の火を移し、焔を大きく燃え上がらせた。
その前で、彼女は一度深く息を吸い、天に向けて咆哮のような声を上げた。村人が遠巻きに見守る中で、全身を大きく使い、舞い始めた。
泥と血と涙にまみれた舞だったと伝わる。髪は乱れ、足は赤く切れ、呼吸は荒く、けれど止めることはなかった。
そして、火の前で声を絞るように歌を朗じた。
「我此処に在り。我等此処に輝けり。想い撚りて、我が代わりて、言の葉を紡がん──」
その声に合わせるように、焔は大きく天に立ち昇り、茜空を赤く焦がしたという。
以降、春先になると、彼女は必ず村を訪れた。誰に強制されるでもなく、自ら舞い、短歌を詠み、村人を励ました。
それはやがて、村人たちが自分たちの願いや厄を背負わせ、祓うための儀式へと形を変えた。いつしか“神馬祭”と呼ばれるその行事は、ウマ娘が人の願いを背負い、走り、舞い、歌う祭祀となっていった。
この逸話は興味深い。勝負を通じて人間の知恵や文化を学び取ったウマ娘が、力をふるう存在から“願いを背負う存在”へと変化していく過程を示している。まるで現代の我々とトレーナーのような関係ではないか。
────
乙名史はゆっくりと顔を上げた。開け放たれた窓はあれど、風ひとつ入らない。旧理科準備室の空気は重たく澱み、夏の熱気を逃がさずに閉じ込めている。頬を伝った汗が一筋、首筋へ滑り落ちる感覚に眉を寄せる。ポケットからハンカチを取り出し、そっと押し当てるように汗を拭った。小さく吐き出した息は、微かに熱を帯びていた。
──“神馬祭”の発端は、わかった。ウマ娘と人との約束の歴史。願いを背負う祭祀へと変わっていった過程。だが、それだけでは終われない。
あの蹄鉄は?理事長室の前に飾られた、金色でもない“金の蹄鉄”──必ず勝てるという噂の正体は。ページをめくる指先がわずかに湿っている。紙の端が汗で柔らかくなり、擦るときの音がやけに耳に残った。
ふと気づく。今読んでいたページの下に、もう一枚──少しだけ角が覗いていた。
乙名史は息を呑む──まだ、続きがある。指先が無意識にそのページを引き寄せる。
──アグネスタキオンのレポート2──
その後、“神馬”と呼ばれるようになった彼女は、いよいよ権力者に献じられるまでになった。村を立つ際、村人から現代でいうところの「蹄鉄」を譲り受けたとされる。文献によれば、それは村に伝わる厄除けの縁起物であり、身につけた者を災いから守るものと信じられていた。
また後年、彼女の葬儀にも蹄鉄が登場することが記録されており、死に伏すまで大事にしていたと見て取れる。
さて、彼女の活躍ぶりは目覚ましく、五穀豊穣や雨ごい、果ては戦の良し悪しまで、全てを担い儀式を行ったとされる。こういった儀式の主催者は、それが失敗に終わると島流しにあったり最悪首が刎ねられることもあるが、長く記録にあるということは上手くいっていたのだろう。いつしか彼女は“金のウマ娘”と呼ばれるようになり、その身に纏うものもまた、同じく“金の~”と呼ばれることになった。
現存する彼女の遺品は、学園にある“金の蹄鉄”、博物館に保管されている“金の
調べるに値する事象だろうか。要検討の余地。
────
最後の行は、誰に問いかけるでもなくただ淡々と結論を棚上げするような筆致だった。
乙名史は無意識に喉を鳴らす。蹄鉄──縁起物などという一言で済ませられない、重たい過去を背負った品。勝利の約束は、彼女の願いと責任、そして贖罪の証だったのだ。
指先が紙の端を離れると、少し湿った音を立てた。乙名史はゆっくりと資料を机の上に戻す。視線を落としたまま、胸の奥に沈むように疑問が浮かんでくる。
──なぜ、こんな由来のある品を、どうして理事長は、あの蹄鉄をあんな無防備な場所に飾っているのだろう。
博物館に寄贈され、厳重に保管されている“金の背子”。対して学園の“金の蹄鉄”は、ガラス越しとはいえ誰でもすぐ手を伸ばせる。まさにパリスクイーンがやってしまったように──簡単に。
喉の奥が渇いた。空調のないこの部屋は、熱気を閉じ込めて静まり返っている。
「……お話を伺う必要がありそうですね」
静かに呟く声は熱気に飲まれ、それでもはっきりとした響きを残した。乙名史はポケットからスマートフォンを取り出し、画面を見つめた。理事長取材のためのアポイントを取るべく、ゆっくりと番号を押し始めた。
「歓迎ッ! よく来てくれた、乙名史殿!」
理事長室の扉をくぐった瞬間、秋川やよいは声を張り上げて出迎えた。バッと扇子を大げさに広げ、そのまま勢いよく自分の胸元を扇ぐ。頬を朱に染めたその顔には、独特の誠意と気迫があった。そして目を細め、柔らかく手を伸ばすようにソファを指し示す。
「さあ、腰掛けたまえ!」
乙名史は軽く会釈し、促されるままに深いソファへ身を落ち着けた。革張りの座面は柔らかいのに背筋を正させる緊張感があった。机の上には書類の山。金色の縁を持つ写真立てがひとつ、その中の笑顔を見やって、秋川理事長は一度まぶたを伏せた。
乙名史はメモ帳を取り出し、ペンを滑らせる指を確かめてから、声を整えた。
「突然の依頼にご対応いただきありがとうございます。……今回は、あの“蹄鉄”について、お話をお伺いできればと思いまして」
「うむ!」
理事長は胸を張った。扇子を閉じ、膝に置くと、目を少し伏せて呼吸を落ち着ける。
「……あの“蹄鉄”は、この学園が建設された当初から変わらず理事長室前に飾られてきたものだ」
低い声は、どこか自分に言い聞かせるようでもあった。
視線を遠くに彷徨わせながら、理事長は過去を辿るように言葉を重ねる。
「出自を知っているか? あれは昔、人々が願いを込めて、あるウマ娘へ贈ったものだ。そのウマ娘は“神馬”、あるいは“金のウマ娘”と呼ばれた。実に多くの願いを叶え、活躍を重ねたそうだ」
そこで秋川理事長は小さく肩を落とした。
「だがな、乙名史殿。願いだけではなかった。想い、恨み、辛み、全てを彼女は背負ったのだ」
室内に空調の低い唸り音が響く。時計の針が静かに進む音すらやけに大きい。
「晩年の彼女は……生きながらにして死んだも同然だったという。食事も、余興も、もう笑わなかった。ただ儀式をこなすだけの──」
一瞬、言葉を探し、絞り出すように吐いた。
「──傀儡、だ」
秋川理事長の声が震えた。その頬を涙が伝う。
乙名史は思わず身を乗り出し、カバンからティッシュを取り出して差し出した。
理事長は受け取ると鼻をかみ、指先で涙を拭った。
「ありがとう……すまない」
しばしの沈黙が訪れる。理事長は濡れた瞳を伏せ、呼吸を整え、再び顔を上げた。
「彼女は死に際、ようやく笑顔を見せたという話がある。……それが、役割から解放された嬉しさだったのか、あるいは──」
そこで声が途切れた。秋川理事長は歯を食いしばり、次の言葉を押し出す。
「……それでは、あまりに惨すぎる!彼女は、ウマ娘は、他者の都合で消耗されるべきではないのに!」
吐き捨てるような声が響いたあと、再び涙が溢れた。乙名史は胸の奥が詰まるのを感じながら、ただそばに座っていた。
しばらくして、理事長は深く息を吸い込む。ぐっと拳を握り、そして目を閉じた。長い吐息をひとつ。
「……『なぜあの“蹄鉄”をあそこに展示しているか』について、話そう」
ゆっくりと目を開き、乙名史を正面から見据える。
「私も、母も、その前任も──歴代の理事長たちの思いは一つだ」
一拍の間を置いた。
「“今”のウマ娘たちと、触れ合ってほしい」
静かながらも揺るぎない声だった。不思議な言葉だった。だが、乙名史には理解できた。あの“蹄鉄”が、あそこにある意味を。
それは呪いの遺物ではなく、過去と現在を繋ぐ“問いかけ”なのだと。
「つまり──今を生きるウマ娘があの蹄鉄を見て、何かを願い、想い、感じるように。あの“蹄鉄”にも今のウマ娘たちと触れ合ってほしい。そして、その犠牲が……献身が、報われていると彼女に伝えたい、と」
乙名史の言葉に、秋川理事長は目を見開き、そして深く頷いた。扇子を膝の上に置いた手がかすかに震え、それを包むように両手を重ねた。
「おぉ……流石は乙名史殿」
低く押し殺した声で感嘆を漏らし、やがて力を込めたように言葉を継いだ。
「その通りだ。ウマ娘は、人々の願いを背負い、走る。……だが、それは時に残酷にその胸を刺すこともあるだろう」
理事長の声は、どこか遠いものを振り返るように沈んだ。
「気負いすぎないでほしい。背負いすぎないでほしい。それは、あの“金のウマ娘”に対しても同じだ。あれほどまでに願いを受け止めた彼女にも──」
秋川理事長は一度、言葉を切った。目を閉じ、深く呼吸し、そしてもう一度乙名史を真っ直ぐに見据えた。
「時には肩の荷を下ろし、何も気にせず語らう時間も必要だ。そのことを、あの“蹄鉄”を見て思い出してほしいのだ」
その声には、先ほどまで伝承を語るときとは違う、ひどく人間らしい熱が宿っていた。乙名史には分かった。これは、理事長としての公式な解説などではない。秋川やよいという一人の人間が、本心から絞り出した願いの言葉だ。
──すべてのウマ娘に幸せを。理想主義者と呼ばれても貫く現理事長の誇りと誠実さが、そこにはあった。
取材を終え、乙名史は深く礼をして理事長室を後にした。廊下に出ると、外の光が窓ガラスを通じて白く差し込む。理事長室の重たい空気を入れ替えるように、一度深呼吸をした。
──背負いすぎないでほしい。あの言葉が耳に残って離れない。あの蹄鉄が告げるものの意味が、少しだけ胸に沈んだように感じた。
ポケットからスマートフォンを取り出し、画面をつける。通知がいくつか溜まっていた。画面をスクロールすると、見覚えのある名前が目に飛び込む。
『乙名史さん!凄いですよ!今芝2に来れます?』
グレードチャンプからだった。送信時刻は約10分前。まだ間に合うかもしれない。
乙名史は手早く荷物をまとめ、スマホを片手に廊下を駆け出した。理事長室の扉が閉じる音が背後に響き、靴音が長い廊下に小気味よく跳ね返った。熱のこもった空気を切るように、乙名史は練習トラック芝第2コースを目指した。
「あ!来た来た乙名史さーん!遅いですよ~!」
芝第2コースに足を踏み入れた途端、甲高い声が弾けた。視線を向けると、グレードチャンプが大きく手を振っている。その隣にはキングヘイロー、パリスクイーンの姿もあった。三人はどうやらミーティングの最中だったようだ。
乙名史が近づくと、キングヘイローが腰に手を当て、ちらりと視線をチャンプに投げた。
「ちょっと……乙名史さんまで呼んだの?」
その声には照れ隠しのような苛立ちが混じっていた。
「だってぇ、パリスがキングに模擬レースで勝ったんですよ?こりゃ記事にしてもらわなきゃ!」
グレードチャンプは得意げに乙名史を指差し、説明する。
話を聞くうちに乙名史はメモ帳を開き、走り書きを始めた。いつも通りの練習開始直後、パリスクイーンが突然模擬レースを挑んだという。本格化を果たしG1を制したキングヘイローに、まだデビュー前のパリスクイーンが勝負を挑むなど無謀だと誰もが思った。しかし──結果は、パリスクイーンの堂々たる先着だった。
乙名史が顔を上げると、グレードチャンプが口元を覆いながらそっと耳打ちしてきた。
「これは例の“あれ”ってやつですよ……」
“蹄鉄”。その言葉が乙名史の胸に重く落ちた。あの勝利は、本当に実力だったのか。
「勝負に運は付きものよ!」
キングヘイローはやや強めに言い放ったものの、その声には自分を納得させるような響きがあった。そして、パリスクイーンの方を向き直る。その顔には笑みが浮かんでいた。
「……とはいえ、私相手に先着したその実力は認めざるを得ないわね。パリスクイーンさん、これからも期待しているわよ」
その言葉にパリスクイーンは顔を上げたが、曖昧な笑みを浮かべただけだった。目線をさまよわせ、どこか気まずそうに視線を落とす。乙名史はその微細な仕草を見逃さず、ペンを止めてじっと観察した。
「私はからっきしだったんですけどね~。いーなーパリス、私もいつかキングに勝てるかな!」
グレードチャンプは天真爛漫に笑いながら言った。それにキングは小さく息をつき、少し目を細めて返した。
「たゆまぬ努力と、高い志があれば、ね。さっ、ぼさっとしてないで外周行ってらっしゃい!」
声に張りが戻る。パリスクイーンとチャンプは「はーい!」と返事をし、スタート地点へ駆け出していった。キングの視線はその背を静かに追っていた。その瞳は、どこか柔らかく、遠くを見つめるようだった。
「いやー、あの子強いねぇ。うかうかしてると反抗期になっちゃうんじゃない?」
ふいに背後から間延びした声が響いた。
キングが振り向くと同時に、尻尾をぶわっと逆立てて飛び跳ねた。
「きゃっ……す、スカイさん!もうっ、驚かさないでよ!」
白みがかった髪にタンポポの髪飾り。セイウンスカイがいつもの飄々とした笑顔で近づいてきた。
「にゃはは、ごめんねキングママ。さっきのレース、ちょっと盗み見しちゃってさ」
「誰がママよ!」
二人のやり取りに乙名史は小さく笑いを漏らしつつ、ペン先を止めなかった。
セイウンスカイはチラリとパリスクイーンが走る先を見やり、首を傾げる。
「……にしても、さっきの子、強かったねぇ~。なんか秘訣でも掴んだのかなぁ?」
「この時期は珍しくないでしょ。本格化を迎えて実力が一気に伸びるなんて、誰にだってあるわ」
キングが言い切る声は、少し強張っていた。しかしセイウンスカイは肩を竦め、目を細めて笑った。
「んー。それだけ?」
その声色は、のらりくらりとしているのに妙に鋭かった。乙名史の耳が反応する。
「……スカイさん、それって。私のチームメイトが不正を働いたかもしれないって、そう言いたいの?」
キングの声が低くなる。だがセイウンスカイは全く動じず、首をゆっくり傾けただけだった。
「滅相もございませんよ。ただ……靴とか、変えてみたりしたのかな~って思っただけでさ」
その言葉を聞き、乙名史はごくりと小さく喉を鳴らした。
“蹄鉄”。
セイウンスカイは、あの模擬レースに潜む違和感を、言葉にせずとも見抜いていたのだ。そして、その瞳は確かに乙名史を一瞬だけ射抜いた気がした。
それからしばらくして、乙名史はグレードチャンプからのメッセージやボイスメモを受け取るたびに、少しずつパリスクイーンの様子を記録していった。
ある時は、昼休みのババ抜きで初手全揃えを達成したという笑い話。またある時は、購買のプリンを賭けたじゃんけんで十五人を連続撃破したという報告。
もちろん、練習でも同様だった。タイムそのものは平凡でも、誰かと並んで走ると様子が変わる。ラストスパートで必ずクビ差以上で先着する。競り合いの強さ、と言えばそれまでだが、あまりに露骨で、周囲のトレーナーたちも首を傾げていた。けれど結局は、「競り合いが得意なウマ娘なんだろう」と、誰も深くは踏み込まなかったらしい。
──そう、無理にでも納得しなければいけない理由が、そこにはあったのだ。
そして、選抜レースの日が近づいた。デビューを控えるウマ娘にとって、最も重要な関門。このレースの成績でデビュー時期が決まり、早くデビューするほどキャリアは有利になると言われている。中でも“特選”と呼ばれる組は、期待の高いウマ娘が集められる注目レースだった。パリスクイーンは、そこに選ばれていた。
乙名史は、レース出走表を手にしていた。事前資料を何度も読み返し、記者用ノートを開いた指先が少し湿っている。ノーリーズン、タニノギムレット、シンボリクリスエス──そうそうたる名前の並ぶ中に、しっかりと印刷された「パリスクイーン」の文字。数か月前なら、誰もが場違いだと笑っただろう。いや、もしかしたら当の本人が一番そう思っていたかもしれない。
乙名史はペンを止め、ゆっくりと息を吐いた。もし、この中でも彼女が勝ってしまったら──それは、本当に“蹄鉄”の力なのか?それとも、パリスクイーン自身の実力なのか。
そんなこと、誰に断言できるだろう。「蹄鉄のおかげ」と決めつければ、それは彼女の努力も、才能も、すべてを侮辱することになる。けれど、あの蹄鉄にまつわる伝承を知ってしまった今、その可能性を完全に否定するのもまた不誠実だ。
乙名史はメモ帳を閉じた。胸の奥に、答えの出ない重たい塊が沈んでいた。それこそが、この“蹄鉄”が抱える大きなジレンマだった。人の願いを背負わせ、勝利を与えるという、その甘美で、残酷な約束の罠。
窓の外では、まだ陽が高いというのにどこか黄昏めいた光が差していた。乙名史はそれをぼんやりと眺めながら、静かに目を閉じた。
ガチャン。
金属音が一瞬空気を裂き、スタンドのざわめきが息を呑むように止まった。レースゲートが一斉に開く。“特選”レースが、ついに始まった。
スタートを決めたのはダンタンハタ。軽やかな脚捌きで飛び出し、すぐに先頭を奪う。シジミガリは好位を選んで前を伺い、パリスクイーンはその外へ被せるように並んだ。ノーリーズンとシンボリクリスエスは中団の外目を選び、タニノギムレットは出遅れを取り戻すべく最後方でじっと構えた。
向こう正面。
先頭は相変わらずダンタンハタが引っ張る。パリスクイーンは少し位置を下げ、ノーリーズンの横に並ぶ形になる。その様子をシンボリクリスエスは鋭い目で外から見下ろすように追いかけた。
最終コーナー。
一気に空気が張り詰める。すべてのウマ娘が脚を伸ばし、スパートをかける。ノーリーズンが内から力強く抜け出しにかかるが、それをシンボリクリスエスが外から被せるように制する。タニノギムレットも軍団を捌き、ぐんぐんと伸び脚を見せた。
その時。パリスクイーンは後方──それも最後方に沈んでいた。序盤で力を使いすぎたか、口を割り、首を振る様子はスタミナ切れを露呈していた。観客席の空気が冷たくなりかける。
──ここまでか。
直線に入り、タニノギムレットが勢いよく加速を開始。勝負あったかに見えた刹那、シンボリクリスエスが内に切れ込み、二頭が軽く接触する。その一瞬の揺れが、速度を鈍らせた。
ノーリーズンは進路を切ろうとしたが、先頭にいたダンタンハタの背中が壁となる。前が開かない。焦りのように左右を見るが、すでにタイミングを失った。
そしてその隙間を縫うように、最後方から一頭が飛んでくる。パリスクイーンだった。
その脚は、まるで地面を蹴り割るかのような爆発力だった。首を低くし、耳を伏せ、ただ一直線にゴールを睨み据える。観客が一拍遅れてどよめいた。
タニノギムレットが体勢を立て直す前に、シンボリクリスエスが進路を開ける前に、パリスクイーンはその間隙を切り裂くように抜け出した。息を呑むような末脚だった。
ゴール板を駆け抜けた瞬間、実況が絶叫する。
「パリスクイーンだッ!パリスクイーン、特選レースを制しました!」
勝負を決めたのは、わずか数秒の出来事だった。そしてその数秒は、まるで永遠のように刻まれた。
「やったじゃない! すごいわ、パリスクイーンさん!」
ゴールの瞬間、真っ先に駆け寄ったのはキングヘイローだった。張り詰めたレースを制した勝利を、心から讃えたくて飛び出した。しかし、その笑顔は一瞬で強張る。
パリスクイーンは荒い呼吸を繰り返し、視線はどこにも定まらない。問いかけても反応は鈍く、ただ喉の奥で息を吐くだけだった。汗で濡れたターフが、彼女の震える脚をまとわりつく。
「誰か! 担架を! 早く!」
キングの声が割れる。スタッフが駆け寄り、手際よく担架を準備し、ぐったりとしたパリスクイーンを慎重に乗せる。意識の薄い彼女の腕がだらりと揺れ、観客席から小さな悲鳴が上がった。そのまま担架は救護室へ運ばれていく。
キングヘイローは唇を噛み、拳を握りしめたまま動けなかった。乙名史は、その横顔を見つめた──もう、放っておけない。蹄鉄を使わせ続ければ、次は命を落とすかもしれない。乙名史は覚悟を決めた。
救護室前の廊下は重苦しい沈黙に包まれていた。蛍光灯の白い光が冷たく、消毒液の匂いが鼻を刺す。
「恐れ入ります、キングヘイローさん。お話ししたいことが」
乙名史は低い声で事の発端を話し始める。
キングは振り返った。その目は赤く、耳はきつく絞られていた。
「それほど危険なものを、貴方はわかっていながら放っておいたということ?」
静かに問いかける声が、かえって冷たい。乙名史は視線を落とした。逃げ場のない責めが、胸に突き刺さる。
「……すみません。ここまで危険だとは、思っていませんでした」
声が震えた。記事のための取材心、真実を暴く情熱。それが結果としてパリスクイーンを追い詰めた。アグネスタキオンを責めたあの時の言葉が、今度は自分に返ってくる。
その時。緩い声が廊下に割り込むように響いた。
「やっぱり、おかしいと思ったんだよね~」
セイウンスカイだった。両手を後ろに組み、ゆっくり歩み寄る様子は、場違いなほど呑気だ。
「スカイさん、今は貴方の話を聞いていられる余裕はないの」
キングの声は鋭かった。だがスカイはまったく怯まず、片眉を上げて笑った。
「まぁまぁ。実は私もあの子のこと、気になってたからさ。あの後、彼女のレース全部見て回ったんだよ~」
乙名史もキングも、息を呑んだ。それがどれほど大変なことか、三人とも理解していた。しかしスカイはそれを当然のように言う。
「全部パターンが一緒だった。最終直線までは平凡。けど最後だけ、何かが憑いたみたいに脚が伸びる。驚異の末脚っていうには、あまりに異常だったよ~」
廊下の空気がさらに重くなる。
「……彼女の体力以上の勝利を与えてしまうものだと分かった以上、あの“蹄鉄”は即刻没収するべきです。私から彼女に話します」
「当然よ」
キングはぴしゃりと答えた。その瞳は強い決意で燃えていた。
しかしスカイは、すぐには同意しなかった。ゆっくりと頭を傾げ、細めた瞳が乙名史を捉える。
「でもさ、アレって所謂“呪いのアイテム”でしょ?そう簡単に外れるのかなぁ?」
「所詮はただの蹄鉄よ。もし外れなかったとしても、別の靴を履かせればそれで終わりでしょ」
キングは苛立ちを隠さず言い放つ。スカイは首を振った。
「……彼女は、学園の生活でも勝利を積み重ねていました。ババ抜きや、じゃんけんでも。つまり、あの“蹄鉄”を履いているかは問題ではなく──」
スカイの視線が、全てを見透かすように乙名史を射抜いた。
「──所有者に“勝利”を降らせる、ってことだね?」
乙名史は小さく頷いた。キングは苛立ちを爆発させるように声を張った。
「でも、だったらどうすればいいのよ!?彼女に全部諦めろって言えっていうの!?」
声が震えていた。涙を堪えているのが見て取れた。スカイはそんなキングの肩をそっと撫で、静かに言った。
「ううん、そうじゃない。呪いのアイテムにはさ、取り外すための“条件”があるはずだよ」
そして、真っ直ぐ乙名史を見た。
「乙名史さん、何か心当たりない?」
乙名史は頭の中を必死に巡らせた。蹄鉄の伝承、伝えられた言葉、レポートの文字。やがて、一筋の可能性が閃いた。
「……あの“蹄鉄”は、もとは村人が彼女に贈った縁起物です。彼女を災厄から守り、幸せを願って」
二人は真剣に耳を傾けた。
「そして、彼女は全ての願いを叶える象徴になった。つまり──」
「──彼女に、“蹄鉄が外れますように”と願わせれば……?」
キングが続きを呟いた。その瞳には、決意と祈りがあった。
乙名史は大きく頷いた。スカイは、少しだけ口元を緩めた。
「じゃあ、決まりだね。あの子の意識が戻ったら──三人で説得しよう」
救護室の扉の向こうで、微かに医療機器の音が響いていた。乙名史は、固くペンを握りしめた。
少し後、パリスクイーンの意識が戻ったとの知らせを受けた三人は、廊下を急ぎ足で駆けた。救護室のドアを開け放ったのはキングヘイローだった。
「パリスクイーンさん!」
勢いのままにベッド脇まで駆け寄り、ぐしゃりとシーツを掴むようにしてパリスクイーンの頭を抱きしめた。
パリスクイーンは驚いたように瞬きを繰り返し、頬を赤らめて小さく笑った。
「ちょっ、キングったら大げさだなぁ……えへへ」
その声はかすれていたが、確かに生気が戻っていた。安堵の吐息が部屋に満ちる。
遅れてセイウンスカイ、グレードチャンプ、乙名史が続いて室内へ入った。機械の規則的な電子音、消毒液の匂い。白い蛍光灯の光が、パリスクイーンの青ざめた頬を照らしていた。
その空気を切り裂くように、セイウンスカイがのんびりとした声で切り出した。
「ねぇ、ちょっと聞きたいことがあるんだけどさ~」
部屋の温度が、目に見えるように冷えた。スカイは薄く目を細めて、ベッドの上の少女を見つめた。
「パリちゃん。“特別な蹄鉄”使ってる?」
その言葉に、パリスクイーンの表情がみるみる硬直する。瞳が泳ぎ、唇をぎゅっと噛み締めた。ベッドのシーツを握る指先が白くなる。答えは明らかだった。
「……図星ってことかな?」
セイウンスカイは息を吐くように言葉を続けた。
「アレ、結構危ない品みたいだからさ。もとの場所に──」
「嫌です」
パリスクイーンの声はかすれていたが、決して揺らがなかった。短く、鋭く、拒絶の二文字を吐き出した。
室内の空気が張り詰める。キングヘイローが目を見開き、その肩が微かに震えた。震えを抑えきれない声で、しかし必死に諭すように詰め寄る。
「駄目よ……!今日のレース、貴方の体力じゃもたなかったじゃない!死にかけてたのよ!」
パリスクイーンは応えない。ゆっくりと顔を横に向け、全員から視線をそらした。頬に一筋、汗とも涙ともつかない光が伝う。
「……嫌です」
声は絞り出すようだった。肩が小さく上下し、呼吸が不規則になる。
「……キングには、わからないですよ」
その言葉は鋭くもなく、むしろ弱々しかった。けれど、その背中には確かな壁があった。乙名史はペンを握りしめたまま、何も言えずにパリスクイーンを見つめていた。
「わかるわよ」
キングが低く、けれど必死に絞り出すように言った。
「わからないですよ!」
その言葉を鋭く断ち切るように、パリスクイーンが声を張り上げた。救護室の白い壁が、その叫びを跳ね返すように震えた気がした。
「どれだけ練習しても、どれだけ走っても、誰にも追いつけない!」
声が震え、涙が滲む。
「誰も振り向かない!私のことなんて、少し前まで誰も知らなかったくせに!」
堰を切ったように感情が溢れ出た。細い肩が上下し、シーツを掴む指が震える。
「この世界には“勝利”が必要なんですよ!」
言葉はもはや悲鳴に近かった。
「認めさせるには、名を上げるには、勝つことが最低条件なんですよ!」
叫び終えたあと、部屋は異様なほど静まり返った。医療機器の電子音だけが、淡々と響いていた。
キングは深く息を吸い、パリスクイーンの目を真っ直ぐに見つめた。その声は静かで、けれど確実に揺れていた。
「それは、貴方の本心なの?」
「そうです!」
パリスクイーンは荒く息を吐き、目を赤くしながら睨み返した。
「重賞を勝った貴方ならわかるでしょう?勝った人と勝ってない人、ここには明確な壁があるんですよ!」
キングの拳が小さく震えた。それでも声は抑えていた。
「本当に……それが、貴方の心からの言葉なのね?」
パリスクイーンは唇を噛み、濡れた目を逸らしながらも、ゆっくりと頷いた。
「結局は……キングもG1ウィナーですよ。もう私たちのことなんか、理解できないんだ……」
その瞬間だった。キングは勢いよく立ち上がり、椅子を軋ませて声を張った。
「──だったら私と勝負なさい!」
その言葉は、部屋を切り裂くように響いた。パリスクイーンの目が驚きに見開かれる。その場の全員が、言葉を失った。
「見損なったわ、パリスクイーンさん!」
キングヘイローの声が、救護室の狭い空間を震わせた。その目は怒りと悲しみが入り混じり、獣のような鋭さでパリスクイーンを射抜く。右手を自らの胸元に当て、声を張る。
「この私、キングヘイローを見て、よくもそんなことが言えるわね!」
パリスクイーンは一瞬びくりと肩を震わせ、しかし顔をそむけて視線を逸らした。それでもキングは止まらない。
「この私の勝利は、そんなにも情けないものだったの!?」
言葉を切り、拳を握る。
「貴方の重ねてきた血のにじむような努力は、そんな簡単に打ち捨ててしまえるものなの!?」
パリスクイーンは応えない。ただ唇を噛み、瞳に涙が浮かぶのを見られないように顔を背けた。しかし、その肩が小さく震えていた。
キングの声音が少しだけ柔らかくなる。だが、決意は変わらなかった。
「そんなの、私が認めない!」
鋭く言い放つ。
「私と勝負なさい、パリスクイーンさん。貴方が勝ったら、好きにするといいわ。チームリーダーの権限も、全部、貴方に差し上げる」
その言葉は軽い賭けではなかった。キングヘイローが積み上げてきたすべてを懸けた挑戦状だった。目を逸らしたパリスクイーンの頬を、涙が一筋伝った。
「ただし──」
キングは低く、震える声で言葉を継ぐ。
「私が勝ったら、その“蹄鉄”を放棄して、二度と頼らないと誓いなさい!」
部屋を満たした言葉が、ぴたりと沈黙を落とす。機械の電子音が規則的に響くだけで、誰も声を出せなかった。パリスクイーンは目を閉じ、肩を震わせ、返答はしなかった。
「……じゃー、来週、お互いにコンディション整えてから競うってことで?」
堪えきれない空気を破るように、セイウンスカイが肩をすくめて緩く声を投げた。
パリスクイーンはそっぽを向いたまま、声を絞り出すように呟く。
「別に今からでもいいですよ……どうせ勝ちますし」
キングは目を細め、その言葉を受け止めた。ゆっくりと息を吐き、張り詰めた声で告げる。
「いいえ、来週にしましょう。その腐った根性を、完膚なきまでに叩き潰してみせるわ!」
言い切ると、踵を返し、鋭い足音を響かせて救護室を出て行った。スカイも「お疲れさま~」と軽く手を振りながら続いた。
静まり返った室内に残ったのは、グレードチャンプと乙名史だった。チャンプは眉を下げ、泣きそうな声でパリスクイーンに縋るように話しかけた。
「ぱ、パリス~、さすがに言いすぎだよぉ……」
だがパリスクイーンは顔をそむけ、何も答えなかった。乙名史はそれをじっと見つめ、胸の奥が痛むのを感じた。そしてゆっくりと、しかしはっきりと口を開いた。
「パリスクイーンさん、思えばあの時、私があなたを止めるべきでした」
声がわずかに震える。
「……来週の勝負。結果がどうなろうと、あなたの実力を、私はこの目で見届けたいです」
深く一礼をし、その背を向ける。チャンプも小さな声で「ごめんね」と呟き、乙名史を追って部屋を出て行った。
残された救護室には、微かな機械音だけが残った。パリスクイーンは薄い毛布を握りしめ、ただ黙って壁を見つめていた。その瞳には光がなく、涙の跡が乾きかけていた。
運命の一週間が過ぎた。キングヘイローとパリスクイーンは、互いに一切顔を合わせずにそれぞれのメニューを消化した。間に挟まれたグレードチャンプは、「胃に穴があきそうだった」と後でこぼすほど気を揉み通しだったという。
そして、勝負当日。早朝の空気はまだ冷たく、トラックの芝は朝露を含んでしっとりと濃い緑色をしていた。そこに、パリスクイーンとキングヘイローの二人が姿を現した。
パリスクイーンは、いつもの練習着に身を包みながらも、その顔には張り詰めた決意が宿っていた。対するキングヘイローは、勝負服を纏っていた。その金と深緑の意匠は、誇りと覚悟をそのまま形にしたようだった。
ラチの外で二人を見つめる乙名史は、息を潜めてペンを握りしめた。隣に立つセイウンスカイの表情を盗み見る。いつものような飄々とした笑みはなかった。
「……セイウンスカイさん、この勝負……キングさんは勝てるでしょうか」
乙名史は声を潜めて尋ねた。自分でも聞くべきじゃないと分かっていた。だが、抑えきれなかった。
セイウンスカイはゆっくりとまぶたを下ろし、そして開く。その瞳は研ぎ澄まされたように鋭かった。
「乙名史さん、私はね、キングと一緒に走ったことがあるんだ」
声は落ち着いていたが、確かな熱を帯びていた。
「キングはね、生半可な競争者じゃない。青写真だけを追いかける夢見がちな野心家でもない」
言葉を選ぶように、一拍置く。ラチの向こうで、二人のウマ娘がスタートラインへ向かうのが見えた。
「才能に甘んじず、努力と諦めの悪さで、勝利にすがりついてきた世代のキングなんだよ」
風が吹き、セイウンスカイの髪飾りのタンポポがふわりと揺れる。その目は真っ直ぐにトラックを射抜いていた。
「キングが『勝つ』と言ったら、必ずそれを実行する。……それがキングヘイローっていうウマ娘なんだ」
乙名史は小さく息を呑んだ。手帳を閉じ、ペンをポケットにしまう。目の前に広がる芝の向こうで、二人が向き合う。視線を交わし、何も言わずに闘志を燃やしているのが伝わってくる。
そこへ、駆けつけたグレードチャンプが息を切らして走ってきた。
「は、はぁ……間に合った!」
その声も、張り詰めた空気に吸い込まれていった。今まさに戦いの火蓋が切られようとしていた。朝の澄んだ空気に、ピリピリとした緊張が混じる。乙名史は目を細め、心の中でシャッターを切るように、この瞬間を焼き付けた。
「いちについてー」
グレードチャンプがコールをかけた。右手を高く上げ、目を見開いてコース上を見つめる。トラックの芝を踏みしめる音が、二人分だけ響いた。
キングヘイローとパリスクイーン。そのどちらもが低く腰を落とし、爪先で地面を掴むように身構える。風が止まり、観ている者すべてが息を呑むような一瞬。
「よーい」
声が張り詰めた空気を震わせた。わずかな間。二人の目が鋭く細まり、次の動きだけを探るように張り詰める。
「どん!」
チャンプの右手が勢いよく振り下ろされると同時に、地面を蹴り割るような音が響いた。二人は弾かれたようにスタートを切った。芝が裂ける音が、張りつめた練習場に響き渡った。
先に飛び出したのは内ラチ沿いを抑えたパリスクイーンだった。キングヘイローはわずかに離れて後方に控え、その背をじっと見つめている。よく見る二人の練習風景にも似ていたが、今日だけは空気が違った。周囲を包む緊張は張り詰めた弦のようで、ラチの外に立つ乙名史はごくりと喉を鳴らした。
トレセン学園の一周2000メートルの練習コース。向こう正面の中盤に差し掛かると、やはりパリスクイーンのペースが落ちはじめた。素質的には完全なスプリンター。全力でこの距離を持たせるには無理があると、乙名史も分かっていた。
だが、キングヘイローは動かない。決して無理に前に出ようとはせず、一定の距離を保ったまま、その背中を追い続ける。その瞳は鋭く、読み、測り、伺っていた。
──何か、考えがあるのだ。
最終コーナーが迫る。パリスクイーンの息は荒い。だが、今日に限ってはまだ失速しきっていなかった。二人が同時に喝を入れたように脚を伸ばす。スパートだ。緑の芝を蹴る音が鋭く響き、見ている者のすべての心臓を掴んだ。
次第にキングヘイローが迫る。そのフォームは無駄なく、低く、力強かった。末脚勝負で勝てるはずがない──誰もがそう思った、その瞬間だった。
パリスクイーンの脚が、何かに弾かれたように爆発した。筋肉が悲鳴を上げるのを無視するように、その速度は急上昇する。キングヘイローを並ぶ間もなく追い抜き、あっという間に視界の前方へ躍り出た。
「あ……!」
乙名史の口から思わず声が漏れる。芝を裂く音、踏みしめる蹄鉄の重い打撃音が耳を叩く。ゴールまで、残り100メートル。このままパリスクイーンが勝ってしまうのか──。
「まだ……まだまだ!」
キングヘイローの声が響いた。苦しい声だった。それでも全身を絞り出すようにして前を追う。だがパリスクイーンの背は遠ざかる。その脚は止まらない。肺を酷使し、血を吐くように酸素を取り込みながら、ただ勝利だけを求めて走る。
今のパリスクイーンは、願いも、喜びも、苦しみすらも捨てた。ただ、勝利へと向かう機械だった。
「絶対にさせない!させるもんですか!」
キングヘイローの声が、練習場の空気を切り裂いた。その叫びは、ただの意地やプライドではなかった。魂の奥底から絞り出すような、命を懸けた拒絶だった。
その声が、彼女自身を突き動かす。足元の芝を力強く蹴り、腕を大きく振り、肺の限界を超えて酸素を吸い込む。血管が浮き、目が血走る。その執念が、一歩ずつパリスクイーンの背に迫った。
──あと少し。
届く。
掴む。
引きずり下ろす。
そのとき。
パリスクイーンが振り返った。その目は必死で、それなのにどこか怯えたように揺れていた。
乙名史とキングは、その両目に湛えた涙を確かに見た。
次の瞬間。かちゃ、と金属が弾けるような乾いた音が空気を裂いた。パリスクイーンの脚がわずかにぶれ、体勢が崩れる。
「落鉄!」
乙名史は思わず絶叫した。その言葉が、練習場に木霊する。
しかしキングヘイローは、その声を聞いても止まらなかった。むしろ、その一瞬の隙を絶対に逃さないという執念を燃やした。歯を食いしばり、全身を軋ませて前に出る。
パリスクイーンの肩を抜き、背を追い越し、そして──先頭へ。脚が震え、肺が焼け付くようでも、最後の最後までリードを許さなかった。
遅れてゴールしたパリスクイーンは、肩を大きく上下させて荒い呼吸を続けていた。両手を膝について前かがみになり、汗を滴らせるその背中は、小さく震えていたが、もう意識を失うほどではなかった。
ラチの外から、乙名史とグレードチャンプが駆け寄ってくる。手には用意したスポーツドリンクが握られていた。
「お二人とも、お疲れ様です!」
乙名史が声を張り、二人に飲み物を差し出した。
だがキングヘイローは、その手をそっと制した。真っ直ぐにパリスクイーンを見つめ、ゆっくりと歩み寄る。
「パリスクイーンさん」
キングの声は低く、しかし確固たる力を持っていた。
「答えなさい。……私の名前は?」
唐突な問いかけに、乙名史は思わず首を傾げる。その意図を量りかねて眉をひそめたが、チャンプは嬉しそうに目を丸くした。まるで、この場面を待っていたかのようだった。
パリスはうつむいたまま、肩を震わせ、絞り出すように呟いた。
「……キング」
「誰よりも強い?」
キングの声は変わらず真剣だった。
「勝者!」
それを待ちきれずにチャンプが元気よく答える。乙名史も少し驚いたように彼女を見た。
「その未来は?」
キングがさらに問いかける。
「輝かしく!」
またもチャンプが大声で応える。その声は空に突き抜けるように高かった。
そして。パリスがゆっくりと顔を上げた。頬を伝う汗と涙が混じり、その瞳は赤く潤んでいた。その目が真っ直ぐキングを捉える。
「……誰もが憧れるウマ娘……!」
その声はかすれていたが、震えるほど真実味を帯びていた。キングは、その言葉を聞き終えると、満足げに微笑んだ。
「そう!一流と言えばこの私!」
「キングヘイロー!!」
三人の声が同時に重なった。まるで練習場全体に響き渡る勝利宣言のようだった。
次の瞬間、キングがパリスを力いっぱい抱きしめた。パリスも、その背中に腕を回した。声にならない嗚咽が聞こえたが、もう誰もそれを責めなかった。
乙名史は滲んだ視界を誤魔化すように空を見上げた。青空には雲が一つ。この瞬間を見届けていた。
「キングの執念が蹄鉄の持ち主に届いたか……」
セイウンスカイがぽつりと呟いた。誰に向けるでもない声だったが、どこか確信めいた響きを帯びていた。
風が一陣吹き抜け、コースの芝を揺らす。その中で、白く光るものが地面に転がっていた。セイウンスカイはゆっくりと歩み寄り、落ちた“蹄鉄”を拾い上げた。
指先でくるりと回し、裏返し、じっと覗き込む。朝の光が金属の縁に淡い輝きを宿した。
「あるいは……彼女の願いが、自分を負かすために敗北を起こしたのか。真相は神のみぞ知る……ってね」
その目は細められ、何かを測るように鋭く光った。蹄鉄を顔に近づけると、彼女の真剣な眼差しがそこに映り込む。
「すっごいなぁ。あれだけ走ったのに、泥汚れどころか消耗ひとつしてないなんて……」
吐息混じりの声で感嘆を漏らす。
金色でもないくせに“金の蹄鉄”と呼ばれるそれは、まるで何もなかったかのように、ただきれいだった。その異様な無傷さが、逆にこの蹄鉄の「呪い」を静かに証明しているようだった。
セイウンスカイはゆっくりと振り返り、蹄鉄を軽く持ち上げて見せるようにしながら、乙名史たちの方へ歩み寄った。
それから五人は、夕暮れの光が長い影を落とす校舎内を歩いた。蹄鉄を抱えたセイウンスカイが先頭をゆるゆると歩き、グレードチャンプは隣でずっとパリスクイーンの背をそっと押すように寄り添っていた。キングヘイローは無言だったが、歩幅を合わせるようにパリスクイーンの隣を歩き、決して彼女を置いていかなかった。乙名史はその少し後ろから、ペンと手帳を握りしめたまま、五人の姿を目に焼き付けた。
三階の理事長室前の廊下は、人の気配はなく静かだった。ガラスケースの中には、先日までパリスクイーンが使用していた蹄鉄が嵌っている。パリスクイーンはゆっくりと膝をつき、自分の蹄鉄を外し、そして“金の蹄鉄”をそこへ丁寧に戻した。指先が小さく震えていたが、その手つきには確かな決意があった。
顔を上げたパリスクイーンは、涙を堪えるように一度唇を噛みしめた。そして低く、しかしはっきりと誓った。
「もう二度と……こういうものには頼らない。自分の脚で、勝ってみせます」
その言葉に、キングヘイローはわずかに頷き、グレードチャンプは「パリス、えらい!」と目を潤ませながら小さく声を上げた。セイウンスカイは相変わらずのんびりとした笑みを浮かべていたが、その目はいつもより優しかった。乙名史は手帳を閉じ、深く一礼するように頭を下げた。
それからも時折、グレードチャンプから内密に乙名史のスマートフォンへテキストメッセージが届いた。
『最近のパリス、本当に真面目なんですよ!朝練も夜練も、手抜きなし!』
『自分の走り、すごく大事にしてるみたいです!』
スクリーンに表示される短い文章に、乙名史は胸の奥が温かくなるのを感じた。
勝利も、そして敗北も。そのどちらもが彼女自身を形作る、大事な武器になるだろう。
記事をまとめる乙名史は、最後に小さな副題をそっと書き加えた。
『勝利に愛されたウマ娘の、世界一幸福な敗北』