Ange Vierge Désespoir infini 作:黒井押切町
真実
テラ・ルビリ・アウロラを統治する、七女神が住まう大神殿。そこの謁見の間で、テラ・ルビリ・アウロラの全ての女神が集結して、論を交わしていた。議長はこの世界の主、アウロラであり、議題は、T.w.dへの対処についてである。女神たちの意見は、消極的なものであった。どうすれば戦闘を回避できるか。そのことしか話していない。
そこに、腕を組み、声を荒げる一人の女神がいた。
「この軟弱者どもが!」
彼女のひとつ結びの髪は炎のように赤く、腰には剣を携えている。
「グラディーサ! 七女神様の前でなんで言葉遣いを!」
一人の女神が、その赤髪の女神——グラディーサを叱り付ける。しかし、グラディーサは全く動じず、腕を組んだまま、堂々と言い放った。
「そんなことは知ったことか! 何人もの、青蘭学園の同胞たちが命を散らしているのだ。戦おうという気が起こらないのがおかしい! そうでしょう、七女神の方々」
「なんて無礼な!」
先の女神が再びグラディーサを叱るが、グラディーサは無視して、七女神たちの座る玉座を睨んでいる。叱った女神は、グラディーサの態度を見てカッとなって、グラディーサに手を上げようとするが、その時威厳に満ちた、艶やかな声が聞こえた。紫と白を基調とした、胸元や腹、太腿を露出させた妖艶な七女神の一人、アマノリリスの声だ。
「よい。グラディーサの言うことはもっともであろう。戦は好まぬが、致し方あるまい。そうであろう、暁天の?」
「ええ。それに、かの者らと和平交渉ができるとは到底思えない。例えできたとしても、地球での出来事を鑑みれば、世界水晶を要求してくるはず。そうなれば、交渉以前の問題よ」
アマノリリスの問いかけに、アウロラはその場の全員を見渡しながら言った。女神たちは黙り始める。そして、次に口を開いた時には、T.w.dが攻めてきたらどうするか、という論に変わっていた。
最終的に煮詰まった結果、徹底抗戦を試みるということになった。
***
会議が終わった後、誓いの女神であるユラはグラディーサの姿を探していた。後ろ姿を見つけると、その白髪を揺らしながら一直線に走って行った。
「グラディーサお姉様! さっきの会議の時、かっこよかったです!」
ユラにとってグラディーサは憧れの存在だ。ユラよりも少し身長が高く、強くて、剣術に長けた剣と勝負の女神。新米女神であるユラの目標なのだ。
「ユラか。そう言われると、少し照れくさいな。しかし、思ったことを言ったまでだぞ」
グラディーサは頰を掻きながら言った。だが、ユラはそれに被せるように言う。
「そうそう言えるようなことではないことを、言えるからすごいんです! 私もいつか、お姉様みたいに毅然とした、立派な女神になりたいです!」
ユラは目を輝かせて、グラディーサの手を取った。その視線は、真っ直ぐにグラディーサを憧憬の目で射抜いている。
グラディーサは、にっと笑うと空いている方の手でユラの頭を少し乱雑に撫でた。
「じゃあ、まずは私との模擬戦で1分は保つことだな。いつも軽くあしらわれていては、どれだけ経っても新米のままだぞ」
「はい!」
グラディーサの言葉に、ユラは無邪気に返事をする。ユラは女神とは言え、まだ仕事の合間に学校で勉学に励んでいるような段階だ。まだ行動の端々に幼さがある。
「じゃあ、私は仕事に戻る。修行、怠るんじゃないぞ」
グラディーサはそう言って、ユラに手を振って別れた。堂々としたその背中に、ユラは心の底から見惚れていた。いつか、あの背中を追い越せるようにと、強く拳を握りしめた。
***
ユラは、帰りの道中に、学友のエクスシアと出会い、そのまま二人でユラの神殿に戻った。
彼女は、殴打によって悪の心を善に変える、という力を持つハンマー、ヘカトンケイルをいつも携帯している。そのヘカトンケイルはかなりの重量があり、エクスシア以外に軽く振りまわせる者はそうそういない。また、その頭は、人の頭よりもひと回り大きいくらいの大きさがあり、また大きな棘も何本か付いていて、かなり物騒である。
今、ユラの神殿の廊下を歩いている。それは質素なもので、幅だけは人が十人くらい寝そべることができるくらいにはあり、天窓から採光はできているものの、冷たい大理石の白い壁に四方を囲まれた、殺風景な廊下だ。そこを歩きながら、エクスシアはユラに尋ねた。
「そういえば、T.w.dの皆さんなん ですけど、私の力があれば万事解決なのではないでしょうか?」
「あのねえ、エクス。戦場に赴く兵隊が、全員悪人なわけじゃないでしょ? そうじゃないにしても、T.w.dの連中全員を殴る気?」
ユラは、こめかみを押さえながら、呆れ気味に答えた。エクスシアは、盲点だったとばかりに舌を出して笑った。
「そう考えるとダメですね。いい考えだと思ったのですが」
エクスシアは少し落ち込んで、気晴らしのためか、ヘカトンケイルを一回スイングした。すると、金属同士がぶつかる音が響いた。エクスシアが、「へ?」と間抜けた声を出した。
「お前、周りをよく見ろ! 危うく殴られるところだっただろう!」
一人の男が、ナイフの刃の部分で、ヘカトンケイルの頭の付け根のあたりを受け止めながら、まだ子供っぽさを感じさせる声で叱った。その男は、青蘭学園の制服を着た、少し幼さの残る少年だった。ユラは、その姿に微かな見覚えがあった。
「あぁ、あなた、私の神殿に地球から逃げてきた方の一人ですね。名前は、確か」
「上山秀だ。で、まだ力を加えているこの天使はなんだ」
秀は脂汗を浮き出させながら、ユラの言葉を遮って、不満げに言った。どうやらエクスシアと力が拮抗してしまっていて、下がるにも下がれないようだ。
「エクス、下げてあげて」
ユラが促すと、エクスシアはすぐにヘカトンケイルを下げ、担ぎ直した。秀はバランスを崩すことなく、ほっと息を吐いた。
「ご無礼失礼しました。私はエクスシアと言います」
エクスシアは、秀に恭しく礼をした。秀の方は混乱しているようだった。エクスシアの態度の変化に戸惑っているのだろうか。
「まあいい。丁度いい機会だ。頼みたいことがあるのだが」
秀はため息を吐いて切り出した。ユラとエクスシアの二人には、内容は見当もつかない。
「あんたたち、レミエルって天使を知ってるか?」
ユラは、その名前に鈍器で殴られたような衝撃を覚えた。かつて、ユラやエクスシアと共に学び、ガブリエラの手に引かれながら、ユラたちと別れた、一番の親友の名だ。知らず知らずの内に、ユラは涙を流していた。
***
秀は二人を連れて、割り当てられた部屋に入れた。状況をゆっくり説明するためだ。
神殿もそうだったが、純白の大理石の壁に囲まれて、箪笥とベッドがある。ベッドは低反発で寝心地の良く、また椅子代わりにもなるものだ。ただ、床は、素材は壁と同じ大理石で、カーペット等も敷いてないので、床に腰を下ろすには適していない。
秀はこれまで自分とレミエルが経験してきたことの全てを話した。
「まだ、あんたたちとレミエルの関係を聞いていなかったな」
秀は話し終えたあとに、二人とレミエルとの関係を尋ねた。ユラが話し出そうとするが、声の前に涙が溢れていて、全く言葉にならない。彼女の様子に、エクスシアが見かねたのか、ユラの代わりに話し始めた。
「私とユラ、レミエルは同級生だったのですよ。他の同級生からいじめられてたレミエルにとって、特別仲良くしていたユラと私は、レミエルの親友でした。でも、私たちにはレミエルに対するいじめをどうにかすることが出来なくて、ある日、ガブリエラ様がレミエルを青蘭学園に入学させたんですよ」
エクスシアの話を聞き終えると、秀は水を得た魚のごとく、二人に飛びついた。
「あいつの親友か! なら話は早い! 今、あいつが大変なことになってる。俺じゃ、手がつけられない」
「確かに、ここに来た時のレミエルはかなり落ち込んでた。会う暇がなくて話を聞けなかったのだけど、きっとガブリエラ様の死が一番の原因でしょうね」
落ち着きを取り戻したらしいユラはそう言うと、いきり立って秀に向き直った。秀を見つめるその瞳は血走っていて、また目元は赤い。先の涙の跡が色濃く残っている。
「秀さん、私を連れて行ってください。親友として、彼女の力になりたいのです」
秀は、ユラの言葉の端々から、その熱意を感じ取った。彼はふっと笑うと、勢いよく立ち上がって、部屋の戸を開けた。
「まあ実を言うとすぐ隣の部屋なんだがな」
秀は苦笑しながら、レミエルの部屋の前に立った。S=W=Eから帰ってきた時のことを思い出す。あの時も、落ち込んでいるレミエルを元気付けるために彼女の部屋の前に立った。それは今も同じであるが、原因という点で、決定的に違う。あの時は、秀が原因だったから簡単に解決できた。だが、今は死人が原因だ。立ち直らせるのはかなり困難だろう。
(たとえ非常に困難なことだとしても、俺はあいつを救いたい)
秀は、レミエルの部屋の戸を開けた。秀はなんとなく予想はしていたが、やはり部屋は暗かった。そして、ベッドの上でうずくまって、俯いているレミエルを見つけた。
「レミエル!」
秀がレミエルの名を呼ぼうとした時、一際感極まった声で、ユラがその名を呼びながらレミエルに駆け寄った。レミエルが驚いたように顔を上げる。その目は窪み、頬もこけていて、髪もボサボサだ。
「やっと、再会できた」
ユラは、レミエルに抱きついてそう言った。レミエルは一瞬だけ嬉しそうに頬をほころばせたが、すぐに暗い顔に戻ってしまった。
「ユラ、ごめん。私は今、嬉しさに浸れないよ」
消え入りそうな涙声で、レミエルは告げた。ユラが理由を尋ねるも、レミエルは口ごもる。だが、やがて躊躇いがちに口を開いた。
「ガブリエラ様が死んだのに、私だけ生きてるなんて、そんなことがあっていいんだろうかって。あの時、死ぬのは本当は私だったのに」
涙を流しながら、レミエルは呟いた。ユラも、一瞬だけ泣きそうな顔を見せたが、歯を食いしばり、レミエルの頬を拳で殴った。その行動に、秀とエクスシアは言葉を失った。
「ガブリエラ様があなたを生かした理由を考えて! 生かされたあなたがその様子でどうするの!」
ユラは怒鳴るが、レミエルは呆然として殴られた頬に手を当てている。今度は、まるで何で殴られたのか分かっていないようなレミエルに対し、ユラは彼女の胸倉を掴み、空いている右の拳を振りかぶった。
「あなたがそんなんじゃ、あなたを庇って亡くなったガブリエラ様は、犬死にだ」
ユラがその言葉を告げた瞬間、レミエルの目に怒りが宿った。そして、胸倉を掴まれた状態のまま、ユラの右の拳のカウンターになるように、ユラの左の頬を右の拳で殴った。レミエルとユラの拳が拮抗する。
「いくらユラでも、その物言いは看過できない。ガブリエラ様の死を、犬死にだなんて言わせない」
秀は、レミエルが怒った姿を初めて見た気がした。ユラが友達だからこその怒りだろうか。
ユラは、頬に拳を受けながら、満足げにニヤリと笑った。
「その目だよ、レミエル。ガブリエラ様の死が犬死にじゃないってこと、ちゃんと証明してよね。私と、誓ってくれる?」
レミエルは、真摯な目で頷いた。一見して、それは確固たる意志が宿っているように見えた。
秀は、レミエルのひとまずの復活に、軽く安堵の息を吐いた。
***
「はーい、急がないように、ゆっくり進んでください」
T.w.dの組織員が、戦闘の跡が残る青蘭島の繁華街の道路に出来た、島民による長蛇の列に呼びかける。数十秒の間隔で、ひびの入った道路を列が前に進んでいく。この列は名簿作成のためで、その名簿は、食料の配給のために使われるとのことだ。
T.w.dは、略奪などはしなかった。まるで、戦闘中の悪鬼のような姿が嘘のように、島民たちに接した。最初は恐れていた島民たちも、次第に心を許すようになって、占領から一週間経った今はもうすっかり打ち解けている。
達也の警戒心も、初めこそはかなり強かったものの、今となってはすっかり無くなってしまった。それでも、拳銃を外套の内ポケットに入れる癖は抜けていないが。
達也の順番が近づいてくる。手続きを済ませて、列から抜ける者の顔を見ると、誰もが満足げな表情を浮かべている。島民たちも達也と同じように、警戒心を失ったのだろうか。
そのようなことを考えていると、達也の順番になった。そこで後ろの人とふたつに分けられ、達也が回されたところでは、赤と黒を基調としたT.w.dの制服の上に、臙脂の裏地の黒のマントを羽織った、銀髪の少女が手続きをしていた。
「この紙に書いてある通りにお名前と、住所と、電話番号を記入して、印鑑を押して下さいね」
商業的なのか、心からなのかよく分からない笑顔を見せて、少女は達也を促す。それに従い、冷たい紙に持ち前の万年筆で記入する。紙を受け取ると、少女は弾けるような笑顔で達也に手を差し出してきた。
「私はアイリス。T.w.d総統です。これからよろしくお願いしますね、仲嶺達也さん」
達也は、アイリスの手を握った。テロ組織を取り仕切っているとは思えない、温かく、柔らかい少女の手だった。
握手を終えると、達也はアイリスに背中を見送られながら、列を抜けて家への帰路についた。満足そうにしていたのは、彼女との握手が一番の理由だろう。もうひとつの方でも同じことをやっているに違いない。
「人心掌握のためだろうね、きっと」
はるか昔、チンギスハンとその子孫が築き上げたモンゴル帝国は、侵略した土地で略奪を行った。それで、民衆の反発の気運が高まり、ついには崩壊してしまった。アイリスがそれを知っているかは分からないが、略奪をしたら敵しか作らないということは分かっていたのだろう。裏心ありきとはいえ、本心から仲良くなりたいという風が、アイリスの笑顔からは感じられた。
(だからと言って、僕は秀の味方だ。T.w.dに心を許すわけにはいかない)
達也はそう決意すると、足を止めて空に浮かぶ
達也がさあ帰ろうと再び前を向いた時、視界の端、ビルの影からふと視線を感じた。そちらを見ると、白いマントが翻って、ビルの影に入った。
(あのマントは)
達也の足は衝動的に動いた。気付けばその白マントを走って追いかけていた。やがて、その背中を捉えた。白のマントを羽織り、ブーツを履いて将兵が被るような軍帽を被った頭の、金色の髪が揺れる女性の後ろ姿は、間違えようもなかった。
「カミュさん!」
達也は、強固な確信を以って、その名を呼んだ。逃げる女は急に立ち止まった。そのまま動かなかったが、やがておもむろに達也に向いた。やはり、その女はカミュであった。薄暗く、灰色のビルに挟まれた路地の中、カミュの金髪が際立って見える。
「どうして、追いかけたんです」
カミュは、達也を責めるように言った。怒りを込めて達也を睨んでいる。しかし、その憤怒の瞳からは涙が流れ始めてきて、達也は困惑した。その隙を突くように、カミュは嘆きをぶつける。
「どうして追いかけたんだ! あなたが追いかけなかったら、私はあなたを忘れることができたかもしれないのに!」
「あなたを放っておけないからですよ、カミュさん」
達也は冷静に言い放った。今度はカミュが困惑する。達也はカミュに歩み寄って、その手を取った。
「安心してください。僕はあなたがT.w.d——秀の敵だからといって、嫌いになるようなことはありません。昨日まで好きだった人を嫌いになるなんて、そんな器用なことは僕にはできません」
達也がそう言うと、カミュは悲しげに、そして恥ずかしげに目を逸らした。そして、ごく小さな声で告げた。
「そんなに優しいあなただから、忘れてしまいたかったのに」
「僕は、忘れてほしくありませんね」
達也はカミュに微笑んでみせた。カミュはしばらく顔を真っ赤にして口を紡いでいたが、やがて達也に向いた。顔は赤いままだ。
「多分、しばらくは青蘭島では戦闘がないでしょう。ですから、達也さん。ここが戦場でない間は、私を」
「分かってますよ、カミュさん」
達也とカミュの顔が、ゆっくりと近づいていく。そして、一瞬だけ、互いに唇を付け、放した。
「秀には見られたくないな、こんな私」
カミュは唇を手を当てて、微笑みながら呟いた。こうしていると、達也はカミュが秀の敵であることを忘れてしまいそうだった。しかし、そのことを意識するのは、今は煩わしい。
「カミュさん、今のあなたは、とっても可愛らしいですよ」
達也は囁くように告げた。すると、カミュは顔を茹で蛸のようにし、狼狽した様子で、
「き、急に何を言い出すんですか!」
カミュの軽く憤慨した様も、達也にとってはとても愛おしい。達也が微笑んでみせていると、カミュも諦めがついたようで、はあ、とため息をついた。
「もう」
カミュは短くそう言って、達也に抱きついた。達也は軽く困惑した。さっきの仕返しのつもりだろうか。
「達也さん、好き」
唐突に発せられたその言葉は、達也の体を突き抜けた。そして、達也は衝動的にカミュを抱き返していた。
「僕もですよ、カミュさん」
達也はカミュを強く抱きしめる。それに応えるように、カミュも体を強く押しつける。カミュの体の暖かな感触が衣服を介して伝わってくる。幸せだ、ずっとこうしていたい。達也の心にそのような思いが溢れてくる。
(秀、僕はいつも君の味方だ。だけど、カミュさんとこうすることを、許してくれ)
一条の涙が頬を伝う。その涙は、誰に気付かれることもなく、冷たいアスファルトの上に落ちた。
***
テラ・ルビリ・アウロラの空は薄桃色だ。理由はよくわかっていないが、世界水晶の影響によるものとの説もある。何にせよ、地球で育った秀にとっては、夕方でもないのに空が赤いというのは、非常に気持ちの悪いものであった。
周りの建物は石造で、道は石畳で舗装されている。地球では特定の場所、秀が行ったことのないような所にしか、テラ・ルビリ・アウロラの情景に似た場所はない。
民衆は大抵、柄の無い質素な服を着ている。着方としては、世界史の教科書で見た古代ギリシアの民衆のようなものだった。
「やっぱり浮いて見えるのかな」
秀は、心なしか、民衆の視線が自分に向けられていることを感じていた。秀はその視線に意識を向けているわけではないのだが、慣れない感覚のため、少しこそばゆい。
秀とレミエルは、ユラとエクスシアの提案でテラ・ルビリ・アウロラの街を二人で散策している。気晴らしになれば、という計らいのようだ。
「秀さん、どうですか。テラ・ルビリ・アウロラは」
不意に、レミエルが尋ねる。そう言われて、秀は街並みや、人々を観察し直した。街並みに感じた印象は変わらないが、人々が、皆穏やかな笑みを浮かべていることに気がついた。柔らかい雰囲気が漂っている。聞こえる声は、地球の都市並みの人口密度がありながら、静かな談笑のみだ。そこに、秀は違和感を覚えた。
「これだけ人がいれば、騒がしくなったり、どこかで喧嘩が起こっていてもおかしくないのに、静かなものだな」
「この世界では、七女神様たちの御力によって、人々の心に愛を満ち溢れさせているんですよ。だから、余程のことでもない限りこんなにも皆穏やかなんです」
レミエルの説明を聞いて、秀は考える。レミエルの説明通りなら、レミエルが親に虐待されることも、テラ・ルビリ・アウロラの学校で揶揄されることも無かったはずだ。彼女の少女時代のことは、秀は聞いた話でしか分からないが、レミエルが落ちこぼれということだけでは、「余程のこと」には到底及ばないだろう。
(そうせざるをえない、レミエルの知らない事情でもあったのか?)
秀が思考の結論を出すのを放棄したその時だった。レミエルの表情が、激しくゆがんだ。その表情は、怒りとも、悲しみとも、恐怖とも取れる。彼女の視線の先には、露店で買い物をしている一人の天使の女性がいた。レミエルと全く同じ、金色の髪と、碧の瞳を持っている。背丈もほぼ同じだ。違うのは、顔や、手などの皮膚に刻まれた、年齢を感じさせる小ジワと、白く輝くふたつの翼だった。
「お母さん」
レミエルは、震える声で呟いた。その声を聞いたのか、その女性がレミエルに向いた。女性は、買い物を中断してただただ目を丸くしてレミエルを見つめていて、そして目に涙を溜めて、小走りで駆け寄ってきた。
「レミエル? レミエルなんだろう!? よく無事で帰ってきたね」
女性がレミエルの手を取った。その瞬間、レミエルの表情が、憎悪に満ちた。先程までの様子が嘘のように。秀は、そのような感情を露わにするレミエルを見るのは、これが二度目だった。しかし、以前見たものとは比べ物にならない。その感情を向けられていない秀でさえ、背筋が凍るほどだった。
「今頃になって、母親みたいに振舞わないでよ!」
周囲の注目も意に介さず、レミエルは母親を突き飛ばした。買い物の荷物と共に、母親の体が石畳に叩きつけられる。レミエルは、その母親の胸ぐらを、否応なしに掴んだ。
「家にいた時、私に散々な仕打ちをしておいて、よくもぬけぬけと! 二度と私の前に姿を現さないで」
レミエルは胸ぐらから手を離すと、すぐ踵を返してユラの神殿の方へ走って行った。唖然としていた秀だったが、秀も慌ててレミエルの後を追った。一瞬、秀は後ろを振り向いた。レミエルの母親が、周りの人に支えられながら立ち上がっている姿が見えた。その姿に罪悪感を覚えながら、ユラの神殿まで走って行った。
***
秀はユラの神殿に戻ると、ユラに街での出来事を話した。話し終えると、ユラは秀の目の前で考え込んだ。なになら迷っていたようだが、やがて決心がついたようで、ユラは顔を上げ、口を開いた。
「あなたも知っておいた方がいいでしょう。レミエルの秘密を。あの子が知らない、真実を」
ユラの話はこうだ。
まず、レミエルの母親が先代の導きの大天使であり、その後継者として、先にガブリエラが、そしてその五、六年後にレミエルが生まれた。レミエルの出生の時、占い師が告げたのは、テラ・ルビリ・アウロラに災厄が訪れる時、ふたつの強大な力がひとつとなって、超新星の輝きを灯す。その占いを悪い方に捉えた天使たちが、レミエルの力を封じ込めることを決めた。
その方法として、ガブリエラが提案したのは、まず親に虐待させる。そしてガブリエラが連れ出し、学校に入れる。そこには、一人か二人ほどのレミエルと友達になる者(ユラとエクスシア)を用意し、他の者らはレミエルを虐める。さらにそこから「お前はまだまだだ」ということを示すために青蘭学園に入れる。そうしてレミエルを卑屈にさせることで、力に気づかせることなくやり過ごそうという考えだ。
対案も出なかったため、この路線で行くことにした。途中まではうまくいった。ガブリエラを雲の上の存在と捉えるようになり、虐めによりすっかり卑屈になったレミエルは、青蘭学園でも卑屈なままだった。だが、そこで誤差が生じた。
「誤差っていうのは俺のことか」
秀が尋ねると、ユラは頷いた。そして、また語り出す。
「あなたがレミエルのαドライバーとなったお陰で、レミエルの自信をへし折るために、余計な手間を割くことになりました。カレンをあなたたちと対戦させたのはそのため」
「その言い方だと、T.w.dまであんたらが仕組んだって捉えられるんだが」
ユラの言葉に感じた疑問を、秀は間髪入れずに言った。ユラはまるでそう言うと思っていたというように、秀の疑問に答える。
「T.w.d、特にジュリアは完全に計算違いでした。あなた程度であれば修正可能な範囲でしたが、彼女の出現には、私たちは計画の見直しをせざるを得ませんでした。そこで、ガブリエラ様が、レミエルの力を良い意味に捉え直すことを提案したのです」
「あっちいったりこっちいったり。グダグダだな、あんたたち」
秀は呆れ気味にため息をついた。それに対し、ユラは不機嫌に告げる。
「こういう裏工作じみたことは慣れないんだ。仕方ないだろう」
どうやら、丁寧語が抜けるほど癇に障ったらしい。秀はこれ以上ユラの機嫌を損ねないよう、慎重に話の続きを促した。ユラは嫌そうな顔はしていたが、話を続けた。
「以降はあなた方が知っての通り。ですが、今のレミエルは不安定すぎる。今は、あなたの方が私よりも、レミエルを助けるのに適任でしょう」
「ああ、そうだろうな。部屋に戻る前に聞く。レミエルの母親や、お前とエクスシアは、今心の底からレミエルを愛しているのか?」
秀の質問に対し、ユラはおもむろに、力強く頷いた。それを確認すると、秀は安心して部屋に戻った。
***
秀が部屋に戻ると、ネグリジェ姿のレミエルが暗闇の部屋の中、秀に背を向けぽつんと立っていた。そして、消え入るような声で懇願した。
「一緒の布団で、一緒に寝てください」
秀は戸惑いながらそれを許し、共にベッドに入った。秀とレミエルは互いに背を向けている。秀は何を話せばいいか分からなかったからだ。レミエルに関しては、秀は彼女が何を考えているのか分からなかった。
どれほどともつかぬ時の経過の後、レミエルの方から話しかけてきた。
「秀さんは、街での私を見て、どう思いましたか?」
唐突な質問に、秀の反応が遅れた。その間に、レミエルは言葉を連ねる。
「あれが私の、ずっとずっと隠していた闇ですよ。失望しましたよね。あんなことを平気でやれるような私に」
「そんなことはない! 俺はお前を愛してるんだ。失望も、嫌いになることもない!」
秀は強く否定した。レミエルに対する思いが、本物だと示すために、レミエルを立ち直らせるために。
「なら、秀さん。こっちに向いてくれますか?」
秀は言われた通りにレミエルの方に向いた。すると、その刹那、レミエルの唇が秀のそれに吸い付いた。そして、レミエルの舌が秀の口の中に入り込んで、秀の舌と絡み合った。
秀は驚きで何もすることが出来ず、ただされるがままだった。レミエルが唇を離す。垂れてしまった二人のが混じり合った唾液を、レミエルは愛おしそうに舐めた。そして、恥じらいながら、縋るように秀に言った。
「私を、愛してくれるのなら。これからも、私とずっとずっと、一緒にいてくれるなら」
レミエルの双眸から涙が落ちる。レミエルは恥ずかしいのか、嗚咽で上手く言えないのか、長く黙っていた。しかし、やがて、その沈黙を破って、秀を真っ直ぐに見つめながら、小さな声ではっきりと告げた。
「私を、可愛がってください」