魔法先生ネギま!(裏)   作:Ahiru

2 / 10
2時間目 雷の子

 2026年 4月7日 10:40

 

 赤毛の少年──ネギ・スプリングフィールドは混乱していた。

 

 数分前、諸事情あってネギが麻帆良(まほら)学園都市の上空を杖で飛んでいると、なにやら女子中等部の辺りから魔力の拍動を感じた。だからネギは、ちょっと様子を見てみるかくらいの気持ちで現場に向かった。魔力に()()()()がしなかったし、まさか白昼堂々と悪事を働くような()()()()使()()がこの麻帆良学園にいるはずがないと考えていたからだ。

 

 ところが、これはどういう状況だ。

 

 女子中等部の昇降口の前──西洋風の校舎の前庭部で、怪しげな着物姿の少女が中等部の女生徒を引き()って歩いていた。

 

「ぼく、この麻帆良学園女子中学校の関係者でネギ・スプリングフィールドって言います」

 

 ネギが声をかけると、少女は足を止めた。

 

 たぶん中学生くらいの子だ。13歳か14歳くらいか。女子中等部の生徒ではない。彼女から魔力の残滓(ざんし)を感じるし、()びている気配が異質すぎて、とてもじゃないがたまたま居合わせただけの一般人とは思えなかった。

 

「あなたは何者ですか?」

 

 ネギは杖を握り締め、少女に問いかけた。

 

「……」

 

 少女は黙ってネギを見据えた。

 

 薄墨(うすずみ)色の前髪の隙間から、同じく薄墨(うすずみ)色の瞳が覗いている。感情がまるで伺えなかった。自分が対峙している相手が人間なのか人形なのか、よくわからなくなりそうだ。

 

「ヒミナだ」

 

 少女は短く答えた。ネギは唾を飲み込む。

 

「……その子になにをしたんですか?」

 

「この女か」

 

 ヒミナと名乗った少女は、まるで絞めたばかりの鶏を掲げるかのように、女生徒の髪を掴んだ手を苦もなく己の頭の高さまで持ち上げた。

 

 女生徒はぴくりとも動かない。外傷はないように見える。ヒミナと身長差があるわけではないから膝が地面に接しているが、それでも自分の髪だけで体を吊るされている姿は痛々しい。あと、なぜかは知らないが女生徒の下半身が()()()になっていた。

 

「失神させただけだ。息はある」

 

「あの、すいません」 

 

「言っておくが、先に手を出してきたのはこの女だからな。私は……なんだ」

 

「その子、なんでなにも履いてないんですか。緊迫感が出ないんですけど」

 

「……?」

 

 ヒミナは不思議そうに女生徒の股を凝視した。

 

 そして振り返る。よく見ると、ヒミナの5メートルくらい後方に、赤いチェック柄のスカートとくしゃくしゃに丸まった白い布が落ちていた。女生徒のものだろう。たぶん、ヒミナに引き()られた際にスカートとぱんつが石畳との摩擦で脱げてしまったのだ。

 

「……私は自分の身を守っただけだ。(そし)りを受ける(いわ)れはない」

 

「無理ですよ、なにもなかったみたいに続けるの」

 

 どうにも調子が狂う。ネギは咳払いを挟み、改めてヒミナを睨んだ。

 

「その子を離していただけますか」

 

「わかった」

 

 ヒミナはあっさりと女生徒を手放した。

 

 お尻で軟着陸してから、女生徒はぺたんと横向きに倒れた。地面で頭を打たずに済んで、まずはほっとする。その上で、てっきりこちらの要求なんて聞き入れてくれないと踏んでいたから、ネギは目をぱちぱちと瞬かせてヒミナを見つめた。

 

「あ、あれっ? いいんですか?」

 

「お前が離せと言ったのだろう」

 

「い、いやどこかに連れて行こうとしてたし、取って食べるつもりなのかと……」

 

「私を山姥(やまんば)かなにかだとでも思っているのか」

 

 ヒミナの眉間に皺が寄った。

 

「医者に診せようと思って運んでいただけだ」

 

「えっ、でもあなたが気絶させたんですよね……?」

 

「そうだが……この女は、私を駅まで案内すると約束してくれた。だから目を覚ましてもらわないと困る。手蔓(てづる)が他に見つからなかったしな」

 

「は、はぁ」

 

 すっかり毒気を抜かれてしまい、ネギは頓狂な声を漏らした。

 

 ヒミナは昏倒したままの女生徒から横に3歩だけ離れた。からころと乾いた音が響く。着物と同じ、烏羽(からすば)色の草履(ぞうり)が奏でた足音だ。草履(ぞうり)の底は10センチくらいあった。あんな履き物でふらつくことなく歩けるなんて、女子ってすごいなと呑気な感想を抱いた。

 

「それで、お前は私になんの用だ?」

 

 ヒミナの問いかけで、ネギは本来の目的を思い出した。

 

「えっと、このあたりで魔法の力を感じたから気になって飛んできたんです。その、びっくりしました。ぼく以外に……あ、タカミチと……学園長もなのかな。とにかく、魔法使いの人が麻帆良学園にいるなんて」

 

「……私は魔法使いではないのだが」

 

「えぇっ? でもさっきの魔力……あなたが魔法を使ったんじゃないんですか?」

 

「違う。魔法なんてものが使えるか」

 

「え、ええええっ?」

 

 魔法という超常は社会から秘匿すべき事象だ。その存在を世にバラした者は、極めて重い懲罰を受ける。具体的にはオコジョにされる。だからネギは、自分が失言をしてしまったのだと思って慌てふためいた。

 

「ぼぼ、ぼく、あなたを魔法使いだと勘違いして……どうしよう、一般の人の前で……っ!」

 

「お前は魔法使いなんだろう? 杖で空を飛んでいたしな」

 

「……え?」

 

 からころと、ヒミナが近寄ってきた。

 

「私は吸血鬼に用があって、この学園に訪れた。多少、道に迷ったがな。どこぞの寮の近くの、桜通りという場所に行けばお目にかかることができるらしい」

 

「ヒミナ、さん? なにを……」

 

 ネギの皮膚が泡立つ。

 

 これは魔力だ。ヒミナから滲んでいる。やっぱり、この場に残留していたわずかな魔力は彼女のものだった。匂いが一緒だ。でも、ヒミナは自分を指して魔法使いではないと言った。魔法は使えないが、魔力の制御はできるということだろうか。

 

「改めて聞くが、お前は私になんの用だ?」

 

 ネギは思い違いをしていた。

 

 先ほど、学園都市の上空を飛んでいた際に捉えた魔力を指して──あれもヒミナの魔力で間違いないと思う──ネギは()()()()()()()()と評価した。

 

 嫌な感じがしないなんて、とんでもない。これがどれほど不気味なことか。

 

 たしかに、ヒミナの魔力に害意や敵意は含まれていない。しかし、こんなにも近くで彼女の魔力に触れているにも関わらず、未だに(つゆ)いささかの感情も捉えることができないという事実は異常と考えるべきではないだろうか。機械によって生成された合成音声が人間の口から垂れ流されているかのような、凄まじい違和感を覚えた。

 

 ヒミナがネギにそっと手を伸ばす。

 

「お前があの女の代わりに、私を桜通りまで手引きしてくれるのか? それとも──」

 

 緩慢な動作だったから反応が遅れた。白く、小さな手が優しくネギの頬に添えられる。体温は感じなかった。冷たくもないし、温かくもない。

 

 鼻息が互いに触れるほどの距離でヒミナと目が合う。

 

 綺麗な瞳だった。びっくりするくらい睫も長い。ネギは思わずドキッとした。一方で、その非の打ちどころのない造形が人工的にも感じ、まるで薄墨(うすずみ)色に澱んだ湖の深潭(しんたん)を覗き込んだかのような気分に陥った。

 

「──お前も私に杖を向けるのか?」

 

 ばちんという音がした。

 

「いたっ……!」

 

 ネギは急に横っ面を叩かれたかのように身を竦め、脊髄反射で後ろに飛び退いた。頬を抑えてヒミナを見る。なぜか彼女も意外そうな表情をしていた。

 

「……これが効かない程度には強度があるのか」

 

「なんですか、今の……まるで、感電したみたいな……」

 

「そう、雷だ」

 

「な、なんの魔法……っ?」

 

「二度も言わせるな。魔法ではないし、私は魔法使いでもない」

 

 ヒミナの全身から雷の奔流が溢れ出た。

 

 それは、電光を帯びる無数の蛇に似ているかもしれない。ばちん、という耳障りな音と共に、紫電の束がヒミナの全身を這い回っては消えて、また発現する。こんな魔法、見たことも聞いたこともない。この子は一体なんなんだ。

 

 五指をやや折り曲げたヒミナの掌が、ネギに向けて(かざ)された。同時にヒミナから漏出する魔力が加速度的に増していく。なにか()ってくる、とネギは体を強張らせた。

 

「──そこまでにしておこうか」

 

 背後から介入者の声が聞こえた。

 

 ネギが振り返ると、タカミチ・T・高畑(たかはた)の姿があった。パリッとしたスーツに身を包んだ麻帆良学園の男性教諭だ。年齢は20歳も離れているが、昔からのネギの友人でもある。短く刈り込んだ白髪(はくはつ)に、四角いフレームのメガネ。無精髭を蓄え、煙草(たばこ)の煙を(くゆ)らせる姿からは渋みと貫禄が滲み出ていた。

 

 タカミチはネギと同じく魔法使いだった。それもかなりの実力者だ。

 

「やぁ、ネギくん」

 

「タカミチ!」

 

 よっ、とタカミチは片手を挙げた。そしてヒミナにも微笑む。

 

「久しぶりだね、ヒミナくん」

 

「……誰だ?」

 

 ヒミナは(しか)めっ面を浮かべていた。

 

「ぼくだよ、高畑。3年くらい前かな。何回か一緒に仕事をしたことがあると思うんだけど」

 

「覚えていない」

 

「そ、そっか」

 

 タカミチは寂しそうに肩を落とした。

 

「まぁ、仕方ないか。きみはそういう子だ。……いずれにせよ、(みだ)りに魔法や超常の力を行使することは、ここでは御法度だ。まずは手を下ろしてくれるかい?」

 

「それはお前たちの都合だろう。私には関係のない話だ」

 

 ヒミナは鰾膠(にべ)もない。彼女の掌はネギを捉えたままだし、雷は外敵を威嚇するかのように危なっかしい音を立て続けている。強盗に拳銃を突きつけられた哀れな人質とはきっとこんな気分なのだろう。下手に犯人(ヒミナ)を刺激しないよう、ネギは口を(つぐ)むことにした。

 

「それは困るな」

 

 タカミチは(まなじり)を綻ばせた。ふん、とヒミナが鼻を鳴らす。

 

「あまり困っているようには見えないが」

 

「残念だとは思ってるさ。ここが麻帆良学園都市の外であれば、旧友として出迎えることができたのに。ただ……悪いが、さすがに見過ごすことはできない」

 

 タカミチの威圧感が増した。言外に、力尽くにでも従ってもらうと告げている。

 

 ふとネギは、幼少の頃を思い出した。

 

 稽古の合間の余興と称して、タカミチがネギの目の前で、全長100メートルはあろうかという大滝を素手で真っ二つに叩き割って見せたことがある。実際に戦っている姿は見たことがないのだが、彼が魔法使いの中でも上澄(うわず)みに値する()()であることは間違いない。事実、こちらに向けられたものではないにも関わらず、タカミチの凄みにネギは気圧されてしまっていた。

 

 ただ、案の定というか、ヒミナは顔色を変えることなく、相変わらずの冷ややかな目でタカミチを見据えていた。

 

「私は構わんぞ。お前にはなんの思い入れもない」

 

「ははは、そうだったね。じゃあ実力行使といこうか」

 

 朗らかに笑って、タカミチはヒミナに引き摺られていた女生徒に近寄っていった。深緑色のジャケットを少女に被せ、剥き出しになった下半身を覆い隠してやってから、ひょいと持ち上げる。これほどにお姫様だっこが絵になる男も珍しい。

 

 ヒミナは怪訝そうに片眉を持ち上げた。

 

「……その女を抱えたまま私と戦うつもりか?」

 

「場所を変えよう」

 

 タカミチが顎で遠くの方を示した。

 

「ここだと通りかかった一般人に超常を目撃されるリスクがある。学校は春季の休暇中だけど、何名かの先生は出勤しているからね。それに、ヒミナくんが本気で暴れると校舎が半壊しそうだ。もし明日の始業式が取り止めにでもなってしまえば、きっと生徒たちが悲し……いや、麻帆良学園(ウチ)の子たちであれば春休みが延長になったと言って喜びそうだな」

 

「少しは学習しろ。私が対価もなしに、お前たちの要求を聞き入れるとでも考えているのか? それも私には関係が──」

 

「桜通りに行きたいんだろ?」

 

 ぴく、とヒミナが薄墨(うすずみ)色の瞳を細めた。

 

「ネギくんとの会話を聞かせてもらったよ。ぼくに付き合ってくれたら、ぼくが桜通りまで案内すると約束する。その代わり、ぼくがヒミナくんとの勝負に勝ったら一緒に学園長室に行って、来訪の目的を詳しく聞かせてもらう。どうかな?」

 

「……」

 

 ヒミナは逡巡しているようだった。タカミチに向けていた視線を一度、ネギに戻す。

 

「いいだろう、約束だ」

 

 ヒミナが手を下ろした。同時に纏っていた雷も霧散していく。ネギはほっと息を吐いた。いつの間にか背中がじっとりと汗で濡れていた。

 

「すまない、ネギくん」

 

 タカミチがこっちを見た。

 

「ヒミナくんの対応はぼくに任せてくれ。……この気絶している女生徒もぼくが預かるよ。知っている子なんだ」

 

「え、うん。構わないけど……」

 

「明日からまた忙しくなるだろ? 今日はゆっくりするんだよ」

 

「で、でもタカミチは……」

 

 心配しないでくれ、とばかりにウインクされた。

 

 唐突な展開に思考が追いつかず、しどろもどろになったネギが繋がる言葉を探していると、タカミチは女生徒を抱えたままほぼ垂直の軌道で跳躍した。ドン、という大きな音と共に、砕けた舗装用タイルの欠片が舞い上がる。

 

「わっ……!」

 

 ネギは驚き、目を白黒させる。

 

 校舎の屋上まで──およそ20メートルの高さを一足で跳び上がって、タカミチの姿は見えなくなった。目的地が校舎の反対側にあるのだろうか。

 

 たしか、棒を使った高跳びの世界記録でも6メートルちょっとだったはずだけど。

 

 そりゃタカミチは一般人ではないし、拳で瀑布(ばくふ)を縦に()いてみせる男なのだからこれくらいやってのけても不思議ではないけれど、同じ真似ができる魔法使いがどれだけ存在するのか──と考えたところで、ネギの隣でヒミナが跳躍した。タカミチほど派手な音はしなかったものの、彼女もまた当たり前のように校舎を飛び越えてしまった。

 

 取り残されたネギは、ぽかんと口を開くことしかできなかった。

 

「な、なんだったんだろう……」

 

 不思議な子だった。けっきょく、目的はわからないままだ。ヒミナはいわゆる()()()()使()()なのだろうか。タカミチと面識がある様子だったが──後で電話して、どうなったのか聞いてみようと思った。ちょっと心配だし、顛末も気になる。

 

 その時、少女の声がした。

 

「びっくりしたー」

 

「え、あっ……」

 

 ネギが振り返ると、着物姿の少女が校舎の昇降口から顔を覗かせていた。ヒミナとは違って明るく色鮮やかなデザインの着物だ。

 

 可愛らしい顔の女の子だったが、見惚(みと)れている場合ではない。彼女の視線は先ほどまでタカミチやヒミナが立っていた場所に向いていた。彼らの20メートルにも達する垂直跳びを──超常の恩恵がなければ成し得ない人間離れした挙動を目撃されたのだ。

 

 ネギはどうにか誤魔化そうとして、テンパった。

 

「ど、どこのどなたか存じませんが今のはつまりあのそのーっ!」

 

「ネギくん、ネギくん」

 

「あれですー! いま流行りのCGなんです!」

 

「ウチや、ウチ♡」

 

 ネギは目を丸くした。この着物姿の少女の正体は近衛(このえ)木乃香(このか)だった。

 

「え、あ……こ、木乃香さん!」

 

「そうかCGかー、なるほろー」

 

 木乃香はのんびりと笑っていた。

 

 そして、タカミチの跳躍で生じた風圧で舞い上がり、ひらひらと宙を泳いでいた真っ白な布切れがネギの頭に着地した。ヒミナが昏倒させた女生徒のぱんつだった。

 

「それもCG?」

 

 ◆

 

 2026年 4月7日 11:02

 

 タカミチは煙草(たばこ)の先端に火を灯した。

 

「さて」

 

 振り返る。視線の先にはむっつり顔のヒミナが立っていた。

 

 女生徒を抱えながらとはいえ、あまり加減せずに走ったつもりだったのだが、ヒミナは平然とした顔で後を追ってきた。息が乱れた様子もない。

 

 ここは麻帆良学園都市を一望することができる風致(ふうち)公園だ。

 

 南北に細長い形をしているが、それでもサッカーコートを縦に並べれば片手以上の数が収まりそうなほどには広大な面積を有している。見晴らしがよく緑も豊かなことから、生徒たちの中でも散策やデートのスポットとして好評を博している場所だった。ただし、今は周囲にタカミチとヒミナ以外はひとっこひとりいないのだが。

 

 ヒミナは展望台の柵に手を置き、遠くに見える女子校エリアあたりを眺めながら言った。

 

「あの校舎とは違い、この場所は壊しても構わないのか?」

 

「この場所も壊されたら困るな」

 

 タカミチは苦笑した。

 

「ただ、人払いの魔法をかけてもらってある。一般人を巻き込んでしまう心配は──いや、きみはそんなの気にしてないだろうけど」

 

 実は、最初からヒミナをこの場所まで誘導する予定だった。

 

 この子の性格上、大人しく従ってくれるはずがないことはわかっていた。だからタカミチは、同僚の魔法先生に協力を仰ぐことにした。この一帯を無人にするための忌避魔法を展開しておいて欲しいと事前に頼んでいたのだ。

 

 なお、当初の段取りでは、同僚の(ヒゲとグラサンが特徴の)魔法先生とタカミチが公園内で落ち合った(のち)、万全を期すべく2人がかりでゲストの鎮圧に挑むという流れになっていた。だが、ヒミナによって意識を刈り取られた哀れな女生徒──佐倉(さくら)愛衣(めい)を抱えたまま切った張ったの大立ち回りを演じるわけにもいかない。だから仕方なく、もう1人の魔法先生には彼女を安全な場所まで運んでもらうことにした。

 

 いずれにせよ、愛衣が目を覚ました時に事情を説明できる者が近くにいた方がいい。余計な騒動が起きないようにするためにもだ。

 

 という事情により、今からタカミチは1人でこの暴れん坊を押さえ込む必要があった。

 

「……随分と手筈がいいな」

 

 ヒミナは辺りを見回しながら言った。目に見えるものではないはずだが、忌避魔法の存在を確認しようとしているつもりなのか。

 

「きみの来訪を()()()()から教えてもらっていたからね」

 

「そうか」

 

 ヒミナは特に興味を示さなかった。

 

 その薄墨(うすずみ)の髪が大きく(なび)いた。この公園は丘陵地に作られているため、摩擦の多い地上に比べて風がよく加速する。タカミチが吐き出した紫煙が、まるで何者かに襟首を掴まれて連れ去られたかのように勢いよく霧散した。

 

「じゃあ、悪いが加減はしないよ。ネギくんに格好をつけたんだ」

 

 タカミチは両の腕を広げた。

 

 ヒミナの眉が微かに動く。さすが、目が(さと)い。鼻が利くと称すべきか。今までずっと泰然とした態度だったくせに、こちらの意図を察した途端に警戒の色を浮かべた。

 

 煙草(たばこ)(くわ)えたまま、タカミチは口の端を吊り上げた。

 

 両手が熱を帯びる。左の手に『魔力』を、右の手に『気』を集約させる。

 

 淡い発光体として目視できるほどに高濃度で練り上げられた超常の力を──それぞれの手が宿した『魔力』と『気』の塊を、泡沫でも取り扱うかのように慎重に、そっと接触させる。それは胸元に飛んできたボールを受け止めるような仕草にも、あるいは両の掌を合わせて神に祈ろうとする姿にも似ていた。途端、凄まじい風圧がタカミチを中心に放たれ、10メートルは離れた位置にいるヒミナの前髪を跳ね上げた。

 

 タカミチの全身を薄く輝くエネルギーが──咸卦(かんか)の気が包み込む。

 

 これは『咸卦法(かんかほう)』──本来であれば()い交ぜることが叶わない『魔力』と『気』を強引に融合させ、身体能力を大幅に向上させる高等戦闘技法だ。

 

「──もう始めていいな?」

 

 ヒミナがタカミチの眼前まで踏み込んでいた。

 

 速い。それに勘もいい。距離を潰された。中距離はこちらが得意とする間合いだから、様子を見ずに突っ込んでくるという選択は正解だ。

 

 蹴りが飛んできた。絵に描いたように綺麗なハイキックだ。

 

 タカミチは頭を引いて(かわ)す。鼻先を分厚い草履(ぞうり)が掠めた。着物姿なのによくそこまで股が開くなと思った。というか、着物の上前(うわまえ)(はだ)けてヒミナの真っ白な大腿部が──その付け根までもが露わになるせいで目のやり場に困る。

 

 振り抜かれたヒミナの脚がぴたりと止まり、引き戻されたと思ったら、同じ足で今度はタカミチの顎を真っ直ぐに突いてきた。

 

 上半身を屈めてやり過ごす。同時に、ヒミナの懐に入る。

 

 少し気は引けるが──実際、余計な忖度をして勝てる相手ではない。タカミチは引き絞った左の拳をヒミナの顔面に叩き込もうとした。

 

 ヒミナは上半身を斜め後ろに倒した。タカミチの拳が虚空を泳ぐ。

 

 そのままヒミナは片足で地を蹴り、宙でぐるんと体を(ねじ)った。一周分の遠心力を得て、爪先がタカミチの頭上から降ってくる。ほぼ水平に近い体勢での回し蹴りだ。まるでヒミナだけ重力が直角に傾いたかのような曲芸だった。

 

「ぬうっ……!」

 

 タカミチの拳はもう伸びきっている。これは避けられない。

 

 咄嗟に頭を振った。脳天にこそ直撃はしなかったが、それでもヒミナの足が──草履(ぞうり)の先端がタカミチの左の肩に()り込んだ。嫌な音がした。

 

 ヒミナが着地する。

 

 その隙を逃さず、タカミチは左手でヒミナの腕を掴んだ。左肩に激痛が走るが無視だ。

 

「……む」

 

「鍛え方が違うからね。悪いが、タフさには自信があるんだ」

 

 今度こそ、タカミチは右の拳をヒミナの頬骨に叩き込んだ。

 

 小さな体躯は簡単に吹っ飛んだ。展望台の屋根を支える柱の1つに背中から突っ込み、石畳の上を転がって、落下防止用の柵に衝突し──斜めに(かし)いだ柵が滑走路の役目を果たしたのか、ヒミナの体は最終的に()()()に弾け飛んだ。正確には柵の外、鋭角を描いて落ちる斜面側の方向にバウンドした。

 

「しまっ……!」

 

 まずい。この軌道だと地上まで落下する。

 

 この丘陵の標高はどれくらいだったか──少なくとも、女子中等部の校舎よりは高いだろう。たぶん40メートルくらいか。俯瞰した街に溢れるオレンジ色の屋根が随分と小さく見える。いくらヒミナであっても、着地に失敗すれば致命傷となる高さだ。

 

 透かさずタカミチは駆け寄ろうとした。

 

 けれど、抱いた心配はよくも悪くも杞憂に終わってくれた。

 

 ヒミナは空中で体を(ひね)ると、着物の衣袂(いべい)で円状の軌跡を残し、タカミチの立っている展望台よりもさらに5メートルほど高い位置──()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 そうだった。ヒミナの能力を忘れていた。

 

「……お前が先にこの場所を壊しているではないか」

 

 砕けた石や金属の破片──柱や柵の残骸を眺めながらヒミナが言った。平淡な声だったが、どこか呆れたようなニュアンスが含まれている。

 

 その顔に腫れや痣はなく、髪や着物が乱れた様子も見られなかった。つまりは無傷だ。

 

 たしかに、ヒミナを高台から突き落とさずに済んでタカミチが安堵したことは事実だ。その一方で、そもそもの目的は相手の鎮圧なわけで、多少のダメージは負ってもらわないと困る。だからこそタカミチは、本国の魔法騎士団に所属する一般団員くらいであれば障壁の上からでも一撃でノックアウトできる程度の力で殴ったつもりだったのだが……。

 

 いや、自覚はある。

 

 拳がヒミナの頬に触れる直前──その薄墨(うすずみ)の瞳と視線が合った瞬間、タカミチは思わず五指の握りを緩めてしまった。

 

 ふん、とヒミナが鼻を鳴らした。

 

「お前、手を抜いているな。情けのつもりか?」

 

「……せめて紳士的と言って欲しいな」

 

 タカミチは苦笑する。同時に(ばつ)の悪さを覚えた。

 

 手加減はしないと宣言しておいてなんだが……やっぱりやりにくい。

 

 だからこそ、本当は他の魔法先生と連携して対応したかった。呪文詠唱ができない体質のタカミチには行使できない拘束魔法などの支援があれば、ヒミナに余計な手傷を負わせることなく無力化が叶うかもしれないと考えていたからだ。

 

「紳士的? 腰が抜けているだけだろう。敵を眼前に拳を握る覚悟がないのであれば、そこで死ぬまでへらへらと笑っていろ」

 

 ヒミナが足を踏み出した。

 

 空気でできた見えない階段を下るかのように、タカミチとの距離が縮まるにつれて少しずつ高度も下がっていく。

 

 そして雷が顕現した。

 

 その姿に、タカミチはある種の皮肉を感じた。ヒミナの全身を這い回る雷電が、表情の乏しい主人の代わりに声を荒げる従者のように映ったからだ。これほどまでに本人の性格と正反対な性質を持つ超常も珍しい。

 

「──断っておくが、私には慈愛を求めるなよ」

 

 ばちん、と雷が弾ける音がした。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告