少しすると、窓の向こうに女性が両手に荷物を抱えてやってくるのが見えた。
部長はその女性を手伝いに行ったのか、部屋を出て女性に会釈をして荷物を受け取っていた。
その女性が柿谷羽月であることは、ひと目見てわかった。
カジュアルな白のロングスカートにブラウンのブルゾンという簡素な服装で、ミディアムの黒髪には茶色いメッシュの線がいくつも入り、女優顔負けの容姿は横顔だけでも異彩を放っている。
やはりメディアによく出ている人物だからだろうか。ルックスだけで言えば明久里も負けていない⋯⋯というか明久里が勝っている気がしなくもないが、人を引き寄せるようなオーラが、窓の向こう側からでも漂っている。
「おはようございますー」
部屋に入ってきた柿谷羽月は、俺達に向かって朗らかに会釈すると、その荷物を部長と共に前の台に置いた。
なんでこの人がひとりで持ってきてるんだと今更ながら考えたりしたが、それを聞けるほど俺は社交的ではない。
「みなさんは聖信の家庭科部⋯⋯ですよね?」
荷物を置いた柿谷羽月はこの部屋にいる俺と明久里と片岡さんを首を回しながら見て言った。
「いえ先輩、私とあそこの片岡さんが家庭科部で他のふたりはお手伝いに来てくれた後輩です」
部長が片岡さんを手で示しながら説明している。
なぜナチュラルに部長は俺を省いたのだろう。
俺は退部届を出した訳では無いから、この学校で認められているように、部をかけ持ちしている家庭科部のメンバーなのだ。
それに、先程は俺を一応部員だと覚えていたのだ。一応。
部長が俺に明久里を手伝うように促したのに、この数分で俺なんて家庭科部から除名されてしまったのだろうか。
なぜだか急に視界が真っ暗になり、何も見えない暗闇の中で、頬を生暖かい感覚が伝う。
何も見えないが、きっと俺は泣いているのだろう。
声も出ないし、涙の量もそれほど多くはない。
だが心の中では、張り裂けんばかりの慟哭が響き渡っているのだ。
俺が部長と呼ぶ人間は、黒崎さんただひとりなのに部長にとって俺は、もう部員でもなんでもないただ顔見知りの後輩に成り下がっているのだ。
「あ、ああごめん! 先輩、あそこの彼も家庭科部の部員です。今はあの隣の女の子と一緒の部で掛け持ちしてますが」
暗闇の中に光が宿る。部長は大慌てで手を振りながら、柿谷羽月に俺のことを説明していた。
なんだ、ド忘れしていただけなのか。それなら仕方がない。
もし本当に忘れていたとしたら、俺はきっと今日子供のひとりかふたり泣かしていただろう。
「へぇ、そうなんだぁ。じゃあふたりはどんな部活してるのかな」
柿谷羽月の視線と興味が俺と明久里に注がれる。
俺は当然ながら口を噤んで黙り込み、も乾いた涙を擦るフリをした。
やはり芸能人、その視線を当てられるだけで緊張で心の臓が張り裂けそうだ。
俺が緊張しているのだ。明久里なんて恐ろしいことになるのではと思ったが、俺のスマホは特に動きがない。
「私とはじめさんはQuality of school、通称
相変わらず無駄に発音がいい。
そして当然のように、謎の発音と部の情報を聞かされた柿谷羽月の顔が朗らかに微笑したまま固まった。
「へー、私の時は無かったねぇ。そんな部活」
「当然でしょう。私とはじめさんが創った部ですから」
「いいねえそういうの」
さすが芸能人といったところか、切り替えが早い。
それにしても、驚きなのは明久里だ。
なぜこいつは緊張しないのか。さっきからずっと黙っている片岡さんでさえも、有名人を前にしてずっとスカートを掴んでいるというのに。
いや、明久里は海外生活が長かったから柿谷羽月の存在を知らないのだろう。
言っちゃ悪いが、明久里が料理系の動画を見たりするとも考えにくい。なにせ見ても作れないのだから。
明久里が料理系で見るとしたらせいぜい、巨大料理や珍しい食材をふんだんに使う奇抜系動画くらいだろう。
「じゃあ、あらためて。今日の料理教室の講師を務めさせていただきます、柿谷羽月です。みんなよろしくお願いします」
姿勢を正した柿谷羽月が挨拶をしながら頭を下げた。さすが芸能人、背筋が真っ直ぐだった。
さすが、その言葉ひとつひとつがハキハキと張りがあって、よく耳に響く。
「じゃあ先輩、私達の方も。あそこの子が片岡さん。家庭科部の1年です。そして、2年の業平君と碧山さんです」
人見知りだらけの俺達の代わりに、部長が紹介してくれた。そういえば、さっきから妙に親しそうだが、部長は柿谷羽月と知り合いなのだろうか。
「じゃあもうすぐ子供達来るだろうから、準備終わらせよっか」
部長が笑顔で言う。
後は柿谷羽月が持ってきた食材を分配するくらいだろう。手間はかからない。
「じゃあ、私は車の中に残ってる分持ってくるから。ここはよろしくお願いするね」
柿谷羽月はそう言うと早足で教室を出ていった。
走って揺れるスカートの隙間から見えたのは、高級ブランドのスニーカーだった。
そういえば、あからさまに再生数が少ないスニーカー紹介の動画があった気がした。
部長と柿谷羽月が台に置いた袋には小麦粉や野菜の類が詰まっていた。
それらを部長の指示の元、同量に各台に分けていくだけの簡単な仕事だ。
それらが終わる頃、クーラーボックスを肩に掛けた柿谷羽月が戻ってきて、卵や肉の類を冷蔵庫の中に入れていった。
俺はその後ろ姿を眺めながら、湧き上がってきた疑問を解消するべく、部長の傍によった。
「あの、部長」
「んー? どうしたの? さっきのことならごめんね」
「いや、そのことはもう気にしてないです」
部長は思いのほか俺の存在を忘れていたことを申し訳なく思っているのか、瞼を下げながらやや元気無い様子に変わった。
「あの、なんでこの料理教室、あの人が全部食材用意して持ってきてるんですか? 普通こういうのって何人かで用意したりしません?」
「あー、それはね。この料理教室の主催とか全部先輩がしてるからなんだよぉ。食材費とか全部先輩持ちなの。料理教室も予約制だけどタダだからねー」
「へえ、熱心なところありますね」
食材を入れ終えて戻ってくる柿谷羽月に、俺は心の中で称賛の拍手を送った。
完全持ち出しでの料理教室なんて、このそこそこ有名人がよくやる物だと、素直に感心した。
身も蓋もない話をしてしまえば、柿谷羽月なら大きな男の子相手に5桁円の料理教室を開催しても、血眼になった男達が集まるはずだ。
「ところで、部長はあの人と知り合いだったんですか?」
「うん。私が1年生の時にも料理教室があったの」
「なるほど」
俺は頷きながら、戻ってくる柿谷羽月と距離をとるように部屋の後方へ向かった。
別に好きでも嫌いでもないのだが、芸能人がこの空間にいるというだけで、緊張し、あまり変な姿を見せたくないと気取ってしまって距離を取ってしまう。
まあ、さっき思いっきり泣くところ見られてたはずなのだが。
なんとなく静かになった空間は居心地が悪く、俺と明久里と片岡さんは無言で子供達が入ってくるであろう入口を窓から見下ろしていた。
するとしばらくして、それらしき子供と保護者の姿がチラホラと現れ、この建物の中に入ってきた。
「部長、生徒さん来ましたよ」
「え? もう? あわわ。急がなきゃ」
俺が伝えると、部長は慌てた様子で自分の鞄からなにやら名簿らしき紙を取りだし、教室の外へ出て行った。
教室の外で階段を上がってきた保護者と子供に確認をとっている部長。
なぜ主催者の柿谷羽月ではなく部長が名簿を持っているのか、事前に部長に渡していたのか。それなら随分と部長は信頼されているようだ。
確認を済まし、元気よく部屋へ入ってくる子供達。
さすがに、挨拶のひとつも返せないのは年上として恥ずかしいので、しっかりと挨拶を返す。
それから続々と子供たちはやって来ては、部長の確認を終えて部屋にやってきた。
ちなみに、ほとんどは女の子で、男の子は極わずかだ。
そして保護者達は教室の外で子供を見守りながら、何人かは柿谷羽月にカメラを向けていた。
始まるまでの間、柿谷羽月は有名人らしく子供達から質問攻めにあっていた。
その中には色々と危ない質問もあったが、柿谷羽月はそれらを上手く角が立たないように躱していた。
なにか爆弾発言があれば、こっそり週刊誌にでもリークして小遣い稼ぎでもしようとも思ったが、残念ながらそんなネタは上がらない。
柿谷羽月が子供達に人気の中、俺と明久里と片岡さんは部屋の後ろで地蔵のように固まり、それぞれ時々顔を見合せては、特に話すことも無く時をすごした。
「なあ片岡さん」
俺はそんな沈黙が耐えられず、何故か明久里ではなく片岡さんに声をかけた。
「なんですか?」
片岡さんは一見気だるそうに首を折りながら語尾を伸ばして応えたが、これは平常運転だ。
「柿谷羽月の動画とか見たことある?」
「ありますよ。最近はみてませんが」
「あ、やっぱり? 俺も同じ。もうしばらく見てないけどちょっと見てた」
あくまでも本人に聞こえないよう、小声で話す。
片岡さんが動画を見なくなった理由も、きっと俺と同じようなものだろう。
彼女のレシピはぶっちゃけ、一言で言ってしまえば「それどっかで見たことあるよ」そのものなのだ。
特に大胆なアレンジをする訳でもないから、外れのレシピがある訳でもないが、記憶に残るような料理も特にない。
編集も自分でやってるのかと思うほどシンプルで、動画として優れているのは、彼女のルックスと話術だけなのだ。
「明久里は知ってた?」
片岡さんと話すことが無くなったので、今度は明久里に声をかける。
明久里は呆然と部屋全体を眺めている様子だったが、俺の声に気がつくと瞬きしながらこちらを見た。
「なにがです?」
「いや、柿谷羽月のことだけど」
「知りませんでしたよ。私そもそも帰国子女ですし。料理動画は中華と揚げ物しか見ないので」
「男子中学生みたいな感性してやがる⋯⋯」
確かに動画で見る中華と揚げ物ほど食欲や好奇心を擽るものは無い。
中華鍋で食材が炒められていく姿や音も、大量の油が泡となり、衣に色がついていく様子も、この上ない極上の娯楽動画だ。
あんなもの嫌いな人間いるはずないが、おそろくいちばんあのジャンルが好きなのは、10代前半から30手前までの男だろう。ソースは俺の偏見。
そんな話をしていると、部長が部屋に戻ってくる。
恐らくは、全員が揃ったのだろう。
部長が戻ってくるのを確認し、柿谷羽月は子供達を引き剥がし、教室の前へ行って手を叩いた。
彼女の柏手ひとつで、空気が一変するように、子供達や保護者の視線が一斉に彼女に向いた。
「じゃあ、全員揃ったところで今日の料理教室を始めます」