Ange Vierge Désespoir infini 作:黒井押切町
はじまり
十一月の初頭、青蘭学園の、日の沈みかけた夕暮れ。部活動の喧騒に包まれた、昇降口からグラウンドの脇を通って正門に通ずる道を、一人の少年が、ブレザーのポケットに手を突っ込んで歩いていた。その少年こそ、上山秀であった。結局、高校一年の二学期の半ばのこの時期まで、一人の学友も作らずに、一言も生徒と雑談することなく過ごしてきた。ぼんやりと進行方向を見つめる彼の目は虚ろだ。まるで生気が感じられない。
秀の肩に野球ボールが当たった。おおかた、野球部が打ったボールが変な方向に飛んだのだろう。
「すいませーん。投げてもらえますか?」
先ほどのボールを投げた者だろうか。言葉では謝っているが、その口調からは誠意も何も感じられない。秀は無視して歩みを進めた。少ししてから、微かな舌打ちが聞こえた。
***
秀は彼の保護者、高嶺達也の家に帰る。普段は寮に帰るのだが、定期的に達也の家に帰るようにしている。自室に荷物を置いて居間に行った。畳の居間の中央にはちゃぶ台が置かれ、電源の付いていないテレビがある。そこで、達也は胡座をかいて、夕刊の新聞に目を通していた。
「おかえり、秀。今日の学校はどうだった?」
達也は新聞を閉じ、秀に向いた。秀は少し目を逸らし、口ごもる。しばらくして、重たく口を開いた。
「達也には悪いけど、今日も特に何もなかった。ごめん」
秀が告げると、達也は秀の瞳を、真摯に見つめた。そして立ち上がって、秀に詰め寄った。
「なんで謝るのかな。学校で秀が何かの行動を取るのは、僕のためにするんじゃない。秀自身のためにすることだろう?」
「それは、そうだけど。でも俺は達也がいれば十分だ。他に何もいらない」
秀のこの言葉は、紛れもない本心だった。彼は、達也を父のように愛しているのだ。
「嬉しいことを言ってくれるね。君のことだ。本心なんだろう? 君のその裏表の無い、正直で真っ直ぐなところ、発揮できるといいな。それに、秀は優しいから。その気になれば、友達くらいはすぐ作れるさ」
達也が微笑みかける。達也の言葉は、秀の胸に、ガラスのように突き刺さった。いたたまれない気分になる。
「が、頑張ってみるよ」
固く、自信なさげに言う秀の肩を、達也は強く叩いた。その顔には、悪戯っぽい笑顔が浮かんでいる。
「そんなに気張らなくてもいいよ。その気になれば大丈夫。……秀がガールフレンドを連れてくるの、楽しみにしてるよ」
達也の言葉に、秀は顔を真っ赤にして反駁した。
「ば、ばか! そんなこと言うな! 第一、俺に出来るわけないだろ!」
「大丈夫だって! 自身持って!」
秀が捲したてるのから逃げるように、達也は軽やかな足取りで台所に向かった。逃走ついでに夕飯でも作るのだろう。秀には彼を追いかける気力はなく、居間の畳に寝転んだ。
(友達、か)
かつて、秀に「上山君のことを教えてくれ」と、名も知らぬクラスメイトたちが尋ねて来た。その通り生い立ちを教えてやったら、その時から秀の周りに人がいなくなった。
それ以来、秀は達也以外の人と進んで接しようとはしなかった。ただ達也のことだけを考えて生きてきた。それ以外の生き方が、自分に出来るのだろうか。秀は虚ろに天井の蛍光灯の光を見つめながら、そう思った。
***
次の日。秀は、教室で机に突っ伏していた。つまりは、寝ていた。今は放課後で、もうとっくに授業は終わってしまっていた。他の学生たちは、部活に行ったり、寮に帰ったり、ブルーミングバトルに興じたりしていて、教室には誰も残っていない。だが、秀を起こしてそれらのことに誘おうという者は一人もいなかった。
やはり、この日も秀に友人はできなかった。話し掛けようにも、話題もなければ用もない。そう考えると、秀は萎えてしまって、孤独に浸ってしまうのだった。
お前には無理なんだと言う自分と、いや頑張れと言う自分が、秀の中にいる。達也と共にいる時は後者の秀が強いのだが、いざ達也から離れると前者が強くなってしまう。秀は、後押ししてくれる人がいなければ何もしない自分に、嫌気がさし始めていた。
***
秀が目を覚ますと、もう辺りはすっかり暗くなっていた。ヤバい、寝すぎたと秀は反省した。
(巡回が来る前にずらからないと……。前にもこんなことがあったからな。顔を覚えられてるとマズい……)
秀が慌てて荷物をまとめ始めたその時だった。教室のドアが、静かに開く音がした。巡回の警備員ではないことはすぐ分かった。もしそうなら、もっと無遠慮に開けるはずだ。違うとなれば盗みに入ったのだろうか。絶対にそうではないと秀は思うが、本当にそれならば早急に対処せねばならない。そう思い、秀はそっと立ち上がって、見つからないように携帯電話の電源を入れた。そして、カメラを起動させる。この暗さだ。フラッシュを使えばさぞかし効果てきめんだろう。正直に言えば、教室の電気をつければいいだけなのだが、警備員に見つかりたくなかったので、一瞬で済ませられる方を選んだ。
侵入者は、こそこそと教室の机を漁り始めた。集中している今がチャンスだ。秀は抜き足差し足で侵入者に近づくと、ぱしゃっとフラッシュを焚いた。すると、
「ひゃ、ひゃあああああ!?」
と、間抜けな声が教室に響いたかと思うと、次にがらがらどっしゃんという机が倒されたような音がした。それらのことから、秀はこの侵入者が盗みに入ったわけではないと悟った。だとすれば、単に忘れ物でも取りに来たのだろう。秀はため息をついて、教室の電気をつけた。そうしたのは、侵入者の顔を確認したい、というのと、警備員に見つかっても道連れが出来るから、という魂胆からだ。
まず目に入ったのは、見事にめちゃくちゃにされた机と椅子だった。その中心に先の侵入者であろう、一人の純白の片翼を持ち、青蘭学園の制服を着た天使の少女がいた。そのブロンドの髪は乱れていて、目には涙がたまっていた。彼女は怯えるようにして、震える声で秀に尋ねた。
「あ、あなたは誰ですか……?」
「俺は上山秀だ。このクラスのαドライバーの一人だ。あんたは?」
「え……?」
少女は、きょとんとした表情を見せた。秀はそれに苦笑して告げた。
「あんたの名前だよ。うちのクラスに、お前のようないっつも下を向いてるプログレスがいたと思うが、クラスの連中の名前なんて誰一人のものも覚えてないから、誰だか分からん」
少女は惚けたままだったが、やがて我に返ったようにあたふたすると、顔を真っ赤にして、
「わ、わた、わた……!」
何を緊張しているのか、少女の口から中々言葉が出てこなかった。秀はため息をつくと、少女の頭を軽くチョップした。
「ひっ……」
「落ち着けっ」
「え?」
少女は、瞳を潤ませて秀を見つめた。秀は、こいつは本当にプログレス——日課のようにブルーミングバトルフィールドに立ち、闘う少女たちの一人かと呆れた。
「まず落ち着け。深呼吸が効果的だぞ」
少女は言われた通りに深呼吸をすると、控えめな声で、自信なさげに告げた。
「わ、私は、レミエルです。赤の世界で七女神様に仕えていた天使で、青蘭学園にいるのは、ある方の勧めなんです」
「ふうん……。エクシードはどんなのだ?」話題を変えてみる。
「私のは魔法です。サポート系や結界系が主ですけど、一応、攻撃系は魔剣の再現くらいならできたりします。……あんまり、そういう魔法は好きじゃないんですけどね」
そうだろうなと秀は思った。明らかに好戦的な感じはしない。
ここまで話して、秀は一考する。今まで、青蘭学園の生徒、ましてや女子と話す機会など皆無に等しかった。恐らくはレミエルが、事務的な会話ではない会話を交わした初めての生徒だろう。ちょうど、ブルーミングバトルの授業で、余ったからと言って教師と組まされることに飽き飽きしていて、友人のいない自分が嫌になっていた頃合いだ。ひとつ、試してみるのもいいかもしれない。そこまで考えると、秀の口はすでに開いていた。
「なあ、レミエル」
「はい? 何でしょうか……?」
レミエルは、まだ少しビクビクしていた。そんな彼女に、秀は詰め寄って、はっきりと言い放った。
「俺と、組まないか? プログレスと、αドライバーとして」
レミエルの瞳が、驚きで見開かれていく。だが、少しすると目を伏せてしまった。
「嫌……か?」
レミエルは首を横に振った。そして、顔を俯けたまま、小さい、自信なさげな声で言った。
「私、テラ・ルビリ・アウロラでは、片翼で飛べない落ちこぼれって言われてて、実際にも、ホント、ダメダメで……みんなから揶揄されて……」
それは、自虐に満ちた言葉だった。秀は、聞いていて耳が痛かった。だが、それと同時に、このレミエルの苦しみを消したいという気も起こった。
レミエルが顔を上げる。その顔は、涙で濡れていた。
「こんな私でも、あなたはいいんですか?」
「ああ」
秀は力強く頷いた。
「役立たず……かもしれないんですよ?」
「そうかどうかは俺が決める。お前が考えることじゃない」
「じゃ、じゃあ……!」
レミエルはその藍玉の瞳を輝かせて、少し興奮気味に訊いた。
「私に、居場所を……くれるんですか!?」
「もちろんだ。できればずっと、俺のパートナーとして在ってほしい。プログレスとして」
「……はい!」
レミエルは、朝陽のような煌々とした笑みを浮かべて、縦に頭を振った。その幼子のような無邪気な笑顔を見せられてしまっては、秀も微笑みを禁じ得なかった。そしてその秀の笑顔は、青蘭学園に来て、学園で見せる初めてのものだった。