・乙名史悦子……月刊トゥインクルの記者。不思議な手帳を持つ。
・ブラウンシュガー……乙名史が手帳で運命を見たウマ娘。現在怪我の療養中。
夏も深まり、真昼の熱気が町を包むころ。蝉時雨が絶え間なく降り注ぎ、アスファルトの上で陽炎が揺れていた。乙名史は、もう習慣になりつつあるブラウンシュガーの見舞いに向かっていた。
病院のロビーは外の暑さとは裏腹に冷房が効き、漂う消毒液の匂いが微かに鼻をつく。廊下の先に見える病室のドアを開けると、彼女はすでに待っていた。
事故から二か月。医者の予想を上回る回復ぶりで、大げさなギプスは外され、今は松葉杖を頼りに、だが自分の足で立ち上がっている。薄い病衣から覗く脚にはまだ小さな固定具が残るものの、表情にはかつての覇気が戻りつつあった。
「今日も暑そうだなぁ。リハビリじゃなかったら部屋でゆっくりしてるのに」
いたずらっぽく笑ったブラウンシュガーに、乙名史も微笑み返す。
二人はゆっくりと病院の敷地内を歩き出す。植え込みの葉は日に灼けて埃っぽく、小道にはところどころひび割れが走っている。蝉の声が近くの木からけたたましく響き、蒸し返すような熱風が頬を撫でた。
それでも、久々に外を歩く解放感に、ブラウンシュガーは目を細めていた。
「月刊トゥインクル増刊号!読みましたよ」
ブラウンシュガーがふと思い出したように声を上げた。小道に立ち止まり、松葉杖を軽くつき直してこちらを向く。
「七不思議調査、面白そうだなぁ。私も同行してみたかったぁ」
まだ不自由な体を無理に動かして、青く晴れた夏空を仰ぐ。蝉の声が降り注ぐ中で、その吐き出すような声は少しだけ切なさを帯びていた。乙名史はそっと彼女の横に並ぶ。取材で味わった不気味さや面倒ごとを思い出しつつも、今はそれを伏せて、小さな笑みを返した。
「きっと機会はありますよ」
視線を合わせ、できるだけ明るい調子で言う。ブラウンシュガーの瞳に一瞬灯る期待の光が、乙名史には眩しかった。
しばし無言で歩く。病院の敷地を囲む古い植え込みが風にざわめき、コンクリートの地面は熱を孕んでじんわりと足裏を照り返す。
やがて、乙名史が何とはなしに口を開いた。
「……病院って、そういう不思議体験のベタな舞台ですよね。何か噂、あったりするんですか?」
するとブラウンシュガーは、待ちかねていたように目を輝かせた。口の端をつり上げ、いかにも怪談好きの子供が秘密を打ち明けるような顔をする。
「実はですね……」
──病院の噂──
私、入院中暇でしょうがなくて。ベッドからも動けなかったじゃないですか?だから差し入れで貰った漫画とか小説とかたくさん読んでたんです。あるとき隣のおじいちゃんが声をかけてくれて。そのおじいちゃんは自分のことを『長老』って言ってました。看護師さんに聞いたら、その『長老』さんは長いことこの病院にいるんですって。だからそこら辺の看護師さんよりも病院のことに詳しいんだとか。
で、『長老』曰く──この病院のどこかに『開かずの間』と呼ばれている不思議な部屋があるらしいんです。その部屋の扉は全面鏡張りで、一見するとただの鏡のような見た目で、扉のようには見えない作りになっているんですって。
その『開かずの間』には何があるのか……。詳しいことは『長老』も知らないみたいで教えてくれなかったんですけど、ただ、その『開かずの間』に入ったら最後……言葉が認識できなくなったり話せなくなってしまうんですって。
────
乙名史は話を聞きながら、まず「ずいぶんありきたりだな」と思った。
鏡張りの扉、開かずの間、長くいる入院患者の伝承――どこかで聞いたような古典的なモチーフばかりだ。だが逆に、それが妙に乙名史の興味を引いた。病院という場所に伝わる“噂”らしさがあったし、何より、病院生活で鬱屈としがちなブラウンシュガーにとってはちょうど良い刺激にもなりそうだ、と思ったのだ。
「面白い噂ですね。ぜひその『長老』さんにお話、伺ってみたいです」
努めて明るい調子でそう返すと、ブラウンシュガーの瞳がぱっと輝いた。
「ですよね!」
声を弾ませたその拍子に、松葉杖の先が小さくカツンと鳴る。ブラウンシュガーはバランスを取りながらも嬉しそうに大きく一歩を踏み出した。
ゆっくりと病院の中庭を進み、やがて二人は木陰のベンチにたどり着いた。ブラウンシュガーは慎重に腰を下ろす。松葉杖を横に置き、背もたれに全身をあずけると、安堵の吐息を漏らしながら大きく天を仰ぐ。
頭上を覆う枝葉の間から、真夏の空がまぶしく透けていた。蝉の声はなおも遠慮がなく、二人を取り囲むように響いていた。
しばらく中庭で休んだあと、二人は病室に戻った。蝉の声も病棟の自動ドアをくぐれば遠のき、代わりに冷房の効いた空気が、熱気を帯びた二人を乱暴に抱きしめた。
ブラウンシュガーは短い距離でも汗をかいていた。乙名史は気遣うように視線を向けると、さっと遮蔽カーテンを引き出して彼女の周りを囲んだ。ふと隣のベッドを横目で見るが、そこに『長老』と呼ばれた老人の姿はないようだった。
カーテンをきっちりと閉じると、ブラウンシュガーは少し照れくさそうに笑い、できる範囲で衣服を外した。
「最近運動してないから、筋力落ちちゃってて……」
弱々しく力こぶを作って見せる仕草に、乙名史もつい笑う。
湿ったシートでブラウンシュガーの肌をそっと拭う。彼女の肩、背、腕、脚――病衣の下に隠されていた体躯は、思った以上に痩せていた。本来は看護師を呼ぶべき作業だと分かっている。それでも、この他愛もない会話を交わしながら、少しでも気持ちを紛らわせてあげたいという気持ちが勝っていた。
カーテンの中は柔らかい影とわずかな汗のにおいがこもり、ふたりきりの密室のようだった。そんなとき、不意に男の声がした。
「きょ~うはすいよぉ」
しわがれた、どこか酔っ払ったような抑揚の声。
乙名史は息を止めた。声のするほうを探ろうと、研ぎ澄ますように耳を澄ます。だが人の気配は感じない。
「あ、『長老』ですよ!こんにちわ!」
ブラウンシュガーはカーテン越しに軽やかに声を返した。
すぐに返事が来た。
「こんちわぁ。ぶ~しゅちゃん。おともだちぃ?」
言葉はゆらゆらと揺れて、まるで酒の酔いがそのまま言葉になったようだった。聞いているだけで頭がぼうっとしてくる。
「そうなんです!前に話した記者さんの──」
「乙名史悦子」
唐突に、鋭い声が飛んだ。先ほどまでのだらけた調子は影もなく、針のように乙名史の耳を貫いた。
乙名史は思わず背筋を伸ばした。カーテン越しに老人の姿は見えない。にもかかわらず、その声だけがこちらに爪を立ててくる。ブラウンシュガーはしかし、全く意に介した様子もなく笑った。
「よく覚えてますねー!まだまだお若いんだぁ!」
乙名史は引きつった笑みを作りながらも、背筋を伝う冷たい汗を感じた。
「じゃ~。開かずの間ぁ、調べるん?」
また声が崩れる。濁流のように不規則な抑揚へと戻り、先ほどの鋭さが嘘のように溶けていく。
「そのつもりです~。『長老』も一緒にいかがです?」
ブラウンシュガーは相変わらず無邪気な調子で誘いかけた。だが返事はもうなかった。
しんと静まり返る病室。蝉の声も遠く、冷房の音だけが規則的に唸る。
「……寝ちゃったかな?『長老』はいっつもこうなんですよ。突然電池切れになっちゃうみたいで」
ブラウンシュガーが小声で打ち明ける。
乙名史は無理やり口角を上げたまま、胸の奥で波打つ心臓の鼓動を必死で抑えようとしていた。
ブラウンシュガーが着替えを終えたのを確認してから、乙名史はゆっくりとカーテンを開いた。内側の影が外の光に溶け出していく。その境目をまたぎながら、ふと胸の奥に鈍い不安が芽生える。──もし、あの『長老』がこちらをじっと見ていたら?
だが、その不安は杞憂で終わった。隣のベッドをそっと横目で確認する。カーテンがきっちりと引かれ、すでにそのベッドは囲われていた。その中に先ほど会話を交わした老人がいるのだろうと、頭では理解できた。
──待てよ。
乙名史は足を止めた。さっきの会話中、
心臓が、どくり、と強く打った。
喉の奥がひりつくように渇いた。そういえば、足音すらも聞こえなかった気がする。
視線を落とすと、自分の手が小刻みに震えていた。カーテンの向こうには──いったい、何がいる?
恐怖と、同じくらい強い好奇心が乙名史の背を押す。ゆっくりと、吸い寄せられるようにそのカーテンに手を伸ばした。
「乙名史さーん、いきましょー!」
背後から、弾むようなブラウンシュガーの声が響いた。
はっとして振り返る。ブラウンシュガーはすっかり準備を終え、両脇の松葉杖に体を預けながら、右手を大きく振っている。無邪気な笑顔が、夏の日差しのようにまぶしかった。
その声に、乙名史は何かから解放されたように肩の力を抜いた。カーテンに伸ばしかけた手をゆっくりと下ろし、歩き出す。
──『長老』のベッドへの好奇心が消えたわけではない。
ただ、今それを確かめるべきではない。このタイミングで声をかけられたこと、それに内包された警告の意図を、乙名史は記者のカンで察知していた。
病院内を歩く二人の足音が、冷たい床に静かに響く。最初の目的地は、自販機や雑誌ラックが置かれた待合ゾーンだった。
いくら入院患者と見舞い人といえど、無目的に廊下をうろつくのは気が引ける。互いに言葉には出さなかったが、なんとなく示し合わせたように「休憩を装う」行き先を選んだのだった。とはいえ、本当の目的は別にある。──あの噂の真偽を確かめることだ。
自販機の光が殺風景な廊下を照らし、うつむくブラウンシュガーの顔を淡く照らし出した。そのとき、突然彼女はハッとしたように頭を上げた。
「そうだ!あの時『長老』に『開かずの間』について聞けばよかった!」
悔しげに眉を寄せ、目をぎゅっと瞑る。その肩が小さく震えるのが、乙名史にはなんだか愛おしくも不安でもあった。
乙名史は立ち止まり、真剣な声で問いかける。
「ブラウンシュガーさん。その『長老』についてですが……」
さっきのあの声を思い出し、言葉を選ぶように続けた。
「実際に、どんな方か見たことはありますか? 何歳くらいだとか、顔立ちとか」
ブラウンシュガーは口元に指を当て、首をひねる。
「うーん……言われてみれば……ないかも?」
しばらく考え込んだあと、拍子抜けするように笑った。
「でも、気にしたことなかったです。さすが記者さん! 目の付け所が違いますね!」
無邪気であっけらかんとしたその声が、逆に乙名史の胸をざわつかせた。
──見たことがない相手と、あんなに親しげに会話を?
──あの声の主は本当に『長老』なのか?
得体の知れない冷たいものが、乙名史の心の底を静かに渦巻いていた。
二人は待合ゾーンのソファに並んで腰を下ろした。背後のガラス窓からは強い夏の日差しが差し込むが、冷房の風が首筋を冷やして心地よい。自販機で買った紙パックの牛乳を手に、それぞれストローを刺して静かに啜る。
ミルクの素朴な甘さが喉を滑り落ち、わずかに張り詰めた空気を和らげた。蝉の声は遠く、院内の放送の声がぼんやりと天井スピーカーから響いていた。
乙名史は、手元の牛乳パックを軽く揺らしながら言った。
「この後、一階の購買部に寄って、それから二階、三階も見て回ってみましょうか。それで、最後に四階の病室へ戻る、ってことで」
ブラウンシュガーは素直に頷き、同意の笑顔を見せた。
飲み終えたパックをゴミ箱に投げ入れると、二人は立ち上がった。エレベーターの中はひんやりとした密室で、押しボタンのランプが一階を示すたび、小さく電子音が鳴った。
一階で降りると、すぐ右手に購買部がある。大手コンビニチェーンの名を関したそれは、品ぞろえも入院生活には充分足るものだった。だがさっき喉を潤したばかりで、特に買うものもない。おにぎりやグミ、雑誌の表紙を無言で眺めつつ、乙名史は棚の間を抜け、そのまま先に外へ出た。
自動ドアの開閉音のあと、少し遅れてブラウンシュガーが現れる。片手には小さなビニール袋をぶら下げ、どこか得意げだった。
「いざという時のために、軽食を確保しましたっ」
真面目な顔で言うものの、その言い訳がいかにも苦しい。
乙名史は口元をほころばせた──多分、ただお腹が空いていただけだろう。そんなことは、持ち前の洞察力を使うまでもなく明白だった。
この病院は、一階に総合受付と外来診療所があり、二階には検診ドック専用の施設がある。三階から上が入院患者用の病棟だ。ブラウンシュガーは、自由に出入りしにくい二階こそ怪しいと睨んでいたが、松葉杖をついている彼女が検診フロアを練り歩けばあまりにも目立つ。自然と、二階の探索は乙名史が一人で担うことになった。
エレベーターを降りると、正面に「検診受付」と大きく書かれたカウンターが目に入った。
──あそこに怪しまれたら終わりだ。日本の施設のセキュリティは入り口こそ厳重だが、中にさえ入ってしまえば過剰な身元確認などはほとんどない。乙名史はその「最初の関門」を突破するための作戦を頭の中で素早く組み立てた。
「すみません、お手洗いはどちらでしょう?この子がもう危なくて……」
自然な声色で、受付近くの看護師に声をかけた。その瞬間、ブラウンシュガーも心得たようにモジモジと足をすり合わせ、うつむく芝居を打つ。
看護師は微笑んで指を差した。
「お手洗いは、この廊下をまっすぐ行って右手に曲がると正面に見えますよ」
何の疑念も抱かれずに説明を受け、乙名史は心の中で小さく安堵した。
「ありがとうございます。さ、行きましょう」
軽く会釈し、今度は導くようにブラウンシュガーの前を歩く。
廊下を進み、案内されたトイレへ辿り着く。扉を押し開け、中を確認する。幸いトイレには誰もいないようだった。乙名史は振り返る。
「よし、ブラウンシュガーさん。ここで待っていてください」
手提げカバンの中からペンと小さなメモ帳だけを抜き出し、あとは全ての荷物を彼女に預けた。ブラウンシュガーはそれを受け取って、小さく笑った。
「頑張ってきてください」
その声は冗談めいていながらも、少しの緊張が混じっていた。乙名史は頷き、わずかに緩んだ表情を見せると、背を向けた。
「あ、そうだ乙名史さん!」
トイレを出ようとした矢先、ブラウンシュガーの声が背後から響く。
「はい、いざという時のために」
彼女は右手に持ったプロテインバーをこちらへ差し出していた。
「あ、ありがとうございます」
乙名史は若干困惑しながらもそれを受け取りパンツのポケットに滑り込ませる。そして、改めてトイレの扉へ向き直る。後ろで個室のドアが閉まる音が聞こえた。静寂が戻る。
ここから先は、自分一人だ。乙名史はゆっくりと深呼吸をし、扉を押し開けた。
最初の違和感は、目に飛び込んできた光景だった──廊下が、やけに暗い。
乙名史は無意識に瞬きを繰り返し、思考を巡らせた。そうだ。トイレは白色の強い光で照らされていて、壁も床も光沢のあるタイル張りだった。あの明るさに目が慣れてしまったせいで、こちらの廊下が余計に暗く見えるのだろう。廊下は褐色のカーペットが敷かれ、壁はクッション性のある材質の落ち着いた色調で光を吸収している。自分を納得させるように説明を組み立てる。
──だが、その理屈を完成させる前に、次の違和感が耳を打った。
──静かすぎる。
いくら病院だからといって、こんな無音はおかしい。関係者はスリッパを履いて静かに動く。それは理解している。だが普段ならあるはずの待合に設置されたテレビの音声、患者を呼ぶコール音、看護師の案内の声、車椅子の軋む音……。それらがすべて、綺麗さっぱり消え失せていた。まるで、音という音が最初から存在しなかったかのように。
乙名史は、背筋を冷たいものが這うのを感じた。
ゆっくりと振り返る。さっきまでいたトイレを確認しようと──
──だがそこには、扉がなかった。
目の前にあるのは、壁一面の鏡張り。反射するのは、自分自身の驚愕した顔。見開かれた目、乾いた唇。扉も、個室も、ブラウンシュガーも、すべてが切り取られたように消えていた。
自分の荒い息だけが、鏡の中の自分に返ってくる。静寂が、じわじわと耳を圧迫した。
乙名史は、思わず震えそうになる呼吸を必死に整えた──落ち着け。私は記者だ。奇妙な体験には、もう慣れている。これまで数々の不可解な現象に巻き込まれてきた。だが、今回は初めて一人きりだ。助け舟を出してくれる人はいないし、ブラウンシュガーも今はそばにいない。
だが、弱気になっている場合じゃない。自分を叱咤するように奥歯を噛みしめた。
おそらく、ここは『開かずの間』の中だ。知らず知らずのうちに、まんまと潜入に成功してしまったらしい。そんな皮肉めいた運の良さに苦笑しかけたが、すぐに表情を引き締める。
──ブラウンシュガーを置いてきてしまった。一瞬胸を刺すような罪悪感が走る。しかし今は、自分が無事に帰還することが最優先だ。戻れなければ、すべては水泡に帰す。彼女のもとへ戻り、あの目を見て「大丈夫だった」と言うためにも、生きてここを出なければならない。
乙名史は深く息を吐き、スーツのポケットに指を入れた。取り出したのは、小さなメモ帳とペン。白紙を睨みつけるようにしてペン先を当て、脳裏を走る疑問をそのまま文字に落とす。
それが分かれば、帰る方法も見つかるはずだ。ここに足を踏み入れた「トリガー」を思い出せ。入るための条件があるなら、逆もまた真だ。
ペン先がわずかに震えた。だが乙名史の目は鋭かった。紙を汚すインクの線が、彼女の決意を刻むように黒く光った。
──異世界の入り口──
・トイレに入った
・ブラウンシュガーへ荷物を預けた
・ブラウンシュガーは軽食を手にしていた
・二人で入り、一人で出た
・去り際にプロテインバーを渡してきた
────
──だめだ。乙名史はペンを握る手をぎゅっと固めた。書き出して整理しようとしたが、何が「トリガー」になったのか、どうにも見当がつかない。
もしも、あのトイレそのものが異世界への入り口なのだとしたら?だが、そんな単純なら他の誰もがここへ送られてしまうはずだ。現に自分は来れたが、ブラウンシュガーはまだあちらにいる。
つまり、普通トイレでやらないような「何か」が必要なんだ。その行為が条件になっている。
だが考えれば考えるほど、思考は絡まり、沼のように粘りついた闇へ引きずり込まれていく。焦りと恐怖で喉がひりつく。
──落ち着け、落ち着け。荒い呼吸を吐き出し、思わずバッと頭を上げた。
そのときだった。目の前の廊下を、何かが横切った。金色の髪がふわりと揺れる。
一瞬すぎて顔ははっきり見えなかった。だが、その輪郭は忘れようがない──馬頭観音。
冷たい背筋を走る戦慄とは別に、乙名史の胸に直感が灯った。
追ってこい。
そう告げるような、あまりにあからさまな誘い。
乙名史は立ち上がった。深く息を吐き、震える足に力を込める。ペンとメモ帳をポケットに滑り込ませ、覚悟を決めるように唇を結んだ。
行くしかない。
ここに留まっていれば思考の沼に沈むだけだ。追えば、何かがわかるかもしれない。
靴音を抑えつつ、一歩、また一歩とその方向へ踏み出した。薄暗い廊下が、まるで彼女を飲み込むように先へ先へと続いていた。
慎重に、しかし確実に足を進める乙名史。足音を最小限に抑えながら、角に差しかかると、そっと右へ顔を向けた。
──馬頭観音は、たしかにこちらへ進んだ。
だが、もうその姿はなかった。金髪の残像すら、空気に溶けてしまったように消えている。
それでも、あれは幻ではなかったと、乙名史は信じるしかなかった。この異常な空間の中、頼れるのは直感と記憶、そして記者としての執念だけだ。
そもそもここは、本当に病院なのか?
廊下を進むごとに、その疑念は強くなる。天井の照明はどこかくぐもった光を放ち、白くもなく、暖かくもない。壁は無表情にのっぺりと続き、検査室や診察室など、病院らしい部屋の名札も扉も見当たらない。
人工物なのに、不自然なほど何もない。その空間が醸すのは、無機質というより、もはや「人間のために作られていない」印象だった。
やがて、四つ辻に出た。正面の廊下は闇に吸い込まれるように続いている。右も左も、ただ同じような沈黙を湛えた廊下が伸びていた。
乙名史はその交差点の中心に立ち、ふと目を閉じた──もしこのまま何も見えないまま立ち尽くしたら、自分はどこから来たかさえ分からなくなってしまうだろう。それほどまでに、空間全体が均質で、無表情だった。そのとき──
コッ、と、乾いた音が響いた。
思わず肩が跳ねる。反射的に音のした方へ顔を向けた。
──いた。
一瞬だけ、またあの金色の髪が、糸を引くように廊下の奥を横切っていくのが見えた。
今度は迷わなかった。疑いも、恐れも、すべてその一歩に沈めて。
乙名史は、馬頭観音の去っていったその方向へ、真っ直ぐに足を踏み出した。
どれほどこの迷宮をさまよっているのだろう。時間の感覚はとうに失われ、乙名史の脚は重く、心は擦り減っていた。
馬頭観音は確かに現れる。だがその背を捕らえることも、声を届けることも叶わず、彼女はただ“導く”ように消えていくだけだった。振り向くことも、語りかけることもないままに。
声もかけた。何度も走った。けれど、迷宮は何ひとつ答えを返してはくれなかった。
また、四つ辻。乙名史は、今度はその中央で力尽きたように座り込んだ。
スーツのポケットに手を突っ込み、取り出したのは、餞別のプロテインバー。包装を剥がす気力も湧かず、ただぼんやりとその銀色の包みを眺める。
──ブラウンシュガーは、どうしているだろう?
自分が戻ってこないことに気づいて、心配しているのだろうか。あるいは……もしかして、間違ってこちらの世界に入り込んでしまっていたら?
考えたくない想像が、頭の中に次々と浮かんでは消えていく。寂しさ、恐怖、焦り、罪悪感――それらがひとつの塊となって胸を締めつけ、乙名史の瞳には自然と涙が滲んでいた。
──ガタン。
その音が、乙名史を現実へ引き戻した。空気を打ち破るように、はっきりと耳に届いたその音は、まるで自販機で商品が落ちるときのあの音に酷似していた。
この空間にあっては、あまりにも日常的で現実的な音。
──誰かがいる?
──何かがある?
その確信が、冷えかけていた乙名史の心にわずかな火を灯した。音のした方角を耳で追い、彼女は立ち上がる。気力は尽きかけていたが、その一歩に確かな意思が宿っていた。
正面の廊下を突き当たりまで進む──その先、右手に、ほのかな明かり。
照明のような光がぼんやりと揺れ、そして、その先に──ベンチのような構造物に腰掛ける、金髪の後ろ姿が見えた。その背は動かず、ただ静かに、乙名史の到着を待っているようだった。
「あの……」
乙名史は、乾ききった喉を押し開いて、かすかに声を発した。音を伴った自分の声が、久しく忘れていたように空間に響く。
ベンチに座っていた少女は、呼びかけに応じるように顔だけをゆっくりとこちらへ向けた。
──違う。
一瞬、あの馬頭観音かと思った。しかしその金髪の少女は、確かに似ていながらも違っていた。その顔には覚えがあった。金髪に見えた髪の正面は、青味がかった色を湛え、漆黒ではなく澄んだ空のような青い瞳。
「……待っていたよ。“INTI”。あなたは、断絶を見たね」
静かで穏やかな口調。それでいて耳に残る独特の言葉遣い。乙名史は戸惑いながらも、その少女の名を確かめるように口にした。
「──ネオユニヴァースさん……?なぜ、ここに?」
「ここは、マージナル。巻き込んでしまったのは、“AGET”だね」
意味を掴めない言葉。それでも、ただの空言ではないことだけは、乙名史には伝わってきた。ネオユニヴァースはゆっくりと立ち上がり、乙名史の方へ歩み寄ってくる。
右手には、乙名史が先ほど手にしていたのと同じ、プロテインバー。
「“GIVU”」
そう言って、彼女はそれを乙名史に差し出した。何が起きているのか理解は追いつかない。だが乙名史は、迷うことなくその手を伸ばして受け取った。
「運命は“PRLS”。決して“分岐”しない、不動の存在」
ネオユニヴァースはそう語りながら、乙名史の手にそっと触れた。そのまま指を絡めるように、やさしく、だがしっかりと握りしめる。
「でも、“分岐”した。“MUTX”も、“VEGA”も」
わからない。言葉の意味はまるで暗号のようだ。だが、不思議と胸の奥に届く。理屈ではなく、感情の奥底が反応している。
「“分岐”は断絶を生み、断絶は存在を“FOBN”」
「『愛された』存在は、別の『愛され方』をした」
それは、記憶の底に眠る何かを、やさしく揺さぶる声だった。
「“INTI”は断絶を“経験”した。でも、“FOBN”には到達していない」
「なぜ?」
ネオユニヴァースは、乙名史の目をじっと覗き込んだ。その瞳は、濁りひとつない。晴れ渡る空の色。見る者を包み込むような、どこまでも透き通った青だった。
頭が冴えている──乙名史は、自分でもはっきりとそれを感じていた。霧が晴れるように、言葉の奥に隠された意味が形を持ちはじめていた。
ネオユニヴァースの言葉は一見難解で、意味を拒んでいるようにも見えた。だが、聞けば聞くほど、自分の中の“何か”が共鳴する。
──わかる。いや、これは……
この感覚には覚えがあった。あの夜、ステイゴールドと対峙したとき。言葉の意味が理屈を超えて、脳にではなく魂に届いてくるような、あの感覚。
乙名史は小さく息を吸い、口を開いた。
「……手帳」
今は持っていない、自分の記者手帳。あれが何かに“触れて”しまったのだ。そう確信する感覚が胸の奥に根を張った。
ネオユニヴァースの発した言葉が、理解という形を伴って脳内に次々と定着していく。運命は“不動”──“PRLS”。だが、“VEGA”は分岐した。
“VEGA”……アドマイヤベガ──彼女の運命が、本来とは異なる道を辿ったということ。
ならば『分岐は断絶を生む』とは?
──運命を変えたことで、他の誰かの運命がゆがんだ。均衡が崩れ、繋がっていた糸が切り離され、別の存在が犠牲になった。
ならば、キンイロリョテイの存在が異様に歪んでしまった原因は……。
「──責めないで」
ネオユニヴァースが、そっと語りかけた。その声は、まるで乙名史の罪をかばうかのように、しかし優しく。乙名史の瞳の奥を、深く深く覗き込むように。その瞳には、責める色も、悔恨もなかった。あるのはただ、静かな理解と、包み込むような慈しみだった。
「ネオユニヴァースは、“INTI”を求める。でも、断絶は“ネガティヴ”。知りたいんだ。そのためには……“FOTX”?」
その問いかけは、まるで迷路の出口を探す子供のようだった。
「……断絶を起こさずに、しかし、運命を変える方法」
自分の口から自然と漏れた言葉に、ネオユニヴァースはぱっと顔を明るくし、静かに、けれど確かに頷いた。その仕草はあまりにも純粋で、危うさすら感じさせるほどだった。
彼女は心から答えを知りたがっているのだ。
言葉の意味を考えるまでもなかった。乙名史の思考はもう、その層を越えている。ただ感覚と意志が直結し、互いの存在が呼応していた。
目の前のネオユニヴァースは、あの夜空のような青い瞳で、答えを求めていた。
だが──
「すみません。私には……明確な答えは出せません」
乙名史は言葉を選び、そして頭を下げた。胸が少し痛む。それでも嘘はつけなかった。
「ですが、あなたにも……変えたい運命があるということは、分かりました」
顔を上げると、まっすぐに彼女の瞳を見つめた。
「私にできる範囲で、ネオユニヴァースさんをサポートさせていただきます」
──原点は、あの手帳だった。あの不可思議な記者手帳に書かれていた“運命”。そこに記された未来に抗おうと、乙名史もまた、もがいていた時期があった。ならば、ネオユニヴァースも、きっと同じなのだ。
──変えたい未来がある。
──だが、それが何を壊すか分からない。その不安と隣り合いながら、それでも前に進もうとしている。
ネオユニヴァースはふっと表情をゆるめ、やわらかな声で言った。
「……“アファーマティヴ”。ネオユニヴァースは、“待つ”をするよ」
その声には、どこか温もりがあった。乙名史の胸の奥に、ぽつりと、小さな光が灯るのを感じた。
「『私』に伝えて……『タナグラのダーモクとジラード』」
ネオユニヴァースは静かに言葉を発する。同時に、彼女の輪郭が淡く光を帯び始めた。まるで存在そのものが空間と融け合うように、輪郭が曖昧になっていく。その姿は美しく、そしてどこか切なかった。彼女の発した最後の言葉は、重力を失ったようにふわりと宙に浮かび、消えかけていた。
「わかりました! また会いましょう、ネオユニヴァースさん!」
乙名史は精いっぱいの声を張り上げた。返事はなかったが、確かに伝わったという手応えがあった。
光と共に、音が広がっていく。それは言葉では言い表せない響き。楽器の音でも、自然音でもない。けれど耳を刺すことなく、むしろ胎内に優しく響くような、心地よい音だった。
この空間でのやり取りは、もう終わりなのだ──直感がそう告げていた。
乙名史は、いつの間にか目を閉じていた。光に満ちて、見ていられなかったのかもしれない。そっとまぶたを開ける。
──そこは、女子トイレの扉の前だった。
つい先ほどまでいた、現実の世界。乙名史が本来ならば何事もなく到達していたはずの、その場所だった。
空気が違う。重力が違う。音が戻ってきている。いつもの病院の光景。だが乙名史の胸には、確かにあの異世界の余韻が残っていた。
現実の世界は、まるでほんの数秒しか経っていないかのように、何も変わらずそこにあった。乙名史は一度深く息を吸い、トイレの中へと足を踏み入れる。
個室の扉は一つだけ閉まっていた。
「……ブラウンシュガーさん?」
慎重に声をかけると、個室の中から微かな物音がした。扉が開き、ブラウンシュガーが姿を見せる。
「どうしました?……忘れ物ですか?」
その無邪気な問いかけに、乙名史はかすかに笑った。やはり時間は、ほんの瞬き程度しか経っていなかったようだ。
「いえ、実はもう……
「えぇー!!」
廊下に響くような驚きの声。
病室に戻る道中、乙名史はネオユニヴァースとの邂逅を、記者らしく巧みに語って聞かせた。もちろん、事実をそのまま伝えたわけではない。盛るべきところは盛り、肝心な部分にはふわりとヴェールをかけて。それでもブラウンシュガーは目を輝かせ、いつものように無邪気に笑ってくれた。
病室へと戻り、彼女をベッドに送り届ける。別れの挨拶を交わし、乙名史がドアに手をかけたそのとき──
「見つけたかい」
背後から、しわがれた高い声が届いた。それは間違いなく、『長老』の声。
乙名史は、ゆっくりと振り返る。ブラウンシュガーのベッドの隣──カーテンで覆われたあのベッドを、ただじっと見つめる。
だが、不思議と恐怖はなかった。胸の奥にあるのは、確かな納得と、静かな余韻。
「……はい」
乙名史は口角をわずかに上げ、短く答えた。その様子を、ブラウンシュガーは首を傾げながら不思議そうに見ていた。
──それっきり。カーテンの向こうから声が返ってくることは、なかった。
病院を出て、乙名史は足早に駅へと至る。改札を抜けベンチに腰掛け、カバンの中から例の手帳を取り出した。
ページを繰る。キンイロリョテイの名が記されたページの、すぐその次。乙名史はペンを取り出し、ためらいなく記す。
──『タナグラのダーモクとジラード』──
その文字列は、インクのような重さで紙の上に刻まれ、確かな存在としてそこに残った。消えることなく、これからもそこに在り続ける。