・乙名史悦子……月刊トゥインクルの記者。
・高橋……メイショウドトウのトレーナー。気弱ですぐ人を信じてしまう。
・エアシャカール……クラシック級ウマ娘。皐月賞覇者。
・片桐静子……『静子さま』。“運命”を変える力を持つという。
道中、車内はひどく静かだった。窓には厚いカーテンが掛けられ、外の景色は一切見えない。唯一、タイヤが路面を擦る音が状況を伝えてくれるだけだった。途中、舗装されたコンクリートの感触が、砂の混じった荒れた道へと変わるのがはっきりと分かる。
緩やかなカーブがいくつも続き、やがてバンは幾度か停車した。揺れに誘われて、高橋は半ば夢の中に落ちかけていた――その時。
ブレーキ音と共に車体が止まり、運転席のドアが開く音。続けて、スライドドアが静かに引かれた。
「長らくのご乗車、お疲れ様でした。どうぞ、お足もとにお気をつけて」
相変わらずの営業スマイルを張り付けた諏訪が、三人を外へ促す。足下は砂利で覆われ、周囲は鬱蒼とした木々に囲まれている。人工の光はなく、夜気の中で虫の声がかすかに響いていた。
乙名史はポケットから携帯を取り出した。
車が発進した瞬間にスタートさせていたストップウォッチの表示を確認する。そこには、はっきりと「2:00:17」という数字が浮かんでいた。
「……二時間」
乙名史の声と、ほぼ同時に別の声が響く。
「二時間だな」
振り返ると、エアシャカールが無表情で立っていた。二人は思わず互いに視線を交わす。
「……エアシャカールさんも計測を?」
「まァ、オレの場合は体感だがな。……アンタの顔を見る限り、大きな誤差はねェようだ」
シャカールが口の端を吊り上げ、不敵な笑みを浮かべる。そのやり取りを見ていた高橋は、理解できずにキョロキョロと二人を交互に見やった。
「い、いったい何の話だ?」
「オレ達が乗ってたバンは外が見えねェようになってた。つまり、本拠地を知られたくないってこった……だが、それじゃあフェアじゃねェ」
シャカールが答え、顎で乙名史を示す。今度はアンタが補足しろ、という無言の挑発だ。乙名史は軽く息を吐き、口を開く。
「──占い師の車と言えど、法定速度は守るでしょう。それと、今計測した時間を組み合わせれば、おおよその位置を割り出せます」
シャカールは満足げにうなずく。その横で、高橋は未だ事情を飲み込めず、口をへの字に結んだままだった。
「約九十キロ圏内の山奥。……山梨方面か?」
エアシャカールが、短く吐き出すように言った。高橋は置いていかれたような顔をしていたが、シャカールはそれを気にせず、話が通じる乙名史へ視線を送る。
「断言はできませんね」
乙名史は淡々と答えた。府中から九十キロ――範囲が広すぎる。山梨に限らず、秩父や小田原周辺の山地も候補として挙がるだろう。位置を絞るには、まだ材料が足りない。
「静子さまの! ご帰宅です!」
突如として諏訪の声が響き、三人はそちらへ目を向けた。そこにあった、立派な玄関を構えた建物だった。かつて旅館として使われていたのだろう、瓦屋根と二本の太い柱が特徴的な門構え。その前には諏訪と、十数人の老男女が整列している。
信者たちは全員、白一色の衣服を身にまとい、両手を諏訪へ向けて差し伸べていた。その仕草は、歓迎というよりも、どこか儀式めいた統一感があり、三人の背筋にひやりとした違和感を走らせる。
「感じますよぉ……感じます! 皆さんの祈りを!」
諏訪は舞台俳優さながらの大仰な動きで両腕を広げ、信者たちの前に立った。その芝居がかった様子に、三人――とりわけエアシャカール――の目は冷え切っていた。
「……力を持つと、余計な連中が寄ってくるものです」
背後から、静かに静子の声が落ちる。その声音には、淡々とした響きと共に、どこか見下ろすような余裕が滲んでいた。
「許してやってください。人々に安らぎをもたらすのも、“知る者”の務めです」
静子の声は柔らかく、淡々としている。しかし、その言葉の奥には一片の情もなく、ただ冷静な理屈だけが並んでいるように感じられた。
「金をむしり、依存させるのが『安らぎ』かよ」
エアシャカールが吐き捨てるように低く言い放つ。だが、静子は意に介さず、三人の間をすっと通り抜け、玄関口へと進んだ。
その瞬間、待ちわびていた信者たちが一斉に声を上げた。老男女の群れが口々に願いを叫び、手を伸ばす。諏訪が声を張り上げて制止しようとするが、誰一人として耳を貸さない。
「“運命”は!」
静子の張り上げた一声が、その喧噪を切り裂いた。次の瞬間、場は水を打ったように静まり返る。
「──動いていません」
その一言で、信者たちの口から落胆の吐息が漏れ始める。重苦しい空気が、玄関前に沈殿していく。
「しかし――希望を捨ててしまっては、なお動きません」
静子の声音が再び柔らかくなる。彼女が乙名史たち三人へ手を差し向けると、信者たちの視線が一斉に集まった。
「あちらのお三方は、“運命”を動かす力を持つ者たちです。ですが、いまだ未熟で、意志の弱い者たちでもあります。……ともに修行すれば、“運命”を変えうるでしょう」
信者たちの間から、どよめきが走った。静子はそれ以上何も言わず、ゆったりと玄関口へ歩み寄る。その動きに合わせて、信者たちは一人また一人と跪き、口々に「うれしいです」と唱えた。やがて静子と諏訪は屋内へと姿を消した。
シャカールは、あからさまに舌打ちし、低い声で呟いた。
「……くだらねェ芝居だ」
シャカールが吐き捨てるように言い、臆することなく玄関へ向かって歩き出す。
信者たちは静子が去ってから一斉に顔を上げ、まるでスイッチが切り替わったかのように世間話を交わしながら、ぞろぞろと屋内へと戻っていった。
その中で、一人だけ動かずに残った人物がいた。茶色いベレー帽を深くかぶった中年の男。年齢は四十代後半か。背丈は平均的でありながら、場の空気を支配するような存在感があった。
「あンだよ」
シャカールが眉をひそめて見上げる。目線はほぼ同じ高さのはずなのに、この場では妙に威圧感を覚えた。
「……そう睨むな、嬢ちゃん」
男は声を潜め、周囲に聞かれぬよう囁く。その視線がちらりと乙名史と高橋を捉え、手でこちらへ招く仕草をする。三人が近づくと、男はようやく名を明かした。
「五十嵐新平、ってんだ。俺もな、『静子さま』ってやつには懐疑的でよ」
順に乙名史、高橋が自己紹介をし、最後にシャカールが不機嫌そうに名前だけを告げる。
「それにな……俺は“運命”を変えられたくなんかない。そんなもんが本当にあるとして、決まってる流れに乗っかってりゃ楽だろ? 無理に逆らうより、よっぽどな」
五十嵐は身を乗り出し、三人の顔を順に覗き込むようにして持論を吐き出した。しかし、三人はいずれも表情を動かさない。乙名史は眉をわずかに寄せ、シャカールは不快げに視線を逸らし、高橋は困惑を隠せずにいる。
「なら、変に首を突っ込まず傍観してればいいじゃないですか」
乙名史が冷たく切り込むと、五十嵐は蹴とばすように短く笑った。
「俺ぁ雑誌記者やってるもんでよ。気になったことから逃げられねぇタチでな」
そう言いながら、ベレー帽のつばを軽く押さえ、自分の職を明かす。
「それに、カンも効くんだぜ? あんたたちを一目見てピーンときたね。こりゃ信者じゃねぇぞってな」
すでに周囲に人影がなくなったせいか、五十嵐の声は先ほどの倍の大きさになり、豪快に笑いながら高橋の背中をバシンと叩く。その音に高橋が情けない声を漏らした。
「アンタ、ここに来てどれくらい経つ?」
エアシャカールが低く、鋭い声で問いかける。五十嵐は右眉を上げ、顎に手を当ててしばし考え込んだ。
「二……三週間くらいか?」
「トクダネはゲットできたのかよ」
シャカールの言葉は容赦ないが、的を射ていた。記者を名乗るなら、この期間で調査を終え、何らかの成果を得ていてもおかしくない。
「そいつは──まだ内緒だ」
五十嵐は口元に笑みを浮かべ、含みを持たせた声で返す。
「だが、もう一歩のところまではイケてるぜ」
「勿体ぶってねェでさっさと──」
シャカールが身を乗り出そうとしたその時――
「──お代講の時間です! お代講の時間です!」
天井のスピーカーから、甲高い女性の声が響いた。どこか機械的な抑揚で繰り返される『お代講』のアナウンスが、館内の空気を急に変える。
「おっと、まずい。話はまた今度だ。遅れるわけにはいかねぇ」
五十嵐は声を潜め、しかし足取りは慌ただしく廊下を進み始めた。
三人はしばし呆気に取られてその背中を見ていたが、ある程度進んだところで五十嵐が振り返り、片手を大きく振る。
「おい! 早く来いよ! 場所知らねぇだろ?」
その一言に、三人は弾かれたように動き出し、五十嵐の背中を追った。
屋敷の中を延々と歩かされるうちに、乙名史は内心ため息をついた。曲がり角の多い廊下、似た造りの扉ばかりが続くこの建物は、案内がなければ玄関にすら戻れないだろうと実感する。
五十嵐に導かれてたどり着いた『お代講』の会場は、かつて大宴会場として使われていたであろう広い大広間だった。だが、想像していたほどの信者の数はなく、数列に並べられたパイプ椅子が空間の広さを逆に際立たせていた。
乙名史たち四人は、最後列の中央付近に腰を下ろし、始まりを待つ。やがて、後方から諏訪が現れ、椅子の間をゆっくり歩き抜けながら最前列へと進んだ。
「よろしい。お集まりいただけましたね。それでは――静子さまによる『お代講』です!」
諏訪の声が、広い空間にやや大げさに響き渡る。その合図を受けて、前方の小上がり――かつて演芸や余興に使われていた舞台から、静子が音もなく姿を現した。
「みなさん、ご存じの通り、“運命”とは変えられぬもの」
静子はその名の通り、静かな声で語り始めた。右手には水の入ったペットボトルが握られている。
「水もまた、“運命”に縛られしもの」
そう告げて、静子はペットボトルのキャップを外し、諏訪へと渡す。そしてボトルを斜めに傾ける。透明な水が床に流れ落ち、ばしゃりと音を立てて飛び散った。
「“運命”には、逆らえないのです」
信者たちが一斉に小さく頷き、ざわめきが広がる。
だが、最後列のシャカールが低く呟いた。
「“運命”ってか、ただの自然現象だろうが」
その声は、周囲に聞こえるか聞こえないかの微妙な音量で。乙名史は、その言葉を聞きながらも静子の手元や動作に目を凝らしていた。――この『お代講』が、単なる芝居であることを裏付ける瞬間を探して。
「しかし――一部の、“運命”の外側を歩く者には」
静子はそう言いながら、ペットボトルの飲み口を自らの左手でしっかりと覆う。そして再びペットボトルを傾け、ついには完全に逆さまにした。
「──あるのです、“運命”を変える力が」
その言葉と共に、静子は左手をゆっくりと外した。本来なら、中の水が一気にこぼれ出して床を濡らすはずだった。だが――
水は一滴もこぼれない。まるで何かに塞き止められているかのように、ペットボトルの中に静止したままだった。
「えっ!」
高橋が思わず声を上げる。乙名史も無意識に身を乗り出し、その現象を凝視していた。五十嵐は口元に冷笑を浮かべたが、その実、視線は泳ぎ落ち着きを失っている。あのエアシャカールでさえ、目を見開き、驚きを隠せなかった。
当然、信者たちは口々に歓声を上げた。中には手を打ち鳴らして賛美を叫ぶ者まで現れる。
「この水は、流れ落ちる“運命”を回避したのです」
静子は、あくまで淡々と語り続ける。その静けさが、逆に現象の異様さを引き立てていた。
その時、諏訪がポケットから一本のストローを取り出し、ゆっくりと掲げて皆に見せた。信者たちは息を呑み、乙名史ですら無意識に視線を奪われている。
諏訪はストローをペットボトルの口へ近づけ、慎重に挿し込んだ。ストローの先端が水面を押すと、二、三滴だけ水がしたたり落ちたものの――それ以上はこぼれず、ストローは見事に中へ入り込み、ペットボトルの水はなおも内部に留まり続けた。
「“運命”を変えることは、容易ではありません」
静子は語りを続けながら、諏訪からキャップを受け取り、ペットボトルに付け直す。ボトルの中には、さきほど差し込まれたストローが一本、静かに浮いていた。
「しかし――皆様のお力添えがあれば、大きな“運命”も……変えることができるでしょう」
静子は再びキャップを外し、諏訪がいつの間にか用意していたガラスのコップを手に取る。ペットボトルを傾けると、中の水が、ストローの存在をものともせず流れ出した。ただ、ストローを抜ける瞬間だけ、ほんの一瞬だけ詰まりを見せたが――それ以外は滞りなく、透明な水がコップを満たしていく。
その一連の動作の間、信者たちは息を呑み、やがてため息混じりの賛美の声を上げた。静子は表情ひとつ変えず、淡々とした口調で高尚な説法を語り始める。
だが――乙名史たち四人は、その言葉を一切耳に入れていなかった。
目の前で“常識を超えた現象”が起きたばかりだという事実が、重く脳裏に焼き付いている。高橋は青ざめた顔でコップの中の水を凝視し続け、五十嵐はわざと鼻で笑ってみせながらも、落ち着かない指先を組み替え続けていた。エアシャカールですら、いつも不遜な笑みを浮かべる口元を固く結び、舞台の上の女から目を離せずにいる。
乙名史は――驚きと同時に、冷静な目で舞台を眺めていた。今見た“現象”は、確かに人の目を奪い、心を揺さぶる。だが、同時にとてつもない既視感に襲われていた。どこかでこの現象を見たことがある気がする。しかし『お代講』が終わるまで、結局その正体には気づくことができなかった。
『お代講』が終わるや否や、乙名史たちは周囲を見回した。
目当てはメイショウドトウ。五十嵐の話ぶりから察するに、この施設の信者は例外なく『お代講』への参加を義務づけられているようだった。ならば、ここにいれば見つかるはず――そう思ったのだが。
しかし、その場に彼女の姿はなかった。
「五十嵐さん、この施設に……エアシャカールさん以外のウマ娘って、どれくらい居るんです?」
乙名史が声を潜めて問うと、五十嵐は肩をすくめ、思い出すように眉間へ指を当てた。
「一人……いや、二人だったかもな。同じ年頃のウマ娘ってんなら、一人だ」
その言葉に、エアシャカールの視線が鋭く光る。
「そいつ、髪の真ん中にでけェ流星が入ってたか?」
「そうだな。ぶっとい流星と、妙におさまりの悪い一本毛がピョンと飛び出してた」
それだけで、三人の間に暗黙の確信が走った。メイショウドトウは――間違いなく、この施設にいる。
「でも……ここにはいないよな?」
高橋が当たり前の疑問を口にする。五十嵐は、まるで当然のことを言うかのように頷いた。
「そりゃ、あいつは“向こう側”だからな。……つまり、『静子さま』の使いってわけだ」
「そいつらは、どこで寝泊まりしてんだ?」
「知らねぇよ」
五十嵐の素っ気ない答えを聞き終えるや否や、エアシャカールはパイプ椅子を蹴るように立ち上がり、大広間を飛び出していった。
「ちょ、エアシャカールさん!」
乙名史も慌てて立ち上がり、追いかける。だが、この施設の構造を知らない乙名史にとって、先を行くシャカールを追うのはまるで出口のない迷宮を駆け抜けるような感覚だった。曲がり角をいくつも曲がるたび、視界は歪み、足取りは焦燥で速まる。
そして――シャカールの姿を完全に見失いかけた、その時。
「……脅されてンのか?」
前方から低く響く声。聞き慣れた、エアシャカールのものだった。その音だけを頼りに乙名史は足を速める。
やがて、廊下の奥でその姿を見つけた。エアシャカールがメイショウドトウの右手をしっかりと掴み、動きを止めていた。ドトウは申し訳なさそうに眉を下げ、ただ下を見つめるだけだった。
廊下には、外の空気とは違う――張り詰めた、ひどく冷たい緊張が漂っていた。
「こ、このままだと……このままだとぉ……」
廊下の薄明かりの下で、メイショウドトウは小さく震えていた。彼女の声はか細く、喉の奥で途切れがちに震え、今にも泣き出しそうな瞳が乙名史を捉えて離さない。掴まれた右手が微かに力なく揺れ、足取りは重く、立っているだけで精一杯という様子だった。
「なァ、おまえが何を悩んでるのか知らねェし、興味もねェ。だが……想像はつくぜ」
その隣でエアシャカールが低く言い放つ。ぶっきらぼうな口調だが、ドトウを動揺させまいと、あえて普段どおりの調子を崩さないようにしているのが伝わる。彼女の鋭い目が、ドトウのうつむく横顔をじっと射抜いた。
「あの“覇王”サマのことだろ? アイツを終わらせる覚悟が、自分にはできてない……そう思ってンじゃねェか?」
“覇王”――テイエムオペラオー。今、トゥインクル・シリーズの頂点に立つウマ娘であり、そのライバルと囁かれ始めたのが、このメイショウドトウだった。先日の宝塚記念ではクビ差まで詰め寄り、誰もがその実力を認めざるを得なかった。
「お前とアイツは仲がいいもんなァ? だが、勝負ってのは非情だ。時には、痛みに耐えて……痛みを与えることも必要なんじゃねェか」
シャカールの言葉は、刃のように冷たく響くが、芯は真っ直ぐだった。だが――乙名史にはわかっていた。
ドトウの瞳の奥にある怯えは、オペラオーとの勝負に関するものではない。彼女はシャカールの言葉に反応すらせず、ただ必死に、乙名史の方を見つめ続けている。その視線は、助けを求めるようで――何か別の、言葉にならない危機を訴えかけていた。
「あっ! ドトウさん!」
廊下の奥から、白装束の人影が現れた。静子の信者だろう。こちらを見つけるなり声を上げる。
「ちっ! 逃げるぞ!」
シャカールが舌打ちし、ドトウの腕を乱暴に引き、乙名史に合図を送って踵を返す。三人は息を切らしながら廊下を駆け抜ける。曲がり角をいくつも曲がり、廊下を抜け、また曲がる。
――だが。
「……おい、どうなってやがる! 大広間は、こんなに遠かったか!?」
シャカールの苛立った声が、狭い廊下に響く。たしかに、速度を抑えて乙名史に合わせてはいる。だが、それを考慮しても妙だ。進んでいるはずなのに、まるで同じところをぐるぐると回っているかのような感覚が拭えない。
「……迷っていますね。でも――この廊下、変です」
乙名史が低く呟く。無機質な壁が続き、雲を模した波線の柄が、柱から柱へと延々と繋がっている。柄は継ぎ目なく続き、どこが扉なのか、どこまでが本当の壁なのかすら見分けがつかない。まるで、人を惑わすために作られた回廊だ。
「メイショウドトウさん……! あなたなら、この館の造りを知っているでしょう? 私たちを案内してください」
乙名史は一縷の望みをかけ、声をかける。ドトウは五十嵐の話では“向こう側”のスタッフとして動かされていたらしい。ならば、この館の内部にも通じているかもしれない。
だが、ドトウは力なく足を動かしながら、相変わらず同じ言葉を繰り返した。
「このままだと……このままだとぉ……」
そのかすれた声は、呪文のように何度も反響し、廊下の空気をさらに重くしていった。
「……! ちょっと待ってください」
望み薄かと視線を前に戻したその瞬間、乙名史の耳が小さな違和感を捉えた。自分たちの足音に紛れて――どこかで「トン」と何かが閉じる音がした。振り返っても誰の姿もない。だが、背筋にひやりとした感覚が走る。
三人はその場で立ち止まり、乙名史はゆっくりと壁に近づいた。目の前の壁だけ、模様の連続性がわずかに乱れている。波線の雲模様が、不自然にずれて、がたついて見えた。
乙名史は手を伸ばし、そっとその表面に触れる。さらりとした感触。石や漆喰ではない、軽い材質。
――これは壁じゃない。壁の柄を写した、偽りの襖だ。
「……そういうことか」
息を呑み、乙名史は瞬時に全体像を掴んだ。同じ模様を施した襖を巧妙に組み合わせ、開閉で繋がる廊下と切り離された廊下を自在に入れ替える。
その仕掛けで、自分たちは延々とループする迷路に閉じ込められていたのだ。
「どこまでも手間のかかることを……」
「おい、どうしたんだ? 何かわかったンなら──」
シャカールの問いかけを最後まで聞くことなく、乙名史は勢いよく助走を取り、目の前の壁に体当たりした。
ドトウとシャカールが同時に驚きの声を上げる中――
ドン!
鈍い衝撃音とともに、壁と思われていた襖が大きく外れ、床に倒れ込んだ。閉ざされていた空気が裂け、新たな空間が目の前に広がる。
その部屋の中央には長机が据えられ、その奥で、片桐静子が三人を迎え撃つかのように静かに座っていた。静子の隣には、後ろ手を組んだ諏訪と――椅子に縛られた高橋の姿。高橋の目は驚きと恐怖で大きく見開かれ、口元に布が巻かれている。
「ようこそ。待っていましたよ――乙名史悦子さん、エアシャカールさん、メイショウドトウさん」
静子の声は淡々と、まるでこの状況が予定調和であるかのようだった。乙名史は肩で息をしながらも姿勢を整え、真正面から静子を見据える。シャカールは口元を引き結び、氷のような視線を投げつけた。一方、メイショウドトウだけは、小刻みに震え、視線を定められずにいた。
乙名史は一歩前へ出て、静子と机を挟んだ椅子に腰を下ろす。その動作を追う静子の目は、諦めともつかない色に染まっていた。
「やはり――あなたなのですね。“運命”は、続いている」
静子が一瞬だけ目線を伏せ、そして乙名史の両目をまっすぐに見据える。
「高橋さんを、解放してください」
乙名史は毅然とした声で告げた。静子はわずかに口角を上げ、右手を上げて諏訪に合図を送る。諏訪は一つ頷き、懐から三つの小瓶を取り出した。
「乙名史さん。私が視た“運命”を――検証しましょう」
諏訪が一つずつ、小瓶を机の上にコトリ、コトリと並べる。瓶はどれも同じ形、同じ透明な液体が満たされている。
「このうち二つは、ただの水。しかし――ひとつだけ、猛毒が入っています。無色透明、無味無臭」
静子の声は、抑揚もなくマニュアルを読み上げるような無機質さ。しかし、その言葉が持つ冷たさは、室内の空気をさらに張り詰めさせた。
「そのひとつを──乙名史さん、あなたが飲むのです」
静子の低い声が、鋭く乙名史の鼓膜を打つ。その瞳が乙名史の顔を捕らえ、微動だにしない。
「すみません、すみません……! 私が……私のせいでぇ……!」
ドトウがぽろぽろと涙をこぼし、膝から崩れ落ちる。シャカールは慌ててしゃがみ込み、その肩を押さえて必死に宥めようとするが、ドトウの震えは止まらない。
「おい、まさか……乗る気じゃねェよな?」
エアシャカールが鋭い視線を投げ、低い声で乙名史をけん制する。だが――乙名史の中では、すでに結論が出ていた。ここで静子の勝負を退けなければ、メイショウドトウの心は二度と解き放たれない。危険な賭けだとしても、やるしかない。
「……お悩みですか?」
静子の落ち着いた声が、その迷いを見透かすように滑り込む。彼女は三本並んだ小瓶のうち、真ん中のひとつを指先でつまみ上げ、乙名史の方へスッと差し出した。
その動作は、チェスの駒を一手、盤上に進めるかのように緩やかで――それでいて、無数の意図が張り巡らされているかのようだった。
「どうぞ。あなたが、お選びください。乙名史さん。……あなたと、高橋さんの分を」
乙名史の胸の奥で、どくり、と心臓が強く脈打つ。自分だけでなく、高橋の命まで――その二人分を背負って選べというのか。単純な確率で言えば三分の二、静子の有利なゲームだ。
しかも、静子は言った。「自分は選ばない」と。残った一本を自分が飲むのだから、乙名史が選んだ瞬間、この勝負の主導権は完全に静子の手に渡る。
「……あなたには、どれが毒入りの瓶かわかっているのですか?」
乙名史は、静子の瞳をまっすぐに見据えたまま問いかける。
「もちろん。私は“運命”を視ましたから」
静子の返答は軽やかで、隙がない。だが、乙名史の狙いはその言葉そのものではなかった。
静子のわずかな視線の揺れ、声の抑揚、指先の動き――そのすべてを観察し、彼女の仕掛けを見破るために。
「では――今、触れなかった二つをいただきます」
乙名史は短く息を整え、そう答えた。こちらへ押し出された一本が、毒入りかどうかはわからない。考えられる材料はすでに尽きた。残るのは、自分自身の運だけだ。
「わかりました。それでは――割り振りをお決めください」
静子の声音は変わらない。揺るがぬ態度で、乙名史を次の一手へと誘う。ここで誤れば、高橋の命が潰える。だが、導きの糸などどこにもない。
乙名史は深く息を吐き、机の左端にある一本を高橋へ。右端の一本を自分の前へと置いた。
「あぁ……やはり、“運命”は変わらないのですね」
静子が、わずかに悲しみを帯びた声で呟く。その指がすっと上がり、諏訪へ合図を送った。
次の瞬間、諏訪は高橋の前の瓶を取り、その蓋を開けると――高橋の口を押さえ込み、抵抗を許さず中身を流し込んだ。
「あっ!」
乙名史は反射的に立ち上がりかけたが、もう止める術はない。高橋の喉が上下し、液体を嚥下する音が、やけに大きく響いた。
「テメェ……!」
エアシャカールが椅子を蹴るように立ち上がり、諏訪に殴りかからんと一歩踏み込む。その瞬間――
「……だ、大丈夫だ! お、俺は……大丈夫だ!」
高橋の声が割り込んだ。久しぶりに声を出したせいか、締まりのない甲高い声。だが、その息づかいに嘘はなかった。彼の顔色も変わらず、意識もはっきりしている。飲んだ液体は、毒ではなかった。
乙名史は胸の奥の緊張を吐き出すように、ほっと息をついた。
「さて――では、次はどちらが飲みましょうか?」
静子の声が、鋭く滑り込むように響く。乙名史の前に置かれた一本は、もう動かせない。乙名史か、それとも静子か。
長机の上、目の前に置かれたふたつの小瓶。透明な液体が、室内の淡い光を受けてかすかに揺れている。 乙名史と片桐静子は、その小瓶を挟んで無言のまま視線を交わしていた。
乙名史の脳裏には、ひとつの思考が巡っていた――静子を信用する。それは、“運命を視る”という言葉を鵜呑みにすることではない。目の前の女が、少なくとも一人の人間として、そして成功を収めている占い師として、計算の上で動いているだろうということを信じる、という意味だった。
乙名史は小瓶を手に取った。指先がわずかに震え、瓶のガラスがカチリと鳴る。深く息を吐き、その蓋をひねって回す。かすかな音とともに、中の液体が外気に触れ、冷ややかな匂いが漂った。
「お、乙名史さぁん……」
背後で、メイショウドトウの声が震えた。その声には、怯えと絶望が滲んでいた。きっと彼女は、静子に“運命”を告げられたのだろう――この場で乙名史が命を落とす、と。
「“運命”に従うのですね。あなたには、それを変える力があるというのに」
静子の声は低く、穏やかで、それでいて突き刺さるような響きを持っていた。乙名史はその視線を受け止め、ゆっくりと首を横に振った。
「私だけじゃありません。──誰にだって、“運命”に抗う力はあるんです」
その言葉を吐き出すと同時に、乙名史は小瓶を傾けた。冷たい液体が一気に喉を通り、全身を駆け下りていく。誰もが息を呑む中、乙名史は一滴残らず飲み干し、静かに瓶を机の上へ置いた。
つづく