部活終わりにでも遊びに来たのだろうか。
サッカー部のエナメルバッグを肩に掛けている。
「なーにしてるの業平、部長の手伝いは?」
「ちょっと休憩して買い物してただけだ。ていうか、お前俺達がいること知ってたのか?」
「うん。ていうか部長に業平達に頼んだらって言ったの私だし」
「ああ、なるほど」
肩掛けの位置を戻しながら、紅浦が微笑む。
紅浦にしては思いやりのある選択だと思う。直接口に出すつもりは無いが。
「ねえ、水樹の書いた本どこに売ってるの。早く見に行こうよ」
紅浦の隣から顔を覗かせた恵梨が、俺達を交互に見ている。
「お前アレに興味あるのか?」
「んー、別に僕読みたくないんだけど。ただちょっと売ってるところ見たいかなって」
言いたいことは分からんでもない。
友達の創作物が商品になっていると知ったら、中身に興味があるかは別として、見てみたいと思うのは自然の性だろう。
「え、読みたくないの? 私の力作だよ?」
紅浦が目を丸くして恵梨に顔を近づける。
「僕本なんてほとんど読まないし。水樹が書いたのって色々恥ずかしいし」
ガーンという効果音がなりそうな程、口と目を開いて静止している紅浦と、紅浦の作品を思い出したのか、やや頬を赤らめて恥じらう恵梨が何とも対照的だ。
しかしながら、この場合多数派なのは恵梨だろう。
ていうか紅浦は自分の作品が一般人からどう見られるか分からないのだろうか。
「まあとりあえず、俺戻るから」
いつまでもここに居ては明久里に申し訳ない。
それに広い空間のど真ん中に立っているのも通行人の邪魔になるだろう。
「ああまってよ。僕達もいくから」
「そうか」
ふたりを後ろに連れながら、エスカレーターに乗って地下へと降る。
それにしても、試合後にわざわざ来るなんて、このふたりかなり仲がいい。
「ねえ業平、私の本売れてる?」
エスカレーターの後ろにいる紅浦へ振り返ると、期待の眼差しを俺に向けていた。
「売れてるぞ。お前のファンが何人も来てるし」
「ファンなんてそんな、朝のお知らせが効いたのかな」
「まさしくその通りだ」
「へえ、みんな熱心だなぁ」
嬉しそうだが満更でもなさそうな、そんな様子でこめかみ部分の髪を指でクルクルとしている。
「えー、水樹にファンがいるの?」
「ああ、しかも結構熱心な信者もいるぞ」
「信じられない⋯⋯あんな変態な⋯⋯」
紅浦に下半月状の目で睨まれると、恵梨は引き笑いしながら口を閉じた。
しかしながら、恵梨の口から変態と放たれると何故かドキッとする。何故だろう。
エレベーターを降りて、そのままフロアの入口へ入ると、先程より少し人が多くなっていた。
まっすぐふたりの元に戻ると、俺の後ろの存在に気がついた。
「おや紅浦さん。試合は終わったのですか」
滝沢さんがスマホから目を離して口を開く。
「はい。だから少し様子を見に」
「ありがとうございます。で、そちらの⋯⋯」
明久里の隣りに戻ると、滝沢さんの目は恵梨に向けられていた。
「サッカー部の友達です」
「茅森です。はじめまして」
恵梨はさすが体育会系らしく、すんなりと挨拶をした。
そして文系の滝沢さんは緊張しているのか、目を見開きながらフリーズしている。
「こ、紅浦さんに⋯⋯同性のご友人が⋯⋯」
いや違った。ただ紅浦に友達がいた事実に狼狽えているだけだ。さてはこの人、案外悪気なく人を傷つけるタイプだな。
「酷いですよ部長。私だって女子の友達くらいいますね。碧山さんもそうですし。だよね?」
「そうてす⋯⋯お友達です」
急に話を振られて、明久里は何度も頷きながら答えた。
そうだ。明久里はそもそも自分から紅浦と友達になりたいと思っていたのだ。
「てことで部長、管理私が変わるので、休んできてくださいよ」
机を隔てていた紅浦がこちら側に来る。
そしてちょうど、また女性が紅浦の本を購入しに来た。
お釣りを渡して滝沢さんに目を向けると、紅浦に後ろから肩を揉まれていた。
「いや、ですが紅浦さんは部活帰り⋯⋯あぁ」
滝沢さんは何故か俺をチラリと見ると、紅浦の手を肩から下ろして立ち上がった。
「わかりました。では5時になるまでお願いします。記入の仕方は分かりますよね?」
「はい。任せてください」
「ではお言葉に甘えて。業平君も碧山さんも⋯⋯失礼します」
そう言った滝沢さんの目と頬は俺に向かって微笑んでいた。
そして上機嫌に滝沢さんの席に座る紅浦、なるほど、さすが滝沢さんだ。
西澤君に負けない素晴らしい潤滑油だ。
滝沢さんは多分、どこかのベンチにでも座って時間を潰すのだろう。もしかしたらこの建物の外に行くかもしれない。
そうして紅浦のために時間を作るのだきっと。
いや、厳密には俺と紅浦のためだろうか。
「じゃあということでよろしくねふたりとも」
紅浦がにっこりと笑う。こうして素直な態度でいると可愛いと思う。
「じゃあ僕もいていい? 何も出来ないけど」
「うんいいよ。部長代理権限で許可します」
「やったあ。じゃあよろしくね碧山さんもはじめも」
快活と紅浦が言うと、恵梨は嬉々として後ろに余っていた椅子を俺の隣に置いて腰掛けた。
女子3人に囲まれるなんて、なかなかに素晴らしい状況になりえるのに、3分の2が問題児なせいでそれほどときめかない。
「いいか恵梨⋯⋯紅浦の本を買いに来た客がいる時は紅浦のことを呼ぶなよ?」
「んー? どうして」
「ちょっとした騒ぎになりかねんからだ。サブカル女子の秘められたパワーを甘く見るな」
「う、うん⋯⋯何言ってるか分からないけど気をつけるよ⋯⋯」
恵梨は純粋無垢で本当に助かる。
何だかさっきから他のサークルの視線がこちらに集まっている気がするが、両手に花があるせいだろう。
気にしなければどうということはない。
「ああそうだ。買ってきたそゆで卵機」
ずっと右手が重かったことを思い出し、床に袋を置く。なぜ座っても持ちっぱなしだったのか謎だ。
「ありがとうこざいます⋯⋯でもお高いんじゃ」
「いや、そんなに高くなかった」
「では早速今夜使いましょう」
「そんなに欲しかったのか⋯⋯」
明久里がゆで卵を作っているところなんて見たことないが、料理下手を自覚して自重していたのだろうか。
さすがにゆで卵なんて失敗のしようがないと思うが。
「ねえ、なんで業平が碧山さんが使う物買ってきたの?」
「⋯⋯あ」
紅浦が何度も瞬きをし、腕を机に乗せて前かがみになりながら尋ねてきた。
恵梨は俺と明久里が一緒に住んでいることを知ってるから気にしていなかったが、紅浦がいるのに迂闊だった。
「いや⋯⋯ただ代わりに買ってきただけだ。明久里のほうが販売が手馴れてるからな。なあ明久里」
「⋯⋯そ、そうですね⋯⋯それだけです⋯⋯はい」
ただ話を合わせてくれるだけでいいのに、なぜしおらしくたどたどしいのか。
俺を困らせようとわざと思わせぶりな態度をとっているのかと、勘ぐってしまう。
「ふーん⋯⋯なーんかずっと怪しいんだよねふたりとも。ねえ恵梨」
ジト目で俺達を見つめながら、恵梨に話が振られる。
「な、なな、なんのこと⋯⋯? 僕が知るわけないよ。それに、女の子がはじめと暮らすなんて絶対無理だよ。はじめスケベだし」
何故か俺に飛び火したことは置いておいて、思いっきり墓穴を掘ってくれた。
「私ふたりが暮らしてるなんて言ってないけど? ただどうして碧山さんの使うものを業平が買ったのか聞いただけなのに、どうしてそう思ったの?」
「あっ⋯⋯」
失言に気がついた恵梨は顔を引き攣らせた。
「ねえ、恵梨何か知ってるの?」
紅浦の声が若干高くなり、頬が上がる。
恵梨をからかい、聞き出そうとする目をしている。
俺と明久里が一言違うと言っても、恵梨の言葉に納得しなければ意味が無いだろう。
だが、このまま紅浦に問い詰めさせるつもりはない。
「恵梨、お前もしかしてこの間俺と明久里が一緒に家に入るところでも見たか?」
「えっ?」
戸惑う恵梨に、俺は眉を吊り上げて無言で圧をかけた。
「う、うん。見たよ」
俺の意を汲んでくれたことを確認し、わざとらしく腕を組み、息を吐く。
「なるほど、それで俺と明久里が男女ひとつ屋根の下暮らしてると勘違いして余計な気を使ったんだな。だが安心しろ。多分お前が見たのは家に親戚が集まった日だ。日本に来た明久里のために集まったんだよ。何故か俺の家にな」
「そ、そうだったんだ⋯⋯勘違いしてたよ、えへへ」
恵梨の自然体な演技のおかげで、紅浦の顔色から興味が引いているように見える。
「なあ明久里、あの日はまあ楽しかったな」
「そうですね。はじめさんの宴会芸には驚かされました⋯⋯まさかパンツを⋯⋯」
明久里の余計な爆弾発言のおかげで、恵梨がシラケた眼差しを、紅浦が好奇の目を向けてくる。
しかしながら恵梨さん、君はこの話が作り話だとわかっているはずでは無いですか。
こんなそこそこ人のいるところで何を話しているんだと冷静になりたいが、この女がそれを許してくれない。
「ねえねえ、業平なにしたの?? 裸でタケコプターでもした? それとも⋯⋯」
「こんな所でそんな話するなっ!」
つい声を荒らげてしまい、怖がらせてしまったかと思っても、紅浦の顔色も態度も何一つ変わらなかった。
「教えてくれてもいいじゃん。内緒にするから。なになに? 碧山さんでもいいよ。教えて⋯⋯」
──滝沢さん⋯⋯早く帰ってきてくれ⋯⋯。
俺は心の中でなんども滝沢さんを呼んだが、彼が帰ってきたのは、このイベントが終わる5時直前だった。
────
「お疲れ様です。おふたりともありがとうございました」
販売会が終わり、椅子や机を片付けながら、俺は肩を揉んだ。
本当に1日いただけで、大した事はしていないのだが、やけに肩が凝る。
「いえ、依頼ですので。当然のことをしたまでです」
明久里が滝沢さんの対応をしている間に、余った本をダンボールに戻す。
数を絞っていたが、皆の本はそれなりに残っている。
しかし、いちばん多く刷っていた紅浦の本は完売していた。
流石としか言いようがない。
「まあ、本人はそのこと知らないんだけどな」
数十分前に恵梨とウインドウショッピングに出かけたので、作者様は売り切れたことをまだ知らない。
まあ、また会った時にでもつたえてやればいいだろう。それか滝沢さんが伝えるか。
「本当にありがとうございました。ああこれ、おふたりの交通費です」
滝沢さんが財布からお札を出し、明久里に渡している。そういえば交通費支給と言っていた。
「ありがとうございます。お釣りはまた学校でお返しします」
「ああ、そうですか? ありがとうございます」
ダンボールを閉じて、明久里との元に行くと、滝沢さんはにっこりと笑った。
「僕はまだ作業が残っていますが、ふたりはもう大丈夫ですので。本当に今日はありがとうございました」
「はい。失礼します」
明久里が頭を下げたのに続き、俺も一礼した。
ホールから出る際、OBの濱野さんが苦い顔をしてこちらを見ていた気がした。
厳密には明久里を見て、怯えるように後ずさりするように、身を反らせていた。
「お前、あの人になにかした?」
「なんの事です?」
「いや、あの滝沢さんの先輩⋯⋯なんかお前のこと見て怖がってたから」
エスカレーターに乗る手前で、明久里が立ち止まった。
「お昼を買いに行く時に⋯⋯少し話をしました」
人差し指を唇と顎の間に触れさせながら、明久里は軽く口をすぼませた。
「少し話って⋯⋯何があったらあんな目で見られるんだ⋯⋯」
「だから少しですよ⋯⋯こんなふうに」
────
「ねえ君」
「はあ、なんでしょう」
「どうしたの? どこか行くの?」
「ただお昼を買いに行くだけです」
「ふーん。ついて行ってもいいかな?」
「え? 嫌ですけど」
「ど、どうして? 少し話をしようよ。好きな小説とか」
「あなたとお話することは無いので」
「ど、どうして? あの彼氏がいるから?」
「はじめさんは彼氏では無いです」
「じゃあいいんじゃないの⋯⋯」
「いえ、ただ私が生理的にあなたを受け付けないだけなので。大学デビュー丸出しで文学部の喪女を狙ってそうな下品で邪念丸出しの人が⋯⋯」
「⋯⋯」
────
明久里の説明を聞いて、俺は言葉を失い、目を逸らしてエスカレーターの縁を意味もなく見つめた。
何故こいつは出会ったばかりの相手にそうもズケズケと物申せるのだろう。
「ご愁傷さまだな⋯⋯」
まあ申し訳ないが、確かに俺もあの男には同じような印象を抱いていた。
「まあいいや。帰るか」
エスカレーターを昇りながら、ゆで卵器片手に今夜の夕飯をここで買うか家の近所で買うか考えた。
今買えば荷物になるが、惣菜弁当だとしても近所のものよりも質がいい。
なんならここは、少しお高い弁当も売っている。
「明久里、今夜の夕食どうする?」
「食べますけど?」
「いやそうじゃない。ここで買うかいつものスーパーで買うかそれとも食べて帰るか、好きなの選べ」
「そうですね。じゃあここで買いたいです。美味しいものいっぱいありそうですし」
「わかった。じゃあ食料品売り場に行こう」
決定してエスカレーターをのぼり終えると、また紅浦と恵梨とばったり会った。
なんともまあ、タイミングがいいヤツらだ。
「あれー、終わったの?」
どこかの服屋の紙袋片手に、紅浦が首を傾げる。
なにかオシャレな服でも買ったのかと思ったが、ロゴがスポーツ用品店の物だ。
「ああ、完売したぞお前の本」
「へえー。そうなんだ。じゃあ売上でなにか奢ってもらおーっと」
それほど歓喜する素振りもなく、ただ頬を緩ませながら言う。
「へえ、凄いね水樹」
「ふふん。てことで恵梨、なにか奢って」
「えーなんでよ。どちらかと言うなら水樹が奢ってよね」
「だって別に私にお金がはいる訳じゃないしぃ。ほとんど利益なんてないだろうし」
「そうなんだぁ」
女子高生2人が金の話をしているが、確かにあの値段と売上ではほとんど必要経費を回収した程度だろう。
それもほとんど紅浦のおかげだ。
「まあいいや、僕達もう帰るけど、はじめたちも一緒に帰る?」
「いや、俺は買い物して帰る⋯⋯」
ここで明久里となんて言えば、また紅浦に疑われてしまうので、目配せだけして自分から言うように仕向ける。
「私もせっかくなので買い物して帰ります。紅浦さんも恵梨さんもまた学校で」
「うん。じゃあねふたりとも。ああそうだ業平」
恵梨の体が出口に傾くのと反対に、紅浦が俺に目配せして迫ってきた。
紅浦は手を口元に添えると、耳打ちするように小さく言った。
「今度は私ともふたりきりでなにか付き合ってね」
そう小さく呟くと、紅浦は花のように明るい笑顔を浮かべ、恵梨の腕を引っ張った。
「ああちょっと水樹、じゃあねはじめも碧山さんも」
恵梨が小さく手を振るのを見守りながら、ふたりの身体が小さくなるのを確認し、明久里を見た。
「じゃあ行くか」
「はじめさん」
「どうした?」
「紅浦さんは何を囁いたんですか」
「⋯⋯それは秘密だ」
明久里は不満そうな目を向けていたが、気にせずに食料品売り場に向かって歩く。
「そういえばお前、今日1度も休憩しなかったよな」
「はぁ⋯⋯しようとは思ってたんですけど」
明久里の肩がぐっと垂れ下がる。
「しようとは思ってたけど?」
「なんか⋯⋯私がいない間に何かあったら嫌だなと思いまして」
明久里はそう言って、足を早めて先に行ってしまった。
ただ俺が釣り銭の間違いをすることを危惧していたのか、それとも他に理由があるのか、俺の頭では考えが及ばなかった。
電車に揺られて帰ると、空にはもう星が煌めいていた。あまり動きがなっかたぶん、今日は一日が長く感じられた。
家に帰って、買ってきた総菜を食べたが、やはり近所のスーパーよりお値段が高い分、味も良かった。
俺が食べたくて購入した煮物が奪われたのはご愛嬌だ。
家に帰ってからというもの、明久里はいつの間にか購入していた今日の同人誌をソファで読んでいた。
「明久里、いつの間に買ったんだそれ」
「はじめさんが紅浦さん達と楽しんでた時に」
「何言ってんだよ。俺はキッチン用品を見に行っただけだぞ。恵梨達とは偶然戻る時に会っただけだ」
俺が反論すると、明久里は本を閉じ、冷めた目で俺を凝視した。
「そんなムキにならなくても、ただの冗談じゃないですか」
冷笑するかのようにふっと頬をあげると、また本を開いた。
「いや、お前の冗談は冗談になってないんだよ。基本目とトーンが怖いんだよ」
「そうでしょうか。自分としてはそんなことないと思うのですが」
自覚がないのか、目を見開いてぱちくりしながら、小首を傾げている。
鏡で自分の顔を見てなにか感じたりはしないのだろうか。たとえば表情筋がほとんど機能停止していることについてなど。
まあ、自分に気を使える人間なら、もう少し人にも気を使えるだろうから、それは無理な話なのだろう。
と、今朝までの俺なら考えていただろうが、ちょうど今日明久里が人のために、もとい俺のために行動するところを見てしまったので、そんな減らず口を心の中で叩くこともできない。
「そうだ明久里」
俺は口元を引き締め、少し間を開けてソファに座った。
「どうしました?」
やけに緊張し、俺の胸が高鳴ってしまう。
別に胸が張り裂けるほど緊張するようなことを今から言う訳では無いのだが、それでも小っ恥ずかしい。
「いや、改めて言わせてくれ。ありがとな。今朝電車で。ほんとに助かった」
キョトンとした明久里は、本を開いたまま膝の上に乗せると、まるで死んだ先祖の幽霊を見るかのように、目と口を丸く開きながら俺を見つめた。
なんだか俺の心に哀愁の影ができ、目を逸らして見ると、明久里の読んでいた本が目に入った。
ピンクと水色の水玉模様を彩った表紙に『転生姉妹』という不穏な漢字が並んでいた。
なぜあのクソゲーの同人小説があの場所で売られていて、何故それを明久里が購入したのかなんて今はどうでもいい。
どうでもいいが、気になってしまう。
あのクソゲーは、たった1日、数時間で俺の脳裏に深い爪痕を残した。
今でも思い出す。あのメインヒロインの腐った言動、突然ダツを抱いた女の子に刺される恐怖⋯⋯その他もろもろ。
「なあ明久里、そんな本読んでてストレス溜まらないか」
「これはあのクソ女はモブ同然なので、ストレス無く読めます。はじめさんお気に入りの浦和さんとの恋模様です」
「まあお気に入りっていうか、唯一まともそうだったから気になってただけだけどな⋯⋯それなら俺も後で⋯⋯って、そんなことはいいんだよ」
何故か俺自身が話を脱線させてしまったので、ポイントを切り替えて元に戻す。
「本当に今朝はありがとう。ぶっちゃけひとりでも何とかできた自信はあるが、それよりもお前が俺のために怒ってくれたことが嬉しかった。その⋯⋯大切な人とまで⋯⋯」
言ってて恥ずかしくなり、目を逸らし鼻の頭を撫でた。
あの時、明久里の口から大切な人という言葉が出たことが、なんとも言えない幸福感を俺にもたらした。
厄介者と思っていた明久里に認められたことが嬉しかったのか、それとももっと別の意味があるのか。
今の俺では自分の内心すら把握することが出来ないが、とにかくあの時、痴漢と疑われた苛立ちや多少の怯えなどが吹き飛ぶような、そんな感覚を得た。
「あれは⋯⋯私も何故か口走ってしまっただけで⋯⋯深い意味はありません⋯⋯まあたしかに、はじめさんはただの友人ではありませんが」
「明久里⋯⋯」
明久里は目だけを下に向けはにかんでいる。
考えてみれば、俺がこうも真正面から明久里に感謝を伝えたことは、あまり記憶にない。
それは、恥ずかしがっても当然と言えるかもしれない。
「はじめさんが逮捕されたら⋯⋯誰が炊事や掃除してくれるんですか⋯⋯」
「あ、そういうこと? まあ予想できてたって言うか⋯⋯なんか逆に安心するけど⋯⋯」
強がりなのか本心なのか、声のトーンからは判別できないが、俺の胸のトキメキに似た鼓動はおさまりつつあった。
「まぁとにかく、感謝してるのは本当だ。ありがとな」
「いえ⋯⋯」
俺はそのまま、頬を赤く染め俯いたままの明久里を置いてリビングを出た。
どうやら、明久里の表情筋は仕事していないが、血液を運ぶ心臓と、その血管はしっかりと仕事しているらしい。
そして、脱衣場の鏡を見れば、俺の心臓と血管もまた、しっかりと仕事を果たしていた。