Ange Vierge Désespoir infini   作:黒井押切町

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激闘! テラ・ルビリ・アウロラ

 青蘭島の、この日の空は曇っていた。雲は相当厚いようで、日の光が雲の切れ間から射し込むようなこともなかった。赤の世界は今は夜だが、青の世界とは時間の進みが違うため、まだ夕方である。

 不安をかきたてるような空模様の下で、達也は自宅の前でカミュを待ちながら、赤の世界の(ハイロゥ)を見つめていた。今、T.w.dは、赤の世界に侵攻している真っ最中だ。秀が死なないように祈るしかない。彼にはそのくらいしかすることがなかった。更に彼は、秀に心の中で詫び続けていた。非常に後ろめたいことがあるからだ。

 

「すまない。待たせたな」

 

 達也が声の聞こえた方に向くと、私服のカミュが、手を振っていた。彼女こそが、後ろめたさの一番の理由だった。秀が必死に戦っている最中に、自分は敵の幹部と恋仲になって、遊んで暮らしているのだ。

 

「いやいや、大丈夫だよ。今日は非番だし、暇だからね」

 

 達也は、心の底で考えていることを隠しながら、微笑んで言った。幸か不幸か、達也は猫を被るのが得意であった。

 

「それより、そっちこそ仕事は大丈夫かい? アイリスさんたちの留守の間は、君が一番上だろう?」

 

「問題ない。元々、今日は午後には帰る予定だったのだ。それよりも、早くデートに行こう」

 

 カミュが達也の腕を引っ張った。達也はそれに逆らわずに、二人で繁華街の方へ歩き出した。

 カミュと、丁寧語抜きで話すようになってから、もう二週間弱は経っていた。その間に、青蘭島の住民は、アイリスたちのボランティアや、日本本土から、デパートなどで売るものが手に入るように手配したことによって、もう食料の配給も要らなくなり、更に普通に仕事ができる環境にされたおかげで、元の生活を取り戻した。とはいえ、割れたコンクリートなどはまだ処理しきれていないものがあるが、それほど生活に支障をきたしていない。

 また、日本をはじめ各国の政府は、T.w.dに対して何も攻撃などをしてこなかった。日本に関しては、青蘭島での戦闘の際に手痛くやられたのが効いているらしく、それで手を出せないということだ。それに、住民には特に手を出していないどころか助けたため、迂闊に行動に出られないということもあると思われた。

 他の国については、アイリスたちが世界水晶をすぐ壊す気は無いと発表したおかげで、軍事的干渉をすることはなかった。尤も、勝てやしないと踏んでいるのかもしれないが、とも達也は推測していた。

 

「あっ達也さん、達也さん。この指輪、素敵じゃないか?」

 

 カミュの無邪気な声で、達也は現実に引き戻された。ジュエリーショップの前で、カミュの指をさしているものを見てみると、確かに素敵な白金製の、ルビーの指輪が、ウィンドウの中に置いてあった。細かなダイヤモンドも付いていて、更にルビーが天然な為か、値段はおよそ六万円くらいだった。

 

「まあこのくらいだったら、僕の分を合わせても買えるよ」

 

 達也がそう言うと、カミュは首をぶんぶんと横に振って、慌てたように言った。

 

「そんな、別に買ってなんて、図々しいこと思ってるじゃないんだ! ただ、素敵だなって思っただけで」

 

「欲しいんだろう? 親が裕福だから、お金には余裕があるし大丈夫だよ」

 

 カミュは次の言葉に困ったようで、こめかみを抑えながら考え始めていた。達也がその様を微笑ましく思いながら見ていると、やがて考えがまとまったのか、こめかみから手を離して言った。

 

「達也さんの好意を踏みにじるわけにはいかないから、こうしよう。私は達也さんにこの指輪を買ってもらう。そのお返しに、私も達也さんにこの指輪を買ってプロゼントする。これでおあいこだ」

 

 達也が、金は大丈夫かいと尋ねると、カミュは一万円札でパンパンになった財布を見せてきた。

 

「お金持ちなんだね。それに、給料が地球の通貨とはちょっと意外だったな」

 

「それもあるが、こないだ達也さんの家にお邪魔した時、ついでに私の財産の幾らかを換金しておいたんだ。一応、青蘭島にはそういうシステムもあるからな」

 

 だからお金は大丈夫だと笑って、カミュは店の中に入って行った。達也も、一瞬足が止まりかけたが、カミュに続いて店に入った。

 

        ***

 

 リーナが仕事(と言っても訓練が主だが)を終わらせて、食品の買い出しに繁華街に出かけたところ、楽しそうに笑いながら、男とジュエリーショップに入っていくカミュを目撃した。その瞬間から、己の中のカミュの人物像が瓦解し始めた気がした。

 

「なんだか、今日やけにウキウキしながら早く仕事から上がったと思ったら、そういうことですか……!」

 

 リーナの中で、ふつふつと何かがこみ上げてきた。それはすぐに火山の噴火のように爆発し、リーナは人ごみの真ん中で奇声を発すると、近くの壁に突進するように飛びつくと、壁に額をガンガン打ち付けながら喚き散らした。

 

「厳格で! 仕事に真面目で! 時には優しくて! 人間解放軍でなくとも人間の憧れの的だった、人間解放軍代表サングリア=カミュ教官はどこに行ってしまわれたんだあああ!」

 

 周囲の人間の視線が痛かった。リーナは恥ずかしくなって、照れ隠しに更に頭を打ち付けた。しかし当然、それによって人もより集まり、視線は強くなる。写真に撮る音まで聞こえてきた。リーナは不器用だ。その上、直情的に且つ直感的に行動するせいで、物事にうまく対処できないことが多々ある。今がまさに、その状況だった。

 

「リーナ、貴様は何をやってるんだ……」

 

 呆れ気味な、カミュの声が聞こえた。リーナが恐る恐る声がした方を向くと、やはりカミュが呆れ顔で佇んでいた。そしてその左の薬指には、大きなルビーのついた白金の指輪がはめられていた。それに気がついた時、リーナは大きなショックを受けると同時に、不思議な敗北感を覚えた。更にその途端に、足元がふらついてきた。眩暈もする。どうやら、頭を何回もぶつけていたのが今頃になって効いてきたらしい。

 

「もう、ダメぇ……」

 

 とうとうリーナは立っていられなくなり、その場に倒れこんだ。カミュが慌てて電話を取り出すのが見えたので、リーナは弱々しくそれを制止した。軍人である自身が、戦場ではなく街中で負傷するだけでも相当な恥辱であるのに、しかも救急車に運ばれるなど、身から出た錆とはいえ、リーナにとっては屈辱以外の何物でもなかった。

 

「救急車は結構です。ちょっと眩暈がしただけで。放っておけば復活しますので」

 

「とは言ってもだな」

 

 カミュが困ったように、携帯電話を持ったままリーナを見下ろす。リーナは地面に倒れたまま、彼女と視線を合わせた。絶対に救急車を呼ぶなという意思を込めて。

 しばらく見つめ合っていたが、先にカミュの方が折れた。

 

「分かった。救急車を呼ぶのは止めよう。しかし、そのまま放っておくわけにもいかん。達也さん、悪いけど、リーナを一旦達也さんの家で休ませてくれないか? 私たちの宿舎よりも、達也さんの家の方が近い」

 

 カミュは連れの男にそう告げた。その達也と呼ばれた男は即答でうん、と頷いて、リーナを背に乗せた。

 

(達也というのですね。このカミュ教官をたらし込んだ男は)

 

 懲らしめてやろうかとも思ったが、カミュのことを思うと、その気はすぐに失せてしまった。入れ代わりに、リーナの頭の中に、ひとつの疑問が生まれた。しかしそれは、いくら自分で考えても答えの出るものではなかった。このことをカミュに尋ねるのは気が引けていたのだが、リーナの答えを知りたいという欲求が勝った。人気のないところに出てから、リーナは達也の背中からカミュに話しかけた。

 

「カミュ教官。男と恋仲になれば、私も男に甘えたりするのでしょうか?」

 

「さあな。それは貴様次第だ。しかしなんだ、藪から棒に。気になる男でもいるのか?」

 

「いません。そもそも、フルネームを知ってる男すら、えーと、上山秀しかいませんのにそんなことは」

 

 その名前を出すと、達也が、ぶつからないように顔をリーナに向けて尋ねた。

 

「秀を知っているのかい?」

 

「ええ。とはいえ、人となりなどはカミュ教官から聞いたくらいのことしかわかりませんが」

 

 ぶっきらぼうに答えながら、リーナは秀との模擬戦を思い出す。元から運動神経がいいのもあってか、秀はだいぶ完成されていた。今はプログレスの存在から、女性の方が男性よりも強くなってしまう傾向にあるが、それでも秀はリーナと互角に渡り合った。模擬戦の時の、秀の一点の曇りもない真っ直ぐな視線を、リーナは未だ覚えていた。青蘭学園側の人間でなければ、人間解放軍にスカウトしたかったくらいだ。

 

「まあでも、今は敵同士です。仮に上山秀に恋心があったとしても、一緒になることは不可能でしょう」

 

 リーナがそう言うと、カミュの顔つきが急に真剣なものになった。そして、達也にリーナを下ろして先に帰るよう促した。

 下されたリーナは電信柱にもたれかかるようにして立つと、達也が見えなくなってからカミュに尋ねた。

 

「どうしたんですか、カミュ教官」

 

「今はT.w.dの構成員がいないから、ちょうどいい。いいか、私の話をよく聞けよ」

 

 そのように言うカミュの真摯な視線に気圧されて、リーナは固くなって頷いた。

 

「状況が状況なら、私たちはすぐにでも、T.w.dを裏切るかもしれん」

 

 カミュの言葉に対する衝撃で、リーナは開いた口が塞がらなくなった。唖然とするリーナをよそに、カミュは続ける。

 

「とはいえ、今そうなることはない。アイリス総統は、プログレスの殲滅と世界への復讐を掲げているが、T.w.d——Those who destroy the worldの組織の名が示すように、はっきり言って前者にはあまり興味がない。興味があるのは後者だ」

 

 いまいちリーナには話が見えてこなかった。カミュはリーナの心情を察したのか、少し考えてから続けた。

 

「つまりだ。総統にとっては、プログレス、言い換えれば人間への復讐というのはただの人集めのための名目で、本当は世界への復讐、というよりは、世界の是正が目的なんだ。人間に少しでも恨みがあれば、島民のみなさんの名簿作成の時に見せた笑顔などは見せやしない」

 

「と、言いますと?」

 

「我々は人間解放軍だ。アンドロイド優先の世界である白の世界を是正するため、そして何より人間のために在る。いくら吸収以前はEGMAにやられて組織力が無かったとはいえ、人間全体に仇なす組織に与するとでも思うか?」

 

 そこで、リーナはようやくカミュの言っていることを理解した。回りくどい、と心の中で毒吐きながらも、表情には出さずにカミュに確認した。

 

「アイリス総統がT.w.dの一番上にいる限りは、我々が裏切ることはないと」

 

 カミュは首を縦に振った。そして、カミュは周囲に人がいないことを確認すると、息がかかるくらいの距離までリーナに近づいて告げた。

 

「これは私と、赤の世界にいるスパイのひとりしか知らないのだが、あの人が取りに行った以上隠す必要もないと思うから、貴様に伝える。だが、一応総統が帰ってくるまでは口外禁止だ」

 

 リーナは固唾を飲んで、二、三回頷いた。よほど重要な話であるようだ。

 

「今回あの人が赤の世界に乗りこんだ一番の理由は、赤の世界にある世界の転生の秘術を手に入れるためなんだ」

 

「は?」

 

 リーナは思わず素っ頓狂な声を出してしまった。あまりにも突拍子のない話であり、あまりにも眉唾な話であった。リーナの反応を予期していたかのように、カミュはため息を吐いて言った。

 

「まあこの際だから言うが、それをエサにしてアイリス総統は我々を吸収したのだ、だから交渉にあたった私だけが知っている。眉唾物とはいえ、当時は組織が破産寸前だったから、その話に乗るしか無かったのだ」

 

「組織力も付いて、アンドロイドと人間の身分の違いもはっきりした世界も作れて一石二鳥というわけですか」

 

 カミュは「ああ」と頷いた。そして、一瞬目を伏せたが、すぐリーナと目を合わせて、唐突に頭を下げた。

 

「済まなかった。今まで話せなくて。取りに行くまで他言は無用と言われていたのだ。何もわからずに急に吸収合併が決まって不満だったと思うが、そういうことだ」

 

「いいえ、大丈夫です。みんな、吸収が決まった時、教官の決めたことだから利益があるに違いないって言っていました。だから、あなたが謝ることなんてないですよ」

 

 リーナが言うと、カミュは安心したように息を吐いて、顔を上げた。隠していたことを全部言うことができたおかげか、カミュはだいぶ爽やかな顔をしていた。

 

「もう歩けるか?」

 

 先程までとは打って変わって、柔和な感じでカミュが尋ねた。どうやら、話は終わったようだ。

 

「はい、もう一人で歩けますよ」

 

 リーナは電信柱から体を離して、少し駆け足をしてみたり、跳ねてみたりした。本調子とまではいかないが、今すぐ戦闘するわけでもないので、支障はない。

 

「それじゃあ、私は達也さんの家に行くよ。貴様も来るか、リーナ」

 

「いえいえ遠慮させて頂きます。まだ用事を済ませていませんし、それにお二人の邪魔をしては悪いです」

 

 またカミュと達也との仲睦まじい様を見せつけられた時には、リーナの精神はきっと崩壊してしまうだろう。

 

「では、失礼いたします」

 

 リーナは回れ右して、少し早足で歩き出した。すると、後ろからカミュが叫ぶように声をかけてきた。

 

「秀を狙っているなら、諦めた方が吉だぞー。あいつには恋人がいるからなー」

 

「狙ってませんから! 余計なお世話です!」

 

 リーナは叫び返すと、わざと大股でカミュから離れた。たった数十分だったが、今日はリーナの知らないカミュの一面が多く見られた。これまでのリーナの、カミュに対する「厳格な教官」という印象からはかなりかけ離れたものだった。しかし、振り返ってみれば、それほど悪いものでもないように感じられた。

 ふと、空を見上げる。すると、雨が何滴かリーナの顔に落ちた。

 

「降り出してしまいましたか。早く済ませて帰らないと」

 

 リーナは折りたたみ傘を広げて、繁華街の方へ小走りで向かった。

 

        ***

 

 秀とユノがユラ神殿に到着した時、まず目に入ったのは、血の海に伏している兵士たちだった。彼らはちょうど、最初の一人の位置から神殿の入り口まで、ひとつの軌道を描くように並んでいた。どの死体も、幾つかの少ないパターンで一撃の元に殺されている。

 

「敵の襲撃があったか。殺され方のパターンの少なさから、敵は多くても数人だろうが、レミエルとユラが心配だ。先を急ごう」

 

 秀がユノに促すが、返事が無かった。ユノは顔を強張らせて、完全に固まっていた。秀がもう一度聞き直すと、ユノは少しの間を置いて反応した。

 

「う、うん。行こう、秀君」

 

「無理だったら引き返してもいいぞ」

 

 秀は、ユノの様子を見兼ねてそう言った。だが、ユノは首を振って、泣き顔になりながら、弱々しく反駁した。

 

「もう、どこもこんなところばかりだよ。引き返しても無駄。だったらせめて、私たちの仕事を果たさなきゃ」

 

 秀は、ユノの言葉を聞いて、初めて彼女が「仕方ないから戦っている」のではないかと疑った。しかしそれについて談義するような暇もなく、仮にそうしたとしても、ユノは秀の言を否定し、己の主張を変えないだろう。秀は喉まで出かかった言葉を引っ込めて、自分の本意とはまるで違うことを言うことにした。

 

「そうだな。二人で行こうか。多分レミエルは地下の方だ。なんとなくそんな気がする」

 

 秀は、だんだんと疼きが強くなる右の小指を抑えながら言った。すると、ユノは秀の言葉に対して首を縦に振ったが、それから秀の右の小指を凝視していた。そして、そのままユノは不思議そうに尋ねた。

 

「その小指、レミエルちゃんと魔術的な契約でもしたの?」

 

 突拍子もないことを聞かれて、秀はポカンと口を小さく開けていた。しかし、少し考えれば、思い当たる節もあった。位置的にも、かつてレミエルと指切りをした位置と合致する。

 

「多分した。しかし、今はそんなこと言ってる場合じゃない」

 

 秀がそう言うと、ユノは大きく頷いて、神殿の地下まで瞬間移動した。地下に着いた瞬間、かなり近くから破壊音が聞こえた。秀とユノの二人は、その音のする方へ、ペースも何も考えず、我武者羅に走って行った。

 

        ***

 

 アイリスは、目の前で起きたことに息を呑んだ。堕天する様を見たのは、初めての経験だった。それ以上に、レミエルが堕天したことに最も驚いていた。

 彼女のことは、ジュリアを殺した時から目をつけていて、また、ある事情から、人格等の大まかなことは調べてあった。アイリスが今さっき殺害した女神が、レミエルの親友であるということは分かっている。だから、激昂するだろうとは予測していたが、堕天する程になるとは想定外であった。

 アイリスがそのようなことを考えていると、レミエルが動き始めた。明らかに、アイリスの頭を掴みかかろうとした手の形と軌道で飛びかかってきた。

 

(速い! けど、避けられない速さじゃない)

 

 アイリスは、紙一重の差で、レミエルの攻撃を躱した。しかし、避けるだけで精一杯で、次の行動に出ることができなかった。レミエルは勢いのまま、本棚にぶつかり、ドミノ倒しに幾つかの本棚を倒していった。

 

(この子とやりあうのは危険だ。殺すなっていうのがあの子からの注文だったけど、まともにやりあったら負ける。早くここから出ないと)

 

 しかし書庫から出るには、入り口から出るしかない。天井の向こうは神殿の基礎だ。天井を破るというのは得策ではない。

 初めアイリスは、シルトに対してそうしたように、真正面からの突破を試みようとしたが、実行に移す前にやめた。頭に血が上りきっている今のレミエルに油断させる自信がなかったのだ。

 アイリスが、本棚を盾にしながら、次の手を考えていると、またもレミエルが突っ込んできた。今度は真正面からだ。アイリスは再びレミエルの攻撃を回避すると、やはりレミエルは勢い余って本棚に激突した。が、すぐにレミエルは体勢を立て直し、また飛びかかってきた。アイリスは三たびこれを避けると、そのままそこの本棚を離れ、別の、入り口に近い本棚へ移動した。

 アイリスは、本棚からの移動距離は最短にしたかった。今のレミエルの動きは速すぎる。アイリスは肩の負傷を気にしながら、周囲を警戒した。すると、何かが体の中に入ってくるような、不思議な感触がした。快感のようにも感じられたが、悍ましさにも似ている。

 

(この感触は、エンハンストを使った時と似てるような。でも違うな)

 

 アイリスは小声で魔法の詠唱を始めた。アルバディーナや、ジュリア並みの魔法は使えないが、アルバディーナから基礎は教わっている。入ってくる何かが、己に害をもたらすなら、それを結界で締め出すつもりだった。

 詠唱の途中で、アイリスは急に疲れを感じ始めた。負傷のせいとするにしても、違和感がある。そして、その理由が何なのか、瞬時に判断がついた。原因はレミエルに他ならない。

 

(私の活力を吸ってる、ということは、リンクの逆だね、これ。道理でエンハンストに似てるわけだ)

 

 その時、アイリスはレミエルの心を感じた。例えようのない怒りと哀しみの中、そこにレミエルではない別の誰かが居た。アイリスは一瞬、そのレミエルの心に気をとられそうになったが、自分が窮地に立っていることを思い出し、雑念を払った。

 アイリスはそこから、素早く魔法の詠唱をすると、体内に結界を張った。基礎しか知らないとはいえ、最強の結界術師であるアルバディーナから学んだ結界魔法だ。決して脆弱なものではない。

 レミエルの、逆リンクとでも言うべき攻撃を弾いたのも束の間、アイリスは、今度は頭上の方から、レミエルの殺気を感じ取った。

 レミエルの翼の羽ばたきを察知して、アイリスは避ける時間が無いと悟ると、結界魔法を上方に展開した。それで、猛然と突撃してくるレミエルが、結界に阻まれて一瞬だけ止まった。その結界は、レミエルの圧倒的な力の前に破られたが、彼女が止まった一瞬のうちに、アイリスは書庫から抜け出した。

 それから、肩の痛みには一切気を留めず、地上を目指し一心不乱に疾走した。しかし、あるところまで走ったところで、青蘭学園の制服を着た少年と、豊満な胸のエルフの少女が、向かい側から走ってくるのが見えた。彼らの顔には見覚えがあった。ジュリアと戦闘した者たちのうちの二人、上山秀とユノ・フォルテシモだ。更に背後から、レミエルの羽音が聞こえてきた。

 

(前門の虎、後門の狼、か。ここまでかな)

 

 アイリスがそう観念して速度を落とした時、信じられない光景を見た。秀とユノの二人が、仰天したようにレミエルの名を呼んだかと思うと、突然呻きながら倒れたのだ。

 

        ***

 

 書庫から出たアイリスを追いながら、レミエルは焦っていた。堕天までして己の戦闘能力を底上げしたのに、アイリスに攻撃が一回も当たらなかった。だからリンクの時に感じた感触を再現して、アイリスから力を吸収しようとした。だがそれでも、アイリスはそれを弾き、書庫から出てしまった。

 そんな時に、秀とユノが駆け付けてくれた。そしてよく見ると、秀の方が、レミエルに一歩程近かった。そのことに気付いた瞬間、レミエルはとても満たされた気分になった。

 

(秀さんは、私の元にいの一番に駆け付けてくれるって約束を守ってくれた。私のために!)

 

 レミエルは秀たちと目を合わせた。彼らはレミエルの堕天した姿に、戸惑いの表情を見せ、レミエルの名を呼んだ。しかし、レミエルは歓喜の表情のまま、秀とユノに対して、アイリスにしたようにリンクの逆を行った。二人は拒まなかった。いや、拒む暇も無かったのだろう。レミエルは二人の活力を、彼らの意識が消えるまで強奪すると、アイリスに襲いかかった。

 倒れた秀たちに気を取られていたのか、アイリスがレミエルに向いたのは、もう右手がアイリスの顔を捉えかかった時だった。

 

「くっ!」

 

 アイリスが上体をそらす。しかし、避けきれず、レミエルの右の人差し指と中指が、アイリスの右目のまぶたを貫いて、眼球を潰して眼窩に進入した。更にレミエルはそのまま、指を左に引き、皮膚を割いて頬骨の一部を弾き飛ばした。

 アイリスが激痛に絶叫しながら、レミエルを突き飛ばして逃げようと走り出すが、すぐに足が縺れて転んでしまった。立つ力も失ったようで、床に倒れたまま呻いていた。

 

「無様だね。でもあなたには、そんな死がお似合いだ」

 

 レミエルは指についた血を払うと、ゆっくりとアイリスに歩み寄った。しかし、数メートルほどという距離まで近づいた時、突然アイリスとレミエルとの間の天井が崩落した。そして、空いた穴から出てきた人影は、埃で辺りが曇っていようと、見間違えようの無いものだった。

 

「エクス!?」

 

 レミエルが友の名を叫んだのと、その友——エクスシアが、愛用のハンマー、ヘカトンケイルでレミエルの頭の側面を殴打したのは、ほぼ同時だった。

 一瞬それで気絶して、すぐ意識を取り戻したが、エクスシアとアイリスの姿は、どこを探しても無かった。見つかったのは、アイリスの頬骨の一部と、幾つかの黒い羽根だった。

 

(私のじゃない。エクスも、堕天したんだ)

 

 一度気を失ったおかげか、レミエルは冷静さを取り戻して状況を考えると、エクスシアはT.w.dの構成員であると判断せざるをえない。レミエルは、その事実に暫く呆然としていたが、ハッとして図書館の方に戻った。そして、そこでユラの首と、彼女の剣を取った。見開かれたままの、生気を完全に失ったユラの瞳と、視線があった。

 

「目、閉じてあげなきゃ。このままじゃ無惨すぎる」

 

 レミエルはユラのまぶたにそっと手を触れ、ユラの眼を閉じた。その時、寝顔のようにも見えるユラの顔が、レミエルにユラの死をより一層自覚させた。

 

「ユラ、ごめんね。本当は、あなたが生きているうちに謝って、仲直りしたかったけど、遅くなって、ごめん……!」

 

 レミエルはユラの首を胸に抱いて、床に膝をついて咽び泣いた。友を失った悲しみと、その友が亡くなる前にしなければならなかったことへの後悔が、涙となって流れ出た。

 

        ***

 

 民家の屋根の上で、夜風に髪をなびかせながら、カレンは痺れを切らしていた。秀とユノが遅すぎる。約束の十分どころか、もうすく三十分が経とうとしている。

 

(あのお二人の身に何かあったとしか思えませんね。しかし、これ以上人員を割くわけにはいきません。信じるしかないようですね)

 

 カレンがため息をついたその時、通信端末にアインスからの連絡が入った。

 

「敵を発見した。真っ向から向かってくるみたい。規模はだいたい歩兵中隊二個くらい。ここに来るのは、あの速度だとあと十分弱くらいと予測」

 

 アインスは極めて冷静な口調で、淡々と簡潔に報告した。カレンはアインスが報告し終えると、すぐさま全員の通信端末と繋いだ。

 

「間もなく敵と接触するので、最後の確認です。私とセニアとアインス様で遊撃、由唯様はエクシードで姿を消した状態での狙撃、シャティー様とあずさ様は臨機応変にサポートをお願いします」

 

 カレンの指示に皆々が返答する。聞いた感じとしては、誰も特に問題は無さそうだった。あずさと由唯の二人に関しては不安が残るものの、シャティーがなんとかフォローしてくれると思い、二人のことに関しては深く考えないことにした。

 カレンは、ふと集音機能を強化してみると、隣の街道からの戦闘の音が聞こえてきた。矢が飛ぶ音や、銃弾が放たれる音、そして戦士たちの雄叫び。それらの音が、そこで起きている戦闘が激しいものということを感じさせ、また、やがてここで起こる戦闘も、かなり激しいものになるという予感をもたらした。

 

        ***

 

 フェルノは、カレン達が配置されているところの、隣の街道の、神殿前の広場への接続部分に、百人の弓兵部隊を率いて位置していた。そして、今、敵部隊に対して弓兵部隊とともに矢の雨を降らせている。ただひたすらこれを行うのが、この街道での作戦だ。

 敵の遠距離武器は銃だが、赤の世界では弓が主力だ。銃などは使わない。赤の世界の弓矢は、素の威力は銃弾に劣るものの、その分祈りによる魔術的な強化を加えており、青の世界や白の世界の最新兵器にも負けないパワーとスピードを備えている。

 文字どおり矢の雨が敵部隊に降っている様は壮観だったが、フェルノは違和感を感じていた。青蘭学園で見せたあの強固すぎる結界が、今回は張られていない。完璧な防御をしていた代わりに全く動かなかった青蘭学園の時とは対照的に、今回、敵は損傷を受けながらも前進している。

 しばらくして、敵の進軍が急に止まった。その瞬間に、二発の砲弾が、敵の先頭から飛んで来た。フェルノは、その砲弾の速度から、それらを止めることができないと即座に判断すると、弓兵部隊に大声を張り上げた。

 

「弓兵部隊は散開! 砲弾の射線上から急いで退避して!」

 

 しかし、フェルノの指示を、兵士達はうまく実行できないでいた。それもそのはずだった。これまで、赤の世界では、戦いといえば相手は大抵魔獣と言われるような、広範囲に被害を及ぼす大型の害獣が相手だった。対人戦になる戦いなど、殆ど起きたことがない。しかもその魔獣との戦いでさえ、早期に決着がついて勝利するため、フェルノには、このような事態に対しての訓練はしているものの、心構えはできていないように感じられた。

 もたもたしている間に、二発の砲弾が時間差を伴って着弾し、それらの爆風で百人の弓兵部隊は壊滅状態に陥った。

 なんとか爆風を躱したフェルノの見る限りでは、残ったのは四十人弱といったところだった。六十人近くを殺した爆風だというのに、それで、街への損害は街道の丁度真ん中を抉ったくらいで、あらゆる民家が傷一つ付いてないことも不気味だった。

 フェルノは砲弾を打った人物が探し始めたが、夜の暗がりの中でもすぐ見つかった。分かりやすく、ふたつのバズーカ砲のようなものを担いでいる女を一人発見した。そして、彼女がフィア・ゼルストだということも、青蘭学園で面識があったことから分かった。

 

「面識があるからといって、容赦するわけにはいきませんわね」

 

 フェルノは愛馬の白馬を召喚すると、それに跨って、敵先頭から街道に沿って離れていった。馬を走らせながら、飛んでくる銃弾を躱しつつ、生き残った兵士達に呼びかけた。

 

「封印弓フェイルノートを使いますから、皆さんは退避をお願いします」

 

 それを聞いた兵士達が、慌てて民家の陰に隠れていった。しかしそれでも、ダメージを負うことは避けられないだろう。封印弓フェイルノートの威力は絶大だ。矢が、街道のちょうど真ん中を飛んだとしても、少なくとも民家の窓ガラス等は吹き飛んでしまうだろう。最悪、並んでる民家そのものを破壊してしまうかもしれない。だから極力使わないようにしていたのだが、今は使わねばここの街道が突破されてしまう。

 

「お願いですから、あの結界だけはやめて下さいよ」

 

 フェルノはそう祈りながら、敵と十分に距離を離すと、反転して、馬上で弓を構え、青蘭学園の時よりも多くの矢をつがえる。

 

「必殺必中! 封印弓の威力、その身で受けなさい!」

 

 気合いとともに、渾身の力で矢を放つ。封印弓の名は伊達ではなく、その矢は風を切り轟音を立てながら、真っ直ぐに街道の中央を駆けた。だが、敵に接触する寸前に、突如として例の結界が現れた。結界と矢の間に、激しい稲妻が走る。その様子を、結界の向こうでフィアが涼しい顔で眺めていた。

 結界の防御能力と矢が拮抗しているが、やがて押し負けてしまうだろう。そう判断したフェルノは、落胆のままに構えを解きかけた。

 だが、フェルノはふと、結界を相殺したレミエルの斬撃を思い出した。結界と矢の拮抗を崩したあの斬撃。あれだけの威力、いや、あれを遥かに上回る威力を作り出せる手段を、フェルノはひとつだけ持っていた。

 

「あまり使いたくなかったのですが、仕方ありませんわね。これも、この窮地を打開するため。ここを焦土にしてでも砕きますわ」

 

 フェルノは、矢筒に残った一本だけの矢を握った。そして、呼吸を整え直すと、フェルノが今までで七女神に捧げた祈りの中でも、最大の祈りを捧げた。

 

「封印弓フェイルノート! 今こそ真の力を——」

 

「その必要は無いぞ、フェルノ! T.w.dよ、あたしの正義の炎の刃を受けてみろ!」

 

 フェルノは祈りを中断し、空の方から突如聞こえた、威勢の良い声のする方に向いた。そこには、炎を巨大な剣に纏わせたグラディーサがその剣を今にも振り下ろそうとしていた。

 

「天使にできて、あたしにできないことは無い! 哈ーっ!」

 

 気合一閃、グラディーサが剣を振り下ろす。威力は相殺されたが、その斬撃は一瞬で結界を打ち破った。そして、結界が崩れるとすぐさま、フェルノとグラディーサの間に歩兵部隊が入り込んだ。

 

「兵力が落ちたところに悪いけど、後方支援は頼んだぞ」

 

 グラディーサはそう告げると、叫びながら敵陣に突撃していった。フェルノはそれを見届けると、グラディーサに感謝の念を抱きながら、残った弓兵部隊を集め、部隊として敵への射撃を再開した。

 

        ***

 

 ルビーは、マユカに対しこの上無い戦慄を覚えていた。マユカは、ルビー、シルト、クレナイの三人の猛攻を受け、全身から血を流し、足は震えている。その姿を見る限りでは、ルビーには立っていることが精一杯のように思えた。しかし、マユカは決して、戦意をなくしたりはしなかった。むしろ何度攻撃を受けて倒れても、その度に立ち上がって、二丁拳銃を構えていた。

 そのマユカの佇まいを見る度に、ルビーはここに来たことを後悔した。ルビーは、森に怪しい人影が見える、との報告を受け、それを確かめ、敵であれば排除するためにここまで来た。しかし、血だるまになっても尚戦おうとするマユカの姿を見ると、心が痛んだ。そこまでして、T.w.dに尽くすのかと。何がマユカを立たせるのかと。

 

(立たないで、マユカ。立ったら、あたしはまたあんたを攻撃しなきゃいけない)

 

 シルトに吹き飛ばされ、石畳の上に叩きつけられたマユカを見て、ルビーは口には出さずに、そう懇願した。ルビーは、吹っ切れて、マユカを友ではなく敵として認識していたつもりだったが、実際に相対してみれば、情はまだ濃く残っていた。

 何度倒されようと、マユカはなお立ち上がってきた。マユカの失血量は、並みの人間であればとっくに死んでいるか、そうでなくとも意識を失っているようなものだった。

 

「マユカは、どうしてそこまでしてアイリスに尽くすの?」

 

 シルトが、感嘆したような、呆れたような口調でマユカに尋ねた。マユカは答えない。答える気力が無いのかもしれない。しかし、拳銃の銃口は、しっかりとシルトを捉えていた。

 

「答えられないし答えたくもない、といった感じかな? まあいいや。これ以上やったら、あなた流石に死ぬと思うのだけれど。あなたの友達の手前だし、私もあなたを殺すのは気が進まないからね」

 

「敵に情けをかけられるくらいなら、舌を噛み切ってでも死んでやります。私は、何の用でアイリスさんがユラ神殿に行ったのかは、知りません。でも、あの人の心からの、本当の思いは正義で、あなたの思想は私にとって悪です。ですから、私はあの人に尽くせるのです」

 

 頑なに口を開かなかったマユカが、負傷を全く感じさせない強い口調で、堂々たる態度を以って言い放った。

 

「ですから、たとえ体が朽ちようとも、全力であなたがたを食い止めます」

 

 マユカは拳銃を構え直して、シルトを睨んだ。だが、その途端に、マユカの限界がとうとう来たのか、彼女は血を吐きながら膝をついた。

 

「体の方は終わりのようだな。それ以上苦しまぬよう一太刀でその首を落とそう」

 

 クレナイが歩み出て、大刀を大上段に構える。ルビーが思わず目を覆った時、翼の羽ばたきの音が聞こえた。そして、すぐさま破壊音が鼓膜を震わせた。

 ルビーが恐る恐る手のひらを目から離すと、埃が広範囲に舞っていた。それが晴れたときには、その場にルビー以外の誰の姿も見えなかった。

 

        ***

 

(流石、力天使の肩書きは伊達じゃないね。だった一撃で、シルトとクレナイを撤退させるなんて)

 

 アイリスは、さらに、エクスシアの手際の良さにも感心していた。アイリスを守るために入れていた結界に隙間を開け、そこにマユカを入らせるまで、数秒しかかからなかった。

 それで今、アイリスは、重症を負ったマユカとともに、カプセル状の結界に包まれて、エクスシアの隣を飛んでいる。目的地は本陣だ。目標の物が手に入った以上、その説明と、アイリスの心の底からの目的を公開しなければならない。

 

「あのさ、エクスシア」

 

 包帯で巻かれた、レミエルに抉られた右目の周りの疼きに耐え、マユカに応急処置を施しながら、アイリスは躊躇いがちに切り出した。すると、エクスシアはアイリスの言わんとすることを予期していたかのように言った。

 

「ユラのことでしたら、レミエルが死んでいないのであれば問題ありません。あなたと私の約束事はそれだけですから、ユラの死はT.w.dに入った時点で、覚悟の上です。それよりも、マユカさんの手当てに集中してあげてください」

 

 図星だった。思わずアイリスはエクスシアの顔を見つめた。その瞳は燻んでいた。エクスシアがT.w.dに加入した時から、輝きを失い、その奥に底なしの怒りを感じさせる瞳は、全く変わっていなかった。変わったのは、彼女の翼だった。肩から伸びるそのふたつの翼は、すっかり黒くなっている。ということは、七女神の目に見える形で、赤の世界を裏切り、窮地に陥ったアイリスを救ったということだ。

 

「堕天したってことは、この世界には縛られなくなったんだよね」

 

 アイリスは、マユカへの手当てをし終え、彼女が安心しきった表情で眠っていることを確認すると、呟くようにエクスシアに訊いた。エクスシアは頷くとほんの少し、弾んだ声で答えた。

 

「はい。これで、私が信じる正義を大っぴらに実行できます」

 

 アイリスはその言葉を聞いて、エクスシアがT.w.dに加盟した時の面接のことを思い出した。彼女は、アイリスが赤の世界を裏切ることについて尋ねた時にも、「正義」という言葉を口にしたのだった。エクスシアの行動の根底には、それが最も大きく存在するようだ。

 

「赤の世界の正義は、私の正義ではありませんから」

 

 エクスシアは、かつてアイリスに告げた言葉を、吐き捨てるように呟いた。

 

        ***

 

 由唯は、民家の屋根の上から、移動しながらアサルトライフルで敵を狙撃していた。敵は黒っぽい服装で、民家の陰に隠れながら進撃していたが、逆にそのおかげで敵が一箇所に固まりやすかったので、由唯としては好都合だった。闇夜の中に紛れるような黒服についても、暗視スコープのおかげで特に問題は無い。

 赤の世界の民家の屋根が、瓦ぶきでない平坦なものであり、また民家ごとの屋根の高さの違いが大差ないことが幸いして、移動の時も殆ど音を立てずに動くことができた。さらに、当然のことながら、ライフルには消音器を取り付け、その上由唯の異能で、姿を完全に隠している。

 集団の敵を減らすこととしては効率が悪いものの、見えない恐怖を与えることはできる。由唯の行動の目的はそこにある。敵を減らすことについてはアインスたちが本命としてするので、由唯はその点については、何の気兼ねもなく狙撃に集中できた。

 しかし、気を乱しかねないこと自体はあった。ひとつは、ユノと秀のことだった。完全に連絡が途絶えている中で、約束の時間を過ぎても帰ってこない。何かあったとしか思えない状況だ。しかし、それを確かめるわけにもいかないというもどかしさが、由唯のみならず、あずさ達を苦しめていた。

 もうひとつは、戦闘前に、あずさ達と交わしていた会話のことだ。メルトの仇を前にして、冷静に戦えるのか——あずさはその点を問うた。

 それまで、赤の世界に来てから、由唯達はメルトの死については一切話題にしなかった。レボリューション部の中で、互いが互いに気を遣いあって、誰も口にしなかったのだ。しかし、戦闘が目の前に迫っているとなれば、あずさも訊かずにはいられなかったのだろう。

 あずさの問いに対して、由唯は「戦士として戦うことを決めた以上、そうならないように善処する」といった風に答えた。

 そう言ったものの、やはり腸が煮えたぎるような怒りは抑えられるものではなかった。確かに、由唯は秀に鍛えてくれと頼んだ日から、異能を持っているだけの、ただの女子高生としてではなく、戦士として生きることを覚悟していた。そうする以上、仲間の死も受け入れつつ、冷静にならなければならないと頭の中では分かっていたが、実践は出来なかった。

 声が漏れない程度に深呼吸しながら、街道に向いていたスコープを覗いた。するとそこには、忘れられるはずのない、薄い青の髪にヘッドドレスを付け、側頭部に二本の大きな角を、背中にコウモリのような羽を持つゴシックロリータ調の服を纏った少女——モルガナの、街道を走る姿があった。その姿を認識した瞬間、由唯は考える間も無く、彼女に向かって銃弾を打ち出していた。

 

        ***

 

 T.w.dの本陣に到着したアイリスは、その時本陣にいた、アルバディーナをはじめとした幹部らを本営に集めて、エクスシアの赤の世界におけるスパイ活動の終了を告げると、咳払いをして切り出した。

 

「私が取りに行ったものは、世界の転生の秘術。そして、それこそが私の根底にある目的なんだ」

 

 幹部らは、皆が皆示し合わせたかのように、表情を固めた。アイリスは、想像通りの反応をした彼らを見回しながら続けた。

 

「この際だから言うけれど、私が真に望むのは世界の修正。人間への復讐云々については、そりゃ、そういう気持ちだってあるけれど、でも私の願いからすれば売り文句でしかないんだ」

 

 アイリスを取り巻く幹部たちは、先程に増して呆気にとられている様子だった。この幹部の中にも、人間への復讐が目的でT.w.dに入った者が何人かいる。それを売り文句の一言であしらわれては、困惑するのも無理はない。アイリスは彼らの気を悪くすると分かっていながらも、目的のモノが手に入ったら全てを話す、という約束を果たすため、話を続けた。

 

「なんでそういうのを売り文句にしてたかっていうのは、世界の歪みを知っている人が欲しかったんだ。世界の転生に成功した時の方針の参考になるからね。ちなみに隠していたのは、いつどこで赤の世界の、T.w.dの外部の人間が聞いてるか分からなかったから」

 

「休戦協定を結びましょう。今すぐに」

 

 そう唐突に、声高に言ったのは、アルバディーナだった。その場の者たちの視線が彼女に集まる。無論、アイリスとて例外ではなかった。

 

「その目的で今後T.w.dを動かすつもりなら、今戦闘なんてやってる場合じゃないわ。組織内で意識を統一してから戦闘に臨むべきよ」

 

 アルバディーナは早口気味にそう言った。彼女の発言に対して、アイリスは、それもそうだと思った。アルバディーナは何も間違ったことは言っていない。確かに、新しい方針に不安を持ちながら戦うよりは、それに命を尽くす覚悟を以って戦う方が、士気は明らかに高くなる。それに、重症を負った兵士達の回復もできるだろう。そうアイリスは納得した。しかし、彼女にそうさせた一因には、アルバディーナの物凄い剣幕が一役買っていたかもしれない。

 

「分かった。そうしよう。みんなも異論はない?」

 

 アイリスは、その場の全員がアルバディーナに賛同していることを確認すると、アルバディーナに向き直った。

 

「休戦交渉はあなたに任せていいかな? こういうことは、私よりもあなたの方が上手くできると思うし」

 

「私が全権大使ということね。承知したわ」

 

 アイリスには、そう答えるアルバディーナの声は、少し弾んでいるように聞こえた。しかしアイリスはそのことをさほど気にせずに、「頼んだよ」とだけ告げた。

 それから会議が終わり、本営から一人一人去っていく中、アイリスはアルバディーナを呼び止めた。

 

「休戦協定を結んだ後も、少しの間だけ赤の世界に残っていいかな。私たちに引き込みたい人がいるんだ」

 

 アルバディーナは少し考え込むと、「分かったわ」と呟くように言って、その場を去った。

 一人残ったアイリスは、通信端末を取り出すと、エクスシアに連絡を入れた。

 

「もしもし? 後でいいから、あの子——レミエルのこと、詳しく教えてくれないかな」

 

        ***

 

 モルガナとイレーネスは、神殿から最も距離のある街道を、数人の部下を引き連れて走っていた。二人は、そこを攻める部隊が苦戦しているから救援に向かえとの指令を受けていた。

 モルガナはイレーネスと共に先頭を行きながら、目を凝らして前方を見た。モルガナは並の人間の数倍の視力を持ち、また夜の目利きもよい。“霧に棲む魔物”の異名を持つモルガナとしては、当然のことだ。

 モルガナは、視界の中に宙を舞う何本かのナイフと、ビット兵器を捉えた。それらの形状から、アインス・エクスアウラとコードΩ46セニアが居るというのは、事前に読んだデータのおかげで分かった。なるほど、確かに物陰に隠れながら進軍しているT.w.dからしてみれば、死角からの攻撃に気付けたとしても、狭い場所に固まっているため容易く殺されてしまうだろう、と、モルガナは分析した。

 モルガナは苦戦している理由はそれだろうと結論付けた時、微妙な空気の流れの変化を感じた。その方向に目をやると、ひとつの銃弾が、モルガナの数秒後の、こめかみの位置に向かっていた。走る速さを落とせばモルガナ自身には当たらないが、隣を走るイレーネスに当たってしまう。己の行いでイレーネスが傷付くのは、モルガナにとっては許されることではなかった。

 そこでモルガナは、走りながら腕を銃弾の方に、拳を丸めて真っ直ぐに伸ばした。そして、弾道と腕の伸びる方向が平行になり、さらに指と弾丸が接触した瞬間、それを中指で、進行方向が、弾道とある小さい角度をなすように弾いた。

 すると銃弾は、狙い通りの方向に飛んでいき、途中で止まったように見えた。しかし、モルガナの目に、その周りの空間にだんだんと人の姿が見えてきた。朱色の長髪に、赤い青蘭学園の制服を着た少女だった。彼女の額からは血が流れ、さっき弾き返した弾丸がそこに命中したことが分かった。彼女は茫然自失とした表情のまま、力尽きたようにそこに倒れた。彼女は死んだ。そのことは容易に分かった。耳を幾ら澄ませても彼女の方から心拍音は聞こえなかった。

 モルガナは走りながらそのことを確認すると、意識を再び前方に向けた。そうした時、前方から青蘭学園の制服を着た一人の少女が、猪突猛進といった感じで突っ込んできた。

 

「よくも由唯を、殺したなあっ!」

 

 彼女の声と姿も、モルガナの記憶の中に微かにあった。そして、彼女が青蘭学園での戦闘の時に、使おうとしていた異能を思い出した。

 

「確か、時間停止能力の持ち主で、名前は椎名あずさとかだっけ。そう資料に書いてあったような」

 

 そうと分かれば、この少女を生かすという選択肢は無かった。以前はアルバディーナの結界のおかげで不発に終わったが、成功すればこちらは壊滅状態に追い込まれるだろう。

 

「時間停——」

 

「させない」

 

 モルガナは、あずさが異能の発動に集中するため、目を閉じた一瞬のうちに距離を詰め、右アッパーカットをあずさの顎に食らわせた。あずさは異能を発動させる間もなく、鋭い放物線を描くように吹っ飛ばされた。そしてすぐに、頭から落下して頭頂部を石畳にぶつけた。

 先程のモルガナの一撃であずさの顎は砕け、また頭頂部からは血が流れ出し、意識を失っていたが、あずさはまだ生きていた。微かに息がある。それで、モルガナはとどめを刺すべくあずさに近づいた。するとその時、モルガナに飛び掛る、ひとつの影の存在に気がついた。

 

「モルガナ!」

 

 イレーネスが、その影に向かって炎の球を打ち出した。すると、その影から全く同じ炎の球が、イレーネスのものを打ち消すように打ち出された。

 

「私の名はシャティー・ティファール。あなた達の命、ここで貰い受ける」

 

 影はそう名乗りをあげると、何十、何百もの剣を一瞬にして生成し、モルガナ達に降らせた。

 モルガナ達はすぐ散開して攻撃を回避し、全員、すぐさま反撃に出ようとした。だが、その瞬間、ずっと遠くの方で、花火が打ち上げられるような音が響いた。モルガナは思わずそちらを見た。すると、全軍に撤退命令を示す信号弾の光が、空高くに見えた。

 

「何故このタイミングで撤退なの? でも命令だから仕方ないか」

 

 モルガナは煙幕を焚いた。そして、周囲にイレーネスと部下達が集合したのを確認すると、煙が晴れぬうちに、来た道を全速力で引き返した。

 

        ***

 

 レミエルは、ユラの首と剣を持って、神殿の外に出た。ユラを埋葬するためだ。生前の悲しい思いを抱かせたまま、死んでしまったユラのために、せめてとレミエルは思ったのだった。

 秀とユノは、まだ書庫の前の通路で倒れている。レミエルが彼らの精力を奪ったとはいえ、命に別状がある訳ではなく、また、ユラの埋葬は一人でしたかったからだ。

 夜の闇の中、レミエルは魔法で周りを照らして、首を埋められるような場所を探していると、一人の住人と目が合った。彼が荷物を持っていたことから、彼の目的は、恐らくは疎開先から、忘れ物をこっそり取りに帰ったのだと推測できた。

 彼はレミエルを見ると、後ずさりし、汗をだらだらと流して、ヒステリックに叫んだ。

 

「め、女神殺しぃぃーッ!」

 

 彼はそのまま一目散に逃げて行った。彼の行動に、呆気に取られていたレミエルが、私は違う、と反論した時には、彼はすでに闇の中だった。

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