乙名史悦子は忘れない   作:名主権兵衛

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登場人物
・乙名史悦子……月刊トゥインクルの記者。
・メイショウドトウ……マチカネフクキタルに巻き込まれているウマ娘。
・高橋……メイショウドトウのトレーナー。身長が高い。
・片桐静子……突如トレセン学園の近くで占い業を始めた女。よく当たると評判。


オール・アイズ・オン・ユー【序】

 乙名史は休みの日になると、意識的にウマ娘の世界から距離を置くことが多かった。朝は雑誌を買い込み、カフェでコーヒーをゆっくり嗜む。昼過ぎまで街をぶらついて気ままに時間を過ごし、夜は少し贅沢して買いご飯を楽しむ――そんな一日が、彼女にとってのささやかな癒やしだった。

「……今日は金運、恋愛運、仕事運すべて好調、ね……」

 駅前のカフェ。アイスラテのカップを片手に、乙名史は雑誌の星座占い欄をぼんやりと眺めていた。あまり占いを信じるほうではないが、こういう時は不思議と気になる。軽く笑みを浮かべつつ、カップを口元へ運んだその瞬間――わずかな角度の狂いで、縁が唇をかすめず、冷たい液体が一筋、重力に従って膝の上へとこぼれ落ちた。

「うわっ!」

 乙名史は思わず腰を引いた。アイスラテはわずかにこぼれただけだったが、牛乳とコーヒーが混ざったその冷たいしずくは、じわりと紺色のスラックスへ染み込んでいく。放っておけば、シミがくっきり残ってしまうのは目に見えている。

 彼女は慌ててテーブル脇のナフキンを数枚つかみ、シミに押し当てた。叩くたびに冷たさが指先を通じて伝わり、妙に現実感が増していく。周囲の客の視線を感じて、顔がほんのり熱くなった。

 今日の予定は大幅に変更せざるを得ない。さっき読んだ「金運・恋愛運・仕事運すべて絶好調」という占いが、途端に滑稽に思えてきた。未来が明るいどころか、目の前のスラックスがこのざまだ。小さくため息をつきながら、乙名史は再び視線を雑誌に落とす。

「あの……お、乙名史さん?」

 背後から、おずおずとした声がかかった。乙名史が振り返ると、そこには茶色いボブカットの髪の真ん中に、夜空を裂くような白い流星が一本走るウマ娘が立っていた。

「メイショウドトウさん?」

 目の前の彼女――メイショウドトウは、控えめに両手で握ったピンクのハンカチを差し出していた。大きな瞳が不安げに揺れ、こちらの表情をうかがうように瞬きを繰り返す。

「よ、よろしければ……お使いくださいぃ……」

「そ、そんな、申し訳ないです」

 思わず遠慮の言葉を口にすると、ドトウは肩をすくめてぶんぶんと首を振った。

「そ、そうですよね、すみません、すみません! 私のハンカチなんてぇ……」

 予想以上に大げさな反応に、乙名史は逆に慌ててしまう。カフェのざわめきが、二人のやり取りを強調するかのように耳に響いた。

「いえ! やっぱりお借りします! 本当にありがとうございます」

 断ったままでは余計に気まずい。乙名史はそう判断し、差し出されたハンカチを受け取ると、スラックスのシミを形式的に拭き取る仕草をした。その間も、ドトウの瞳は心配そうに揺れ続けている。やがて、乙名史が軽く拭き終えると、彼女はようやく大きく息を吐き、胸に手を当ててほっとしたように微笑んだ。

「よかったぁ。これで静子さまの言いつけを守ることができましたぁ……」

 その言葉に、乙名史の耳がぴくりと反応した。手の動きが止まり、視線だけがドトウへと向く。

「……静子さま?」

 問い返した瞬間、メイショウドトウの肩が小さく跳ねた。大きな瞳が驚きに見開かれ、次の瞬間にはおろおろと視線を泳がせる。カフェのざわめきが、二人の間だけ切り取られたように遠のいていく。

 しかし、しばらく迷った末に、ドトウは深く息を吸い込んだ。

「……あの、その……じつは、ですねぇ……」

 彼女の震える声が、ゆっくりと事情を語り始めた。

 

──メイショウドトウの話──

 

 最近、トレセン学園の近くに占い屋さんが出来たのはご存じですか?とてもよく当たる占いだということで私とフクキタルさんとで行ってみたんです。その日もすごい行列で、ようやく入れたと思ったら、事前予約が必要だって言われちゃって……。占っていただける日付と番号とが書かれた整理券をいただいて、その日は帰りまして……。今日がその占いの日だったんです。整理券があるからって列には並ばなきゃいけないみたいで、今日もすごい行列でした。2時間くらいしてようやく入れて、さっそく占ってもらったら……凄かったんです。私の次走予定とか普段の悩みとかまでぴったり当てられちゃって。そしてですね、今私が抱えている悩みは『カフェで困っている人をピンク色したハンカチで助ける』ことで解消すると言われたものですから……。

 

────

 

 乙名史の隣に腰掛け、一通り体験談を語り終えたメイショウドトウは、両手を膝に置いたまま、モジモジと指先を動かしながら視線を落としていた。まるで椅子の座面が落ち着かないかのように、肩がわずかに揺れている。

 乙名史は、先ほど彼女が語った「占い師の言葉」を頭の中で反芻した。どうにも、その内容は胡散臭さを拭えない。『ピンク色のハンカチで悩みが解決する』――そんなもの、朝の情報番組の占いコーナーで『ラッキーアイテムはチャーハン』と告げられるのと大差ないのではないか。

「……差し支えなければ、占い師にお話しされた“悩み”の内容を、お聞かせ願えますか?」

 不躾な問いかけだと分かっていながらも、乙名史は切り込んだ。どうしても『ハンカチ』と悩みの解決が結びつかないのだ。

 メイショウドトウはその場で口を閉ざし、困ったように視線を揺らした。眉が下がり、しばし言葉を探す気配。しかし、やがて目をぎゅっと閉じ、深く息を吸うと、決意を固めたように乙名史をまっすぐに見据えた。

「実は……エアシャカールさんのことでして……」

 エアシャカール。今年クラシック級で存在感を示しているウマ娘のホープだ。皐月賞では番号一番のウマ娘が正常に出走しないなどのアクシデントがあったが、それでもエアシャカールは冷静にレースを運び、勝利した。

「シャカールさん、日本ダービー以降、どうも悩みを抱えているみたいで……。私でお力になれれば、とも思ったのですが……」

 ドトウの声は、ぽつぽつと雨だれのように静かに落ちる。シャカールはデータ派のウマ娘としても知られ、常日頃から自分の目標は日本ダービーであると公言もしていた。

「せめて……シャカールさんには幸せでいてほしいんです。でも、あの日以降気力をなくしたかのようにしていて……それで! シャカールさんの今後について占ってもらおうかと……」

 ドトウの両の手が、膝の上で小さく震える。

 だが、乙名史にはどうしても腑に落ちなかった。ドトウがフクキタルの未来を案じるのは分かる。だが――その不安を解消する手段が、よりによって『ハンカチ』なのか?占い師の与えたその小道具が、本当に意味を持つものなのか?

 そしてふと、先ほど雑誌で目にした星座占いのページが頭をよぎった。

 占いとは、結局のところ、占ってもらう側が“納得できる指針”を受け取れるかどうかの微妙な綱渡りに過ぎない。相手の様子を観察し、悩みを聞き出し、手相や星座といった統計的な要素を都合よく組み合わせる。そして、支払われた金額に見合う“答え”を用意できるかどうか――その成否が占いの価値を決めるだけだ、と乙名史は考えている。

 だが、目の前のメイショウドトウは、その仕組みを気にかける様子もない。ただ『静子さま』を信じ、このピンク色のハンカチに意味があると本気で信じている。それが事実かどうかは、彼女にとって重要ではないのだろう。信じて行動することで気持ちが軽くなるのなら――それで十分なのだ。

 “信じるか信じないかはあなた次第”。便利で、どこにでも転がっている言葉だ。

 占いで彼女の心が少しでも救われるのなら、それでいい。乙名史はそう結論づけ、深く考え込むのをやめた。

 ──少なくとも、今は。

 

 翌日から、乙名史は取材の合間を縫い、メイショウドトウの動向を静かに追った。二人が何事もなく学園生活を送り、占いを単なる気休めとしているならば、それで問題はない。だが、もし『静子さま』なる存在に執着し、行動が左右されているとしたら――それは看過できない。

 そして数日後、彼女の結論は“悪し”に傾いた。

 彼女たちの学友から聞いた話によれば、放課後の付き合いが急に悪くなったという。そればかりならまだしも、トレーニングを早めに切り上げ、どこかへ姿を消してしまうのだという。理由を問われても、曖昧に笑うばかりで、具体的な説明は一切しないらしい。

「……ちょっと、無理させすぎたんですかね……」

 ドトウの担当トレーナーが肩を落とし、乙名史に漏らした言葉は、自責の念というよりも困惑に近かった。だが、乙名史には分かっていた。この違和感の原因は、トレーニング負荷などではない。もっと別の――得体の知れないところにある、と。

「高橋トレーナー、実はですね──」

 乙名史は、これまで掴んだ情報を淡々と語った。放課後にドトウが向かう先、それが『静子さま』と呼ばれる占い師の居場所であること。そして、ドトウが今や占いに深くのめり込みつつあることを仮の結論として告げる。

「……そんな……。あいつが、そこまで追い込まれていたなんて……」

 高橋は、肩を落としながら呟いた。その声には驚きと、指導者としての後悔が滲んでいる。だが、乙名史はその感傷に付き合うつもりはなかった。

「悔やむのは後です。今は、メイショウドトウさんの目を覚まさせるのが先決です」

 ぴしゃりと言い放つその声音は、記者としての冷徹さを帯びていた。占いはあくまで気晴らしの道具に過ぎない。だが、それを“拠り所”として信奉し始めれば、やがて本人の人生さえ飲み込んでしまう危うさを孕んでいる。

 乙名史は、その危険の芽を見過ごすつもりはなかった。

 危機感を共有した高橋と共に、彼女は『静子さま』なる人物が経営すると噂される“占いの館”へと足を運ぶ決意を固めた。

 

 その店は、学園のすぐ近くにあった。外観はごく普通の二階建ての建物で、特別な造作もない。新築でもなく、どこか別の用途で使われていた場所を改装して間借りしているのが見て取れた。

 入口脇には、自立式のブラックボード――通称「A型看板」が立てられ、そこには大きく『静子の館』とポップな書体で記されている。デフォルメされたキャラクターの挿絵と共に、「手相占い」「タロット」「星座鑑定」などのメニューと料金が並び、見た目は気軽な占いカフェといった雰囲気だ。

 ドトウの話によれば、ここは連日行列が絶えないほどの人気店だという。だが、今日は不思議なことに、店先には一人も並んでいなかった。

「……休み、ですかね?」

 高橋が店の様子を見回しながら言った。確かに、ガラス扉には黒い暗幕が掛けられ、中の様子は一切うかがえない。玄関灯もついておらず、営業中にしては妙に静まり返っている。

「だとしたら、看板は出さないでしょう」

 乙名史は看板を一瞥し、低く返した。その声には確信めいた響きがあった――中には間違いなく『静子さま』がいる。

 乙名史が意を決して扉のノブへ手をかけようとした瞬間、内側から静かに扉が開いた。反射的に手を引き、視線を上げる。

 そこに立っていたのは、中年の女性だった。紫の布で頭部をすっぽりと覆い、その額には金色の飾り紐が巻かれている。装飾は華美ではないが、どこか舞台衣装じみた異質さを漂わせていた。

「乙名史悦子さん、高橋信二さん。ようこそ、おいでくださいました」

 女性は二人の名をはっきりと呼び、静かでありながら、妙な圧を感じさせる声で深々と一礼した。

「な、なんで俺たちの名前を……?」

 高橋が思わず口を開く。その反応は、占い師を相手取るにはあまりに典型的だった。

 乙名史は対照的に、表情を崩さず冷静さを装った。こういう“出鼻を挫く演出”に、無闇に反応するのが最も危ういと知っているからだ。

「当然、視得(みえ)たのです。あなたたちの来訪の運命が」

 女性――おそらくこれが『静子さま』なのだろう――は、意味深長な口調で言い、半身を引いて左手を差し伸べた。屋内へと招く仕草。

 開いた扉の奥からは、独特の匂いが漂ってくる。香木ともアロマともつかない、甘さの奥に少し苦みを含んだ香り。照明が落とされた室内は、外からでも薄暗さがはっきりと分かる。

「どうぞ? 遠慮なさらずに」

「あなたが……『静子さま』ですか?」

 乙名史が静かに問いかけると、女性は小さく頷いた。それを確認し、乙名史と高橋は視線を交わした後、足を踏み入れた。

 

 二人が足を踏み入れた瞬間、背後で扉が静かに閉ざされた。外の光が断たれ、わずかな間接照明の明かりだけが頼りとなる。室内は一層、影が濃く、呼吸音さえ際立って聞こえるほどの静けさに包まれていた。

「どうぞ、おかけになってください」

 静子の落ち着いた声が響く。促された先には、低めの丸椅子が二脚並び、その上には白い封筒が一通ずつ置かれている。封筒の上面には何も書かれておらず、やけに無機質な白が、薄暗い室内で逆に浮き上がって見えた。

 乙名史は、静子の表情を観察しながら慎重に歩み寄り左側の椅子に、高橋は逆側の椅子に、やや緊張した面持ちで向かった。

「その手紙は、私がしたためたものです。どうぞ、お読みください」

 静子の声音は、静かでありながら妙に余韻が残る。言葉の間を意図的に空け、聞き手の想像力を刺激する調子だった。

 高橋はその一言に思わず身を乗り出し、封筒を素早く手に取る。指先に汗が滲んでいるのが分かる。乙名史も封筒を手にしつつ、視線は静子から外さなかった。その口ぶりの裏を探るように、ほんのわずかに眉を寄せる。

 

──静子の手紙──

 

乙名史悦子さま

 お初にお目にかかります。私は片桐静子と申します。貴方は、月刊トゥインクルの記者であり、同時にウマ娘たちの味方でもある。ここへいらした理由は存じております。あのメイショウドトウさんの件でしょう。私が彼女をだまし、悪い方向へ導いているのではないかと疑いをもたれているようでしたら、どうかご安心ください。私はただ彼女の“運命”を導いているだけ。本来そうあるべきだった方向へ、道を正してあげているだけなのですから。

 貴方の“運命”を見た時に、正直申し上げて、とても驚きました。なぜならば貴方は、私と同じような素質をお持ちだからです。貴方と共に歩むことができれば、どれほど幸せな事か。しかし、それは叶わないのでしょう。私には貴方と協力する“運命”がありませんでした。とても残念なことです。

 もし、貴方の持つ“力”を有効に活用したいというのであれば、ご相談ください。いつでも貴方をお待ちしております。

 

片桐静子

 

────

 

 乙名史は、手紙を読み終えた瞬間、思わず目を見開いた。隣の高橋へ視線を向けると、彼もまた驚きと動揺を隠せていない。手紙を持つ指がわずかに震え、口元でその内容を繰り返し呟きながら、一行目から何度も読み返していた。

「私からお伝えすべきことは、すべてその手紙に書いてあります。……何か知りたいことがあれば、お答えいたしますよ?」

 静子の声は平穏そのもので、感情の揺れを一切感じさせない。しかし、その“平穏さ”が逆に異質で、場の空気をわずかに圧迫していた。

「ど、ドトウは……今が一番大事な時期なんだ」

 高橋が震える声で切り出す。

「えぇ。それは、彼女もよくわかっております」

 静子は表情を崩さず頷く。高橋はさらに言葉を探そうと口をもごもご動かしたが、それ以上何も続けられなかった。恐らく、彼の手紙には既に彼の疑問や反論を封じる“答え”が書かれていたのだろう。まるで、あらかじめ彼の思考を読んで用意された“置き論破”のように。

「──本来そうあるべきだった方向、とは?」

 乙名史が、静かに口を開いた。

 これまで幾度も体験してきた“運命”に関する出来事――その列に、今この片桐静子という女が加わったに過ぎない。もはや、乙名史にとっては取り乱すような珍しいことではなかった。むしろ、冷静にその言葉の裏側を探るべき相手だと、即座に切り替えていた。

「乙名史さん、“運命”とは、何だと思います?」

 静子は、まるで子どもに語り聞かせるような柔らかな声で問いかけてきた。その声は耳に自然と馴染み、否応なく意識を引き寄せられる。なるほど――この声質と間の取り方だけでも、占い師としての資質は確かだと乙名史は内心で認めざるを得なかった。

「私はね、よく川の流れに例えます。過去という上流があり、未来という下流がある。その流れは時に急流となり、時に穏やかに。そして、流れゆく水は、自分の意思で流れを変えることなどできない」

 淡い照明の下で、静子の額の金飾りがわずかに光を反射する。その瞬間だけが、薄闇の中で強調される。乙名史も高橋も、知らずその話に耳を傾けていた。

「――“運命”を変えられるのは……。乙名史さん。我々のように“運命”の外側に立つ者だけ」

 高橋が、横目で乙名史を窺った。乙名史は動じず、無表情を崩さず、ただ静かに聞き続ける。

「自覚があるか否かは関係ありません。私たちは“運命”を変える力を持っている。であるなら――それを使わないのは、もはや不孝ではありませんか?」

 静子の声が一段低く落ち、言葉が乙名史の胸を刺す。

 確かに、乙名史には思い当たる節があった。手段は明確ではないが、これまでにウマ娘たちの“運命”を左右したことがある。そして、つい最近も別のウマ娘の未来を変える手助けをすると誓ったばかりだ。それが事実なら――メイショウドトウの件も、静子に任せてしまうのが筋なのではないか?

 そんな考えが、ぬるりと頭をもたげる。思考の沼に足を取られそうになったそのとき――

 バンッ!

 背後の扉が勢いよく開き、乾いた音が室内に響き渡った。乙名史と高橋は反射的に振り返る。

「邪魔すンぜ」

 逆光の中に立つシルエット。左肘で扉を支え、肩をだらりと落とした気だるげな立ち姿。尖った髪型と二股に垂れ下がった後ろ髪。競技者としては細すぎる体つき。だが、そのシルエットが徐々に明るみに出ていくにつれ、もっとも印象的な特徴が浮かび上がった。左眉の上に光る、二つの丸いピアス。

「……片桐静子ってェのは、アンタか?」

 どす黒く低い声が空気を震わせる。

 現れたのは――エアシャカールだった。

 エアシャカールの視線は、矢のように静子へ突き刺さる。肩を少し前に出し、顎をわずかに引いたその立ち姿だけで、室内の空気が一段重く沈んだ。

 だが静子は、ゆるやかに瞼を閉じ、長く息を吐いた。彼女の反応は、あまりに淡々としている。

「……乙名史さん。今、この世界の“運命”はねじ曲がってしまっています。だからこそ──」

「無視するんじゃねェ!」

 シャカールの怒声が響き、床板が微かに軋むほどの足取りで静子へ迫る。静子はなおも目を開けず、乙名史へ語りかけ続ける。まるでエアシャカールがそこにいないかのように。

「メイショウドトウさんは、ここにはいませんよ」

 その一言が、場の温度を一気に変えた。空気がピリつき、シャカールの足が止まる。乙名史と高橋も、反射的に息を呑んでいた。

「……どういうつもりだァ?オレが何しに来たか分かってるんなら……」

「もちろん存じています。ですが、あなたが動いたのは――私の知っている“運命”よりも、三時間ほど早い」

 静子は、目を開かぬまま、即答した。その声には迷いがなく、あらかじめ用意された台本をなぞるかのような滑らかさがある。まるでこのやり取りを、何度も繰り返してきたかのように。

「……乙名史さん、あなたはどうです?」

 静子は瞼を開き、乙名史をまっすぐに射抜くように見つめた。

「あなたの知っている“運命”では――今頃、どうなっているのでしょう?」

 場の空気が、ぴたりと静止する。

 高橋も、シャカールでさえも、乙名史の返答を待っているかのようだった。

「……何も。私には、貴方の言う“運命”とやらを見る術がないので」

 乙名史は努めて平静を装い、声色を変えずに答えた。その瞬間、初めて静子の表情が揺らいだ。焦りというよりも、乙名史の返答が何か都合の悪い“結果”を呼び寄せたような、複雑な動きだった。

「……まさか。いや、そう考えるべきでした。エアシャカールさんがこの時間に来訪した時点で」

 静子が顎に手を添え、独り言のように呟く。しかし、その間を許さない声が割り込んだ。

「──これ以上、煙に巻けると思うなよ」

 エアシャカールが一歩踏み込み、低く凄む。肩を前に出し、じわじわと間合いを詰めながら視線で静子を射抜いた。

「オレも忙しいんだ。ドトウがここにいねェってンなら、どこに行ったか、今すぐ教えてもらおうか」

 空気が張り詰めたその瞬間――背後の扉が、今度はゆっくりと開いた。

 差し込む光が、四人の影を長く床に伸ばす。

 そこに立っていたのは、黒いスーツに身を包んだ長身の男だった。柔らかな仕草で一礼し、低い声を響かせる。

「お迎えに上がりました。乙名史さま、高橋さま」

「諏訪、一人追加よ。エアシャカールさんもお連れしなさい」

 静子の指示を受けた“諏訪”と呼ばれた男は、一瞬だけ目を見開き、意外そうな表情を浮かべる。だが、すぐに営業用の笑顔を整えた。

「かしこまりました。では、エアシャカールさまもご一緒に」

「……ちょっと待て」

 エアシャカールが、静かに、だが鋭い声で二人のやり取りを断ち切った。

 その声音は、室内の空気を再び張り詰めさせる。

「オレはお前らのママゴトに付き合う気はねェ。……これはいったい、何の茶番だ?」

 その問いが落ちた瞬間、場の空気が一層重く沈んだ。乙名史も高橋も、息を詰めたまま、静子と諏訪の動きを見極めようとしていた。

「茶番とは失礼な。『静子さま』のお言葉を、理解していらっしゃらないと?」

 諏訪が、低く張った声でエアシャカールに噛みついた。口調は丁寧だが、その言葉の端々には、出来の悪い生徒を嫌味たらしく叱る教師のような圧がある。

「諏訪、おやめなさい。私の説明が足りていなかったのです」

 静子が、立ち上がりながら右手で諏訪を制する。そのまま右手を胸に当て、穏やかな笑みを浮かべる。

「乙名史さん、高橋さん、エアシャカールさん。これから向かうのは、私の家です。私が“運命”を見るときに使っている――『大穴』がある場所へ」

 その言葉に、室内の空気が一瞬、ぴんと張った。

「……掴めねェな」

 シャカールは一歩前に出て、低く唸るような声を返した。

「そこに行って、何をするつもりかって聞いてんだよ」

 その鋭い視線に対し、静子は臆することなく挑発するような視線を返す。

「そこに、メイショウドトウさんがいます。皆さんの目的は、彼女の救出……でしょう?」

 最後の一言は、意図的に間を置いて放たれた。無視できない言葉を残し、静子は三人を残して店の外へ出る。

「おい!」

 シャカールが短く吐き捨てるように声を上げ、弾かれるように後を追う。乙名史と高橋も、無言のままそれに続いた。

 外には、黒塗りの大型バンが停められていた。窓には濃いスモークが施され、重たい存在感を放っている。諏訪と静子を含めた五人が乗り込んでも、余裕のある広さがありそうだった。

「こ、これに乗るのか……?」

 高橋が、おびえた声で問う。

「問題ねェ。こっちはウマ娘だ。不本意だが――もしもの時は力押しでいく」

 シャカールが乙名史と高橋の耳元で、抑えた声で囁く。彼女の口調からは、すでに“静子の本拠へ向かう”という選択を疑う余地がないことが伝わってきた。

「メイショウドトウさんを、連れ帰りましょう」

 乙名史は短く告げると、先にバンのステップを踏み込む。シャカールと高橋も無言で続き、三人が座席に身を沈めた瞬間――諏訪が音もなくスライドドアを閉め、金属音が静かに響いた。




つづく
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