Ange Vierge Désespoir infini   作:黒井押切町

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敗走

 講堂で起こった暴動の気運はまだ秀たちのいる教室には伝わっていなかったが、暴動の情報は入っていた。また、その教室のすぐ近くにある手洗い場で起こった、フィアの仕掛けた時限爆弾による爆発と、T.w.dの学園内部への侵入、そして先のアイリスの入れた放送によって、教室の生徒たちは極度の混乱状態に陥った。

 騒ぎ立てる彼らを、ユニが教卓を蹴って黙らせる。

 

「騒ぐな! 落ち着いて、冷静に物事を考えろ!」

 

 ユニの一喝で、生徒たちが黙る。どうしていいか分からず困惑していた秀も、落ち着きを取り戻した。

 

「まず、抵抗を続ける気でいるのは前に出ろ。そうでないものはそこに座れ」

 

 ユニの指示に従って前に出たのは、秀、レミエル、カレン、セニア、あずさ、由唯、クラリッサ、ジークフリート、アインスの九人だ。T.w.dに抵抗する気がない者の方が多い。由唯はメルトを脇に抱えている。

 

「司令室にどれだけの敵がいるのか分からないのに、この人数で司令室を奪還するのは無謀だ。よって、私はこの学校を脱出し、青以外の世界に亡命しようと思う。それでいいか?」

 

「それは、あいつらから逃げるということか?」

 

 他の八人が賛同する中、秀だけが噛みついた。周りからの視線を感じるが秀は気にしない。ユニは、そう言われることを想定していたかのように、落ち着いた口調で告げた。

 

「ああ、確かに逃げる。だが、戦いそのものからは逃げない。闘争のための逃走だ。それを分からない者に勝利を手にすることはできない。犬死にして全てを無に帰すよりは、逃げて彼らを倒す力を得る方が余程マシだ。上山、貴様にこれが分かるか」

 

 ユニの言うことはもっともだった。反論の余地は無い。それに、我が儘で死んだらそれこそ犬死にだ。一人で立ち向かっていって、勝てるわけが無い。秀は、非常に屈辱的な思いを抱いたが、ユニに従うことにした。

 

「分かった。あいつらから目を背けるのでなければそれでいい」

 

「分かれば良い。筋道としては、まずは教室の窓からの脱出を試みる」

 

 ユニは窓を開け、そこから飛び降りようとした。だが、まるで見えないところにゴムの壁があるかのように、弾き飛ばされてしまった。ユニの体をアインスが無表情に受け止める。

 

「すまんな、アインス」

 

 ユニは礼を言いながら、アインスから離れ、咳払いをして告げた。

 

「どうやら窓から外に出ることは不可能なようだ。この結界の強度は、連中が侵入していることを考えると、あの時張られた結界と同じくらいの強度だろう」

 

 他の者が破ろうと試みるが、誰もできなかった。仕方が無いので、一同は廊下に出た。今度は昇降口から出ようということになった。

 今の所、この二階の廊下に気配は無い。爆発による被害も思いの外少なく、せいぜい手洗い場がバラバラになったくらいだ。

 階下には敵が多いと判断したユニは、昇降口に一番近い階段まで行って、そこから昇降口まで突っ切るというのを提案した。誰も、反論は無い。それを確認したユニは、先頭に立って静かに歩き出した。

 少し歩いたその時、三階の天井が二箇所崩落した。その距離の差は約二十メートル。その内の一箇所は一番後ろにいた由唯の真後ろだった。そしてもう一箇所は、昇降口に続く階段の一つ前にある階段の手前だった。そして、ふたつの穴から、人が降りてくる。ひとつの穴あたり五人程度。その全員がT.w.dの構成員だというのは明白だった。

 由唯が声にならない叫びをあげる。由唯は、彼女のすぐ近くに現れた、T.w.dの一人、巻かれた角を持った一人の少女の手に掛かろうとしていた。

 

「由唯! させるもんか!」

 

 あずさが真っ先に動き出した。由唯の元へ駆けていく。

 

「時間停止!」

 

 だが、何も起こらない。あずさが何度もエクシードを使おうと試みるが、発動する気配はなかった。

 

「そんな……。なんで……」

 

 あずさがその場で膝をついてしまう。自信が完全に砕かれて、絶望したに違いなかった。

 秀はジークフリートに目配せすると、全速力で少女に走り出す。後ろ半分で、異能が使えなくても十分に戦えるのが自分たち二人しかおらず、また前半分の中にはユニとアインス、クラリッサ、カレンがいることから、任せても問題無いだろうという判断だ。

 

「そこをどけ、椎名! やるぞ、ジークフリート!」

 

「男同士の共闘ですね。いいでしょう!」

 

 秀に続いて、ジークフリートも由唯と対峙する少女に向かって走り出した。この場で、エクシードを使えない状態で満足に戦えるのは、それを持たないαドライバーである彼らだけだ。

 少女は、秀たちがまだ彼女と離れている段階で、メルトを抱きかかえている由唯の胸倉を掴み、粗雑に壁に叩きつけた。由唯とシンクロしている秀にその痛みが走る。恐らくは、由唯の背骨が砕けた。それほどの痛みだ。由唯には痛みは無いが、しかし体の芯に衝撃は伝わる。そのせいか、メルトを取り落としてしまった。

 由唯は苦しみに喘ぎながらも、メルトに手を伸ばす。しかし、非情にも少女はメルトの小さな体を踏み砕いた。人間のような外観のボディの皮膜を破って、内部の機構が飛び出す。更には、頭までも潰した。砕けた部品の中には、粉々になった、人工知能と思しきものがあった。仮にそれがそうでないとしても、破壊されたと見て間違いないだろう。

 秀にとって、それは初めての仲間の死だった。交わした言葉は少なかったが、それでも心が痛んだ。だが、自分以上にレボ部、特に由唯の苦しみは秀の比でないだろう。

 実際、由唯は目を飛び出そうなくらいに見開き、脂汗を垂らし、真っ青になった唇を震わせていた。

 

「あんた……よくも……!」

 

 激昂した由唯は、目に涙を溜めながら、少女に殴りかかった。まるで背骨の骨折など無いかのように。だが、少女は少し眉をひそめて、

 

「『あんた』じゃない。私の名前はモルガナ」

 

 由唯の拳を掴んで引き寄せた。そして、冷たい声で告げた。

 

「あなたも、イレーネスやアイリスの邪魔をするなら、容赦はしないから」

 

 そう言って、モルガナは由唯の拳を握りつぶした。由唯が膝をつき、思わず嘔吐していた。秀は、由唯とシンクロしているがために伝わってくる痛みに耐え、走りながら彼女の手を一瞥すると、指はあらぬ方向へ折り曲がり、ある部分では骨が皮膚を突き破って外に出ていた。

 由唯が苦しんでいても、モルガナは動じない。モルガナが拳を振り上げ、それを下ろそうとした瞬間、ジークフリートがモルガナに届いた。

 

「これ以上はさせません。仲間を傷つけるものには、女性であろうと手を抜きません」

 

 ジークフリートはモルガナの空いた脇腹に拳を入れた。モルガナがよろめく。その表情からは驚きが伺える。

 

「あなたは人間じゃないね。竜族?」

 

「その通りです。私は誇り高き竜族。誰よりも仲間を愛する存在です」

 

 ジークフリートは追い打ちをかけるように先ほど殴った脇腹に蹴りを入れた。モルガナは血を吐き、壁にもたれかかる。

 止めを刺そうとするジークフリートの周りに、構成員が群がる。秀は、全員がジークフリートに注意を向けた今がチャンスだと思い、ライフル銃で一人を後頭部を撃ち抜いて射殺した。構成員たちの注意が秀に移るが、秀に向いた瞬間を狙ってまた一人撃ち殺した。

 

「二人か……やれない数じゃないな」

 

 T.w.dの構成員たちが秀に銃を向ける。秀は由唯を背後にとらないように立ち回りながら、不規則な動きを繰り返して構成員たちに近づく。そして、一人を数発の銃弾で仕留め、もう一人を背後に回って、首を締め上げて無力化した。

 

「残ってるのはモルガナとやら、あんただけだな」

 

 秀はモルガナに銃を向け、睨みつけた。対しモルガナは、怯むことなくむしろ睨み返してきた。しかし目には涙が溜まっている。その涙の意味は、恐怖か、悔しさか、申し訳なさか。秀には判別できなかった。

 

「あんたには着いてきてもらおう。逃げる俺らの捕虜になるのはおかしな話だが、聞きたいこともあるしな。仇を討つのはその後だ」

 

 秀はモルガナに銃を突きつけながら歩んでいく。今すぐ引き金を引きたいところだが、ここは我慢のしどころだ。ジークフリートがモルガナの抵抗力を奪うために腕を締め上げようとしたその時、秀の左肩から鳩尾にかけて、激しい痛みが襲った。

 由唯が受けた攻撃とは比べ物にならないほどのものだ。まるで本当に大量の失血をしているかのように、体から力が抜けていく。また、心臓の鼓動が弱まっていくのも感じる。更には吐血までした。秀とシンクロしている誰かが負った傷を、秀の体が秀自信が負った傷と錯覚している。

 とうとう立っていられなくなり、秀はその場に倒れ伏した。朦朧とした意識の中で、秀はレミエルたちのいる階段の方に目を向ける。意識がなくなる寸前に見た光景は、血だまりの中に仰向けで倒れているレミエルを見下している、カミュの姿だった。

 

        ***

 

 レミエルは、目の前に現れたT.w.dの一人の顔が信じられなかった。その一人こそはサングリア・カミュ。春休みに秀と共に青蘭島を回った、秀が「母親のような存在」と語ったあのカミュだ。クラリッサから彼女がT.w.dにいるとは聞いていたが、本当にそうだとはにわかに信じられなかった。しかし、今目の前に佇んでいるのは、間違いなくカミュだ。

 カミュがレミエルに近づいてくる。まるでレミエル気づいていないかのようだ。レミエルは応戦せねばと理解はしていたが、体が硬直してしまって動かなかった。敵にとっては格好の標的だ。カミュが抜刀し、レミエルの左袈裟から鳩尾にかけてを斬りつけた。痛みは無いが、流れる血と共に意思も力も無くなっていく。奇妙な感覚だった。その感覚を抱いたまま、その場に仰向けで倒れた。

 露ほどの意識の中で、不意に、裏切られた、という思いが芽生えた。その思いがレミエルの心の中で激流のように渦巻く。やがてそれは、憎悪という感情に帰結した。

 

(許すもんか……絶対に、殺してやる!)

 

 その時、レミエルはジュリアと戦った時にも感じたあの意思を感じた。

 

——力を欲するならば、祈れ。

 

 (欲しい。力が欲しい。憎き敵をいとも容易く蹂躙するくらいの、強大な力が私は欲しい!)

 

 瞬間、レミエルは、今まで感じたことのないくらいの強大な力の奔流と、不思議な快感に襲われた。立ち上がり、ふと周りを見ると、敵も、味方——軍人であるユニとアインス、アンドロイドであるセニアとカレンも、誰もが恐れおののいて、レミエルを見ていた。どうやら衝撃波が発生しているらしく、窓ガラスは全て割れ、壁や床にはヒビが入っている。

 自分の服に目を落とすと、いつもの薄紫のものでなく、何故か闇夜のごとき漆黒だった。金色の翼も、色合いがどこかおかしく見える。

 

「なんだかよく分からないけど、これなら結界の中でも異能を使えるみたい。あはっ」

 

 カミュを倒そうと、一歩踏み出した時だった。以前、秀と指切りを交わした小指が、激しく疼いた。

 

(秀さん……?)

 

 レミエルは、はっとして後ろに振り返った。するとそこには、床に倒れ、苦しみ悶えている秀の姿があった。

 

「秀さん!」

 

 レミエルは秀の元へ全力で駆け出した。その道程で気付いたが、衝撃波も、湧いてくる力も無くなっていて、服もいつもの薄紫のものに戻っていた。

 秀の元に辿り着くと、レミエルは彼を抱き起こした。それに気付いた秀は、喘ぎながら口を開いた。

 

「レミエルか。あっちの方はどうなった……?」

 

 秀は何が起こったのか分かっていないようだ。ユニたちの方を見ると、敵は誰もいなかった。T.w.dの部隊は既に撤退していた。

 

「あちらは全員撤退したようです。こっちは……」

 

 周りを見回すと、ジークフリートの後ろから、一人、顔面を蒼白にしてレミエルを見つめる少女がいた。

 

「無理……。あんなのに、勝てるわけない」

 

 歯を鳴らしながら呟くと、彼女はジークフリートを押しのけて一目散に逃げて行った。レミエルが呆然とその後ろ姿を見つめていると、ユニたちが集まってきた。

 

「とりあえず、この場は切り抜けたようだな。階下へ急ごう」

 

 ユニはそう言って、足早に階段の方に向かった。レミエルたちもそれを追う。

 それから、数歩進んだときだった。

 

「レミエルたちだな。汝ら、無事か」

 

 ガブリエラと、シャティー、ユノ、ナタク、リーリヤ、そして青髪の統合軍の少女が、穴から飛び降りてきた。

 

「はぁ、もうなんでこんなことになってんのさ。異能は使えないし、緑の世界に帰ったら何を言われるか」

 

 気怠そうな雰囲気を醸し出しながら、愚痴を漏らす青髪の少女を、秀は不思議に思って見つめていた。見覚えがあるようで思い出せない。

 秀の視線に気付いた彼女は、ため息をついて頭を掻きながら告げた。

 

「ああ、私、ルルーナ・ゼンティア。今じゃもう意味無いけど、一応君と同じ部隊なんだよ、上山秀君」

 

 秀はなるほどと思った。同じ部隊ならば、見覚えがあるのにも、秀の名前を知っていることも納得できる。

 

「あれ、メルトは?」

 

 シャティーがきょろきょろしながらさりげなく尋ねた。事実を知っている皆は、揃って口を噤んだ。

 

「メルトは、もういないよ」

 

 消え入りそうな声で、由唯に肩を貸しているあずさが呟く。シャティーとユノが息を詰まらせた。

 

「あの子は、何も知らないまま、何もわからないまま、死んでいったんだ」

 

 傍の由唯が涙に震える横で、あずさはポケットから、砕かれた電子部品を取り出し、シャティーとユノに見せた。

 

「これ、メルト」

 

 二人が絶句する。シャティーは怒りに震え、ユノは膝から崩れ落ち、慟哭した。

 漂う居た堪れない空気を払うように、ユニが咳払いをして話を切り出す。

 

「さて、ひとつ聞くのを忘れていた。教室でも言ったが、これから青以外の世界に亡命することになる。どこへ逃げる? 私はグリューネシルト(緑の世界)に行くが、皆はどうだ? ちなみに、カレンとセニアには悪いが、今SWE(白の世界)はT.w.dの根城も当然らしい。SWEへの逃亡は無理だ」

 

 皆が口々に亡命先の希望を言う。秀とレミエル、ガブリエラ、カレン、セニア、レボリューション部はテラ・ルビリ・アウロラ(赤の世界)に、クラリッサ、ジークフリートはダークネス・エンブレイス(黒の世界)に、ナタク、リーリヤ、ルルーナはグリューネシルトに。ただ、アインスの取った選択肢だけは、秀にとって意外だった。

 

「私は、テラ・ルビリ・アウロラに行く。恩を返したい」

 

「しかし、アインス。大丈夫か、私無しで」

 

 ユニがためらいがちに尋ねる。アインスの選択を尊重したいが、やはり心配なのだろう。

 

「問題ない。ユニはグリューネシルトで、枕を高くして寝ているといい」

 

 アインスは、少し誇った顔で親指を立てて答えた。ユニは観念したようにため息をつく。

 

「分かった。たとえ、次T.w.dがテラ・ルビリ・アウロラを攻撃対象にしたとしても、決して死ぬんじゃないぞ」

 

 アインスは強く頷いた。そこで、会話の流れに一区切りがついた。ユニが皆を見回し、発破をかける。

 

「さあ、今からが正念場だ! ここを切り抜ければ、未来がある!」

 

 それに、その場の人間は掛け声で応える。秀は、全員がよりまとまったと実感できた。

 クラリッサとジークフリートが瓦礫を退けて、いよいよ階下へ降りる。

 一階には、予測していたよりも敵の数は少なかった。先頭のクラリッサとジークフリートだけで戦力は事足りて、簡単に突破できた。昇降口の部分だけ、校舎全体を覆っていた結界が穴を開けていたようで、難なく校舎からは脱出できた。

 そして、新たな障害があることを知った。

 

(ハィロウ)の周りに敵が多すぎる。ここまでか」

 

 門の方を見上げると、曇天の空を背景に、SWE製と思われる飛行ユニットを背中に背負ったT.w.dの人員に、門の光が覆われていた。リーリヤが落胆したように呟くのにも無理はない。

 

「ユノ、この人数を瞬間移動させたこと、ある?」

 

 あずさの問い掛けに、ユノは首を振った。

 

「できるかもしれない……。けど、無理にやって、中途半端になって、瞬間移動したら敵のど真ん中ってなるかもしれないリスクを考えると、やめたほうがいいと思うよ。ごめんなさいっ」

 

 ユノは、深々と頭を下げて謝った。ユノの瞬間移動能力に可能性を感じていた者が多かったのか、全体的に重い、沈んだ空気が漂う。だが、その諦観を打ち払うように、レミエルが一歩前に出て告げた。

 

「私に考えがあります」

 

 それを聞いて、秀はピンと来た。

 

「あのカプセルみたいなのに俺たちを入れて運ぶわけだな」

 

「そうです。皆さん一人一人をカプセル状にした結界に入れて小さくして、門の近くまで運びます。これなら、実質的に私一人が敵陣を突っ切れば——」

 

「待て、一人ではキツいだろう。我も汝と共に道を拓こう。天使は小回りが利き、尚且つ空戦能力に長けている。適役だろう」

 

 ガブリエラは、レミエルの言葉を遮って告げた。結局、その鶴の一声で、レミエルとガブリエラの二人で敵陣を突破、緑、黒の世界の門までジークフリートたちを送ってから、赤の世界の門を抜ける、ということになった。

 レミエルは、握りこぶしほどの結界を作って、一人ずつ収納している間、少し沈んだ表情をしていた。レミエルとしては、彼女一人で事を成すつもりで、それをガブリエラとすることになったのを悔しく思っているのだろう。

 しかし、秀は何も言わなかった。余計な言葉でレミエルを傷つけては、全員の命に関わる。励ますことも考えたが、やめた。

 ふと、秀の脳裏に達也のことが浮かんだ。結局、連絡も取れないままここまで来てしまった。だが、もうその余裕は無い。

 そんなことを考えていると、レミエルとガブリエラを除く全員が結界に入り終えるまで、不思議なことにT.w.dが襲ってくることはなかった。まだ校舎にいる生徒たちを駆逐することを優先しているのだろうか。それとも、わざと見逃しているのか。どちらにせよ、秀たちにとって幸運なことには変わりない。

 準備が整うと、レミエルとガブリエラが、翼を羽ばたかせ、宙に浮き始めた。そして、一気に急加速して、まず緑の門に向かって突っ込んでいく。結界のおかげで、Gや揺れは感じないが、めまぐるしく動く風景のおかげで、秀は少し吐き気を覚えた。

 レミエルたちが敵と接触する前に、レミエルはその手に持つ杖に祈りをこめる。その杖を敵に向けると、ガブリエラが剣を杖に合わせた。

 

「やるぞ、レミエル」

 

「はい。ガブリエラ様」

 

 一瞬の溜めの後、杖と剣から同時に雷が放たれ、大きなうねりを以ってT.w.dの梯団に襲いかかる。が、最初の接触の一歩手前のところで、結界と思しき障壁に阻まれてしまった。

 

「青蘭学園の校舎を覆う結界を張るのに精神力使ってるっていうのに、こんなくだらない攻撃を弾くための結界を張らせないでもらえる?」

 

 不機嫌そうな声。金髪のサイドテールを風に靡かせながら、一人の少女が碧玉の瞳でレミエルたちを睨みつける。

 

「これ以上通させたらアイリスに顔向けできない。だから、ここは絶対に通さない! このアルバディーナの名に懸けて、全員ここで殺してやる!」

 

 金髪の少女——アルバディーナは、顔を真っ赤にして、怒号を発した。彼女の話振りから察するに、秀たちの他にも他の世界に逃げた者たちが何人かいるようだ。

 

「かまう必要はない。逃げるぞ、レミエル」

 

 ガブリエラはアルバディーナに背を向け、黒の門に向いて、翼を羽ばたかせようとした。だが、急に腹を強く殴打されたように、アルバディーナの側に飛ばされた。しかし、すぐ体勢を立て直し、アルバディーナに向き直った。

 

「汝、結界を変形させて攻撃に使ったのか。余程の使い手と見える」

 

「これでも、かつては最強の結界術師ともてはやされた魔女よ。そんなことできて当たり前だわ」

 

 アルバディーナは目を伏せて、悲しげに呟いた。しかし、彼女が視線を戻す時に、その赤褐色の眼がレミエルを捉えると、憎悪を剥き出しにした表情で、レミエルを睨みつけた。

 

「お前は、ジュリアの仇! こんな所で出くわすとはね。殺さでおくべきか!」

 

 地獄の悪鬼のような叫びをあげると、アルバディーナは姿を消した。レミエルが辺りを見回すが、アルバディーナの姿は捉えられない。

 すると、ガブリエラがレミエルの背後に、彼女を庇うように入り込んだ。その際にガブリエラが張った防護障壁に、何かしらが阻まれたようだ。秀にはその姿は見えないが。

 

「私の隠密魔法を見破るなんて。四大天使の名は伊達じゃないということかしら。いいわ、あなたから殺してあげる!」

 

 アルバディーナの声。しかし、阻まれて突如として現れたその姿は、乗用車ほどの大きさの、海外のカブトムシ——アトラスオオカブトムシと言ったか——であった。

 その姿が秀の目に映った瞬間、ガブリエラが、その後ろから見えない力でアルバディーナの方に無理矢理に押された。秀が予測するに、先のアルバディーナの攻撃とやっていることは同じことだろう。だが、そう頭が冷静に判断できていたのは、そこまでだった。

 

「ガブリエラ様!」

 

 レミエルが振り返ったその刹那、ガブリエラの体が、兜の角に貫かれた。レミエルが悲鳴をあげる。誰もが、ガブリエラが死んだと諦めたその時。ガブリエラが咆哮した。

 

「我はもうすぐ死ぬ。だが、我が残りの力をここで霧散させ無駄にする訳にはいかん!」

 

 ガブリエラが、首を回してレミエルに顔を向ける。

 

「レミエル、汝に我が全ての力を授ける。秀、レミエルを頼んだぞ!」

 

 ガブリエラの体が眩い光に包まれる。そして、そこから発した巨大な力の波が、秀たちとアルバディーナを吹き飛ばした。カプセル状の結界の中から見回せば、仲間たちが、それぞれの行くことを望む世界の門の方へ飛ばされていた。秀も、赤の世界の門の方向に飛ばされている。だが、レミエルは波に逆らって、ガブリエラの方に向かおうとしていた。それが、秀が門を通る前に見た、最後のレミエルの姿だった。

 

        ***

 

 レミエルは、力の波動の中、必死に翼を羽ばたかせ、ガブリエラに手を伸ばした。しかし、一向に前に進めない。

 

「失いたくない、失いたくない……。私は、ガブリエラ様を失うなんて嫌だ!」

 

 レミエルは涙を流しながら、嘆いた。だが、その声も虚しく、ガブリエラから遠ざかるばかりだ。

 

「私は、ずっとガブリエラ様に導かれてきたんだ! それは、この先の未来も、ずっとずっと続くものだって思ってたのに!」

 

 アルバディーナへの恨みよりも、ガブリエラを失う悲嘆が優っている。レミエルの心を悲しみが支配している。その悲しみが、前に進むことを拒否して、今こうして、体を前に進め、心を後ろに退けている。

 ガブリエラの肉体が完全に消滅した時、一際大きな波がレミエルを襲った。そして、それが全てレミエルの中に、四方八方から入り込んだ。

 

——先に逝くことを詫びよう。すまないが、これからは仲間に手を引いてもらえ。そして、いつか汝が皆の手を引けるように成長してくれることを願う。汝の進む道に光のあらんことを。さらばだ。

 

 力の波に込められていたガブリエラの意志を、レミエルの心が認識した瞬間。レミエルの体は、門を通った。そして、周りの景色が一瞬にして変わった。薄桃色の空に、橙色の雲が浮かんでいる。青蘭学園に通う前までずっと見てきた、テラ・ルビリ・アウロラの、レミエルにとっては疎ましい空。

 やがて、神殿や民家が見えたかと思うと、レミエルは石畳の道に背中を打ち付けた。青の世界とは全く違うその風景が、レミエルに帰ってきたこと、ガブリエラの死、そして己の無力さを自覚させた。

 レミエルは、天を仰いで、ただひたすらに泣き喚いた。

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