「どういうことか聞きたいけど⋯⋯後にするか」
どう考えても明るい話でもないし、目を離しているうちに事故でも起きたら大問題だ。
明久里の言おうとしていることは何となく察せる。というか、それくらいしか考えにくい。
だがこれが正しいとすると、柿谷羽月は視聴者やここにいる子達を騙していることになりかねない。
とんだペテン師だなと、子供達をにこやかに見守る柿谷羽月を一瞥し、持ち場に戻る。
順調に子供たちは調理を勧め、パン生地は冷蔵庫で熟成時間に入り、シチューの方はもう鍋で野菜や肉に火が入っている。
このままだと先にシチューが完成し、パンをその後完成させることになるだろう。
今回この料理教室に来た子供達はみんな料理に慣れていたり大人しい子ばかりだったのか、特に問題なくここまで進んでいる。
怪我をした子もいないし、なにかトラブルがあったわけでもない。
着々と料理は進み、良い香りが教室の中に立ち込めている。
このまま終わって欲しいと思っていると、俺のスマホが鳴り響いた。
もしやと思い、明久里を確認すると、明久里は指を抑える子の後ろでおろおろとたじろいでいた。
そして念の為スマホを確認すると、やはり心拍が上がっていた。
指を抑える女の子の前にはまな板とその上にブロッコリー、そして明らかに突然手放して転がったであろう、まな板と台の真ん中で斜めになった包丁があった。
十中八九指を切ったに違いない。しかし声が聞こえなかった。
明久里の元へ向かうと、女の子は無言で指を抑えながら唇を震わせていた。
明久里はその後ろで、血の気が引いたように口を開けて呆然としている。
まさか血が苦手なのだろうか。それにしても他人の血でそこまで動揺するとは考えにくいが。
だが今女の子の後ろで心拍が上がって放心しているのだから、多分そうなのだろう。
「大丈夫? 指切ったの?」
女の子に声をかけると、少女は頷きながら切った左手の人差し指を見せてくれた。
傷はそこまで深くはないだろうが、若干爪の下辺りから血が溢れ出している。
「大丈夫だよ。ほら、とりあえず水で綺麗に流して」
少女の肩に触れ、水道へ誘導するように押す。
普段ならたとえ未就学児でも人に話しかけるなんてできないのに、こういう緊急事態だとどうやらできてしまうらしい。
──もっと緊急事態が起きてくれたらモテ期が来てたかもしれないのに。
少女が水道の水を指にかけるのを見ながら、そんな不謹慎なことを考えた。
まだ俺のスマホは鳴っている。
だが振動の種類からして、急を要するものではない。
「明久里」
ずっと佇んでいる明久里に声をかけるが、反応がない。
「明久里!」
「は、はいなんでしょう」
少し声を大きくすると、明久里は慌ててこちらを向いた。
その目には恐れが宿っているのか、いつもの輝きや潤いは少々影を潜めている。
「部長に行って絆創膏貰ってきてくれ」
「わ、わかりました」
しおらしく頷くと、明久里は部長の元へ向かった。
血を洗い流した少女はタオルで手を拭きながら、絆創膏が来るのを待っていた。
別に少女は泣いたりしたわけではない。
痛みで指を抑えてはいたが、明久里を見るまで隣の台の俺は気が付かなかったし、大事ではないと思ったのか、他の子達も静かに声をかけながら見守っているだけだった。
それなのに明久里はいったい何に反応したのか。
振動が落ち着いたスマホをズボンの布越しに撫でながら、その理由を考えようとしたが、すぐに明久里がやってきたので俺は絆創膏を受け取って少女に付けてあげた。
「あ、ありがとうございます」
少女が頭を下げて礼を言う。
「帰っても痛かったり血が出てたりしたらお母さんに言うんだよ」
「うん」
もう血は止まっていたし心配ないとは思うが、一応伝えておくと、少女は静かに頷いて台に戻った。
「もう大丈夫だから、安心しろ」
「は、はあ」
明久里の肩を叩いてからしまったと思った。
明久里は俺のスマホに搭載された心拍を監視するアプリのことを知らないのだ。
それなのに明久里が動揺していた事を伝えるような行動に出れば、余計な疑惑をうみかねない。
実際、明久里はなぜ自分が心配されているのか分からないのか、大きな両目をぱちくりとさせながら、曖昧な様子で首を傾げた。
ふと窓の方を見ていると、最初は少し居た保護者はどこかに行ってしまっていた。
代わりに三脚にカメラを立て、その傍でじっとこちらを見張っている女性がひとりだけいる。
ブラウンのショートボブの女性は、白いマスクを着け、黒いタイトスーツを着ていて、腕を組みながらじっとこちらを見ていた。
公民館の人にも保護者にも見えないが、恐らくは柿谷羽月の関係者か誰かだろう。
まさか今日の料理教室を動画にするつもりなのだろうか。
だとすると全力で拒ませてもらいたい。
だがそれを確認できるような度胸もないので、放っておいて子供達を見守った。
鍋でコトコトと具材が煮られ、ホワイトソースとスパイスの香りが漂う。
少しお腹が減ってきたが、俺達もおすそ分けしてもらえるのだろうか。
しばらくしてシチューが完成すると、子供達は手持ち無沙汰になったのか、それぞれ話をしたり少々手足を動かしたりして遊ぶ者が現れた。
鍋の近くで騒いだりしなければ問題は無いので、黙って見守っていると、なぜか柿谷羽月が俺の前にやってきた。
「ねえ、業平君」
「な、なんでしょう」
ニコニコと機嫌が良さそうに笑う柿谷羽月には、やはり尻込みしてしまう。
もう何度か話したのに、芸能人オーラのせいだろうか。それとも大人の女性だからか。
「業平君達の部活って人助け⋯⋯みたいな事してるんだよね? 具体的にはどんなことしたるのかな?」
柿谷羽月は、壁にもたれかかっていた俺に寄り添うように隣へ移動した。
正面から見据えるよりは、少々やりやすい。
「なんで俺に聞くんですか⋯⋯部長はあいつですよ」
「あーうん⋯⋯近かったからね。それにさっきも話したし」
呆然と窓辺で立ち尽くしている明久里を目で示すと、柿谷羽月はその姿を見て苦笑いしながら言った。
正直話していると緊張するからやめて欲しいのだが、柿谷羽月が明久里に話しかけられない要因は分かる。
明久里から人を遠ざけるようなオーラが出過ぎなのだ。
「まあ、人助けっていうかお手伝いっていうか、今までは部室の掃除したり友達が欲しいって言う子の友達作りを手伝ったり、あとは今日みたいに部活そのものを手伝ったりですかね」
言って気づいたが、あれは友達作りを手伝ったと入れるのだろうか。
志乃さんに対しては、明久里がほぼ突き放しただけである。あれで西澤君に声をかけられたのは、ほぼ彼女自身の気質のおかげだろう。
だがそれも起点となったのは、明久里が志乃さんにつけた条件のお陰なのだろう。
手伝ったと言えるほどかは分からないが、明久里はほんの少しでも志乃さんの背中を精神的に押していた。
そう考えると、今窓辺でステルスモードになってるあの爆弾少女は、部長として本当によくやってるのかもしれない。
「そうなんだぁ。ねえねえ、それって卒業生でも助けてもらえるのかな?」
柿谷羽月は頷きながら声を弾ませて言った。
「さあ、一応は生徒のための部活ですけど⋯⋯明久里なら頼んだら引き受けそうです」
あいつは基本的には冷たい氷山みたいな人間だが、なんだかんだ困っている人には今のところ手を差し伸べているし、頼まれたこと以上のことをしようと心がけている。
動悸は恐らくくだらないものだが、やらない善よりやる偽善という言葉があるように、実際役に立ってるのだから素晴らしいに限る。
「業平君はどうなの? 卒業生が助けてーって訪ねてきたらどうする?」
振り向くと、柿谷羽月は目を細めながら薄く含みの傘ある笑みを浮かべていた。
まるで俺の内心を覗こうとするような、妙な気配を感じる目つきをしている。
「さあ、まあ俺は断るの苦手なんで⋯⋯多分すると思います」
現に、断るのが苦手だから明久里に付き合わされているわけだし、多分見ず知らずの人でも自分に出来ることなら引き受けてしまうだろう。
あれ、もしかして俺って奉仕精神の塊なのだろうか。博愛主義に目覚めそうだ。
「じゃあ、もしもの時は他の見に来ちゃおっかな。動画撮影とか手伝ってもらったり、出演してもらったり」
「後者は絶対だめです」
「あらら、どうして?」
「⋯⋯恥ずかしいからですよ」
こういう明るさの塊みたいなアクティブ個人事業主は、俺のようにただ流されて静かに生きる人間の気持ちは分からないのだろう。
そういえば、明るさの塊ではないが、同じくアクティブ個人事業のような明久里も、俺の気持ちをわかってくれないことが多い。
もしかすると明久里の場合、余計たちが悪く分かっていても慮っていないだけかもしれないが。
「そっかぁ。でも気が向いたらぜひ出演してねー。業平君きっと人気出るよ」
「はあ、それはどうも」
「うん。じゃあまたね」
話したいこと話し終え、満足したのか柿谷羽月は手を挙げてまたねとジェスチャーをして、そのまま部長の元へ向かった。
人気が出ると言ったが、それは陰キャ系キャラとしてだろうか。いやキャラではない素か。
しかしだとしても、チャンネル登録者100万人越えの人の動画なんて出たくない。出るくらいなら怪しい大人向けサイトに自分の裸踊りをアップするほうがマシだ。もちろんモザイクつきで。
子供たちが十分寝かせた生地を冷蔵庫から取り出すと、最低限と呼べる程度には発酵が進んでいて、生地はみな小さいドームのように膨らみ、その表面は開いたビニール傘のような艶やかさがあった。
ホットケーキミックスをそれなりの量入れたのはやはり正解だったか。ホットケーキミックスに含まれる膨張剤が立派に役目を果たしてくれた。
ありがとう。誰がいつ置いたかも分からないホットケーキミックスよ。
シチューの方はもう完成しているので、後はシチューがかりも一緒にパンを小さい1口大にちぎって形を丸く整え、フライパンに敷き詰めていく。
フライパンに敷き詰めたらアルミホイルを上からかぶせ、ゆっくりと加熱していく。
ある程度まで膨らみ、両面に焼き色がつけば完成だ。
部屋中にシチューとパンの甘く芳醇な香りが立ち込める。
子供たちは食べるのを楽しみにし、頬を緩ませている。
パンも焼き上がり、温めていたシチューをそれぞれとりわけていく様子を見ながら、当然俺達の分もあるのかと思っていたら、どうやらそれはなかったようだ。
虚しく俺の腹が音を鳴らすのを噛み締めながら、柿谷羽月が大恥をかくのを阻止できたことに安堵して気を紛らわした。